組み合わせの妙、と言うと、意図したか、しなかったかに関わらず、良い結果を産んだものと想像できる。しかし、妙な組み合わせ、と順序を変えるとどうだろうか。こんなところから、言葉とは何と不思議なものかと思えるが、元々は同じ意味で使われていたものが、逆にとられるようになったものもありそうだ。
新しいものを作り出す時、二つの方法があると言われる。一つは全く新しい素材を作り出すなど、基本から全てを新しくするやり方だ。これは誰が見ても新しいと思えるが、素材を作るのは容易でなく、誰にでもできることではない。一方、新しい組み合わせはそれまでにある素材を使い、そこから新たな何かを産み出すわけで、前者に比べると簡単そうに見える。しかし、世の中に溢れる素材をどう組み合わせるかなど、選択肢は無限にありそうで、試してみたとしてもすぐに諦める人も多い。また、組み合わせが必ずしも予期せぬ結果を産むわけでもないし、足し算が掛け算になることもほとんどない。そんなわけで、膨大な試行数が幸運に行き当たることもほとんどないこととなる。失敗の重要性を説く人々もいて、そういう記録を取るべきという声は其処彼処から上がっているが、経験を共有することへの抵抗は大きく、また失敗にも役に立つものと立たないものがあることを知っている人々には、諸手を挙げて賛同する雰囲気は無い。いずれにしても、意外な組み合わせから意外な効果が得られることは多く、それは工業界だけでなく、様々なところに現れているようだ。科学は現象を説明する為にあると言った人がいるが、まさにその通りのことが起こっており、組み合わせも試行錯誤によって明らかにされたものの方が遥かに多い。如何にも原理や論理によるものと思われる分野でさえそんな状況だから、人の感覚に訴えるものとなると掠りもしないことの方が多いのだろう。香水などの嗅覚に訴えるものはその最たるものだろうが、味覚にもそんな例が数多くある。調味料の組み合わせも無数にあるが、適度なものは限られている。にも拘らず、次々に出される食品には新たな組み合わせが採り入れられているようだ。何かと何かを一緒に食べると別の何かの味がしてくるという話が一時期もてはやされたが、最近は既に忘れ去られたようだ。本来の味を追い求める方が、変な組み合わせを楽しむよりも重要と考える人が増えたからだろうか、あるいは、組み合わせで従来の味を求めるより新たな味を追いかけるべきと思うからだろうか。この時期、そんなことを思う理由は、かなり前のことになるが大福に新たな風が吹き込まれたことによる。餡と果物の組み合わせの意外性で終わればこんなことにはならなかったのだろうが、その味わいは生き残りを約束させたようだ。ただ、その後の新展開が悉く外れていると思えるのは、組み合わせの妙がたまにしか起きないことを示している。
昔、ある掲示板を読んでいたら、芸術家を羨ましいとする投稿があった。要するに好きなことをやれて、それで収入があるから最高だというわけだ。こういう意見を発する人の多くは、自分が好きでもない仕事をやっているか、あるいはそうならざるを得ないと思っているわけで、それとの比較からくる話だろう。
こんな意見に対して、多くの賛同が寄せられることは容易に予想できる。まさにそういった様相になったのだが、そんな様子を呆れ顔で見守る人々もいたのではないかと思っている。つまり、芸術家たちは彼らなりに別の形の苦労を背負い込んでいるというわけだ。簡単には、好きなこととはいえ、なんでも究めるとなれば大変なことだとなるが、そのような常識的かつ安易な考え方からくるものばかりではない。人間が何かをやろうとするのは、必ず心が動くことから始まる。別の言い方をすれば、興味を持つということだろう。ただ一つの事に打ち込む人々には、それにしか興味を持たないという人種がいるだろうが、一方で、その大部分は実際にはもっと雑多なものに興味を持った経験を持つ。その中から、自分の興味が一番強くかつ自らの才能を開花できそうなものを選んだ結果が、今の活動に繋がっている場合が多い。だから、才能を開花させたあとでも興味を広げる動きは止まらず、場合によっては余裕ができたことによって更にその度を増すことさえある。そう考えてみると、道を究める人の多くは、自分の中にある興味の多くを、たとえ一時的にせよ、捨てる覚悟が必要なのではないだろうか。そうやって初めて、一つの事に打ち込め、その究極に到達できる道を切り開くことができるのではないだろうか。そう考えてみると、平凡な人生を送り、楽しくもない、そして興味も持てない仕事をやり続ける人は、逆にそういった取捨選択ができず、また思い切りが無いと言えそうだ。自分の才能を考えたら、そんな無茶はできないと思うのならば、もう少し考えを進めて、目の前に出された課題に興味を持つ為の努力をしたらどうだろう。好きでもないことをやらされていると愚痴をこぼすより、そういった方向に物事を動かしていく方が余程気楽で効率よく暮らせるのではないかと思う。愚痴をこぼすことが仕事のような人と話をすると、こういうことを強く感じるのは、こちらがそういう人種とは異なるからなのだが、それにしてもそれほど多くの人々が無駄な時間を過ごしていると思うと、どうにかした方がいいのではと思えてくる。だから、これを社会制度の問題と捉える考え方には、賛成しかねるのだ。
