文字はそれぞれの言語がもつ特徴を表すものだろう。意思の伝達手段としての言葉も、耳で聞くのと目で見るのとでは大きく違う場合がある。音として捉えることと画像として捉えることの違いは、例えばラジオとテレビを比べてみたら分かるだろう。情報量に違いがあるかどうかは分からないが、少なくとも質は違いそうだ。
これが画像ではなく文字となると、更にその違いは大きくなるだろう。文字には力があると、ある喜劇映画の主人公の母親が言っていたが、流石に超自然的な力があるとは思えないが、音からだけでは伝えられない何かがそこにあるように思える。ただ、言語による違いを考えると、単に文字と音の違いでは説明しきれないものがあるとも思える。例えば、アルファベットしかもたない言語の場合、その繋がりがある特定の意味をもつようになり、そこから派生して新たな意味を獲得することが繰り返された。徐々に語彙が豊かになるのは、歴史上の流れを人の成長と重ねあわせるとよくわかる。ただ覚え込むというだけでなく、そこに関連を見出すことで深みを増して来るわけだ。しかし、そこでの音と文字の繋がりは一通りでなく、音として知っていても、文字に結びつかない人は多い。それが文盲と呼ばれる人々であり、会話は可能なのに、文字の理解は不可能となる。これに比べると、この国の言語は独特の様相を示す。アルファベットは音に忠実であり、そのまま直結する。意識したことのない人が大部分だろうが、これは識字率の向上に繋がっているはずだ。少なくとも単純なアルファベットで書かれたものについては、大した努力もせずに理解可能となる。ただ、これだけでは同音異義の言葉に対応することが困難となる。その為に、これらのアルファベットの源となったものを含む文字が外から持ち込まれ、それぞれの意味から言葉の意味が導き出された。これがこの国の言語の特殊性を形成した一つの要因だろう。話し言葉としての特徴は言語の多様性から見ても大したものではないと思うが、書き言葉としては大きな違いを発現している。文字の分類自体が成立しない言語に比べると、そこにおける多様性は計り知れないものとなっている。それは意味を表す為の文字を編み出した国が、それに縛られて限定的な多様性に留まったのに比べても、格段の違いを示す。これはおそらく、輸入品でしかなかった文字と付き合ううちに、不具合を感じた人々が編み出した画期的な発明品なのだ。真似を得意とすることを揶揄されている人々はそんな昔から、単なる真似ではなく、新たな展開を考え出すことにも長けていたに違いない。
習慣は、長い時間を経て形成されたものであり、それぞれに深い意味をもつ。以前ならばごく当たり前に見えたことも、核家族という呼称が使われるようになると、途端に世代を越えて伝えられる機会が無くなり、知らないことが恥とは思われなくなった。ただ、無理強いのものが無くなるのは歓迎するが、全てとなるとどうだろう。
いくら伝統の上に立つといっても、それが成立する状況が無くなれば、立場もなくなってしまう。知人との交流を深める方法にも、時代が反映されてきており、直接の対面から、使者への言伝や書簡に変わり、電話という道具が発明されるに至って、様相は一変した。時間を要する方法は敬遠されるようになり、手っ取り早い方に人が流れた為だ。しかし、時間を共有する為に互いの都合が問題となり、それに代わる伝達手法の出現が待たれていた。そこに現れたのが手紙と電話の合体した存在で、はじめは電話ほどの普及率はなかったものの、携帯電話の機能に加えられた途端に、爆発的な流行となった。利用者の数が急激に増すことで、様々な弊害が表面化したが、それでも便利さを追求する人々には、害を無視できるほどの利があったのだろう。あっという間に拡大した市場は、驚くほどの大きさに達してしまった。書簡と似た形式で組み立てられたものも、交換頻度が上昇するに従って、無用な挨拶はそぎ落とされ、本論のみからなる文面が当然と受け取られるようになった。この変化は手紙や葉書に見られる定型文の喪失も招き、文字文化に舞い戻った若者たちの間では、全く違った習慣が芽生え始める結果となった。それはそれで当然の流れなのかもしれないが、文字の持つ意味の中でも、それまでに培われた文化を下から支えてきたものを取り去る結果となった為に、様々な点で従来とは異なる文化が形成されつつあることを意味する。一見、懐古主義に繋がるように思えた流れも、実際には異質のものの出現にしかならず、それまでに築かれた含蓄のある表現は一部を除いて失われたようだ。失われていないものでも、明らかな誤解に基づく乱用が目立ち、本来の意味を消し去ることに繋がっているから、更に悪い状況にあると言うべきなのかもしれない。「机下」とか、「内」という文字に初めて接したときの戸惑いは独特のものだったが、今ではそんな表現に出くわすことも少なくなった。おそらく、多くの人々にとっては何の意味ももたず、そこにあることさえ気づかぬものなのではないだろうか。この現象は我々の言語に限ったことではなく、海の向こうでも同じような省略が多数見られることから、同じような考え方が横たわっているのだと思う。
