パンチの独り言

(2007年5月14日〜5月20日)
(奸計、扞格、環境、緩和、官製、陥穽、感化)



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5月20日(日)−感化

 人間は他者と何らかの関わりを保ちながら生きていく。こんな話があるが、他人の評価を気にするのも、人恋しいのも、そんなところから来ているのかもしれない。それと源を同じとするのかどうかは分からないが、人を育てる上で大切なこととして「褒めること」という意見がある。評価を意識させるということか。
 こういう意見が自分達の中から出てきたのではないと思えるのは、自分が育った時代のことを考えるからだろうか。当時は、基本として叱られることがあり、今なら褒められそうなことをしても、当然という反応が返って来るのみだった。躾けとは、子供の欲望を抑えることを基本とし、自由な発想を促す必要は認められていなかった。ところが、いつの頃からか褒めることの重要性を訴える声が大きくなり、どんなに小さな子供でもその意思を重視する育て方が推奨されるようになった。その効果は絶大なのだそうで、子供達の反応は素晴らしく、雰囲気が明るくなると言う。なるほどと感心する部分もあるが、その一方で、ではそんな環境で育った子供達のその後はどうなのかと考えてしまう。というのも、社会的な問題としてのいじめや登校拒否、更には学校を出たあとでの子育て拒否や職場への不適応など、素晴らしい子供が育った結果としては何とも不可解な現象が沢山見受けられるからだ。これは別の問題であると、そういう運動を推進する人々は分析するだろうが、果たして本当にそうなのだろうか。確かに、同じような問題は昔からあったのだろうが、これほど騒がれる状況にはなかった。その違いはおそらく数の問題だろうし、質についても随分変化したのかもしれない。褒めて伸ばされた才能がその後どのような展開をしたのかの調査もなく、どちらかと言えば、その場限りの分析を繰り返している人々にとって、将来像との対比は楽しくない分析なのではないだろうか。しかし、人格形成とは幼児の頃のことだけでは済まされず、当然人生全般に渡る話だろうから、目の前にいる人間を満足させるだけの方法は、あまりにも不十分なのではないだろうか。叱られて、萎縮して育った人間が、一生そのままだったという話も聞くが、一方で、ある時吹っ切れたという話も聞く。人間の資質は一定ではなく、それへの働きかけが不変なままでいいというのはどだい無茶な話なのだろう。にも拘らず、方法論のみに走る人々には、こんな即席手法の魅力ばかりが目についてしまう。その結果が現代社会の歪みに至っているとしたら、何とも皮肉な結果なのではないか。使い分けをしないやり方の欠陥を見るような気がして、「褒めること」の危うさを感じるのは、単にこちらが慣れていないからなのだろうか。

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5月19日(土)−陥穽

 人間の欲の深さに限りはあるのだろうか。そんなことを考えさせられる事件が頻繁に起きると、限りない欲望という以前取り上げた話に結びついてしまう。ただ、欲望にも様々な形があり、自己完結するものと他者へ悪影響を及ぼすものがある。事件の大部分は後者によるものであり、独り善がりの欲望の結果と思われる。
 いつの時代にも人を騙して私腹を肥やす人々はいた。そんな行状を見た人々は、そのうち天罰が下ると呟き、悪業が発覚するのを期待していたのだろう。しかし、こんなことがいつまでも無くならないところを見ると、天罰の効果は期待できず、また社会的な制裁も大した効果を見込めないように思える。逆に言えば、少々危険を冒してでも、私腹を肥やして得られる利益の方が、たまに起きる発覚による損失よりも遥かに大きいと思えるからこそ、欲に走る人間が後を絶たないのだろう。一方で、こういう事件の際に意外に注目されていないことがある。それは、事件を起こした人間の欲ではなく、被害者となった人々の欲のことだ。儲け話に乗せられる人々の多くは、欲にかられて判断を誤ったと言われるが、こちらを戒める話は余り聞こえてこない。まあ、欲が無くなれば生きている甲斐が無いとまで言われるくらいだから、それを戒めても仕方がないのだろうが、それにしても自業自得とも思える話が多く、欲望をある程度に抑える理性を持つことの重要性がもっと注目されるべきだと思う。このところの不況で目立たなくなっているかもしれないが、成長期には人を出し抜いて蓄財することが当然のことであり、その能力の高さが人間の格を決めているかの如くの話が流れていた。今でもこんな事件が頻発する陰には、一度染み付いたこんな考え方があるのではないかと思うが、そう考えると、事件に巻き込まれる人がある限られた集団であることに納得がいく。確かに、様々な分析を施し、冷静に判断を下す人間には、こんなことは起きないのだが、それでも欲に目が眩み、ということはあり得る。そう考えると、判断力の高さの問題ではなく、もっと心理的な部分の関わりの方が遥かに大きいように思えるが、どうだろうか。そう思って、今一度沢山の事件を振り返ってみると、そんな雰囲気がして来るのだが。もう一つ言えそうなのは、欲の対象とするべきものをどう選ぶかということの大切さをもっと認識すべきということで、向くべき方向を正しく定めておけば、間違えることも少なくなりそうである。

