苦言を呈することが無意味と思われるようになったのは、いつ頃からだろうか。そんなことはないと否定する人の数も激減して、世の中では人の無軌道な行動を律するものは制度しかないと思う人がほとんどとなった。精神的な面での圧迫は悪い結果しか産まず、肉体的な面も含めてかかる圧力こそ意味があると思われている。
自分勝手と一言で言ってしまえば済みそうな話が世の中に溢れ、どんな地位にある人にもそんなことが起きるようになると、精神の健全性などという言葉や社会的責任というものが失われてしまったのではないかという錯覚に陥る。即座に、錯覚ではなく現実であるという声が聞こえてきそうだが、少なくとも自分達の周囲には依然として確かなものを持ち続けている人々がいるから、現実とは言えないと思う。ただ、一部の人々にとっては衆目の集まるところでの話題がそちらの方に向いているから、現実としか思えなくなっているのではないだろうか。今の世の中の危険性はこんなところにも隠れていて、ほんの一部に過ぎないのに、権力が集まるところにそういう輩が蔓延っている為に、社会全体の規則を変更し、馬鹿げた制度を導入するしか方法が無いように見えてくる。実際には、悪人どもにとって規則による制限はほとんど意味をなさず、発覚しなければいいという考えしか通用しない。こんな中で制度を作ったとしても、抜け穴がすぐに見つけられ、それに対抗する為に雁字搦めになるだけで、結局縛られるのは何の罪も無い一般大衆ということになる。これほど馬鹿げた流れは無いと思うが、今の世の中の趨勢はそちらに傾いているのだ。何とも情けないとしか言えないものだが、精神構造が崩れてしまったあと、それを立て直す為の方策が講じられなかった結果なのだろう。本当に大切なものを失うことで、自分勝手な繁栄を築き、一時の快楽に興じる姿は餓鬼の如きものなのではないだろうか。少し前まではそんな人の数は取るに足らないものであり、社会という組織の中では必要悪のように見なされてきたが、その数が増すにつれ、無視できぬ存在となるばかりか、全体の流れを変えるまでに至った。ここまで来てしまうと制限に頼るしか無いのかもしれないが、時既に遅く、手当が追いつかないほど傷は深くなっている。ここから先は場当たり的な処置は無駄どころか逆効果となり、他への悪影響の方が大きくなる。そうなると、時による解決は効果が無さそうに見えるが、実際には健全な精神を持つ人々が毅然とした態度を貫くことこそ、一番の早道かもしれない。
季節外れの天候が続くと、予定が狂うことがしばしばある。自然を相手にしなければならない時には、特にそういうことが起きやすいから、日頃から準備している人もいるだろう。外れ方にもよるが、暖冬、冷夏、空梅雨などなど、そんなことを表す言葉が沢山あるところを見ると、人々の注目を集めてきたのは確かだ。
極端な天候が中途半端で終わるのも様々な問題を産むが、丁度良い時期の天候不順はそれらとは違い精神的な面での影響の方が大きいのではないだろうか。草花にそういった感覚があるかどうかは分からないが、折角開いたところで雪にさらされる桜の花や長雨に当てられる牡丹など、眺める方が可哀想と思うのはこちらの問題かもしれない。いずれにしても、そろそろ陽気の良い季節になってくれなければ困るが、どうも今一つのところで足踏みしているように思える。冬の間の暖かさが草花に影響して、多くのものはいつもより早目に開花していたようだが、予想外の気温に震えているように見える。その上、大陸からの寒気がいつまでも降りてくるから、この時期には珍しく不安定な雲行きが目立つ。季節らしい天候を望むことに無理があるのは承知の上で、毎年のようにそういった思いを抱くのは、何かを深く考えた結果というより、あるべき姿を思い描いただけのことではないか。自然とはそうあるべきものと思うのは、体の中から滲み出る何かによるものであって、考える葦だからこそというわけでもあるまい。人工的な生活に慣れた人々でも、こんなことを季節の変わり目に感じるのは、やはり生きている証拠なのであって、どんなに自分の都合のいいように変えようとしても、そこには自ずと限界があるように思える。周囲の環境を心地よくする為に変えてきたツケが回ったと考える人もいるようだが、自然とは元々思い通りにならないものであり、それが予想と違うこともごく当たり前なのかもしれない。環境破壊を容認する意味ではなく、どんなに思い通りにしようとしても、できないことがあるのが自然の摂理であり、そこに妥協点を見出すことこそ重要なのではないかと思う。少しくらい不満なことがあるのが当然で、そういう遣り取りをしてこそ生きる歓びが高まるように思える。太陽の光の暖かさを感じるこの季節も、すぐにそれが煩わしくなるのだが、自然とはそんなものであり、人間もそんなものなのだろう。
