パンチの独り言

(2007年4月30日〜5月6日)
(塩害、演説、燕雀、鉛槧、縁語、円満、淵叢)



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5月6日(日)−淵叢

 同じ志を抱いた人々が集まるのは、互いに楽しいものである。一緒に何かをするときも楽しいものだが、そんな時間を共有したもの同士がいくらか時間が経過した所で何かをきっかけに集まるのもいいものだ。互いに同じような苦労をし、同じような喜びを持ったとき、真の仲間と言える関係が結ばれるからだろう。
 そういう機会を得たとき、互いに昔懐かしい話に花を咲かせる。面白いのは、それぞれの人間が似て非なる記憶を持っている事で、同じ経験をしても、そこには人それぞれの感じ方のある事がわかる。多分、それぞれにそのとき思っている事が違い、同じ光景を目撃したとしても、全く違うものを見ているように記憶するのだろう。人の感覚というものはことほど左様に摩訶不思議なもので、これが個人差を産み出し、個性を形成するのだと思う。平均を目指す人々には全く理解できないものだろうが、少しでもこういった違いを意識できる人々には簡単に受け入れられるものなのではないか。こんな違いがあるからこそ、人生は変化に富んだものになるはずだし、人との違いがある意味の楽しさを招いてくれる。一部の人たちには受け入れがたいものかもしれないが、彼らでも無意識に違いを感じているはずなのだ。唯一の違いは、それを受け入れるか受け入れられないかにあるのだろう。でも、もう少し長い目で見れば、ほんの小さな違いから結果においては大きな違いが生まれ、それがそれぞれに人生を豊かなものにする。こんなに大切なことなのに、それに気づかない人がいるのは何とも不思議だが、おそらく世の中には、これがわかる人種とそうでない人種がいるに違いないのだ。似た者同士が群れることを第一と考えている人々には、異種な人々との交わりは何の意味も持たないのだろうが、本当に豊かな人生を歩むには、違う考えの者同士が寄り集まって、議論を戦わせることこそ重要であり、必要不可欠なものに違いない。久しぶりにそういう仲間と出会うと、こんなことを考えてしまうが、やはり異種が寄り集まることの意義は大きいのだと実感する。違いのない集団なんて、安心できるかもしれないが、何とも寂しいものではないだろうか。

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5月5日(土)−円満

 気の置けない仲間、そんな存在を大切にしたいと思う人は多い。しかし、これが誤解に基づくものだとしたらどうだろう。若い世代には仲のいい友人ほど付き合いに気を遣うという人がいるという。大切な友人関係を維持するにはそれなりの気遣いが必要であり、それによって互いの信頼が深まると思うらしい。
 気の置けないという意味を取り違えているとしか思えない状況だが、これが現実なのかもしれない。互いに気を遣いつつ、相手をたてて、諍いを起こさぬようにする。一度壊れかけたものを修復する手だてを知らず、勢いに任せて走ってしまう人々にとって、きっかけほど怖いものはない。それならば、そうならないように配慮するのが最も手っ取り早く、そのために心を擦り減らすとしても失うものに比べたらずっと小さなものになる。その一方で、気を許す相手というものがあるらしく、気遣いのない、気楽な関係なのだが、逆に相手の領域にまで踏み込む事態を招く。これはこれで何とも不思議な関係であり、話を聞く限り、ちょうどいい所が見つからないように見える。いずれにしても、極端に思える関係だが、解決方法を安易にしようという意図が見える。兎に角、複雑な遣り取りは実行不可能であり、ある程度の論争の後に適切な結論を導くという方法より、はじめから無難な方法を選ぼうとする。賛成か反対か、その中身によるのではなく、それを提案する相手によるという考え方は、人に対する信用という意味ではいかにも正しい判断に思えるが、全てにおいて正しい人間がいるはずもないし、全てに自分と同じ考えを持つ人が世の中にいるとも思えない。にもかかわらず、判断を相手によって決めておくというのは何ともおかしな話であり、かなり危険な考え方に思える。もし、仲のいい友人との関係を維持するためにこんな事を繰り返す人がいたとしたら、他の人たちからは信用されないのではないだろうか。その相手だけを重視し、そちらしか見えない人間が信用できると思う人もいないだろうし、場合によっては大切なはずの相手の信用も失ってしまうかもしれない。友人関係だけでなく、様々な事を議論する場でも、結論を急ぐあまり、適当に返事をしたり、何にでも賛成するような事をしたら、本人の意図する所から離れて、悪い結果を導く事になりかねない。良い結果を導きたいと思えば、反対する事を含めてきちんとした議論をするべきだし、自らも適切な意見を述べるべきだと思う。これがこの頃の話し合いの場に欠けている要素の一つであり、進むべき方向を誤らせている原因なのではないだろうか。

