パンチの独り言

(2007年4月2日〜4月8日)
(後見、風習、勤勉、大波、追従、防疫、相互)



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4月8日(日)−相互

 共同作業の難しさを痛感した経験はあるだろうか。同じ組織に属する場合には難しくとも解決の糸口はすぐに見つかるが、違う組織に属する者同士の場合こじれてしまうと修復は難しい。一つには、互いの信頼関係が築かれていないことが多く、そんな環境では互いの責任の所在が明確にならず、どうしても中途半端な関係になる。
 そんな時、どうしたら解決するだろうかと考えてみることがある。また、何が一番大切なのかも考えてみる。そういう中で出てくる結論は、信頼関係が築けるように互いの意見を交換することだが、これが簡単ではない。同じ組織内でも、互いの意見が食い違うことが多いように、違う環境にいた者同士の意見が異なるのはごく当たり前なのだ。そんな中で、色々な働きかけを交わしたとき、ふっとうまく流れ始めることがある。何が変わったのかと見直してみたとき、多くの人々は大した違いのないことに気づくが、現実には意見の交換がすんなりといったことには思い当たるだろう。それは、つまり互いに理解するための一番の近道が意見交換にあることであり、さらには表面だけの交換ではなく、互いの相手に対する不満をも含めた、意見交換の必要があるのだ。これは文にしてみると、簡単に思えるのかもしれないが、現実に相手に対する気遣いを含めつつ進めると、様々な問題に直面することが多い。また、そういう問題が壁となることで、そこで時間を費やすことが解決に繋がっていることもある。難しい問題であればあるほど、そこでの時間のかけ方が重要になる。こういう肝心なところで手抜きをしたり、労を惜しんだりするとどうにもならない結果が訪れる。問題の本質を捉え、解決の手法を模索してみたとき、そこには時間をかけてでも理解を進めなければならないことが出てくるのだ。簡単じゃないから、難しいからと、やらずに逃げる方法もあるのだろうが、それは単に問題を先に送っただけのことであり、共同作業はそこで停滞してしまうことになる。それを仕方ないと片付けるのも一つのやり方なのだろうが、何かを進めなければならない状況のときにはそれを選ぶことはできない。にもかかわらず、どうも世の中ではそういった状況での判断を誤り、適切な対応もしないままに、無駄なものを残してしまう人がいる。それもまた、社会全体から見ればあって当たり前のことなのだが、すべてがそうなってしまったらどうにもならない。みんながそれなりにうまく調整しあいながら、物事を進めていかない限り、何もおきないのだから。気づくために必要なのは何かという点にも大きな問題がありそうだが、それ以前に手放してしまう人々を見ると、どうにも能力に欠けるところがあるように思えてならない。

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4月7日(土)−防疫

 病気の中には命に関わるものが沢山ある。高血圧などの血管が関わる病気は、その大部分が生活習慣や遺伝性のものだが、ウイルスや細菌によって起きる感染性の病気は、人から人へと伝染し、ひとたび広がり始めると影響が大きくなる。自分の中だけで閉じているものであれば、注意すれば済むが、開いたものはそうはいかない。
 伝染病と呼ばれる病気の中で、欧州で猛威を振るったのは黒死病だろう。下水設備の問題がその原因であろうが、鼠を運び屋とするペスト菌と呼ばれる細菌が原因である。この国でも、当時は「ころり」と呼ばれたコレラが蔓延したこともあり、海洋性のコレラ菌によって起こる伝染病だ。細菌による伝染病の場合、衛生管理や抗生物質の普及により、多くのものが制御可能となっている。ただ、一部の細菌性の病気は耐性菌の出現によって様相が一変し、かなりの緊張が走っており、不完全な治療が問題となっている。そういう問題があるにしても、十分注意すれば問題が起きることはほとんどないのが現状だが、それに対して、ウイルスが原因となる病気はいまだに治療が困難なものが多い。まず、感染から寄生という流れをもつ生物とは呼ばれないものであることから、その増殖を制御することは宿主への影響が大きいというのが一つの問題となる。増殖に使われる道具の多くが、ヒトの細胞の中にあり、普段から生命維持に欠かせないものなので、その機能を抑制したり、停止させることは、ヒト自体に対して悪影響を及ぼすのだ。そんな中で、治療の主体は症状の緩和に注がれ、患者への影響を少なくするような手段がとられる。ただ、それでは感染の広がりを抑えることは難しく、感染性の強いものの場合、十分な対策とならないことが多くなる。そんな中で開発された薬は期待が大きいだけに、少々の副作用には目をつぶるべきとの主張も多いが、最近の動向を見る限り、そんな形で片付けるべき問題では無さそうだ。ただ、そこに横たわる問題は感染拡大の防止ではなく、乱発的な処方や診断の誤りなどがあり、これらの解決を図る必要もあるようだ。一方、感染の広がりという意味では、近年の交通網の発達によるところが大きく、拡大防止への取り組みはその速度に追いついていないのが現状である。そちらの解決に向けて様々な対策がとられているが、十分と呼ぶにはほど遠い感がある。ただ、スペイン風邪が流行した時代と比べると社会情勢は交通網の発達だけでなく、別の面からも大きく変わっているのではないだろうか。つまり、多くの国では栄養状態の向上が見られ、当時とは比べ物にならない状況にあり、その点からはたとえ同様のことが起きたとしても、結果が大きく異なる可能性があるように思えるのだ。現実にどうなるのかを予測するのは難しいが、こういう観点を取り入れた上で対策を講じる必要があるように思える。

