相性の良し悪し、様々な場面で感じることがあるのではないか。相手が物だったり、作業だったりすると、こちらの受け取り方や感じ方によるだけとなるが、人間が相手では一方的なものとも言い難い。新しい場面に出くわす度に、そんなことを痛感させられ、何とも言えない嫌な気持ちにさせられると尚更だろう。
少し前の新聞に新入社員に向けての文章が掲載されていた。本人は嫌気がさして辞めてしまい、今では書き物を生業にしているようだが、彼が会社に入りたての頃の経験を書いていた。当時は一度就職したら定年になるまで同じところに勤めるのが当たり前と思われていたのを、自分自身はおかしいと感じていたことを強調するのもお決まりだが、もう一つの話題は周囲の人間との関係であった。新入社員は当然新しい環境に入り込むのだが、そこに既にいる人間たちは新参者を受け入れるわけで、全く違った感覚を持つ。動物の世界でもよくあるように、新人を無視する者もいれば、温かく迎えてくれる人もいる。そんな中で彼の心に残ったのは、陰湿ないじめとも言える行為を繰り返した先輩社員のことらしい。何かにつけて反発しようとする気持ちを見透かしたからか、様々なことに関して意味の無い行為を繰り返したとのこと、始めのうちは従っていたものの、そのうちそれが無駄に思えて反発する方を選択したようだ。書かれていたことは理解し難いものだったが、本人はしばらく後に対応の仕方を大きく変えたことを強調していた。つまり、他人から見たら馬鹿げていると思える行為を繰り返す人間の心理はいかなるものかと分析したと言うのだ。結果として、情けない人間像が構築され、それに納得すると行為を許すのではなく、相手としての資格が無いと思えるようになったそうだ。陰湿ないじめや嫌みが浴びせられたとしても、そこに横たわる心理を理解すれば、そんな障害は苦もなく乗り越えられると言いたかったのか、今一つ真意は理解できなかったが、兎に角人間にも色々あり、それぞれに対処の仕方を変えるべきと言いたかったのではないだろうか。そのこと自体は誰しも経験することであり、人それぞれに解決方法を見出し、乗り越えてきた障害なのだろう。それに対して、こういう助言がどの程度役に立つかは定かではないが、相手の人間性を分析して、それを納得する為の材料とするのは、文章で読むほど簡単なことではない。そこには必ず大きな葛藤があり、理解できても実行できないことが沢山あるわけだ。あの文章も、乗り越えた経験のある人々には理解できても、これからの人々には果たしてどうだろうか。何事も経験であり、実地体験に勝るものは無い。その問題を克服するのも、自分なりの努力があってこそということが分からないと、やはり難しいように思えてしまう。
最近は廃れてしまったように見えるが、ある季節が来ると必ず話題になる、この国特有の習慣がある。実際にはまだまだ市場として大きなものだが、個人として行う人は確実に少なくなっていて、年始の挨拶状とともに古くさいものと捉える人が増えているようだ。近い存在以外は気にならないということなのだろうか。
連絡の方法が時代とともに変化し、ほとんど時間差を感じなくても済むようになった今、近いもの以外は関係ないと考えるのは無理からぬことかもしれない。ただ、一度成立した関係はいつ再び繋がるかもしれず、ただ無視しておけばいいとは言い難い面もある。そんな配慮や気配りからか、習慣は互いの存在を確認しあい、その気持ちを大切にすることが心の拠り所となっていた面もあるだろう。しかし、現実的で効率を追い求める風潮はそんな些末なことを気にも留めず、確かな関係のみを重視するようになってきた。中元や歳暮という季節の贈り物をただ百貨店の販売戦略としか受け取れない人々にとっては、そこに横たわる気遣いを理解することはできない。形だけの感謝などいらないとあからさまに応じられると流石に言葉に窮するが、そういった考えを持つ人々も増えてきた。確かに、流通が発達していなかった昔ならば、不義理を詫びながらの訪問に携えたものだが、最近は使いを頼むのが当たり前となった。それでは意味がないと思う人も多く、またお返しというそれと組になった習慣に対する抵抗感から固辞する人も多い。習慣はそれぞれに意味をもっていたはずだが、社会情勢や人の考え方の変化によって、それが消されてしまったものも多い。