何処でどう変わったのか分からないが、民主主義とか平等というものがどういうわけか皆同じという意味に使われ始めた。民主とは主体が何処にあるのかを表すものだし、平等とは扱いなどの働きかけにかかるもので、それらを受けるものの高低とは無関係である。何処でどう間違えたのか、不思議で仕方ない。
そういう世の中では目立たぬ事が肝心で、目立ってしまってはいけないこととなる。目立つかどうかは確かに本人の心掛けから来るものなのだろうが、それだけではないからこういう話は困る。自分では意識していないのに、周囲からは注目が集まる場合があるからだ。その典型の一つは体型だろう。ただ背が高いだけで、周囲からは羨望の混じった視線を浴びせられ、何とも居心地の悪い思いをした人も多い。体型には様々な要素があるから、それぞれに差異があるのは致し方ない。にも拘らず、人はそこに差を見出し、それを端緒に話を作り出す。標的にされた人間の辛さは、そういう遊びを楽しむ人たちには理解できないものだろう。そんなことに始まり、あらゆることに平均を目指す人々は皆と同じを好むものらしい。世間で注目を浴びることがあると、自分もそれに加わりたいという心理が働く。つまり、大多数が乗り込むものならば、乗り遅れることが目立つことに繋がるからなのだ。ここまで書いてしまうと、あり得ない話に思えてくるかもしれないが、日常的に流れて来る話の多くはこんな感じなのではないだろうか。流行という言葉には魅力的な響きがあるかもしれないが、その一方で振り回されるといった嫌な印象もある。それを誘導することは今では商売の基本と見なされ、多くの広告では恰もそんな状況にあるように見せている。道行く人の振りをした売れない俳優が、如何にもその商品に興味を持っているかの如く振る舞う。そんなに人気があるのかと騙される人々がいるからこそ、こんな三文芝居が繰り返されるのではないだろうか。更には、人と同じであることを一番に考える人々の割合が大きいことも、こういった戦略を選ぶ要因になっているに違いない。どちらにしても、そこに横たわっているのは自己判断ではなく、判断を他人に委ねる心理であり、それが流行を招き、群がる人々を誘って来るわけだ。今ではごく当たり前に見える現象も、ここまで極端になったのはほんの十数年前のことであり、その激しさを増したのは利潤追求の嵐が吹き荒れた頃からに思える。一番になるより、唯一になるなどとわざわざ言われなければ気づかぬほど、自分の存在をぼかしてしまったのは、社会ではなく実際には自身であることに気がつかない人々には、群がることが重要なのかもしれないが。
いつの時代も心配する声は絶えない。維新後の国の行く末を案じた著名な作家もいたが、彼らの目に映る若者たちの姿には自分達とは違うものが重なっていたのだろう。兎に角心配の種は尽きないものなのだ。ただ、そんな事は重々承知していても、最近の世の中の動きには不安を煽る要素がたっぷりとある。
いつもの事だと言ってしまえばそれまでだが、激動の時代を生き抜く必要がなくなったとき、どうもそれまでとは異なる群像が台頭してきたようだ。変化が外からやって来る時代には、それに応じる為の心構えや適応力が要求された。つまり外からの力に対して押し返すだけの能力が必要となったわけだ。ところが、激動ほどではない微かな変化しかない時代には、外力がかかる事もなく、押し返す必要さえ無くなる。そうなると、変化を呼び込むとか、変化を産み出す事が必要となる。力を発揮するという意味ではさほど違いはないのだろうが、のほほんと暮らす人々にとって意識の仕方が大きく違うらしい。ただ漫然と暮らしていても、強制的な変化が訪れれば、どうにか対応しなければならない。しかし、何も起きない状況では、何もしなくてもどうということがない。そのまま流れに任せていけばいいだけのことなのだ。気楽と言えば気楽であり、それで済むのなら、それでいいとも思える。