生産性を上げるために、人材の確保に躍起になっているところがある。景気が良くなり、それなりに物資の流通が高まると、供給の必要性が出てくる。いくら機械化が進んだとはいえ、生産そのものの向上だけでなく、営業活動も欠くことができないものだから、働き手が必要となるわけで、そんな背景があるのだろう。
物資の供給と同じように、人材の供給にも流れと共に限度がある。突然回復したからと言って、挙って人を求める態勢になると、足らなくなる場合もあるわけだ。つい数年前までの状況は一変し、あっという間にそんな事態が訪れると、需要も供給も均衡が崩れることになる。しわ寄せは出遅れたところと小さなところに集中し、手当が追いつかない場合も多い。そんな中で、悪条件の時代に機会を得られず、結果的に臨時雇いに甘んじている人々に光を当てるべきとする見解が出されているが、そういった状況にはまだ至っていないようだ。雇う側の勝手な都合と決めつける人々もいるようだが、経験を積んだ人と未経験の人のどちらを選ぶかは、大切な選択となる。前者の良さは認めるべきだろうが、その一方で、経験の有無だけを問う場合の問題点も大きい。現実にどれだけの能力があるのかを測る手立てがある場合に、有無だけでの判断は危険に思われるからだ。また、正式雇用でない場合に発揮される能力が環境の変化と共にどう変わるのかを予測するのも難しい。それ以外にも様々な理由があり、結果的に将来性のみで判断できる未経験者の雇用を主体とするのだろう。こんな時、それぞれが育った時代の社会背景によって左右される機会の有無を、運の有る無しに喩える人々がいるが、果たしてそうだろうか。確かに、内定率は変化し、低い時代には苦労する人々が多い。しかし、機会を得た人々の多くはそれなりの努力が報われたわけで、交換条件が満たされない人に不運が訪れる。こういう言い方をすれば、確かに運の問題のように思えるが、現実には努力と比較されるだけであり、他の要因は同時代においては等しい条件となる。大きな違いは、景気の良い時代には努力が小さくても済むという点だが、これとても将来のことまで比較の範囲を広げると、必ずしも当たっているとは言えなくなる。どんな状況下においても、それなりの努力の必要性はあるわけで、それを無視して運だけを語るのは無責任に思える。その瞬間瞬間の話だけで人生が語れるはずも無いのだから。
民主主義という言葉はよく使われる割に、その意味が理解されていないことが多いのではないだろうか。一般市民を中心とした考え方という意味から、自由と平等という言葉へ繋がるのは理解できないわけでもないが、上から降ってくることに慣れている人々には、それが与えられるものになるから不思議だ。
本来の意味からすれば、主たる権限が誰にあり、自分たちの権利を自分たちで守ることになるはずで、分け与えられることを当然と考えることは、基本の部分で大きな誤解があるように思える。しかし、体制も含めて、混乱期に外からやってきた人々の主導で実施された改革に基づく仕組みの中で育った人々には、そのような考え方が奇異に映ることはないらしい。それよりも、自分に与えられるはずの権利が足りないと考える安易さが大切であり、自らの努力が報われるかどうかは重要ではない。こんな言い方には賛同しないだろうが、努力とは何かを論じた上での話と思って読んで欲しい。つまり、自己満足的な努力を声高に訴えて、それに対する報酬を要求することは、ここでは対象とはしないのである。人と違うことを自分なりに考え、それを実行に移すことによって、様々な効果を産み出してきた人々には、当然の如く報酬が支払われている。しかし、人と同じであることを喜びとし、差別化を忌み嫌いつつ、安易な道を選んでいる人々には、他の人以上の報酬を期待する権利はない。分与を当然のこととし、全ての人に権利があるとする考え方が、ある意味不満を解消するために登場した時、身勝手な解釈が横行することになった。その後、自由主義とも言うべき、競争原理を含む考え方が台頭するにつれ、異常なほどの歪みが蓄積し、現在に至っている。競争が全てと考える人々の論理を理解することも難しいが、報酬としてではない権利主張をする人々の考え方は理解不能としか言えない。彼らにとって重要なことは、万人に同じような扱いがなされることであり、それこそが平等の基本で、民主主義の根幹であるという考え方である。しかし、そこに競争が無理矢理とはいえ入り込んでくると、状況は一変した。自分たちの権利を主張するために必要な要件を突きつけられた時、どんな反応をすべきか迷ったところもあるのだろうが、兎に角一種の開き直りを選択した人々が世の中に溢れる結果となってしまった。交換条件は押し付けられたものであり、民主主義はそんな条件を課してはいないと考えたのだろう。理想の体制として紹介した国でさえ、自分たちの中にはそれとは大きく違う考え方を持っていた。その国から更に後になって導入された競争原理が、まさかこんな歪みを産むとは予想もしなかったのだろう。がしかし、現実はそうなってしまったのだ。人々の捉え方に問題があるのは明らかだが、さて、それをどうにかする手立てがあるかどうか、こちらは霞んで輪郭がはっきりしない。