卵が先か、鶏が先か。鶏は卵から生まれ、卵は鶏が産む。どちらが先に来るべきか、議論をしても所詮は堂々巡り、時間つぶしにはいいのかもしれない。これに対して、原因と結果はどちらが先か、明確である。つまり、鶏と卵の話から分かるように、どちらを原因に、どちらを結果にするのかが肝心なわけである。
この手の話は実際には周囲に溢れていて、気づかぬままに振り回されていることがある。冷静に見れば判断がつきそうだが、どちらが原因とも結果ともつかない場合も多い。例えば、現代の若者たちの多くが抱える問題も、そんなところがある。社会に適応できず、不安を抱えた若者が増えていると言われ、それへの対策を講じるべきという声が聞こえる。このまま病気が広がると、取り返しのつかないことが起きるから、緊急の課題であると主張する人もいるが、安易に取り組むと悪化させる可能性もあるから注意を要する。元々、子供の数が少なくなり、親の目が行き届くようになった頃から、この類いの問題が表面化してきた。親から見れば、いつまでも頼りないのが子供であり、手取り足取り教えねばと思う親も多い。しかし、そのままの状態が続けば、親離れという重要な時を迎えぬままに成長するわけで、社会適応は難しくなる。親から離れるより先に、子から離れるべき、というのも原因と結果の組み合わせなのだが、この辺りに現代社会が抱える大きな問題があるのだろう。その問題が親子関係に限らず、一般の人間関係にまで及び始めた頃、対策という声が大きくなったのではないだろうか。近所付き合いにしても、学校や社会というある程度限られた環境についても、同じようなことが取り上げられ、様々な方策が試されてきた。しかし、これまでのところを見る限り、その効果のほどは感じられず、却って逆効果を及ぼしているのではないかとさえ思えてくる。依存性の人間が、家族関係のみならず、社会環境においても蔓延ることになると、その影響は増大するばかりである。将来への不安を無くす為の対策と称して、無駄な投資を繰り返し、一部の人々だけが潤う状況は異常としか思えない。不安を無くす為に最も重要なのは、本人の心と体の問題であり、ある時点で人に頼ることなく、自立心を確立することである。にも拘らず、暇を持て余した人々は更に強力な依存環境を築こうとする。これでは役に立たないものをただ廃棄しているに過ぎない。彼らにとって最も重要なことは、自分で成し遂げることであり、その機会を与える為の方策が講じられるべきなのだ。何処がずれているのか、見える人には明確なのだろうが、どうにも焦点の定まらない人々が世の中にはのさばっているようだ。
「限りない欲望」という歌がある。小さい頃の靴、結婚する相手、死んだ後の行き先などを例にして、人の欲望に限りがないことを歌ったものだ。本能と欲望、理性を持つと信じられている人間にとって、目に見えないところにあり、隠したくなるものだが、常に重要な位置を占めているものなのだろう。
欲望に基づくものでも、何とか飾りをつけて、そこに高尚な理由を設ける。そんなことを人はしばしば行う。食い意地が張っていると見破られない為に、食べることの大切さを説いたり、その歓びを表現する人も多い。ただ、理性では決断にある程度の時間を要するのに対し、欲望は即座に決断でき、そこに大きな違いがあるだろう。逆に見れば、欲望によって導き出された行動を、如何にもそれらしく見せる為のものが理性なのかもしれない。理性と欲望は正反対のものと受け取る向きもあるが、現実にはそうとは限らないのだと思う。時には、欲望に基づくものを覆い隠す為の理由を理性に基づいて導き出すこともある。また、複雑な事柄については、一時の欲では決められないはずという誤解もあり、そういったものは深い考えによるものと考え勝ちだ。しかし、それとて、はじめのところでは人間の欲によるところが大きく、何度か反芻するうちにそれなりの論理を築く場合が多々ある。