ただ、多くの人々はそういう姿を見ると、何とも言えぬ不安を覚えるようだ。この国の現在の繁栄の礎となったのはおそらく教育重視の考え方だろう。それは維新の前から既に全国各地に起きていた。読み書き算盤と呼ばれる最低限の能力を身につけさせる為に寺子屋なるものが存在していたわけだが、当時でもかなりの識字率が達成されていた。そんな意識を持ちながら現代社会を眺めてみると、さて何か肝心なものまで持ち合わせていない人が目立つ事に気づく。三つの要素がそれぞれに不完全であるにも拘らず、それを当たり前のように振る舞う人々を見ると、やはり何処かずれているように感じられてしまうのだ。当たり前の文字を読む事も書く事もできず、簡単な計算をすることもできない。それらは全て機械がやってくれるから必要ないという声が返ってくるが、本当にそうなのだろうか。単純な作業であるはずの事を、まともにこなせない人々を眺めていると、その他の作業についても同じなのではないかと思えてくる。確かに、組み立てなどの単純作業が苦手と主張する人や計算間違いを繰り返しても気にしない人が増えた。単純を程度の低いものと見なすのは勝手だが、それさえこなせない自分は一体何様なのか、真剣に考えるべきだと思う。
昔は何処にでもいたような気がするが、いつの間にかその姿を消したものを、希少動物とか絶滅危惧種と呼んでいるようだ。これはある種の人間たちにも当てはまるのではないだろうか。例えば、以前なら近くに必ずいた、なんでも知っている人間、物知りとか生き字引と呼ばれた人はその数が激減してしまった。
下らない知識を身につけていても何の役にも立たない、という言い草が如何にも意味をもつかの如く使われるようになってから、こういう人種はその存在価値を失い続けた。それ以前には、生き字引ならぬ生き百科事典などと呼ばれた人々は、知っている事だけでなく、知らない事についてもすぐに調べてくれる、ある種便利なものだったが、使われるだけでなく尊敬もされた。しかし、それが何の価値もないとされてからは、酔狂な人種としか見られなくなり、いつの間にか姿を消してしまったらしい。ただ物事を矢鱈と知っている、雑学と呼ばれた人々も、余程の事がない限り、その知識を披露する機会に恵まれず、自己満足の世界に浸る連中と思われるだけで、知っている事は尊敬の対象ではなく、軽蔑の方に傾ける要素となる。何とも情けない世の中になったものだが、依然としてそんな状況は続いているようだ。教養は常に即効性のものではなく、それとは別次元の要素である事は昔からそのままだが、間口を広げるよりも正しい向きに開いている事が重視される時代には、余計な事と映ってしまう。傾向と対策が重視されると、その立場は更に危うくなり、こんな状況がかなり長く続いていた。最近、教育の見直しが叫ばれているが、根底では何の変化も起きていないようで、ことあるごとに効果や有効性が論じられる。知識を豊かにし、それを使いこなせる人間を育てるのに、ただ筋道通りの経過を教えても無駄なのではないだろうか。筋道はほんの一例に過ぎず、その場その場の対応を多様化する為には別の要素が遥かに重要となる。また、論理性に注目が集まっているが、これも従来のやり方ではただ闇雲に実例をなぞるだけになる。そこから新しく生まれるものは皆無であり、身に付いた事柄との一致を確かめ、違えば無視する事しかできなくなる。論理とは、事柄と事柄を理解可能な形で結びつける事であり、その組み合わせは無限にある。にも拘らず、少数の組を覚える事ばかりに時間を費やすのは、練習ばかりで本番に弱い人間を作るだけのことだ。何が肝心かを見極める事のできない人間が水先案内人になっている事自体に大きな問題があり、その選択の誤りに気づかぬ限り、視界は開けそうにもない。
そろそろおかしいと気がついている人がいるのではないか。一時期、熱狂的に歓迎された事柄が今や形骸化して、その姿がかき消されたようになっていることがある。確かに、そういう事を断行する意味は大きかったのだろうが、今になってみるとあの馬鹿騒ぎは一体全体何だったのか、誰にも分からないようになってしまった。