ヒトの頭の働きを解明しようと研究している人たちがいる。どのくらいわかりそうなのか想像もつかないが、やっている人々はそれなりに本気のようだ。研究にも色々とあり、自分と遠いものを相手にしている場合には何も思わないが、自分自身と深く関わるところとなるとちょっと気分が違ってくる。
研究の基本は「知りたい」という欲求だろう。それを極めるか、日常的に思い描く程度にするかは、人それぞれであり、極めた結果として生業にする人がいたとしても不思議ではない。しかし、知りたい対象が何であるかは、実は大きな問題のように思える。例えば、病気の原因を探ろうとしている人の中には、近親者がその病気にかかっていた人がいたり、場合によっては自分自身が患者であることもある。それだけ近い存在のものであり、それを理解することは治療に繋がると期待することは重要なわけだ。こんなことは一つの特殊な例に過ぎないのかもしれないが、知りたいという欲求の働かせ方は人によるわけで、自然現象に目を向ける人もいれば、人間そのものに目が向く人もいる。そんな中に、人間の頭の働きに興味を持つ人がいたとしても、何も不思議ではないわけだ。しかし、その一方で自分自身のことを知ることの弊害はないのかと、心配になることもある。どんな考え方をするのか、それがわかったからといって何になるのか、などなど、並べればきりのないところだろうが、知りたい本人には何かの意味があるのだろう。そういうところに差を付けて、研究するものによって上下があると言ってしまうと、それはそれでとんでもないことになってしまう。誰でも、どんなことでも、知りたいことを知ろうとすることは重要であり、それが全ての研究の基本となる。こんな言い方をして、反対をする人はほとんどいないだろう。殺人の方法や武器の開発なども、危険なことと思えば確かにそうかもしれないが、それがまた別のことを産み出す場合もあることを考えると、一様に禁止するのも難しい。何処までの自由が認められるのかは対象によることだろうが、完全否定は避けるべきものだろう。こう書いてきてはいるが、しかし、やはりどうも人間の思考の問題を解き明かそうという試みには、抵抗がある。それで何が変わるわけでもないだろうが、何となく落ち着かない感じがするのだ。ぱっと思いつくのは何故か、ということがわかったからと言って、もっと素晴らしい考えが浮かぶはずもない。しかし、研究する人々には重要な事柄ということになる。所詮、研究などというものは役に立たないものだから、と言えば言えなくもなく、ここらで終わりにしておいた方が良さそうである。
最近、若者の意識の変化が様々な形で伝えられている。一時期はやる気の無さばかりが強調されていたようだが、そこにも変化が見られるようだ。自分の好きなことを第一と考え、その為に最小限必要なことのみを行うという考えから、働くことについても定職に就くより、日雇いを好む傾向にも変化があるようだ。
現実には、意識の変化とは裏腹に雇用状況は好転していない面もある。景気の回復とともに雇用を増大させる企業が目立つようになったとはいえ、そこには様々な制限が課せられているからだ。新卒という縛りは昔から厳格なものとして使われてきたが、ここに来て、雇用拡大が明確になったが、やはりそれが課せられているようだ。中途採用は経験者に限り、それも正式雇用されていた者に限るとされると、自由を優先していた人々には厳しい状況が生まれる。手薄な年齢層を埋める方策もなされているようだが、経験者という限定が入る場合には状況の変化はほとんどない。時代背景と言ってしまえばそれまでかもしれないが、どうもそれに流された人々がいつまでも浮かび上がれない仕組みができてしまったようだ。こんな状態はこの国特有のものと思っている人がいるようだが、それは明らかな間違いだろう。先進各国でも同じような状況が生まれているようで、特に、心理的な部分はよく似た状況にある。経済状況だけでなく、閉塞感と言われる社会全体の雰囲気がその共通性を産み出しているのだろうか。