手っ取り早くとか、効率よくとか、巧みにとか、そんな言葉が飛び交うようになったのはいつ頃からだろう。バブルがはじけてからと言う人もいるだろうが、多分その直前、バブルの絶頂期がそれにあたるのではないだろうか。先行きには目もくれない、刹那的な生き方が重んじられたあの頃、こんな言い回しが使われた。
上昇しか考えられなかった時には、上がるのが当たり前なだけに、それにどんな形で乗るのかが重視された。人より先を行くためには、出し抜く手段が必要で、それを手に入れようと躍起になる人々もいた。しかし、そんな馬鹿騒ぎは何処かに消え去り、いつの間にか全く正反対の意味での効率を説く人々が出てきた。これ以上下がらないためには、何を断ち切れば良いのか、といった感覚で効率化を図り、これもまた刹那的な考えでの行動が繰り返された。現実には、そこに横たわっている心理はよく似たものであり、単純に環境が変化しただけで、そこで活躍する人々の心はほとんど変わっていない。一時の快楽を求める気持ちにも大した変化はなく、それに必要となるものを手に入れようとする欲望は相変わらずだ。結局、目の前のことしか見えず、一時の浮き沈みに一喜一憂する人々が走り回る社会に変化はない。勝ち組負け組という表現も、如何にも重要なもののように扱われているが、現実にはその場限りのものであり、つかの間の評価に過ぎないのだ。それを決定的なものの如く発言する人々には、先見性も、計画性もありはしない。その場での分類だけが全てであり、そのための一時的な措置を重視するばかりだ。こんな世の中になってしまったのは何故かと問うても、おそらく何も生まれはしないだろう。自分自身がどちらに属すのかを考えることは重要だが、上で問題視したような人々はそんなことは想像だにしない。今この時の幸せのみが重要であり、将来のための見通しは役に立たないものなのだ。効率的な仕組みの導入によって、その後の変化はどんなものになったのか、少し振り返ってみればすぐに判るだろう。あの頃盛んに論じられていた未来像は幻と化し、それらの残骸に苦しめられる人々の姿がそこにある。全体的な均衡を考慮した変革ではなく、視野の狭い考えに基づいた変化が産み出したものは、ただの混乱に過ぎない。効率についてだけ考えてみても、それが一面的な捉え方によって導き出されたものだと、余計な仕事が増え、馬鹿げた仕組みとなっただけだ。それまでに培われた知恵に基づく体制を効率という偏った指標でずたずたにした結果は、今目の前に展開される様々な社会の歪みを見れば一目瞭然である。それらに対する責任を負うわけでもない人々は、また新たな標的を見つけるために奔走している。そろそろ、こういう人々に振り回されるのを止めて、自分なりの生き方や仕組みを築く工夫をすべきなのではないだろうか。ハイエナはまだ生き残り、新たな犠牲者を求めているようだから、注意しなければならない。
この時期、去る人来る人、送り迎えに忙しくなる。去るにしても、来るにしても、新たな出発になることには変わりがないが、それぞれの思いはかなり違うのだろう。今まで居続けた場所を去るとなれば、それまでの蓄積はすべて失われる。それを新たな気持ちへの一区切りと見なせばいいが、ただ虚しさだけだと困る。
そんな気持ちを持つ人々の中には、新しい出発でも継続性を持つものに向かおうとする人がいる。せっかく培った技術だったり、知識だったりすれば、それを一度に捨ててしまうことは勿体無い気がするだろう。この言葉が示しているものは何か、わからない部分が沢山あるが、兎に角そんな感覚が見直され始めたからか、継続を主張する人々が増えている。別の目的もあるようで、先立つものがなくなることへの不安がそういう方向へ自分を向かわせているのかもしれない。確かに、高い技術や知識を持つ人々の価値も高い。しかし、それをそのまま使い続けることには、別の危険が伴うことに気づいている人はどれだけいるのだろう。効率よく事を進めたい人からすれば、一時の滞りが気になる訳で、将来展望などは二の次だろう。そうなれば、いつまでも同じ状況を続けることが互いに安心できるし、仕事の進み具合に関しても見通しがつく。そんなことが並べられているのかわからないが、どうも最近そちらに向かう力の方が大きくなっているようだ。次の世代を鍛え上げ、未熟なところから支えるに十分な人材を育てることが、継続性のためには欠くことのできないものだったはずが、期待通りの習熟度は得られず、満足を得ることもなく去る人々が続出する。