伝統を重んじる場所以外には、そういうものを継承することは難しく、結局よく分からない理由を並べてやめてしまう訳だ。人と人との関係がそんなものによるとは思えないが、その一方で、人間関係には近いものと遠いものがあることも事実である。疎遠が無縁に変わるかどうかがこんなことによって決まるとは思いたくはないが、やはり心の隅でもいいから互いに気にかける関係を続けたいと思う人もいるのではないだろうか。世知辛いからか、無い袖が振れないからか、何やら難しい世の中になったものだ。結局は心の余裕とでもいうものが、失われてしまったからなのかもしれないが。
友達とか仲間とか、そういうものに憧れる人も多い。特に、ある時期そういう関係が結ばれるとそれが長期に渡って継続すると言われ、そんな関係が作れたらと考えるようだ。しかし、そこには単に共通したものを持つだけでは成立しない何かがあり、焦れば焦るほど気配りばかりが目立つ関係しかできない。
気を許すとか、気が置けないとか、そんな表現で表される関係は、そこに信用があるからと思われ勝ちだが、その為に何が必要なのかが分からない。そんな人々にとって、人の信頼を獲得する為には何をすればいいのか、これが大きな課題となるようだ。人と話すことが苦手な人々にとって、これは大きすぎる負荷のようで、近づく為のきっかけ作りに腐心する。実際にはこういうやり方では上手く行かないばかりか、却って悪い関係に結びつくことが多く、金銭的な問題などが生じる場合がある。何が足りないのか、気がつくまでに時間が必要なのだろうが、多くの場合、自分自身の特徴を構築できていないことに原因があるのではないだろうか。自信という言葉は最近は使いにくくなっているらしいが、人と比べて何処が違うかということをはっきり認識するのも自信の一つだろうし、それに繋がるような努力を惜しまないことが大切なのだと思う。ところが、最近の傾向では人となるべく同じになるように努力し、違いを目立たせないようにする。そうすれば同じ仲間が引き寄せられるはずという思いがあるのだろうが、さてそれだけでいいのだろうか。同じ趣味を持つ仲間同士で他人には理解できない話をするというのもいいことかもしれないが、それだけで長続きするのかと言われると首を傾げてしまう。同じ思いを持つとはいえ、そこには互いに切磋琢磨する要因があり、それによって引き寄せられるのであって、ただ単に同程度の遊び仲間では吸引力が小さすぎる。そんなことに気づかぬ若者たちは、ただ気が合うように思えた人間と一緒にいる時間が多いようだが、そこに何かが生まれているようには見えない。本人たちもこれでいいのかと思うこともあり、違う展開を模索するのかもしれないが、安易な道を歩むことの方が多いようだ。結局、なんだかんだと言ってもそこに必要な何かが欠けているわけで、それを手に入れる為の努力が必要なのだろう。安心の為だけの仲間と自分達だけに分かる話をするというのでは、世間から隔絶された世界を築くことにしかならず、外に向かう力は湧いてこないのではないだろうか。
海の向こうとこちらで、たとえ偶然とはいえ、同じような凄惨な事件が起きた。背景は全く違うようだし、被害者の数も桁違いだが、一つの事件の詳細が伝えられているところに、次の事件の報告が飛び込んでくると、何かしら全体としての問題の存在を思い浮かべてしまう。どちらも人の心から発せられた警告なのだろうから。
単独で行動する人間はほとんどいない。たとえ、それが常であると主張する人でも、他人との接触を完全に断つことはできないからだ。自給自足を心掛けていても、こんな世の中では人のいない世界に住むことは不可能である。唯一可能性があるとすれば、食料を備蓄した閉ざされた空間での短期間の滞在が精々なのではないか。人跡まれな深山に立て籠り、暮らす人はそんな状況にあるのかもしれないが、今やそんなところがあるようにも思えない。となれば、生活の基本は人間関係であり、たとえ会話を交わさなくても、そこに何らかの関係が成り立つこととなる。人はそれぞれに勝手なところがあり、好き嫌いが互いの関係に大きく影響することも多い。利害関係が入り込む余地もたっぷりあり、複雑に入り組んだ関係が構築されるに従って、好悪の度合いも変化する。