また、違った体制をもつ国においても、環境の類似からか若者たちの雇用問題が深刻化しており、先日もその代表格と思われる国の状況が紹介されていた。その後、何度も取り上げられているところを見ると、かなり深刻と受け止められているようで、新たな教育制度の導入などが検討され、国を挙げての改革が進められているらしい。石油で成立する国の多くはこんな状況にあるようで、社会全体を支える職業の多くは外国からの労働力を頼りにし、その半面自国民の労働力は高度な技術を支えるのに十分な能力を備えていない。それを育てるためには教育を施す必要があるが、若者たちのやる気の欠如がその実現を阻み、深刻化の速度を低下させることさえ難しい状態にあると言う。自国内での解決が困難と見た政府は、結局留学制度の充実を図ることで、道を拓く選択をしたそうだ。ぬるま湯につかった状況では解決の糸口さえ見つけられないということで、かわいい子には旅をという手段を使うことにしたわけだ。これが全てを解決してくれるかどうかはわからないが、兎に角現状を保つだけでは、衰える一方の国力を何とかする手立てを模索しているのだろう。国を挙げてという考え方にはまだ至っていないが、似た状況にあるからには同じような梃入れが必要となる可能性は大きい。ただ、それがどんな結果を産むかについては、もう少しそういった国の動向を見守る必要はあるだろう。その上で、この国に適した施策を考え出す時期は、すぐそこに来ているのかもしれない。
景気の回復が当然のようになり、春闘なる活動もそれなりの成果を上げつつあるようだ。しかし、以前のような雇用者側と労働者側の対立という図式は無く、どちらかと言えば、より良い労働環境を作り出すための話し合いの場を提供しているように見える。ただ、実際にその効果が上がっているのかは疑問だらけだ。
企業の存続が危ぶまれていた一時の悲惨な状況に比べれば、給料が増えなくても今の状況はずっとましと言えるのかもしれない。しかし、話し合いの場で使われる言葉が漏れ伝わるのに接すると、環境が変化したにも拘らずそれに対する反応が遅れている感がある。確かに、急激な変化に対して、一々大きく反応していては精神的にも肉体的にも厳しい状況に陥るだろう。でも、このところの対応を見る限り、問題はそこにあるのではなく、資本主義が本来もっていた欠陥が露になっているように思える。では、以前のこの国の企業にはその問題は無かったのかと問う人がいるだろうが、おそらく最近の状況とはかなり違った考え方が一般的であり、その中での均衡が保たれていたのではないだろうか。それが、急激な落ち込みを経験しただけでなく、ある意味での頂点を極めたことによる意識改革から、人々の働くこととそれに対する報酬などに対する考え方が大きく変化し、今のような状況が産み出されたものと想像される。全体の底上げが図られていた時代には、全てが同じ方向を向き、力をある一点に集中させることができたが、今は多様化の時代であり、それぞれが良いと思う方向に勝手に進もうとするから、力を集中することは難しくなり、結果的に散漫な構造が築かれることになってしまった。その中で、回復に向けての方策を講じたとしても、全体が同じ方向を向くわけでもないから、どうしても緩みが出てしまう。結果的に、団体行動は破綻を来たし、力の均衡が破れてしまうことになったのではないだろうか。こうなると、どちらが優位に立てるかは明らかであり、当分の間、こんな成り行きばかりが目立つようになりそうである。それが良いのか悪いのか、人それぞれに違いないだろうが、この仕組みもまた一時的なものに過ぎず、次には違ったものが登場するような予感がする。そういう変化に追いつけなくなった時、企業にしろ個人にしろ、より困難な時代を迎えることになるのではないだろうか。まあ、そうは言っても、こんなことは所詮は社会の問題であり、個人の問題と捉える人はごく少数なのだろうが。
最近話題に上る言葉に「因果」がある。因果応報のように、宗教的な意味合いをもつものもあるが、ここでは因果関係という形で使われる原因と結果の結びつきという意味での用法だ。そうだろうか、と思う人もいるかもしれないが、捏造という文字が踊ったのも元はと言えば、この関係を明らかにしようとするあまりなのだ。