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4月6日(金)−追従

 先日読んだ本は、維新前後の外国人の動向を記したものだった。その多くは技術者であり、教育者であったそうだが、それから百年以上にわたるこの国の発展のきっかけを与えた意味は大きく、今文庫本で再版されたのもそんな認識から来るものなのかもしれない。自画自賛する人々でも、その影響については一目おくのだから。
 近隣諸国からは、羨望の目で見られると同時に、バナナという皮肉に満ちたあだ名で呼ばれるのは、それだけ違いがあるのと同時に、何かしら西洋人寄りに見える所を言い表したいのだろう。精神的に見れば、そういった雰囲気もあるが、現実にはそれとは違った部分があるからこそ、これまでの発展があったに違いない。物真似上手と呼ぶ人たちにしても、一面を捉えただけで、本質的な部分に関しては見抜いていない印象がある。確かに、追いつこうとしていた時代には真似る事をよしとし、そこから更なる飛躍を目指したのではないだろうか。多くの国々が、植民地という形で大国の助けを得、それによって表面的な発展を受け取っていたのに対し、この国はそういう経過を辿らず、様々な助けを得たとしても、どこかに独立を目指す部分があり、そこから独自の様式を編み出してきたから、今の繁栄があるのだろう。本の中で強調されていたのは、外国人たちに対する依存が長く続かず、ある時期に打ち切られた事だが、それについても莫大な戦費による予算の削減が原因であり、意図があったかどうかは明らかではない。それにしても、その後自分たちの力で教育の仕組みや工業技術の確立を目指した訳で、その辺りの事情が他の国とは大きく違っているのではないだろうか。そういう背景や本質的な意味を解析する事なく、表面的な繁栄や発展のみを追いかけていたのでは、それまでとほとんど変わらないだけで、何も新しい方向は見えて来ない。そんな中で、違いの根幹に西洋化などを結びつけ、明らかに間違った方向に自分たちを導いている事は、彼らが犯している大きな間違いなのではないだろうか。工業生産が高まり、ある程度生活が豊かになってきたとき、教育制度を整備し、より高い水準を目指すのはごく当たり前の事に違いないが、そのやり方にどこか違和感を覚えるのは、こんな所に原因があるのかもしれない。そう見てくると、更なる発展を目指すために必要な事は、どこかで独立する事であり、依存の体質を拭い去る事が重要となるに違いない。それが確かなものになったとき、それぞれの国はそれぞれの国に特徴的なものを産み出し、そこから新たな方向を模索する事ができるようになる。いつまでも、先行者のあとをついていくだけでは、何も新しいものは作られず、結局の所、後追いしかできない事になる。それを避ける方策が見つかれば、あとは地道に突き進むだけで、十分な成果が得られるのではないだろうか。