そんな時代が続いた結果、次世代を頼りにする感覚は失われてしまったようだ。手のかかる教育よりも、手っ取り早い人材活用に心が奪われるのも、そんな時代背景があるからかもしれない。しかし、一見合理的に見える手法も、長い目で見ればすぐそこに限界が見えてくる。関係者にとっては他に選択肢がないということなのだろうが、だからといって、この道だけを選ぶのはあまりに危険に思える。では、どうすれば、と言われてしまうと、その方法は容易ではない。一時的な停滞を覚悟し、それでも次代に任せる心が突破口になるに違いないが、そのためには人々が忌み嫌う停滞期を経なければならない。自分の時代はそうなって欲しくないと思う人々には無理なことだから、そういう人々のことは脇に置いて、我慢強く次世代を鍛える気持ちを強くしなければならないだろう。
差別の話は慎重にしなければならない、と言われる。確かに、差別を意識した言動は、その対象となる人々にとっては不快なものだし、そうでない人にとっても嫌な思いに繋がる場合がある。また、多くの人は差別意識とは差別をする人によるものであり、される側には何の責任もないとしている。色々な意見があると思うが。
「差別」という括りが当てはまるかどうかは、する側される側の考え方次第だろう。そういう言動をしている人が意識しているのに、受け取り側が何も感じてない場合には、大したことにならずに済むのはそんな所からではないか。特に、子供達には差別とは別の意識があり、それがあまりに極端なので、より多くの知恵を身に付けた大人達には、恐ろしく見えたりする。ただ、当事者達にはそんな意識はなく、単にふざけているだけという場合も多いようだ。純粋無垢という言葉が本当に子供に当てはまるのかはわからないが、それぞれに自分勝手な考えから行動を起こしていることが多いから、そこに悪意があったとしても、社会の基準からは外れたものに過ぎないのかもしれない。そんな子供達に、悪いことを教えるべきかどうかが論じられることがある。古くは人の価値の違いを紹介するような部落問題の話がそれであり、現代ではいじめに関わる事柄が当てはまるだろうか。前者の歴史は古く、戦前から問題にされてきた。しかし、様々な働きかけの結果、表面的には何もないように見える場合が大部分となっているようだ。ただ、こんな書き方をすると実態が見えていないと言われるようで、心の奥底にはそれがあるとする人々も多い。しかし、そういう環境に育っていない人々にとって、実態を見たことも聞いたこともなければ、どう理解していいものなのかわからないのも致し方ないのではないだろうか。関わる人々の範囲が広がるに連れて、そういう問題に触れる機会が出てくるとしても、感じ方は人それぞれに違いそうである。知らないことを批判された経験を持つ人もいるが、彼らにとっては知る必要を見出す機会もないし、知らぬものに積極的な働きかけをすることもない。地域特有の問題と片付けてしまうと、また叱られそうだが、経験が基になるものであれば、まさにそうなのではないだろうか。一生知らずに生き、何の差別もせず、受けずの人に価値が無いわけではない。知った上で、それを抑えることは重要だろうが、知らないことを批判されるのはどうだろう。ネット上の発言によるいじめの問題から、そういう所への接触の仕方や振る舞い方を教えるべきとする考えも、よく似た所から出ているのだと思う。如何にも意識を制御する方法を伝授するように見えるが、それ以前に、もっと基本的な所で道徳観、倫理観を身に付けさせておくことの方が、重要なのではないだろうか。特殊な例にしか当てはまらないような感覚を持たせることは、現実には意識に使い分けをさせるだけであり、一般化に繋がるとは思えない。
子供達が集まる所へ行くと、躾けのできていない子が多いのに驚く。そんな話をすると、もっと驚かされる話が聞こえてくる、親の躾けができていないのだ。普通、親の躾けと言えば、親が子供を躾ける話なのだが、最近はどうも違う意味になるらしい。子供の集まる場所での親の行動があまりに傍若無人なのだ。
