思いつきを綴ると言っても、時には重い話題を取り上げる必要がある。一般化してしまえば、各論と総論の問題とすることもできるが、それにしても解せない論理が横行しており、humanity、人道という言葉の持つ力に翻弄されている感じさえしてくる。これは表面しか捉えられない昨今の風潮の典型なのかもしれない。
問題の対象は、子供達のことである。全ての子供に同じ権利を、という当たり前のことが行われていない国は沢山あるが、この国で起きている問題は少し事情が異なっているようだ。手続き上の問題から、受けられるべき権利が失われていることが明らかとなり、罪の無い子供達が不利益を被っていると伝えられる。確かに、彼らには何の落ち度も無く、他の子供と同様に扱う必要があるが、これはある意味各論にしか過ぎない。本来は、彼らの権利が失われるきっかけとなった事柄に対して、更に深く議論すべきことが、子供の権利の主張から、議論無しで結論を急ぐ雰囲気が築かれているのに疑問を持つのだ。子供達がそういう状況に追い込まれた原因は何処にあるのか、それは単に法律や制度の不備から来るだけではなく、彼らの親が抱える問題にその大部分の責任がある。社会情勢の変化が問題を生じさせたように扱う人々も、人間が本来持つべき理念についてもっと考えるべきだと思う。ただ単に国が定めた法律や制度の問題点を突くだけでなく、そこに至るまでの親の自己中心的な考え方を議論すべきなのではないだろうか。ここで問題に上げているのは、離婚後の婚外妊娠の問題だけでなく、代理出産などを含む体外受精による出産の問題である。これらの問題が、最近頻繁に取り上げられているが、その多くは子供の権利に対するものに向けられている。しかし、それを議論することと親の問題を議論することには大きな違いがある。前者は確かに人権の問題であろうが、後者は全く異なる問題に過ぎないからだ。人道という言葉が乱用されて、結果的にその適用範囲が極端に広げられることがある。今回もまさにその典型に思えるのは、対象が明らかに異なるのに、同じ場で議論を進めようとする動きがあるからだ。離婚後の出産にしても、問題の解決方法は多種多様にあるはずが、子供の権利の話から個人的な事情を認める方へと向かってしまう。人は人道という言葉に弱いのだろう。そして、それが正しい議論を進めるべき人々の目を曇らせているのではないだろうか。代理出産も同様の問題を抱えているが、これもまた論理のすり替えにより、間違った方向に流れ始めている。これらの問題の多くは、人道を重んじる偽者たちの先導によって引き起こされているが、実際の議論の場では間違った先入観に囚われることなく正しい判断が下されることを望む。また、そういう冷静な決断をする人々に対して、感情的な批判が起きることは予想できるが、これを安易に許さない判断力が皆に求められるだろう。
疑い深いという言葉は、ほとんどの場合悪い意味に使われるようだ。その一方で、疑うこと無く、誰の言葉でも信じてしまう人は、馬鹿正直とともに、良い印象を持たれない。丁度良いところがあるかどうかは分からないが、こんな話からは有り過ぎても、無さ過ぎてもいけないことが窺いしれる。
人の話は疑いを持って聞け、と言った人がいたと思うが、自分自身を含めて、過信することは避けるべきだろう。対面しての話にしても、画面や音声の情報にしても、活字によるものにしても、どれもが受け手にとっては他からもたらされる情報であり、自分で直接目撃したものではない。たとえ目撃したとしても、それは一面を捉えたに過ぎず、事象を正確に理解したことには繋がらない。事実は真実とは異なるという言葉が何処かで使われたそうだが、これはまさにそのことを表したものだろう。そして、それを伝えるのが自分であれ、他人であれ、ある方向からの解釈にしかならず、それを受ける人間は想像しかできないまでも、他の面から見た場合を考える必要がある。これをある人々は疑いと見るわけで、確かに鵜呑みをしないことから見れば、伝えられたことに対して疑いをはさむことになる。疑いという言葉自体が、どうも悪い印象を与えるらしく、そういうことを心掛けている人間は、何処か斜に構えているような雰囲気を持たれるようだ。現実には、こういう心掛けはあらゆる場面で重要となり、即座の判断が求められる場合には特に役立つらしい。