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5月4日(金)−縁語

 小さい頃しりとり遊びをした事のない人はいないのではないだろうか。子供たちが楽しそうに遊んでいるのを見て、難しい事を考える人も少ないだろうが、あれは言葉の数を増やすために役立っているに違いない。だから、言葉を覚えたての幼児では遊びにならないし、子供同士でなく、大人との遊びが役に立つ。
 言葉を使った遊びは単純なものから複雑なものがあり、しりとりは中でも一番単純なものだろう。それ以外にも、同じ色の言葉とか、同じ音の言葉とか、そんな繋がりを上手く使った遊びもある。もう少し複雑になったものに洒落があるのだが、こちらは駄洒落にばかり注目が集まり、どうも忌み嫌われている所がある。しかし、その洒落が素敵なものだろうが駄作だろうが、短い時間で思いつくためにはそれなりの能力が必要であり、言葉遊びの中でもそれなりの地位を占めるものである事は否めない。さらに複雑な遊びは、同じ音の言葉を違う意味で使い、それによって表現を豊かにするものだ。平安時代に流行した和歌にはそういったものが沢山使われ、技巧に過ぎると思われるほど複雑化したものもある。過ぎたるは及ばざるが如しと表現されるように、複雑すぎるとすぐには理解できず、その歌を楽しむ事が難しくなる。それよりも、一見単純に見えながらちょっとした仕掛けが隠されている方が、楽しみが増えてくるから面白い。こういった遊びは言葉の意味を知ると同時に、それらの間の関連付けを行う事で、深みを持たせる事ができるから、やはり単なる遊びとは少し趣の異なるものとなるのではないだろうか。だからこそ、一部の知識人によってこういう遊びが楽しまれ、その技巧を高めていったのだろう。しかし、ある時期から華美な表現が嫌われたり、自分たちが築き上げた壁に阻まれて広がる芽を摘んでしまい、衰退する道を選んでしまった。遊びができるほどに言葉を操る力を高めないとこういった遣り取りはできないから、たとえ駄洒落といえども、それを理解するための力は必要となる。近寄りがたい存在ではなく、身近な存在としては、却って遊びの要素の強いものの方がいいのかもしれない。いずれにしても、最近の遊びはそういう段階に達していないように見えるのは、こちらの目の向けようが悪いからだろうか。

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5月3日(木)−鉛槧

 これまで色々と書いてきてはいるが、さて何かしらの一貫性があるのか無いのか、そんなことを問いかけられそうな気がする。自分自身は、はじめから言いたい放題を貫こうとしているが、それでもその時々で気になることは少しずつ変化する。考え方が大きく揺らぐわけではないが、問題の捉え方は変わるようだ。
 感じたことをそのまま書くことを心掛けると言っても、どうしても無理な部分がある。身近な話題にしても、それが特定できるようなものでは差し障りがあるからだ。そんなわけでなるべく一般化できるような話題を選ぶしかないわけだが、自分の中ではそれなりの流れがあると思っている。問題は、それが読み手にうまく伝わるかどうかであり、そちらの方は考えを文章化するところに成否の全てがかかっていると言えるだろう。大袈裟な書き方になってしまうが、本来言葉は自分で理解する為にあるのではなく、他人に理解させる為の道具に過ぎない。それを巧く操ることができれば、ただ単に理解してもらうだけでなく、それに対する意見も引き出すことができるだろう。ここで書いていて少し不安があるとすれば、誤解を招くことよりも、反響が少ないことにある。毎日これだけの量の分を書くことはそれはそれでかなりの手間だが、同じことが読み手にも当てはまる。何やら訳の分からない主張を繰り返し読まされるのでは、たまったものではないわけだ。しかし、その一方で書き手には違いないが、他の場では読み手になる立場から話をすると、読み手は必ずしも書いてある内容について書き手の意図を汲み取る必要は無いのではなかろうか。それよりも、自分の意見との相違を際立たせ、そこに新たな思考を組み入れることの方が重要に思える。そういった意味では、読み手に徹するよりも書き手にもなってみることが大切なのである。確かに、商売としての書き手になることは難しいが、自分の意見を伝える為に書くくらいのことはできた方がいいに違いない。というわけで、たまにはご意見を頂戴したいものである。

