パンチの独り言

(2007年3月26日〜4月1日)
(委任、回収、密約、陽気、奉仕、盗聴、亡骸)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



4月1日(日)−亡骸

 文化とはそれぞれの人々が築き上げてきたものだろうから、赤の他人に理解してもらうためのものではない。狭い世界で生きてきた人々にとっては、それで何も問題はなかったはずだ。しかし、互いの物理的距離は変わらなくても、時間的距離が縮まり、お互いのことが気になってくると、どうでもよいとは言えなくなる。
 いつ頃からそんな時代に入ったのか、きちんと線を引くことは難しいだろう。文明が発達した地域でも、そうでない地域でも、よそ者が入ってくることで様々な変化がもたらされる。特に、未開の地域と呼ばれたところでは、その変化は初め拒絶され、続いて急激に訪れる。そのため、語り継がれてきたものは失われ、全く新しい、そしてその土地とは何の関係もないものが恰もその権利を主張するがごとく、その存在を絶対的なものにする。元々文化や文明と呼ばれるものがあった地域でも、変化は何らかの形で強いられ、本来の姿は失われてしまうものだ。それを妨げようとすれば、余程の力をこめて、排他的な運動を繰り返さなければならない。この難しさはどこの国でも痛感していて、どこにその起源があるのかわからない外力に曝され続けることになる。そのうち、力が続かず、新たな動きを取り入れてしまうことになるところもあれば、外からその価値を落とされ、衰退するところもある。どちらが正しい行動なのか、人それぞれには違いないが、結果は明らかなものとして残る。取り入れ方にも恣意的なものと、単なる強制によるものがあり、それによっても結果は大きく異なるが、その間で平衡を保つことは難しい。どうしてもどちらかに偏るか、あるいは極端になってしまう訳で、あとから見渡すと何とも不思議な展開があったことがわかる場合も多い。当然ながら、それを梃子に利益を得る人々が、外からも内からも集まるから、一見理不尽な流れと結果が出たとしても、それに寄与した人はどちらにも必ずいるものだ。それにしても、何よりも利益を優先する心理が働くと、ここまで極端な展開が起きるのかと呆れてしまうものは驚くほど多く、結果はある面から見ると悲惨である。しかし、そこに暮らす人々が新しい環境に慣れたのなら、伝統の文化などというものは形骸化したに過ぎず、それに拘る必要を改めて考えない限り、忘れ去られる運命にある。そんなつもりで周囲を見渡すと、想像した以上に多くのものが失われていることに気づくだろう。

* * * * * * * *

3月31日(土)−盗聴

 便利になったから、何でもできるという訳でもあるまい。無線LANなるものを初めて使っているが、どうも転送速度に難点がある。だからといって、近くのネットカフェでという訳には、ある事情でいかず、結局、この速さで納得するしかないのだろう。そんな難点があるとはいえ、ほとんど何もせずに繋がるのはやはり便利だ。
 そうは言っても、結局こういうことをする代償はどこかで支払わされているのかもしれない。監視する動きがあれば何らかの秘密が暴かれるだろうし、それによって使う側が何かの不利益を被るかもしれない。しかし、ほとんどの場合は大したことがないだろうし、まあいいかという気持ちで使っている人が多いのではないだろうか。本当に重要な情報はこういう形でやり取りすべきでないだろうし、インターネット自体がそういうことに不向きな仕組みとも言える。しかし、ここまで普及し、便利さが際立ってくると、何か問題が起きても大したことにはならないだろうと、勝手に思い込むことで、片付けてしまうことが多いのではないだろうか。これはネットに限ったことでなく、他の技術革新によって獲得された便利さも同じようなものなのではないだろうか。確かに、安全性を重んじるのであれば、人と人との間で直接的に情報を受け渡すのが一番だが、これが無理なことは既に歴史が証明している。そんな中から生まれたのが暗号であり、作る側と解く側のせめぎ合いが別の技術を進歩させる結果となった。今、無線LANで使われているのも、結局そういった技術の集積なのだろうが、どんなに進んでも人の作った物を人が暴くことは不可能ではない。そんな中で産み出されたものは沢山あるのだろうが、現実には軍事秘密など、難しい状況におかれるものが多いようだから、結局一般の人々の目に触れることはない。だからこそ、高をくくっていられるのかもしれないが、早晩そんなことを言っていられない時代が来るのかもしれない。誰にも予想できないことだが、今までの流れからすれば、古い技術は陳腐化し、それを放置することは命取りとなる。果たして、これほどまでに普及した技術について、同じことが適用できるのかはわからないことだが、いずれにしても、既に監視下に置かれているという噂が流れていること自体、やはり難しい状況にあるのではないだろうか。こんなことを書くこともそのうち危険となるのかもしれないが。