こんな話をすると、次には、親の親による躾けが不十分だったとなり、更にはその上に、と繰り返さなくてはならなくなる。確かにそう思える節もあり、これこそが世代が継がれている証拠なのかもしれない。何十年かの周期で訪れる多くの現象の背景には、こういう継承があり、ある程度の増減はあるものの、社会状況を反映する人間の行動パターンのようなものがあるのだろう。これは逆に言えば、その時代に核となる世代がその時の社会状況を産み出しているということになるのではないだろうか。にも拘らず、多くの人々は時代背景から自分達の行く末が決められたと思い込んでいる。実際には、それを招いた元凶となる人々がいて、被害者を決め込んでいる人々の多くは、彼らに操られたに過ぎないのではないだろうか。そう考えてみると、色々と思い当たる所があり、納得させられてしまう。ただ、そこから先の肝心なことは、だから自分の力だけでは何ともならないのだ、と逃げることではなく、そういう時代の流れの中で自分達が果たすべき役割を考えてみることにある。他人任せは安直な逃げ道だが、結局は何も解決してくれない。目の前に積まれた問題の多くは、結局自分の手で片付けなければならないからだ。逃げると決めたら、最後まで逃げ続けなければならないと思えば、少しは考えも変わるのかもしれないが、どうもそんなに簡単なことではないようだ。逃げるか立ち向かうかは始めから決められたものではなく、ただ単にどちらか安易かという基準で決められていることが多く、場当たり的な対応になる場合が多い。しかし、現実にはそれを繰り返していると、一貫性に欠けた行動ばかりとなり、結果的に自分にとって都合の悪いことになる場合が多い。他人任せが効力を発揮するのはこの時で、自分の選択の誤りを正す必要もなくなる。全ての決断は流れに乗せたものであり、自らの判断は入っていないとするわけだ。単なる方便に過ぎないことだが、精神的な安定のために重要なようで、頻繁に使われるらしい。それは兎も角、良い時も悪い時も、自分なりの判断をしつつ話を進めて行けば、そんなことは起こらないに違いない。更には、自分なりの基準を設け、それに従って行動すれば、自ずと方向は見えてくるものである。その決断さえできれば、後は同じような形で流れに乗せれば良いから、大した手間はかからない。少し他人と違った動きがあるだけで、大層なことはないはずなのだ。何故、こういうことを考えないのか理解に苦しむ所だが、どうも、そちらの方が大勢を占めているらしい。
久しぶりに記帳したら、そこにある数字に釘付けになった。それまで雀の涙としか言いようのないほどの数字が印刷されたのに、それが突然一桁増えたのだ。個人口座では、一桁増えても大したことはない。しかし、金融機関全体として考えたら、凄まじい金額がばらまかれることになる。逆に言えば、これまでは、となる。
経済への影響を懸念する声が高まり、大してそれを理解していない代表格とも言うべき政治家どもが声を荒げていた。どこが変わるのか、どのみち実感など浮かばないと思っていた人も、通帳に印刷された利息の額を見たら、少しは気が変わるかもしれない。確かに、それでも微々たるものだ。昔、定期とは異なる仕組みを郵便局が取り入れたときの年々上昇していた利率に比べたら、今のは一桁ではすまないほど小さな数字である。それでも一時の耳を疑うほどの率に比べれば格段の違いがあり、それが数字となって目の前に現れる。これほど効果的なことはないのではないだろうか。とはいえ、一部の人々は借金の利息のことばかりが気になり、それを決断した自分の都合は全く考えない。確かに、必要なものを必要なときに手に入れるためには、将来返却することを約束するのは一つの方法だろう。しかし、それには常に何らかのリスクが伴うのである。貸したくて仕方のない人々はあの手この手で仕掛けてくるのだろうが、それでも決めるのは自分自身、特に、必要なものに対する認識について、別の角度から見直すことも時には重要となるはずだ。熟慮の上に決断した人も、そうでない人も、借りてしまえばそれはある程度の負担となる。身の丈を考えず、度を過ごせば、結果は悲惨なものになるに違いない。しかし、そのときの欲望を抑えることはかなわず、勢いに任せることになってしまう。少し冷静になったときに考えるのは、返済のための資金繰りであろう。何とかなりそうな雰囲気を見いだし、ほっとしたのもつかの間、そういうときに限って歓迎できないことが起きる。安定という言葉はいかにも魅力的なものに映るのかもしれないが、現実には何も動かないことではない。ある程度の動きがある中で、急激な変化は回避され、全体として比較的小さな変化の中にいることにすぎない。自分から、何かしらのリスクを招く場合に、他とは違う変化が訪れる場合も多いのだ。そんなときに、悪態をついてみても、既に遅いのではないだろうか。責任という言葉で片付けるほどのこともなく、何事にも均衡が重要というだけのことだ。