無理矢理結びつけた結果を厳しく批判されたのは、単純に事実に基づくものの中から都合のいいものを選び出すという手順だけでなく、権威に名を借りて、事実とは異なる話をでっち上げたことにある。嘘と一言で片付けてしまえば、まさにその通りの状況だが、関係者たちは何かしらの理由を持ち出し、その正当性を主張したらしい。しかし、事実と異なることを大袈裟に取り上げた責任は重く、どんな理由があろうとも許されるものではない。その陰であまり目立たないように見えるのだが、全く逆の誘導が行われているように感じられるものもある。つまり、因果関係の有無を論じる時に、無い方に導こうとする思惑が見え隠れする例である。捏造の話の中で問題にされたように、どんな立場にせよ、事実と異なるものを意図的に取り上げることは避けなければならない。しかし、事実とは何かという点から、その議論が始まってしまうと、どうにもならない泥仕合の様相を呈してくる。今思い当たるのは、ある薬と人間の行動の因果関係に関するものである。流行する季節があるために、一時的には忘れ去られる傾向にある病気だが、現実には罹患する人の数は膨大で、重症に陥った人々には投薬の必要性が生じる。特に、反応が劇的である若い世代に対して、特効薬と言われる薬は頻繁に処方されており、その効果も絶大と言われている。しかし、数年前からしばしば話題にされているように、その中には予想外の反応を示す患者もおり、命を絶つ行動に出てしまう不幸も起きている。これが話題になる度に因果関係が論じられるが、初めて報じられてからもう数年も経過するのに、結論は出されていない。病気による症状からの異常行動なのか、はたまた薬の副作用なのか、罹患者の数に比べて、そういう症状を示す例が少ないことや、専門家による観察が実施できない事情などから、どちらとも決められないというのが理由らしいが、歯切れの悪さが目立つように思える。そこには少なくとも二つの原因があり、一つは特効薬という言葉の持つ意味の重さ、もう一つは意見の出し方によっては反論によって窮地に追い込まれる可能性の大きさである。どちらも、報道する人々にとっては重くのしかかるものらしく、如何にも逃げ腰に見える論調に首を傾げる人も多いだろう。当然、監督官庁の態度にも理解し難いところがあり、これまでの薬禍の経過を思い出す人もいるのではないだろうか。現実に、どれほどの有意差があるのかわからないが、警告を出す程度の必要はありそうにも思える。こんなところで100%の確実性を求める人はいないはずなのだが。
世の中、好き勝手なことをやる人が増えた、と思っている人は多いと思う。しかし、多分その考えは間違っていて、そういう身勝手な人間の数はそんなに変わっていないのではないだろうか。それより、そんな勝手な連中を恰も価値のある人間のように取り上げ、時代の寵児のように扱う無分別な人間が目立つようだ。
人間の価値を決めるのに、勝ち負けという一通りのやり方しかできない人々には、こんな世の中が向いているのかもしれない。しかし、それでは発展どころか、衰退しか望めず、このままでは危ない所に向かいそうに思える。確かに、そうとしか思えない雰囲気も其処彼処に見られるが、これもまた、声高な連中が偏見に満ちた情報の流出を行っているせいなのだろう。少し冷静になって、自分の周りを見渡してみると、様子が全く違っていることに気づくのは局所的な異常さではなく、おそらく何処にでも当てはまることなのではないか。身勝手な連中だけで社会が成り立つはずもなく、その陰の目立たぬ所で活躍する人々が確かにいるのである。そんな人々には、取り上げるべき特徴が無いように見えるし、目立たないからこそ注目すべきものが無いようにも見える。じっくり見てみれば、これが単に思い過ごしに過ぎず、こちらの目が曇っていることを思い知らされるのだが、そんな気持ちになる人はあまり多くないらしい。結果的に、目立ちたがりのみが取り上げられ、中身の無い空っぽな話が作り出される。それが目立つための早道と思い込む人々は、挙ってその道を選び、結果的に奈落の底に落ちて行く。しかし、手近なものに飛びつく人々は次々に湧いてくるもののようで、いつまで経ってもそういう人々はいなくならない。その一方で、縁の下の力持ちよろしく、目立たぬ形で支える側に回る人の数も無くなることは無い。これが社会の仕組みと言ってしまえばそれまでだが、まさにそんな均衡の中で世の中は回っているようだ。ぶつぶつと文句を言うかもしれないが、兎に角地道な活動を主とし、それを実現することに全力を尽くす。そうして初めて、様々なことがそれなりの勢いで回るわけだ。しかし、多くの人々はその活躍を知ることも無く、全く別の方向で踊り狂う人の方ばかり見ている。何とも情けない図式だが、これが大きく変わることは無さそうだ。つまり、取り上げる人々の数が増えようが減ろうが、結果的にはあまり大きな違いは無いのである。人々は、どうにもそういう耐える役回りに魅力を感じないらしい。ただ、一部の人にはその力が備わっているようで、だからこそ、社会は回り続けることができるのだろう。