人が判断を下す時、参考にするものはあるだろうか。ほとんどの場合、何か別のものと比べてどうか、といった形で判断を下す。絶対的な指標を作り出すことは難しいのに対して、相対的なものは事例さえ多ければ比較的易しいからだ。それより重要なことは、おそらく比較は誰に対しても通用するということだろう。
ただ、何でも比較にばかり頼っていると、一定の基準を設けることが難しくなる。全体の流れが安定している時にはさほど問題にならないだろうが、変動が激しいところでは基準どころか、安定点さえつかめなくなる。元来時間の流れに沿って、変化するのが当然という考え方もあるが、その中にいる人々には不安定は悪影響を及ぼすことに繋がるから注意せねばならない。どちらがより正しいかと決めることは難しく、ある程度混ざりあいながら、その時その時の答えを導き出すわけで、そういう意味では絶対だろうが、相対だろうが、これという唯一の解があるわけでもあるまい。そんな世の中の流れで、このところの激しい変化に対して、右往左往する人々が沢山出ているのも致し方のないところだろう。例えば、経済状況にしても、一時の落ち込みからかなり回復し、それなりの安定状況が築かれていることは確かだ。そんな中で、自らの歩むべき道を模索している若者たちの行動ぶりは、相対に振り回されていて興味深い。経済が落ち込んだ時にはそれに左右される一般企業の人気は凋落し、関係の薄い公的機関の人気が高まった。自信を喪失した企業は採用を激減させ、門戸をほとんど閉じた状態を作り出したから、人気も何も関係なかったのかもしれないが、兎に角公務員の安定性を目標とした人が増えた。しかし、一度回復基調が確立されると様相は一変する。それまで目立たなかった公的な組織の綻びが露となり、再び私的な企業の評価が高まった。そこには当然採用を再開した事情もあるけれども、それにしても急激な回復と落ち込みが同時進行で起きたわけだ。ここまでの展開で、比率からいえば圧倒的に多数の公的でない組織の構成員たちは、自らの置かれた不利な立場を実感し、公務員たちの如何にも保護された制度に羨望の眼差しを向け、批判の矢を降らせた。現実には制度的には変化がなく、それまでは問題視されなかったものに目を向けた原因は、自らの立場の下落しかないだろう。水底に突き落とされて初めて、他の連中が浴している恩恵に気づいたわけだ。しかし、この考え方には明らかな誤りがある。不安定と安定の違いだけでなく、本来の業務形態の違いなど、様々な差異を考慮に入れない論理はまともな議論の対象にはならない。ただ、その一方で、腐った性根を持つ人々が悪業の限りを尽くす姿が暴露されるに至っては、単なる比較の問題ではなく、根本的な構造欠陥によるものとされても反論しにくいのも事実だ。
特別扱いされていた人間に、その権利が無いことが発覚し、その去就に注目が集まる。そんな話の流れに対して、様々な人々が意見を述べている。当然のことのように主張している中に、一部の人々には妥当に見えて、こちらには何とも理不尽に見えるものがあるのは、それらが感情に流された結果だからだろうか。
才能ある人材を確保しようとする組織は、そこに特別な制度を設けることがある。遥か昔から、特別扱いは様々なところで見受けられたのだろうが、それを制度化したところに現代社会の特徴が現れているようだ。これは、西側だろうが、東側だろうが、区別無く適用されており、組織として関わるのが企業や学校といった小さなものであるか、国家という最大のものであるかの違いがあるだけだ。人と違うことができるという特異な才能には、超能力と呼ばれるものも含まれるのだろうが、流石にそんな話は表には出てこない。勉強が特にできるとか、運動能力に優れているといったものが大部分であり、それらの才能を伸ばし、何かの役に立てようとする意図に基づくものだ。他とは違うのだから注目されて当たり前と言えばその通りなのかもしれないが、何故、知能や運動能力に優れているとそういう扱いがされるのかという問いに対して、答えられる人は少ないのではないだろうか。