このところ話題になっている子供に関することでも、子供の為とか、法の不備とか、そんな話に矛先が向かっているが、現実には多くが欲望によるものなのではないだろうか。理性が常に打ち勝つのならば、どんな方策を講じるべきかを探り当てることはさほど難しいことではなく、それによって子供達が不利益を被ることは起きないだろう。しかし、ほんの少数の例とは言え、このところの身勝手な論理の展開を眺めていると、彼らの欲望の深さ、限りなさが表面に現れていることに気づく。それも、一つを満足させたら、次を、という、まさに歌に歌われていた主題そのものが表面化している。当事者にとっては、それぞれがそれぞれなりに意味のあるものであり、重要であるに違いない。しかし、一つを満足させたら、次のこともという流れが明らかになってくると、そこにある人間の欲の深さに驚くとともに、呆れてしまうのだ。何故、一つを手に入れたところで、区切りを付けないのかと思うのは、関係ない人間の勝手な戯言だろうか。好きな人との子供を得た、というだけで十分とはいかず、他人の助けを借りてまでして子供を得た、というだけでも十分ではない。そこに横たわっているものを考えると、流石に先行きに不安を覚える。
詰め込み教育への反省から、様々な試みが導入されたが、さて、どんなものが生き残っているのだろうか。それはつまり、多数の中で効果を発揮したのは幾つあるのか、ということである。毒にも薬にもならないものならば続ける意味はないし、他に試みるべきものが山積みにされている状況では消えるべきだから。
試みの多くは役に立つかどうかを基準に選ばれたようだ。問題は役立つとはどういう観点での判断かということになるのだが、そちらでの議論は皆無だったのではないか。多くは、誰かの思いつきか、他所との比較程度のものから編み出され、即席としか言い様のないものが多かった。その結果、何が起きたのかと言えば、何も残らなかったということなのだろう。現実に、その時代に学校を通り過ぎた年代の人々に、それまでより優れたところを見出すのは難しく、却って多くの点で劣ることが指摘されている。方針変更を余儀なくされるほどの重大事と考えた人はあまりおらず、無駄と知りつつ継続した結果、かなり歪みが進んでしまったところでの決断となった。今すぐ役に立つはずの道具はその威力を発揮できず、新しい試みの多くは既に忘れ去られてしまった。今回の変更において、果たして何を基盤として築くべきかに気づいたかどうかは、まだ判定不能な状態にあるけれども、少なくともこれ以上深みに入ることは避けられたのだろう。何が足りないかを見極め、それを補う方策を編み出すことは、一見簡単に見えるが、現実には多くの困難を伴う。一つには足りない部分を見つけたとしても、その原因を特定することが難しいことがある。例えば、人前で発表する能力を鍛える必要性を認識したとしても、ただ発表機会を与えるだけでは何も起きず、逆に導入を早まったことによる弊害が生じることの方が大きい。何を手本とするのかが低年齢における教育の重要な要素であるにも関わらず、こういった思いつきによる導入では準備不足のみが目立つ結果となった。これは何も一対多数の場での発表に限らず、一対一の対話においても同じ症状が現れている。何度か書いたと思うが、同一環境にいる人々の共通認識を頼りとする情報伝達においては、通常必要となる定義や仮定といったものが欠落するからだ。その為、論理は不完全なものとなり、話は通じないことになる。これでは相手が単数だろうが多数だろうが関係なく、結局訳の分からない話が長々と続くことになるわけだ。論理の構築に肝心なものを教えるより先に、小手先の技術を伝授しようとする考え方の大きな誤りがそこにある。おそらく、失敗に終わったゴミの山の多くはこんなところから出ており、浅はかな考えによるものだったのだろう。間違いを正す方向に進み始めたとはいえ、まだ、その実体は姿を見せていない。いずれにしても、お手並み拝見ということだろう。
老後は楽をしたい、と思っている人が多いのではないか。では、若者にこんな質問をされたら、どう答えるのだろうか。「私たちも楽をしたいのですが、いけませんか」と。老後は、と限定している理由は、それまで一所懸命に暮らしてきたから、今後は気楽にと思うからだ。だが、若者の気持ちは全く違うようだ。