仕事上のことでも、遊びでも、移動をしなければならないことがある。その手段にも色々とあって、例えば鉄道を使うとか、飛行機を使うとか、長距離であれば、そんなところが手っ取り早い。一方、車を使う手もあり、バスに乗ることもあるし、自家用車で移動する人もいるだろう。距離、時間、手間などの組み合わせで決まるようだ。
多くの交通手段は公共的な意味合いが強く、利用する場合も他の人と一緒が必要となる。これが人によっては面倒を呼び、なんとか避けたく思う人もいるようだ。旅行中、誰とも会話を交わさず、一人読書に耽る人がいるかと思えば、移動中はすべて睡眠に充てる人もいる。休息が必要という場合もあるのだろうが、とにかく見知らぬ人と接することが苦手なのである。自分のことをさらけ出すのは意味ないし、ましてや根掘り葉掘り、相手のことを聞き出すのは自分にとって意味のないことと思うのだろう。失礼に当たることもあり、そんな経験を何度かすると、もう面倒が先に立つようになる。そんなことなら、周りを無視し、自分の存在を消してみようという訳だ。そういう人がいる一方で、隣の人との会話を楽しみたいという人もいる。見知らぬ人との出会いが自分の心にいい影響を与えてくれるかのごとく、どちらかといえば積極的に会話を始める。これはこれで、一種の楽しみであり、それを妨げる必要はないのかもしれないが、相手にとっては面倒と思えることもある。組み合わせは簡単なことではなく、せっかく始まった会話もあっという間に途絶えることになる。人は一人では生きていけないものと思う後者と、一人にしておいてくれと思う前者、これが組み合わさったとき、なかなか上手くいくはずもない。それでも、互いに互いの趣味を認め、適当なところで均衡をとるようにすれば、楽しい時間を過ごすこともできるのではないだろうか。簡単ではないのだろうが、見知らぬものとの接触から、新しい何かが生まれることもある。まあ、そんな暇などなく、日々の生活に追われていると思う人には、こんなことさえ考える余裕などないのかもしれないが。
何かを決めるとき、どれほどの時間をかけるのかは人によることだろう。しかし、現実にどのくらいの違いがあるのか、自分のことも含めて比べたことのある人はいるのだろうか。随分長い時間悩んだという話を聞かされたり、たった一つのことが会議で決まらなかったりすると、何かとても難しいことのように思える。
では、そういう揉めた会議での自分の気持ちはどう変化したのかを思い出してみたらどうだろう。多分、そんなに長い時間考え抜いたり、沢山の選択肢を思いつこうと努力してはいないのではないだろうか。決定事項の場合も、多くはその場で思いつくだけで、そんなに深く考えることなく、結論を出している。時間がかかるのは、どれに決めるかということではなく、なぜそれに決めたのかの説明を考えることである。たとえ、一つだけの選択肢として選んだとしても、それがいかに多くの場合の中から選ばれたものなのかを主張することが、話し合いの中では非常に重要となるからだ。また、自分の決断を後で振り返るときも、決めた手順より、その後で考え抜いた理由や理屈に印象が残ることが多い。結局は、何を決めたかということには何故と言えないような必然性があるのに対して、理由には段階を追って作り出しただけに、説得力があるように思える。一瞬の勘で決めたことより、じっくり考えたことに力が入るのは仕方のないことだろう。しかし、ここで話を元に戻せば、やはり重要なのは決める手順であり、そこで働く勘なのではないだろうか。確かに、理論武装も重要なのだろうが、武装すべき中身がなければ何もできない。そこのところを確認しておくことが大切だろう。この辺りの話は、はじめに書いたように人それぞれなのだろうが、しかし、本質的な部分ではかなり共通しているように思う。にもかかわらず、どうも違う方向に話を持っていく人が多いのは何故だろうか。答えはないのかもしれないが、こんなやり方が様々なところでみられることからして、現代社会の抱える問題の発端の在処がわかりそうな気がする。