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4月5日(木)−大波

 時代の変化が訪れるとき、人それぞれに大きな影響を受ける。それまで堅実に生きてきて、それなりの地位を占めている人にとっては、こういう変化は歓迎できないものになるが、一方で、これから新しい事を始めようとする人にとっては、変化は追い風となり、それまでなら拒絶された事が実現する場合もあるだろう。
 いずれにしても、変化はある周期でやってくるものらしく、その波に飲まれて沈んでしまう人もいれば、波に乗って活躍する場を見つけ出す人もいる。こういう変化の中では上手く立ち回ったかどうかよりも、自分なりの思いを成し遂げようとする動きの方がいい結果を産み出すようだ。閉塞感に満ちあふれた時代から、何かしら新しい事が始まりそうな予感のする時代への移行期には、多くの人が自分の考えを主張し、それが拒絶ではなく、ある意味の歓迎を持って受け入れられる。これは何も賛成を勝ち取るのではなく、単に強い反対に立ち向かう必要がない訳で、結局は自分の力を発揮できるかどうかが大きな分岐点となる。そういう時期に信念を持って課題に取り組めば、かなり大きな成果を上げる事も可能となる。しかし、一つ間違えると、ただ闇雲に動き回るだけで、何も成果が出ずに終わる事になる。そこには大きな違いがあるように思う人もいるが、現実にはほんの小さな違いが結果的に大きな違いに行き着くだけなのだ。こういう流れを見た人々の多くは、成功と失敗の間にいかにも大きな溝があるように誤解する。しかし、出発点が違っていたとしても、その後に様々な修正を施しながら進める計画では、その度に小さな違いが生じ、積もり積もって成功と失敗という正反対の結果が生まれる。それでも、停滞期にはそんな試みさえ許されなかったのに、こういう変革の時期には多くの試みがなされ、中には成功に結びつくものが出てくる訳だ。これでは、単に時代の流れに翻弄されるだけのように思う人がいるかもしれないが、それぞれの人々は彼らの生きた時代の流れに常に影響される訳で、それから逃れる術はない。ただ、自分がどんな流れに巻き込まれ、それを上手く乗り切るためには何をすべきかを、常に考えられる人はどんな時代でも乗り越えられるのだ。時代によっては大きな成功を手に入れる事が不可能でも、結果的に時代の中では一つの成功をおさめた人になり得る訳だ。今、何となくだがそういう予兆が感じられ、一つの大きな変化が訪れそうな時代になりつつある。そんな中で、どう振る舞うかは非常に大切な事のはずだが、果たして、どれほどの人々がその事に気づいているのか、そちらの方が怪しい感じもしてくる。

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4月4日(水)−勤勉

 勤勉と呼ばれたり、アニマルとまで呼ばれた人々は何処へ消えてしまったのだろう。守銭奴とはかなり違った意味で使われていた言葉についても、本来の意味がどうであれ、それほどの極端さが影を潜めてしまった事に異様さを感じる人もいるのではないか。これは、自分のものをどう使おうが自由という考え方の現れなのか。
 自分たちの生活を第一に考え、楽しむために必要な分だけ働こうとする人が増えた。こういう考え方は西洋社会から移入されたと思っている人が多いようだが、肝心のあちらの国々では必ずしもこういう話が当てはまらないようだから、注意しなければならないだろう。長期の休みを取る事が当然と言われる国々でも、最先端を走っている人々はそれをあきらめたり、休暇の最中に仕事を片付けようとするらしい。また、あまり働かないと指摘される海の向こうの人々も、底辺で働く人々にはそれが当てはまるが、一部の上昇志向の強い人々はとんでもない勢いで働いている。ただ、普段目に触れるのはどちらかというと底にいる人々であり、そんな背景からはこうなるのもやむを得ないのかもしれない。現実には勤勉だけでは不十分と思えるほど、熱心に働く人々はあちらの会社の上の方には沢山いて、彼らはある意味潰れるまで働きそうに見えるほどだ。そんな事はあり得ないが、一見するとそう見えるのである。しかし、その事情にも少しずつ変化が現れているのかもしれない。多くの若い世代にはこんな考えは全くなく、ただ、自分たちの自由を楽しめるような環境を求めている。これが悪いというのは語弊があるだろうが、しかし、もう少し冷静に考えておかないと、いつの間にかどこかに追い込まれてしまうのではないだろうか。この程度の事では上手く伝わらないかもしれないが、今まで個人を尊重して、自由を与えていた人々には特にもう少し深く考えて欲しいものだ。少しくらいの変化はいい方向に向けるためには不十分かもしれないが、それでもそれを積み重ねていく事の重要性を辛抱強く伝えていく事は大切だろう。大きな変化も、はじめは目立たないほどの小さなものである場合が多い。それでも、変化を引き起こさせようとする力を働かせ続けないと、色々な問題が噴出してきそうだ。何が何でもという訳にもいかないが、それでも、少しずつ違いを明確にさせていくようにすべきだろう。そこには積み立ての大切さが現れているのではないだろうか。