答えは人それぞれだろうが、皆それなりに忠告を与えようとするのではないだろうか。若いうちは苦労は買ってでもしなさいとか、今努力しておかないとあとが大変とか、そんな言葉を並べる人もいるだろう。しかし、直接聞かれたからそう答えるだけで、一般論としてみたらどうだろうか。今の世の中には、様々な気遣いが溢れている。特に、大変な重荷を背負っている若者たちに、何とか道を開いてやろうとするものが多い。既に起きることが分かっているのなら、それに対する準備を施してやるべきとか、なるべく楽に歩めるように道をならしてやるとか、そんな表現が当てはまるだろう。それはそれで意味のあることも多いと思うが、しかし、これらの配慮の多くは無駄だと思う。確かに、身近な人々の苦労とそれによる心労は自分にも耐えられないものだろうが、だからといって、そこで何かを身に付けるべき機会を奪う権利は我々にはない。それは言葉で伝えれば十分という反論もあるだろうが、十分でないことはこのところの展開から明らかではないか。言えば分かることも沢山あるが、経験に勝るものは無いというのも明らかだろう。子供の為と進路を切り開いてやる親たちの気持ちは理解できないわけではないが、その多くが自らの欲望によるものであることに気づくべきだ。楽をしたい時代がこれほどまでに続いてくると、様々なところに興味深い現象が起きる。人生とは、などということを問う若者は少なくなり、その場その場での快楽に走るのもその一つだろう。また、便利な道具が与えられるようになって、それを当たり前と考えると、それに必要な手順さえも割愛したくなるらしい。誰にでも使えるという理念が蔓延るのも、そんな背景があるからに違いない。調べるよりも聞く方が楽、という考え方もそんなところから出ているのだろうが、一世代前の人々にとっては異様に映る。ネット上での質問で、学校の宿題の答えを求めたという話は日常となったが、自分の卒論のテーマを募集した人がいたという話になると流石に驚く。質問の仕方にもこの辺りの事情が現れていて、課題をそのまま載せ、自分が到達した答えの正誤を問いかけることは無い。そこには、書き込む努力しか存在せず、恥をかくことさえ回避されているわけだ。このまま進めば何が起きるか想像したくないが、大多数がそれに加担することを止めない限り、妨げることも減速させることさえもできないだろう。
何か新しいことをやろうとすると、すぐに文書を出せと言われる。そんな経験を持つ人が多いのではないだろうか。やっとのことで仕上げた文書を依頼者に渡すと、何処かに仕舞われるかあるいは、要点をまとめろとなる。前者も酷いと思うが、後者とてその後の展開はかなりのものとなる。これが現状だろうか。
確かに、提案には核となる部分が必要だし、どの程度練られた案なのかは重要だろう。しかし、そのために費やされる時間を考えると、それを討議に充てた方が余程効果的に思える。どうも、こういう流れを産んでいる考え方は、仲介者となる人々の中にある何かに起因しているようだ。特に、自分で提案した経験のない人ほど、文書を要求する可能性が高く、提案の内容より文書の見栄えの方を重要と見る。どのみち中身の精査ができないのなら、別のやり方がありそうに思えるが、本人は真剣に文書の存在を重視する。内容は兎も角見栄えが良ければいいというやり方では、悲惨な結果に繋がるのもやむを得ない。それでも提案を取り上げてもらえるだけましと思う人もいるだろうが、悲惨な結果となった提案はただのゴミにしか過ぎず、当然ながら提案者にも同様の結果が訪れる。何も動かなければ目の前にいる無能な人くらいの地位には昇れるだろうに、うっかり口を出してしまったために道を閉ざすことになるわけだ。だから、こちらの方がましとはとても思えないのである。ただ、提案書が梨の礫のようになることが度重なると、こちらもまた疲労がたまる原因となる。人は他人に認められて初めて実力を発揮するという話はよく聞くが、これはまさにその逆であり、飼い殺しとでも言うべきものとなるわけだ。動かないことを最優先にしてきた人々にとっては、改革を迫る動きは危険を伴うものであり、できる限り避けるべきという判断が下る。そんな中で、そういう壁をぶち破るほどの内容と意欲を見せることのできる考えはそう簡単には思い浮かばない。ただ、様々な議論を重ねることによって、その壁を薄くしたり、低くすることは可能なようで、今までに見たことのあるものの多くは、そんな流れから生まれたものだ。そういう段階を経て熟成されるはずの提案も、練られる前に文書となり、人の目に触れてしまうようだと、大したものには見えてこないことが多い。その辺りの流れが近年の停滞を産んできたと思うのは、一部の人にしか過ぎないのだろうが、ある程度当たっているように思える。自分に有利なことを選別するだけでは、他人の能力を活用することは難しい。他人に有利になるように仕向けることの重要性をもっと認識することが、ここから先の道を切り開くことに繋がるのではないだろうか。