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5月2日(水)−燕雀

 格差が問題視されている。平等と結びつけての議論が多いと思うが、それらの中には不条理と言うか、論理の通っていないものがある。人間は皆平等である、という言葉に含まれる意味とその対象に対する誤解と、現状への不満のはけ口を見つけ出そうとする焦りがそこにあるからだと思うが、どうだろうか。
 平等とは、元々は同じ条件にあるものは等しく扱われるべきという意味だと思う。だから、人間の平等とは人間としての扱いに違いがあってはいけないということであり、能力や評価という類いの言葉については必ずしも当てはまらないものではないか。同じ能力であれば、同じ扱いを受けるべきという話は筋が通るが、前提が無いままに平等を主張するのは無理だと思う。こんな考えを披露すると、それが格差の考えを助長させるものであり、差別社会を築くものであると指摘されるかもしれないが、同じことをした時にという前提を除外して、同等を目指すことは間違いにしか思えない。格差を問題とする人々の全てがこの考えに基づくわけではないのは当然で、そこには確固たる論理を組み立てている人もいるが、折角そういうものに接しても、現状に対する不満が心の大部分を占めてしまい、真っ当な判断ができなくなっている人には、理解し難いものとしか映らないのではないだろうか。現実にはそれらの人々はある方向に追いつめられているから、こんなことになるのも致し方ないのかもしれないが、だから、社会全体も同じようにすべきということにはならないだろう。本来は、自らの境遇は現実として受け止めておいて、その上で、こういう議論に別の観点も含めて参加するべきなのではないだろうか。また、巻き込まれてしまった人々とは別に、社会を構成する人々は同情などという感情に振り回されること無く、全体を見渡した上での判断を下すべきだろうと思う。心の動きが常に重要であることは否めないが、それだけに振り回されていては正常な判断をすることは不可能となる。大所高所とまでは言わないけれども、渦に巻き込まれた考えではなく、広い視野を持って取組まなければ、こういった問題を解決する方向には向かえないのではないだろうか。