理性が働くうちはそれなりの関係を保つことができるだろうが、そのたがが外れてしまえば極端なところに向かう場合も多い。そこに至る過程はそれぞれでかなり異なっていたのだろうが、結果的には凄惨な事件へと繋がってしまった。こういうことが起きるのを防ぐ手立てには色々とあるはずだが、それがうまく働かなかったからこそ、こんなことになったのだろう。ただ一方で、どちらの事件も銃という武器が使われており、毎度のことながらその存在を問題視する意見が出されている。最大の原因とすることはできなくても、ある線を越える為の原動力になったことは否めない。とはいえ、海の向こうで厳しい規制が実施される可能性はほとんどなく、こちらでも効果的な取り締まりが行われるとは考えにくい。確かに、道具を手に入れられないようにするのは、最も効果的な手段の一つだろうが、本来の目的や意味が他にある状況では、完璧な手法の適用は期待しにくい。結局はそちらに目を向けるよりも、人間関係の構築や精神的なことについての問題に注目する方が脈がありそうに見えるのは、ある意味仕方の無いところかもしれない。ただ、人の心理を理解することは依然として難しいし、そこに異常性が見出されたとしても、何かを強制するのも困難だ。自分を護る為には、異常さに対する感性を鋭く保つくらいしか方法が無いのかもしれない。
年寄りが元気、ということが話題になり始めたのはいつ頃からだろうか。確かに、いつまでも元気でいることは本人だけでなく、周囲にとっても有り難いことだろうが、ここで言われる元気は少し違った意味を含んでいそうである。本来の健康体という意味よりも、積極的といった雰囲気を伝えようとしている。
亀の甲より、と言われるから、経験がものを言うことは沢山あるだろう。しかし、だからと言って全てを掌握し、支配しようとしては駄目なことも沢山ある。少々の不安があるといっても、任せるという考え方が重要なだけでなく、本当に必要とされれば、近づいてくるという待ちの姿勢も大切なのだ。年の功を頼りにする人々は、自分達で解決できないところで頼ってくる。それまではある程度の努力をするが、それで足らないから助言を求める。この形では、次の世代の人々が自分達なりの方法を構築し、新たな方向を模索することができる。これが障害を産む可能性は少なくないが、それでも固定化し、老朽化した体制に新しい風を吹き込むことはできる。一時的な停滞を余儀なくされるかもしれないが、その後に新たな成長が見込めるという考えがそこにあるのだろう。それに対して、元気な年寄りが活躍する場は新規参入であれば別だが、居座りを決めているところほど厳しい状況に陥ることが多いのではないだろうか。頼りにする人々がいる為という場合もあるだろうが、多くの場合は当人の判断によるところが大きい。自分はまだやれるし、やらねばならないという気持ちが前面に出ると、それなりに活力は湧いてくるが、それが必ずしも良い結果を産むとは限らない。停滞が無い分衝撃は少なくなり、一見安定成長が約束されているように見えるが、実際には歪みの蓄積も約束され、結局どちらがより大きな影響を及ぼすかが、どちらに傾くかを決める。先見性があれば大した障害にもぶつからずに済むだろうが、そう簡単に行かないのが世の常なのでは無いだろうか。身を引くことの重要性を説く人々もいるが、現実にその年齢に達した時、まだまだと思う人が多い。他人事と自分事の違いと言ってしまえばそれまでだが、そこでの一貫性が重要ということなのだろう。ずっと昔は不惑の年にはもう一線を退いていたはずが、今やそれを遥かに超えても現役を続行する。まだやれるのは事実と思うが、まだはもうとも言う。その辺りの見極めを本人に任せるやり方にも問題があると思うが、時には圧力も必要なのではないか。一線を退いてもせっせと旅行に出かける姿を見ると、活力が有り余っているとしか思えないが、それを活用することは長い目で見ると必ずしも結果に繋がらないこともあるのだと思う。
季節の変わり目は気候が安定しない。変化するのだから当たり前のことだが、そんなことを頭で理解できたとしても、体はついてこない。体調を崩す人もいるだろうし、気分が落ち込む人もいるだろう。極端な気候そのものを歓迎しなくても、安定が精神にもたらす影響は小さくなく、それはそれで重要なのかもしれない。