いずれにしても、特別扱いは当然と思う人もいるようで、今回の問題についてもそれが根底に流れていることだけは確かだ。その上に、他の競技に関係する学生たちには特別が認められているのに、一つの競技に関してだけそれが認められないのはおかしいとしている。これもまた如何にも道理にかなっているように見えるが、規則で決められたものである以上、おかしいとは言えないのではないだろうか。更にこの問題を複雑にしているのは、該当する学生たちがその規則を知らなかったという話で、知らない者には罪が無いと繋がる。ここに心情的な事柄が含まれていないとは思えず、如何にも被害者を保護すべきという考えがあるように見えるが、果たしてそうなのだろうか。当事者たちのうち、確かに知らない者が沢山いたことは事実だろう。しかし、知らなければ何をしてもいいというわけでもあるまい。犯罪者がそんな主張をした時、保護を訴える人々はどんな反応を示すだろうか。学生たちは犯罪を犯したわけではない、という主張が当たらないのは、規則というものの原則を考えればすぐに理解できると思うが、そうもいかないのだろう。変な理屈をこね回す人々も含めて、今回の問題の解決方法に救済という形のものを安易に導入しようとする動きがあることには、今の社会の異常性が現れているように見えるのは、こちらの見方が歪んでいるからだろうか。いずれにしても、規則を遵守できない社会は崩壊する運命にあることを、もっと真剣に考えるべきではなかろうか。
人と話をする時、気がつくことがある。同じ状況で同じように話をしているのに、なるほどと思える人とそうでない人がいることだ。話の内容が重要であることは当然だが、それだけでもないところがあるように思える。すんなりと話が聴こえる時と、そうでない時があるためだ。そこには話し方の違いがあるように見える。
同じ話を同じようにするということはまずあり得ないが、こんなことを考える時には例えば次のような状況を仮定してみたらどうだろう。昔のことを思い出すのが難しい人もいるだろうが、小学校や中学校の国語の時間に教科書を読まされた経験は誰にでもある。自分が読む時に緊張して困った経験もあるだろうが、友達が読んでいた時のことを思い出して欲しい。はっきりとした発音で、教室内に響くくらいの大きさの声を出していた時には、本を見るまでもなく、内容がつかめたはずだ。そういう子供がいる一方、ボソボソと何を話しているのか分からず、本を見なければ何処をどう進んでいるのか分からない友達もいた。確かに、自分と同じように緊張してしまい、その為にうまく読めなかった子もいただろうが、普段から何をしゃべっているのか分からない友達もいたのではないだろうか。彼らは極度の緊張の為にそうなったのではなく、発声からして何かしらの問題を抱えていたに違いない。そういう子供が大人になるに連れ、彼らの欠点を克服する為に苦労を重ねた話も時々聞こえてくる。例えば、演劇部に入って発声練習をしたり、大勢の前で緊張する癖を克服する人もいただろうし、勇気を奮って弁論大会に出ようとした人もいるだろう。生まれながらにして小さな声しか出ない人でも、ある程度の訓練を積み重ねれば少しは大きな声を出すことができるようになる。また、滑舌に問題を抱える人でも、早口言葉などを練習することで違いを産み出すこともできる。要は訓練次第と結論づけると、才能に勝るものは無いという声が戻ってくるだろうが、目指す水準による違いがあるにせよ、人それぞれの持つ能力を高めることは可能なのではないか。はじめから諦めしかないのであれば、何も変わらないわけで、人それぞれに抱える問題を直視し、それを少しでも改善しようとする気持ちがあれば、それなりにせよ結果は出るものだと思う。それは聴く立場にある人たちにとっても朗報だろうし、ひいては本人の主張を正確に伝える為の重要な要素となる。意外に思われるかもしれないが、話の内容による違いもさることながら、声の質と大きさによる違いも大きいのだ。折角長い時間をかけて考えたものも、きちんと相手に伝わらなければ努力は水の泡である。大した違いは無いと思わず、主張の質とともに、自分の声の質を考えてみるのも大切なことなのだ。
もう、その季節は終わってしまったが、学校を離れるとき歌われる歌がある。最近の事情はまったく分からないが、定番となっている歌の内容は古い言葉が並んでいて、現代の子供達には理解不能なものとなっているのではないだろうか。にも拘らず、同じ歌が使われ続けるのはどんな理由があるのだろうか。