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5月1日(火)−演説

 一昔前なら学校でさえ、影響を受けていたと思っていたが、実はずっと昔のことだったのかもしれない。働く側と働かせる側、対立軸に乗っていると思われたものが、現実には同じ方向を向いて、同じ目標に向けて邁進していた時代、日頃の協調とはまったく異なる対立の図式が浮かび上がる日があった。
 そんな時には、たとえ教育に携わるものでも働く者の一員であることは変わりがなく、会場に出かける人もいたように記憶している。公の組織に属する者には自由な活動を行う権利は無く、当然それを率いる組織も存在しないはずだった。しかし、現実にはそう呼ばれる組織が厳然とそこにあり、活動に精を出す人々がいた。一方、私企業に働く人々はそこにある不平等を解消する為の手段として集団行動に参加し、一部とはいえ要求を通す為の努力を怠らなかった。こんな時代がいつ消えてしまったのか、今思い出そうとしても定かには決められない。いつの間にか、皆が同じ調子で走ることに慣れ、そこに大きな落とし穴がぽっかりあいていたのに気がついた時には、既に対策を講じるには遅すぎたようだ。その辺りから考え方は大きく変わり、同じ方向を向いていない労使間で、何故だか分からないが互いに理解を示すことが重要となり、いつしか要求はしぼんだ風船のようになってしまった。そうなると、その為の一大行事となるはずのものも見向きもされなくなり、そんなことより個人的な享楽に目を向ける人々が目立つようになる。本来批判する立場にあるはずの人々まで、そんなことより経済復興の方が重要と目を瞑るようになり、結果的に今の状況が生まれたのではないだろうか。これはこれで一つの様相に過ぎないのだが、海の向こうで自らの権利のみを主張する活動に精を出していた組織が衰退したのとは全く違った経過を辿って、今の状況に至ったのはある種興味深いのではないだろうか。悪い意味での個人主義が蔓延り、人の心の中に周囲を見渡す余裕が無くなったとき、一人一人が自分の殻に閉じこもって、他人のことには目もくれなくなったのは、当然の帰結かもしれない。それを予期していた人がどれくらいいるのか分からないが、結果としては一本道を真直ぐに進んだだけなのかもしれないのだ。そんなことを思い出しつつ、主義主張に乏しい話をする人を見つめる寂しげな集会の光景を眺めると、それが現代社会の抱える問題を如実に捉えたものに見えて来るのは、これまた当然のことかもしれない。

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4月30日(月)−塩害

 ここまで連続してくると、つい、何処まで行けるのかと欲が出る。まあ、所詮遊びの類いに過ぎないのだが、それでも言葉と戯れるのも一興かと思う。漢字の読みさえ合えば難しくもないのだが、それが限られているとかなり苦しい。何処で途切れるのか、先読みするのも一法だが、それでは興醒めとも思える。
 ということで、今回のお題は、と明かしてみても面白くない。まずは話を進めて行くことにしよう。人間の欲に限りが無いことは何度か書いた。そんな心理が働くからこそ、今の発展があるとも言えるが、その一方で、予想外の出来事から破綻を来す場合も多い。無い物ねだりと言われることもあるが、これも欲の現れの一つである。自然を相手にしてもそんな思いが消えることは無く、兎に角自分の都合を中心に回そうと工夫を凝らす。雨が降らねば降らせようと水滴の核となるものを空気中にばらまいたり、雪が欲しいと氷の粒のようなものをまき散らすところもある。前者はきっかけにしかならないから、そこに水蒸気が無ければならないし、後者は肝心の気温が高ければ意味が無い。そういう制限が加わるとはいえ、兎に角欲しいものを手に入れようと努力するわけだ。そんな欲望によってかつての栄光を失った地域が世界中に何カ所かある。古代文明が栄えた地域の多くは今や草木の育たぬ砂漠と化しているが、そこでも様々な経緯から欲望が蘇ることがある。それらの地域で草木が失われたのは、人の暮らしそのものや鉄などの生産が原因と言われているが、結局は天候との均衡が崩れ、需要に供給が追いつかなくなった為なのだろう。かつての文明ほどではないにしろ、そこにも水の供給さえあれば農業の繁栄はあり得ると考えた人々がいた。そんな地域での灌漑事業は先進国の投資の対象としても価値が高いと見なされ、一時期かなり盛んに行われた。それが一時の勢いを無くした背景には、この方法が予想外の結果を産んだことがある。水を供給し、穀物などが青々と茂っていた時期はほんの短期間で、それがある程度続いたあとには植物の生育に適さない土壌が残ってしまった。淡水の生き物が海水では生きられないのは塩分濃度の違いによるものだが、同じことが土に起きてしまったのだ。水は様々なものを溶かす性質を持つから、何処にあっても周囲からそれらを集めることになる。砂漠にまかれた水も、そこに含まれる様々な塩を溶かし込み、畑に集める効果を及ぼした。結果として残ったのは、周囲に比べて遥かに多くの塩を含む土であり、通常の作物が育たない環境だった。折角の努力が水の泡となり、不毛の大地が再び人間の力の及ばぬところとなってしまったのは、何とも皮肉な結果なのではないだろうか。

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