それにしても、である。何とも不安定な日々が続く。気が変わるのと同じように変化しやすいと呼ばれる季節は、何となくそんなものだという感覚があるが、閉じ込められていた季節から脱することができる季節の方は、どうもその歓びばかりが先行していて、そういう分析をする気にはならないらしい。しかし、菜種梅雨と呼ばれる雨ばかりの日々があったり、春雷に襲われたりと、変化の訪れとともに、その振れ幅は大きくなるように見える。本来、明るさを取り戻す時期のはずが、そんなこんながあるとつい調子を崩してしまう。うまく適応できた人から見れば、ただ単に乗り遅れただけでなく、明るさとは逆の方に向かっていく人も、時間をかけて調子を取り戻す。一時の変調を大袈裟に捉えることは、予防とか準備には重要な要素に思えるが、度が過ぎると逆効果となる。ちょっとした落ち込みから回復できずに、流れから取り残されてしまうと、周囲との乖離も大きくなってしまう。何か特効薬のようなものがあるのではないか、と思う人たちがいて、色々な工夫をしているようだが、大した効果は上がっていないのではないか。結局、薬は毒でもあるわけで、余計なことをしすぎるのは症状を悪化させることに繋がる。本来の回復力を信じて、余計な対策を講じず、流れから取り残されないようにするだけで、いつの間にか本調子になることもある。毎年の繰り返しという人もいるだろうが、そうでない人でも何かの節目に当たる時にはこんなことが起きる。肝心なことは、本人だけでなく、周囲も余計な手出しをせず、ただ見守ることなのではないだろうか。これこそ、今、欠けていることなのかもしれないが。
狭い道に駐車する車がある。対向車に注意を払いながらすり抜けるが、すれ違う空間は無い。広い道ならまだしも、狭いところでの駐車はたとえ短い時間でも迷惑に感じる。携帯電話を手にする人が中にいると呆れてしまうが、あれで本人は安全を確保したつもりなのだろう。交通量を考えれば、危険因子でしかないが。
車を停めるのには常に理由があるだろう。一時的なものとするのも理由の一つだが、それでも行き交う車は沢山ある。たとえ、頭を下げたとしても、そこに留め置く権利が得られるわけではない。少し離れても、安全な場所を確保すべきと思うことは多い。こんなこともお互い様と思えば、大したことにならずに済むのかもしれないが、事故が起きたらそうはいかない。原因を作った人間が罪に問われることは少なく、直接関わった人間だけが罰せられることが多い。中には急いでいる人もいるだろうに、長蛇の列を作らせ、イライラの原因を作った人が、平然とした顔で戻ってくることも多い。ハザードを点けていたとか、ほんのわずかな時間だったとか、彼らの頭の中ではそんな言い訳が居座っている。この間、そんな光景を各所で見かけた。何故かと思えば、そのほとんどは看板の前に駐車している。選挙に立候補した人のポスターを所定の場所に貼付けているのだ。頭を下げ、お礼を言いながら選挙活動をする本人とは違うところで、傍若無人ぶりを見せている運動員たちには、どんな思いがよぎっているのだろうか。なるべく早く選挙区全体を回らねばならないという義務感だろうか、それとも迷惑を恥じている感覚だろうか。いずれにしても、ほんの一時とはいえ、交通が遮断され、運転手たちは調整を図る。便利な社会を作り上げる為の運動の一環がこんな結果を産んだとしても、ほとんどの人は気にしないだろう。そんなポスター掲示板の前で、車椅子に乗った人がカメラを構えていた。誰かの写真を撮影しているのだろうか、道の真ん中に車椅子があり、危険極まりない状態だったが、本人は平然と撮影に集中している。弱者を特別扱いにすると言っても、これで事故が起きたらそうもいかない。あまりに非常識な行動に呆れるが、そういう人は普段からそういう心持ちでいるのではないだろうか。はてさて困ったものだが、そんなこととは無関係に人選びの喧噪は展開する。一時のお願いが成功を導き、選ばれてしまえばそれまでというのでは、あまりに情けない。どんな人が選ばれるのか、どんな人を選ぶのか、人それぞれの判断基準に、こんな小さな出来事は影響しないのかもしれない。