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4月3日(火)−風習

 郷に入れば郷に従え、その土地のやり方に合わせるのが一番、という意味だと思うが、最近流行している世界標準は正反対の考え方なのではないだろうか。どちらの効率がより高いのか、すぐに答えを出すのは無茶だろうが、現状では選択の余地がないように感じられる。評価をするまでもなく、全体に合わせる方が選ばれるからだ。
 どこに行っても通じる方式は、確かに便利だし、安心できる。しかし、全てにおいてそうあるべきかどうかは、別の話なのではないだろうか。こうやって入力する情報も、全体の統一規格があるからこそ、何の苦もなく送ることができるが、もし、規格が異なっていた場合、そんなに簡単に事は運ばなくなる。そんな事が続けば、利用者の数は減り続け、結局、仕組み自体が成り立たなくなる。逆に言えば、現状でこんなに多くの人が利用しているのは、そんな統一性があるからなのだ。その点に関して、反論するつもりはないが、これが全てに当てはまると考えるのは無理である。統一しない方がいい事も多いし、それぞれに社会的な背景が異なる場合には、上手く適合するようなやり方が存在しない事も多いからだ。にもかかわらず、何故これほどまでに基準を決めようとするのだろうか。おそらく、全体に適用できる基準を決めるのではなく、一つの例を基準として、他をそれに合わせるやり方が実行に移されており、結果的にどれを使うのかが肝心になっているのだが、よく見るとその多くは一つか二つの国に端を発している。つまり、統一と称しつつ、自分たちのやり方を押し付けている訳だが、そういう状態である事に気づいていない人が多い。多分、そういう見方をしないからなのだが、本来それを指摘すべき人々がさぼっている事にも原因がありそうだ。様々な問題が指摘されているが、その多くはこの国で古くから続けられてきた独自のやり方である。しかし、よそ者にとってはその習慣はなじめず、さらに自分たちに機会が与えられない事に不満を示した結果、それを打ち破る方法として統一規格が考えられたのではないだろうか。さらに、それ以外にも伝統的な方式の問題点を指摘し、それを排する方向に働きかける事で、自分たちのやり方を導入し、結果的に有利になるように仕向ける。こんな書き方をすると、いかにも偏った考え方のように見えるかもしれないが、現実にはそういう思惑で改善を行わせているのである。にもかかわらず、そんな事に関して無知をさらけ出しつつ、それに手を貸している人々がいるのは何とも不思議に思えるし、またそれらの人々が指摘している問題点も、ある側面から捉えたものに過ぎない事にも首を傾げたくなる。この国のやり方を残すのも一つの方法に違いないのだが。

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4月2日(月)−後見

 かわいい子には旅をさせよとか、崖から突き落とすくらいの気持ちでとか、もう既に何のことやら理解できない人が増えてきたのではないだろうか。あるいは、頭の中ではわかっていても、それを実行に移すことのできない人が増え、やる方もやられる方も、そんなことは想定していないと言うべきなのかもしれない。
 意欲が高い時代には、どんなに難しいことでも何とか実現させようと努力していた。それがいつの間にか、生活が豊かになるのと反対に、意欲の低下が目立ち始め、結局何をやるにしても人頼み、できれば自分から動きたくないと思う人が増えてきた。そうなってしまうと、流れを止めることは難しく、何か悪い所があるとわかっていても、それを修正することも、一からやり直すことも難しくなる。そんなことが理解できると、それまでに培っていたものを大切にするよりも、新たに何かを始める方が遥かに容易であることがわかる。それでも現実には何もできないままで時間が過ぎてしまうもので、今まさにそんな状況が続いているのではないだろうか。旅をさせるよりも、転ばぬ先の杖よろしく、何とか効率よく事を進められるように仕向けてやる方が多く、結果的には自立の機会を失ってしまう。そんな遣り取りが数回続くと、結局効果の上がらないことに首を傾げ、それでもまだ何とかなると継続する。しかし、現実にはこのやり方が抱えている問題があるのであり、それを取り除くしか、方法はない。本来、そんなことはある程度理解しているはずだが、それでも何かよりよい解答があると信じ、模索することもあるのだが、やはり何も見つからない。そうなれば、やることはただ一つ、後ろから押してやることなのだろう。外に初めて出た人々も、それなりに何かを達成しようと努力し、それなりの結果が得られる場合もある。しかし、その一方で目的としてきたことはことごとく達成されず、何か面倒なことだけがそこに残ることになることが多い。どちらにしても、やってみなければわからないのは事実であり、それを試みる必要があることも明らかである。一つだけこういう話に欠けているものがあるとしたら、それはそういう人々が本当に出たいと思っているかどうか、なのかもしれない。

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