詐欺に騙される人々が何度も同じ経験をするのは、結局そういう根本的なことの欠如によるものであり、本人がどれほど注意を払っても、相手の言葉に疑いを差し込む気持ちが起こらない限り、同じ結論が導き出される。疑うことが常となっている人間には、そういう行動は理解できないが、騙される人々には信じることが大切であり、それが自らの安定を導くための手段かもしれない。そう考えると、今の世の中は本当に騙されやすい人が増えてしまったようだ。以前と比べて多くなったように見えるのは、実はそういう人々が情報の網に引っかかるだけなのかもしれないが、兎に角毎日のように色々な被害が伝えられる。ただ、これらの情報の中にもまたガセネタが含まれているわけで、何を何処まで信じるかは、自分自身の判断に頼るしかない。そしてそれを磨くためには、やはり第一に疑いを持つことが必要となるのだろう。
子供を育てていた頃、松田道雄が書いた本を時々開いていた。子育てで不安になる親をなだめるように書かれた文章は、多くの人を安心させてきたに違いない。病気になると医者を訪ねるのが当たり前と思う人々には、事を荒立てず、子供の様子を見守れという教えは疑いを持って迎えられ、そして信頼に変わったのではないだろうか。
病気と医者の関係は、そのまま病気と薬の関係に結びつけられるだろう。病気を治すために薬を飲むことが当たり前と思う人は、薬を貰ったり、注射をしてもらうために医者を訪ねる。しかし、松田さんはその考え方の間違いを直接ではなく間接的に指摘している。つまり、子供達の異変の多くは一時的なものであり、重篤なものでない限り、体が持つ治癒力で回復するというのだ。それを殊更に騒ぎ立て、連れ回したり、余計な治療を施すことで、却って体調を崩すきっかけを与えてはならないと教えている。医者の本来の役割は、薬を処方することではなく、症状を見極め、患者に最適な治療を施すことで、中にはただ話を聞き、安心させるだけが最良の選択となる場合が多い。にも拘らず、患者やその家族によっては、薬や注射という直接的な治療を施さないことを怠慢と受け取る人もいて、一部の医者はその要請に応えるしかないのが現状のようだ。元々重篤な患者のために用意された特効薬が、最近それ自身がもたらすかもしれない副作用で話題になっているが、世界的には珍しい症例と言われているようだ。それもそのはず、処方数が他の国を大きく引き離すほど膨大で、その異常さがこのところ話題にされる数値に反映しているらしい。一概に言えないまでも、安易な考えに基づく処方や、それを望む声の多さがその原因と見なされ、この国の病気と薬の関係に対する考え方の異常さの一端を見るようだ。一方、監督官庁の対応の拙さは、以前問題になった薬害と同様に、特効薬特有のものと映る。逃げ腰での取り組みを反省する向きはあるのだろうが、それにしても相変わらずの緩慢な動きが目立つ。それと共に気になるのは、いつもながらの報道姿勢であり、何とも情けない姿が目立っていた。医療行為に関わるものへの批判には、それなりの覚悟が必要なようであり、その辺りの事情が垣間見える。いずれにしても、患者の立場を考えると、ただ闇雲に治療を要求するのではなく、生き物の回復力を信じることも必要だろう。但し、重篤な状態に陥らないように注意することも当然必要なのだが。
ある新聞の最終面に交友録のようなものが掲載されている。長年の友達と思いながら読んでいると、時々おやと思わされることがある。交友の期間の長さを問題にするわけでも、付き合いの深さを問題にするわけでもなく、どちらかと言えば、今この時に一番印象に残る友達の紹介といった趣きがあるからだ。