* * * * * * * *

3月30日(金)−奉仕

 人間は所詮身勝手な生き物かもしれない。自分さえ良ければ、という考え方が、いつの間にか世の中に蔓延り、そのまま大勢を占めるようになった。となれば、そんな中で倫理やら道徳やらを第一に考えることは何とも馬鹿らしく見えてくる。自分の都合にとって悪いことは、社会的に重要でも無駄となるわけだ。
 景気が悪くなった時代、人気の出た職業があった。公務員である。潰れるはずのない公の組織で働くことは、その業務内容が気に入らなくても、安定が約束される。そんな考えから、異常と思えるほどの人気となり、下心一杯の人々で溢れた。しかし、景気回復の為に投じられた自治体の借金がみるみる膨らんで、世の中が明るくなるのと対照的に暗闇に落ち込もうとしている。弱り目に祟り目とでもいうのだろうか、そんな中で公の仕事への金の使い方に世間の目は厳しくなるばかりで、あらゆることに批判の矛先が向けられている。オンブズマンと呼ばれる人々は、甘い汁を吸ってきた人に対して、その悪行を暴き続けており、社会全体にそんな風潮が流れている。どんな行為も悪者を見つめる目で眺めれば、悪く見えてしまうものだ。偏見に満ちた分析は確かに不法行為を探り出すが、同時に別の目的を持つ行為までも封じ込んでしまう。そんな考え方が蔓延した状況での批判の多くは筋違いのものとなり、そこに潜む心の貧しさに呆れ果ててしまう。税金は確かに大切なものだが、それを納めずに済まそうとする人々や、公から受けている施しへの対価さえも支払わぬ人々が大きな顔をしていられる社会では、何処か間抜けな指摘にしか思えない。長年地方自治に尽くしてきた人々に対する感謝の気持ちを無駄遣いと断言できる人々の頭では、公僕の意味など分かるはずもないだろう。悪いことをするから必要ないという論理は、子供に向けられることが多いが、そこにある視野の狭さは今の世の中では糾弾されない。ただ、体罰やいじめとならなければいいのだ。個人や身の回りの利益を追求するのではなく、あくまでも地域全体に対して奉仕してきた人々に感謝する気持ちが無くなった今、公という存在自体が危ういのかもしれない。しかし、国を成り立たせるためには、公の存在を認め、それに対して働きかける人々の心が必要である。馬鹿げた批判に耳を貸さず、自分達の責任を果たし、当然やるべきことをこなしてこそ、互いに信頼できる世の中が形成されるのである。海の向こうから投げ込まれた馬鹿げた考え方を後生大事に抱えていたとしても、住みやすい社会ができるはずもない。攻撃は最大の防御という考え方が、こんなところにまで浸透するなどとは思いもよらなかったが、今やそんな世の中が出来上がりつつある。このあたりで、本当に大事なことを再認識する必要がある。

* * * * * * * *

3月29日(木)−陽気

 そろそろ新しい門出を迎える人もいるだろう。そんな季節の到来だが、既にひと月後のことを心配する向きもあるのではないか。一つのことに慣れたところで、別のことを始める。そんな変化を経験しながら、徐々に力を増していければ幸いだが、一方で力及ばず、退却を余儀なくされる人もいる。難しいものだ。
 変化に対応する為に、大なり小なりの負荷がかかることは致し方ない。それは人生の岐路に立たされた時に起きるだけでなく、一見何の変化もないところで起きることがある。春の慌ただしさが過ぎた頃に訪れる虚無感もさることながら、春の訪れとともに忍び寄る変調に毎年のように悩まされる人々がいる。心の不安定は人それぞれに程度が異なり、他人には理解できないものと言われるが、自分の心の動きを自分で感じ、それに対応する限り、他の人々にそれらの全てが把握できるはずもない。それぞれの動きに対する対応には無数の選択肢があり、その中から一つを選ぶことによって、その先の道が全く違ってくる。その全てを網羅することは不可能だし、その結果の全てを導き出すことも無理だろう。そんな中で、自分なりの答えを出しながら、道を歩んでいくわけだから、毎年違ったことが起きるのが当たり前と思う人がいるだろう。しかし、悩みを抱える人々にとっては、毎回同じような経過を辿りながら、同じ悩みの淵に落ち込む、そんなことが繰り返されるのである。ここに悩む人とそうでない人の大きな違いがあり、同じことを反復する安心感に浸る事を好む人の多くが前者に含まれるのではないだろうか。これを体の変調を来すことから、病気と見なす人も多いが、現実には個性の違いと見なした方が良さそうな気もする。また、病気であれば治療の可能性を期待させるが、そこにも大きな問題が立ちはだかっているようで、そんな扱いを好ましく思わない人もいるようだ。いずれにしても、この時期、様々な人々がそれぞれに悩みを抱え、苦しんでいる姿が散見される。その原因を探ることも大切だろうが、巧く立ち回る手立てを考えることを先にすべきなのではないだろうか。薬に頼る人もいれば、気分転換を図る人もいる。はたまた、塞ぎ込んで何もしないことを解決の手段とする人もいれば、当たり散らして発散する人もいる。どんな形にせよ、社会と向き合うためには何が大切かを考えておけば、何とかなるものなのだと思う。それは本人にも言えることだし、周囲の人間にも言えることだろう。