従来とは違う事を始めようとすると、常に困難が付きまとう。その中で、それを重要と思う人は何とか実現しようという信念を持って取り組み、現実のものとするわけだ。それが本当に優れたものであり、本当に意味のあるものであれば、変革の為でなく、将来に渡って重要な位置を占めるものとなるはずだが、現実には変えたという事実だけが残り、変化が大きいように見えても、それが正しい答えを導き出さねば、すぐに別のものにその座を奪われてしまう。特に、最近まで続いた政権では変える事が重要と見なされ、何に変わるかは二の次とされていた為か、人々の記憶に残ったものは変革の文字だけとなった。それでも、停滞に比べれば遥かに良い結果を産んだと見なす人もいるようだが、彼らの多くは実際には渦に巻き込まれず、高みの見物を決め込んだ人々だから信用できるはずもない。現実に変化を強制した人も同じような立場にあり、自分の周囲には大した波は起こさず、その代わりに別のところに大波が被さる結果となった。こんな事は古今東西よくある話には違いないが、これまで漸進的な変化を好んできた人々にとっては、これほど迷惑な話はなかっただろう。その上、今になって顧みるにつけ、何とも不自然な出来事が連なっている事に気づき、改めてその偉大なる愚行に呆れ、それに乗せられた愚民の行動に愕然とする。何故、どうして、などと論じてみても、勢いに乗ってしまった時の行動には、分析は役に立たない。それよりも、波乗りのような不安定な事に手を出す心理を解析した方が余程ましに違いない。いずれにしても、これらの変革の無意味さは既に各所で露顕しており、それを見直す動きも出始めている。問題はただ逆向きにまかれた螺子を戻すのではなく、本来の正しい方向に向ける為の方策をどうするかにあるわけで、それを考えずに行動を起こせば更に混迷を究める事になる。政治の世界ではよくある振り子運動に思えるが、それが正当性を意味する事にはならない。何とか自分達に相応しい生活を取り戻す為に、消し飛んだものの跡に意味あるものを築く努力が必要だろう。
夜の盛り場の外れに、ぼんやりと光る場所があった。小さな行灯の光の下に布をかけた小さな机を構えた人が座っている。じっと座るその姿に何とも言えぬ雰囲気を感じる時もあれば、客を相手に何を話しているのかと気になる時もある。けっして自分から売り込むわけでなく、悩みを抱えて困っている人が来るのを待つ。
これらの人々は多くの場合が手相見であり、どの街に行っても何処かにいるものだ。天候に左右されるはずだが、うまい具合に雨宿りができそうな場所を選び、風の強い日でも見かける。ただ、経験のない者には相場も分からず、内容も皆目検討がつかないが、毎日のように出ているところを見ると、それなりに成立するものなのかもしれない。たまに客がいて、真剣に話を聴いているのを見かけるが、それも本当にたまのことであり、一体全体どの位の人が見てもらいにくるのか、さっぱり見当がつかぬ。これほど目立つ例は他にはなく、現実には世の中に悩み相談なる商売は掃いて捨てるほどあるようだ。その道具とするものも多種多様で、指紋が人それぞれに違うように、手相をその指標とする人もいれば、多くの仲間が存在するはずの血液型、誕生日などを手がかりとする人もいる。本人の持ち物を頼りにするより、その場の偶然を探るのはタロットカードを使う人々だろうか。どれを使うにしても、呼び込みをするわけでもないから、やって来るのはそれぞれに悩みを抱えた人々に違いない。多くの場合は何らかの助言を求めているわけで、それなりの結論を出す必要が出てくる。その為には悩みを聞き出し、その勘所を捉え、本人の望みを察知する必要がある。誰もが自分なりの答えを持っているが、それで大丈夫かどうかで悩むことが多いからだろう。どんなに優れた観察力を持ち、どんなに優れた能力を持ってしても、本人の考えと全く違ったところを示しても、関心を持ってくれそうにもないからだ。そんなことがあるからか、どんな道具を使うにしろ、彼らの共通の特徴は話術の巧みさであり、話を合わせる能力だろう。誘導されていることを意識させない能力も肝心らしく、これら全てを備えた人物はよく当たるという評判が出る。こんな話に興味を持つ人はそれほど多くはないと思っていたが、一部での人気話が聞こえてくると、その凄さに唖然とする。そういうものを頼りにする人はいつの時代にもいるらしく、巧くやればそれなりに成立する商売だ。ただ、信じやすいと言われる人々がこの手のものに興味を持つだけでなく、詐欺にも引っかかるのではないかと考えると、そこだけの問題とも言えないかと思えてくる。