一生の友人関係に憧れる人もいるようだが、それを成立させるのは容易なことではない。一時的に高まった友情も、何かをきっかけに冷めてしまうこともあり、継続の難しさに悩んだ人もいるだろう。友人とは所詮は他人な訳で、離れようと思えば簡単にできる。それに比べると血縁関係は、自分の思うように断絶することもできず、表面的に疎遠になっていたとしても、社会的には維持されるわけだ。しかし、何の条件もなく結ばれる関係は、自分自身の成長が不十分な時代にも通用するわけで、家族や親戚を頼りにした経験を持つ人も多いと思う。それが、成長と共に接触する相手の数が増大し、その範囲も自ずと広がり始める。そんな中で友人関係が築かれて行き、中には長い付き合いになるものもある。ただ、それを成立させるためには、相手を思いやる心が必要であり、互いに支えあうような関係が重要となる。そういうものを社会性の確立と呼ぶ人々もいて、そのためのきっかけを与えてくれるのが集団生活の場となるわけだ。その代表格である学校は、義務教育の段階から集団を狭い部屋に閉じ込め、自分だけの空間を排除することで、他人との接触を促している。ここに様々なことを期待する気持ちも分からないではないが、最近の風潮には首を傾げたくなるものがある。例えば、して良いこと悪いことの区別を付けさせるために学校があると思う人が多いという調査結果があったが、これは大間違いなのではないだろうか。倫理観とか道徳観は集団の中で身に付けていくものではあるが、全ての責任を学校に押し付けるのは無理である。その根本となる部分で、より小さな集団、それも血縁で結ばれている関係の中で、築かれるものは沢山あり、その基礎の上に築かれるのが社会を対象とした倫理観である。それを、全てが社会教育の中で育まれるものと誤解し、丸投げを当然のことと受け取る人々がいることは、ちょっとした驚きである。ただ、現状を目の当たりにすると、まさにその問題が噴出している最中であり、役割分担の崩壊が産んだ歪みが露になっていることがわかる。これほどの状況が産み出された原因の多くが、既に指摘されているにも関わらず、いまだにこんな結果が出ること自体に驚くのだ。どうすべきか、もう少し冷静になって身の回りを見渡す必要があるのではないだろうか。
欲求には色々あるが、強弱の違いはあるものの、誰にでもあり、悩みとも繋がるものに、食欲がある。食べる歓びを味わえるのは、ある程度の豊かさの故だが、それだけとも思えない部分がある。経済的に豊かな国でも、食事に対する考え方が大きく違い、海の向こうではこちら程の執着はないように見える。
この辺りの事情の違いは何処から来るのだろう。一概には言えないだろうが、四季の変化が少ないあちらに比べると、こちらは大きな変化が味わえる。それに伴い、季節ごとに旬を迎える食材があり、それを楽しむ心が育まれたのが一因なのではないだろうか。初鰹とか秋茄子とか、そんな言葉が使われるのも、季節の変化があるからだろう。しかし、最近はそんな感覚が失われつつあるのではないだろうか。買い物に行けば、殆どの野菜は年中出回っているし、魚介類も世界中から運ばれてくるから、こちらの季節とは無関係だ。そんな中で、季節を楽しめるものは徐々に少なくなり、意識することもなくなる。たまにそういう食材を見つけても、馴染みが薄いために、食指は動かず、歓びには繋がらない。人の心が貧しくなってしまったからなのか、それともそういうものに対する考え方まで欧米化してしまったのか、そんなところに原因を求めてもいいのかもしれないが、実は全く違うところに理由があるのではないだろうか。それこそ欲望によるものであり、自分の欲しい物を欲しい時に手に入れたいという気持ちに対して、供給する側が応えた結果であり、それが積み重なるに連れて、先取りする手法が主体となったというものだ。こうすれば売れる、となれば、商売は成功に繋がる訳で、それを繰り返した結果、消費者にはそれが当たり前となってしまった。食欲の向く方向に変化が現れた訳で、それによって大切な感覚が失われてしまったのではないだろうか。今更慌てても、元に戻せる訳でもないし、また戻す意味もないだろう。手間をかけて、こういう状況に自分たちを向かわせた結果が、豊かな自然を楽しめない心を育ててしまったとしたら、何とも情けない気がしてくる。
四月から三月を年度単位とする国では、この時期に人の移動が激しくなる。送る人迎える人、悲喜こもごもであり、そこにも劇的なものがある。季節的にも不安定なときなので、それも含めて様々な模様が演じられるが、皆それぞれに滑らかに流れて欲しいものだ。不安が付きまとうのは当然だが、他にも目を向けて欲しい。