* * * * * * * *

3月28日(水)−密約

 青田買いとは、秋の実りを見越して米を買うことを指し、不確定なうちに確保する動きを表すのに使われる。最近の用法では特に就職関係に使われ、卒業が決まっていない早い時期に内定を出すことを意味する。どちらにとっても重要なことだから仕方が無いと考えられ、最近は以前ほどは問題にしないようだ。
 このところ話題になった野球選手獲得の問題は、これとは似て非なるところがあるのではないだろうか。青田買いという表現を使う人もいるが、誰でも自由に取引できるわけではないところに大きな違いがある。特に、ある年齢に達するまでは本人の希望も球団の希望も叶えられず、運を天に任せるしかない状況にある。元々、特定球団に希望が集中することを妨げるために考え出された方式だが、あまりに冷酷なやり方との批判から、ある程度の年齢に達すると規制が緩くなる方式が導入された。本人の夢を叶えるために必要な措置と受け取られたが、現実には時期を遅らせるために必要な資金と夢を叶えたい気持ちとを天秤にかけるようなもので、誰もが容易に選べるものではないらしい。そんな事情からか、一部の関係者はこの制度を巧く利用する方法を考え出し、実行に移した。それが最近何処からか情報が漏れてしまい、世間に知られるようになった。その結果、制度の解釈の問題ではなく、悪用と受け取られてしまい、多くの人々に処分が下された。確かに、これと見込んだ選手を手に入れたい気持ちは分からないでもないが、それを目的とした資金供与は精神に反するものである。職業とするかどうかで大きな違いを設けている以上、それに反する行為は厳罰に処すべきであり、今回の事件の成り行きはまさにそういう経過を辿っている。但し、こういう時にいつも引き合いに出される「将来ある」という言葉が今回も適用されているらしく、選手たちには反省を促すことが主体となっているようだ。だがしかし、それを積極的に行った組織に対する処分は一体どんなものだったのだろうか。流石に「お取り潰し」とはいかないことは誰でも分かるが、何か特別な処分が下されたとは思えない。個々の関係者を処分するだけで、一番上にいる組織には何もないのでは何とも理解できない。現実には、これから徐々に決められていくのかもしれないが、こんな仕組みを作った人々の責任も、それを巧みに利用してきた人々の責任も、問われることはないだろう。今まで入った選手たちの中に、そんな場合があったかどうかさえ、闇の中となっているに違いない。こうなれば、口をつぐむのが一番ということも明らかで、知らぬ存ぜぬとなってしまう。一方、この制度自体は随分評価されていたようで、こんなことが発覚しなければ暫く続いていた思われる。では、本当に評価に値するものだったのか、手遅れかもしれないが、そういった議論をしておいた方が、次の戦略を立てるのに役に立つのではないだろうか。耕す前の田んぼを買う人もいないだろうが。