その辺りの事情を知る術を持たないが、儀式の要素の一つとして欠くことのできないものと受け取られているのだろう。世代を超えて、何か通じるものがあるといってしまうとどうも言い過ぎに思えるが、感じ方に似たところがあるのではないかと思ってしまう。しかし、どうもその辺りの事情は時代の変遷とともに大きく変わりつつあるらしい。生徒と先生の関係は以前にも増して不思議なものになり、互いに戦々恐々としているような感じさえ伝わってくる。そんな中で真の信頼関係が構築されるはずもなく、別れの時もただ一仕事終えた程度の感覚しか起きないのかもしれない。更に大きな要素は、尊敬という感覚の喪失で、これが為に信頼を築く為の基礎固めがまったくできない状況に陥っている。ほんの一部の生徒と先生の間に、何か他とは違う関係が芽生えているのかもしれないが、それとて昔の感覚とは大きく違ったものになっているように思える。そんな環境で育った子供達が、果たして歌の意味を忠実に受け止めることができるかと言えば、それは無理と断定してしまう人もいるだろう。尊敬という感覚の問題もあるが、互いの立場を尊重するといった感覚も失われてしまった。そんな中から、歌の中に出て来るような感情が湧き出す機会はほとんどないのではないだろうか。何とも寂しい限りだが、一時的な関係としか思えない中では、それが精々なのかもしれない。それよりも、互いを傷つけたり、いがみ合う関係になる方が、悪いわけであり、そうならないだけましとする気持ちが出て来るのもやむを得ないことなのかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、本当にそれでいいのか、何かそこに大きなものが欠けていないのか、考えてみた方が良さそうに思える。人生のほんの一瞬でしかないものかもしれないが、それを活かすも殺すも本人次第、互いを認めあえる関係にする為には、どうしても互いの違いを意識し、そこから正しい関係を築く努力をすべきだろう。ごく当たり前に見えていたものに対して、何か特別なことのように感じられる人々には、こんな考え方は理解し難いのかもしれないが、元々の姿のことをもう少し見極めようとする意欲が必要に思える。
何でも楽しくあるべきという声を頻繁に聞くこの頃では、こんな話をしても不思議に思う人はいないのかもしれない。しかし、少し前までは苦しみを克服するのが当たり前であり、そういう経験のない人はあまり信用されず、楽しんでばかりの人やそうあるべきと主張する人は社会からはじかれていたように見えた。
いつの頃からか、何でも楽しくすることが大切であり、苦しませるのは悪いことのように言われ、人生の先輩たちにとってはやりにくい社会になってしまった。ほんの一部にしか伝統的な慣習の残る社会はなく、何かにつけて褒めろとか、叱るなと言われてしまうと、それまでなら、若い方が萎縮していたはずが、年寄り側に圧力がかかり、生きにくい世の中が出来上がってしまったように見える。こんなことを書いても、まだまだ不満が残る若い世代は、次々に要求を打ち出し、更なる恵まれた社会を望む声が届く。何とも理解しがたい状況に思えるが、彼らにとっては生き延びられるかどうかを決める要素であるらしく、それがなければ精神的な抑圧に押しつぶされる人が出てくる。何処から狂ってしまったのか、論理展開自体に歪みがかかり、一部の人々にしか理解できない話が罷り通るようになった。権利を要求することが優先であり、それに対する責任や役割を問われることはほとんどない。そんな状況下では欲望はとどまる所を知らず、何処までも要求し続ける人が出てきてしまう。こんな話はあるはずがないと思う人もいるだろうが、程度の差こそあれ、方向は大きくずれていない。要求するのはただであり、何かとの交換条件は存在しないと信じている人々には、それが当たり前であり、そのために何かが必要になるとは思うはずがないのだ。大きく外れてしまった原因はここにあるのだと思うが、一度こういう展開が受け入れられると、人間は何処までもそれを貫きたくなるものらしい。何でも楽しくなどと言わず、何かを楽しむ喜びを実感する方が余程ましなのではないだろうか。苦しむことが当たり前だった時代には、多くの人々が楽器をならしたり、歌を歌うことに力を注いだ。今もそういう人が多いのはわかるが、どうもどこかずれているように見える。抑圧下だからこそ、楽しさを本当に楽しめたのだが、今は他に楽しめるものがありすぎて、そんな気持ちにならないからだろうか。何とも不思議な気がするが、こんな所にも今の世の中の歪みが押し寄せているのかもしれない。