国際化といった言葉で表現されるように、統一規格で全てを括ろうとする動きがある。当然、年度の単位についてもそういう考えのもと、変更を提案する動きも盛んだ。確かに、一つの国だけで成立することは少なくなり、何かあれば他国との関わりが取沙汰されるわけだが、だからと言ってなんでもすぐに変えれば良いというものではない。特に、変化を強いることによって不安定な状況を継続させ、それを治めるための手段として使った人々にとって、国際化は格好の材料となっている。しかし、現実にはそれによって引き起こされる歪みの方が遥かに大きく、予想以上の抵抗から結局のところ改革の声は小さくなってしまった。なんでも西洋化という時代でもなく、なんでも統一化というわけでもない。そんな中では盛り上がるはずも無いのに、いつもの調子で押し切ろうとしたようだ。この辺りの反対については、夏時間の導入の検討が懐かしいところだが、これもまた別の要因を引き合いに出して、再燃させようとする動きがある。効率化は様々な面で使われるが、労働のみならず、環境要因を加えることで、より強力な圧力をかけようとするものだ。だが、これとても頓挫することは確実だろう。根本的な考え方がどのように違うのか、たとえ多くの制度が西洋から取り入れられたといっても、そこには限界がある。譲れない線とまでは言わないだろうが、説明不能な違和感とでもいうものがありそうだ。季節に対するこだわりは欧米諸国とは比べ物にならないほどであり、冬から春への喜びだけでなく、四季それぞれの楽しみ方を知る人々にとって、今更統一化も無いのであろう。この時期独特の盛り上がり方は、確かに季節の変化によるものが大きく、それによって引き起こされる不安も大きい。しかし、それが喜びに繋げられた時、人生の各段階での重要な一歩を刻めることになるのだ。そういう考え方を残すことで、少しくらいのずれが生じたとしても大したことは無いのではないだろうか。
春の訪れを告げる花々が無惨な姿をさらしている。本来ならば、暖かくなる中で白い大輪を咲かせるはずが、膨らんだ蕾が少し開きかけたところで逆戻りしてしまった季節に立ち止まってしまった。すぐに気温が戻れば良かったが、現実には更に寒さが強まり、白い花弁はまるで霜にでも当たったように茶色になっていた。
予期せぬ変化にどう対応するかは、自然を相手にするものだけでなく、あらゆるところで問題となる。対応が拙ければ、いい結果が出るはずもなく、その後始末に追われることになる。しかし、始めに書いた花のように、たまたま上手く行かないものがあったとしても、時期をずらせて咲く準備をしていたものは一時休憩程度でやり過ごせることもある。皆一斉に何かをすることの危険性を如実に表していると思うが、どうも人間たちはそんな可能性を考えることがないようだ。兎に角、出遅れて出し抜かれることを嫌い、人の前に行こうと躍起になる。一番前に行けば目標を失い、先行きに対する不安が増大するというのに、それを忘れてしまうのだ。また、人の後を追従するのも危険度はさほど変わらず、多くの場合は引きずられるように巻き込まれてしまうのに、ついつい後追いの安心感に浸ってしまう。どうもこのあたりの行動心理は古今東西変わらぬものらしく、同じ間違いが同じように繰り返され、学習したように見えてそうなっていないことが多い。他と違うことをすることの不安は確かに大きいとは思うが、自分なりの分析を重ね、自分なりの方向性を定めれば、大したものにはならないはずである。多くの場合は、自分なりという最も手っ取り早いはずのことを省く安易な気持ちが、その原因になっているようだ。それに、危険が伴うことはほんのたまにしか起きないわけで、ほとんどの場合は大きな変化は起きないものだ。そういうことに慣れてしまい、今度もまたそうだと思い込むことの危険は、様々な災害の後に触れられるが、それとても確率的には非常に小さいわけで、自分の人生に直接関係することもない。そんなことが繰り返され、余計な手間の無駄を問題視し始めた頃に、何かが起きれば被害は大きくなる。常に注意を怠らず、自分なりを貫くように心がければ、遭遇することもなかったことに、安易な道を選んだがために、滑り落ちて行くことになる。自業自得と言えなくもないが、積極的にそれを選んだわけでもないから、そんな気持ちにもなれない。しかし、他人任せが元凶であることを意識しない限り、この図式が変わることはあり得ないのではないだろうか。