* * * * * * * *

3月27日(火)−回収

 ラジオから流れるニュースに耳を疑った。そんなことは日常茶飯事と言われそうだが、今回のは少し違う。それにまた、おそらく多くの人々にとっては関係も関心もないだろう、話なのだ。資源の活用が叫ばれている昨今、そのための活動が盛んとなり、多くのゴミを資源と考えることが当然となりつつある。
 しかし、棄てるしかないものが活用できるとなった途端に、様々な問題が生じるのだ。古新聞が資源として認識されたのはそんなに昔のことではないと思っている人も多いだろうが、現実には何十年も前から学校を中心にその回収が行われてきた。古紙の価値が低かった頃にはそんな方法しかなかったものが、その高騰とともに状況が一変し、それを生業にする人々が登場した。週末に大音量を鳴り響かせて町中を走り回るトラックに閉口したのはその頃だが、学校のために協力するよりも自分の利益を優先する考え方が定着し、以前からの活動は下火となった。しかし、そこは資本主義の常、価格が下がってくれば商売は成立しない。交換できるちり紙の量が激減し、客はあっという間に遠のいた。こうなると商売を続けていくために工夫が必要となる。転業した人もいただろうが、そのまま続けた人々にとって、自分達の手に入らなくなった古新聞が山積みになるところがあるとしたら、さてどんな反応を示すだろうか。自治体が中心として行う資源回収はまさにその標的であり、一般市民にとっては何とも不思議な光景が展開されることになる。自分達が出したものが自治体とは無関係の業者によって持ち去られるからだ。業者の言い分は自分たちの排除らしいが、それにしても他県からやってくる人々にそんなことが通用するのか、さっぱり分からない。明らかな犯罪行為と思っていたら、世の中にはそう考えない人もいるようだ。排除されたのがかわいそうとか、生活ができないのはかわいそうといった意見が出る始末、やはり矛盾に満ちた社会なのかと思える。そんなところに、自治体が訴えた裁判の判決が出された。無罪判決は、場所の特定が不十分で、条例は公平性に欠けたものであるとのことだ。こんな話を聞いて情けなくなる人はあまりいないのかもしれないが、杓子定規な判断としか思えない。その上、持ち去った業者は経費の問題を取り上げ、自分たちの正当性を主張しているらしい。もし、場所の特定が必要ならば、条例を直ちに改正し、特定できるような条文にすべきだろう。もし、経費の問題が重大なら、それを別個に議論すべきだろう。こういうことを混ぜこぜにして、自分たちに有利になるような考えを通せるというのは明らかな間違いで、誰も不利益を被っていないという理由も身勝手なものだ。

* * * * * * * *

3月26日(月)−委任

 巷に流れている話を聞く限り、世の中では平衡感覚の喪失が明確になっているようだ。何やら難しい言葉が並んでいるように感じられるかもしれないが、つまりは自分と他人との関係を上手く保つ力を失った人が目立ち始めたという意味である。人付き合いの上手下手とは少し違い、例えば仕事の分担に関することだ。
 役割分担は本来は担当者全体に信頼をおいてこそ意味が出てくるのだが、その辺りに異変が起きている。自分に対しては過ぎるほどの信頼をおくのに、他人に対しては疑ってかかる人が増えたからだ。結果としては、自分の担当分をこなせず、それを他の人の責任にすることになる。これでは分担の意味は無く、そういう人々は担当から外すしかなくなるわけだ。しかし、その人数がさほどでもない時ならいざ知らず、昨今の状況では不適当と思える人をも含めて仕事を進めるしかなくなっている。その結果、更に別の悪影響が出てきてしまう。つまり、信頼できない人との共同作業では余計な確認手順を導入する必要が出てきて、結果的に全体の効率を低下させることになる。こんな図式がある程度当たり前になると、役割分担制度自体に弊害が現れる。ライン上で次々に連結される仕事の分担を強いられるより、それ全体を一人でこなす方が遥かに正確で速く仕事が済むことになり、一人一人の能力に応じた仕事量とそれに見合う収入という関係が築かれてきた。しかし、これもまた別の弊害を産むわけで、全てを一人でこなせる種類ならば問題ないが、そうでない場合に以前よりも大きな障害が生じるようになった。そこには、他人に対する信頼が揺らぐ中で、自分の立場を護り、全体の進行を妨げないようにする気持ちが働いており、分担によって任せなければならない役割にまで口を出す人が出てきた。これは、その場での解決には繋がるのだが、長い目で見れば小さな問題を山積みにすることになる。その結果、それぞれは大した問題でなかったのに、いつの間にか目の前に聳える大問題という障害物を築き上げることになってしまうのだ。人々は、その場その場での対応が問題解決に最適な答えを導き出してきたと思っているが、現実には体制を整備することに結びつかないことから、組織全体の欠陥を大きくしてしまうことになった。こんな状況に陥ると、今更互いの信頼を回復することもできず、それぞれが個々に仕事をするしか無くなり、連携などという方式は失われてしまう。平衡感覚とは、その場その場での問題を解決するだけでなく、それぞれの欠点を修復することも含み、更には組織の水準に応じた最善策を模索する力を指している。信頼が根底にあることは当然だが、その上に全体の進度を見据えながら仕事を進める力が必要なのだろう。丸投げと批判の繰り返しでは、ここから先の更なる発展が見込めないことを認めた上で、次に必要なものを見つけ出すことが重要なのだ。

(since 2002/4/3)