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5月18日(金)−官製

 無農薬とか、有機栽培とか、最近はごく当たり前に使われているようだが、特別な扱いをした野菜として、価値が出るのだろう。それでもこんなものが登場したのはさほど昔ではなく、多分公害が話題になった後なのではないか。そう言えば、土地の名前が付いた野菜も最近は見かけるようになった。特別を求める人がいるからか。
 しかし、ひと月ほど前にテレビで見た話は、これらのものとは少し趣きが異なっていた。その葱はごく一般的な品種で、農薬とか肥料に特別なところは無さそうだった。にも拘らず、わざわざ番組で取り上げていたのは、それらの葱がある限定された流通経路を持つからだった。葱専門の市場があることでさえ驚きだが、そこで扱われているものはごく一般的なものであるのに、とても特別なものに見えていた。藁縄で束ねられた葱の根元を生産者が切断すると、そこから水が溢れ出てくる。おそらく農家の人以外には見たことのない代物だろうし、多分ほんの一部の農家に限られたことかもしれない。兎に角そんな新鮮で質の良い葱を料亭などに供給する為に、昔からその市場は続いているのだそうで、本当の意味での特別を見た気がした。それにしても、その生産者の質に対する拘りは尋常ではなく、その為の努力を惜しまない姿勢が印象に残ったのだが、これは何処から来ているのだろうか。本人の意欲、向上心、それらのものが必要なことは確かだが、それと同時に正当な評価を下す人の存在が重要なのではないだろうか。この話が印象に残ったのはその部分で、専門家たちが集まり、より高い質を求めて情報を交換する。こう書くと当たり前にしか思えないが、最近はこんなことさえ難しくなっているのである。専門家たちが、省力化を目指し、楽に儲かる話ばかりに夢中になる。この辺りに現代社会の歪みの深刻さが現れていると思っていたが、実際にはそんなことに背を向ける人々が存在していたのだ。その態度に敬意を表すると同時に、それを失った人々の情けなさに再度呆れる結果となった。自由競争という名の下に、様々な仕組みが導入され、それによって一部の人たちは恩恵に浴している。しかし、全体を見渡せば、歪みばかりが目立つ結果が多く、自由とはそういう意味なのかという気さえしてくる。一方で、自由が一部の人々に及ぼした影響は大きく、入札によって権利を得た企業が責任を果たさない事件や自らの利益のみに走る人々の姿が見え隠れする。所詮は人間の欲望の産物なのかもしれないが、それと縁遠い人たちの存在を考えると、何処か別のところに原因があるようにしか思えない。それは、一人一人が目指さねばならない目標とはかけ離れた存在のようだ。

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5月17日(木)−緩和

 病気の種類によって、痛みを伴うものがある。鈍痛もあれば、鋭い痛みもあるだろう。昔から、人間は耐えられない痛みを伴う場合、色々なものに救いを求めてきた。信仰に流れる人もいれば、薬とも呼べない代物に手を出す人もいた。それによって救われれば、それでいいことであり、実際には心の問題が大きいのかもしれない。
 しかし、医療が発達するに連れて、そんなやり方は流行らなくなったようだ。今でも信仰に走る人はいるし、何やら訳の分からないものを服用する人がいる。以前との大きな違いは、これらの多くが痛みを和らげる為ではなく、病気を克服しようとするところかもしれない。不治の病に冒されたとき、それを知りたくないと思う人はいまだに多いと思う。治らないと分かったときの衝撃は並大抵ではなく、人によっては半狂乱に陥るほどだと聞く。ただ、そんな場合でも何かを信じることによって心の救いを得て、平穏を取り戻す人もいて、こんなところに信仰の意味があるのかと思ったりする。しかし、痛みが酷い場合には心の平穏を得ることは更に難しくなる。これは自分の病が治らないものかどうかとは別のことであり、ただ継続的に襲って来る痛みに耐えられないということなのだ。多くの人が経験したものとの比較がこんな時には役に立つのかもしれないが、歯の痛みは尋常ではないとよく言われる。寝ることも休むこともできず、ただ神経を擦り減らすような痛みに、どうにも耐え難いと思った人は多いのではないだろうか。一部の病気で見られる痛みは歯痛をも上回るものと言われ、少し昔にはそれを抑える薬はほとんどない状態であった。それが徐々に様々な薬を混合することによって、効果を高める一方で、副作用を少なくする工夫がなされ、長期の使用でも明らかな副作用が出ないものが開発されたと聞く。元々は、一部のがん患者に投与されていたようだが、最近は病気の種類とは無関係に酷い痛みを伴う患者に投与されているようだ。兎に角、痛みを和らげることが第一であり、それによって精神的に落ちつかせることが患者の命を永らえる効果だけでなく、命の質を高めることに繋がるという。生き物と機械との違いはここにあるようで、心とか精神とかが体に対して大きく関わるわけだ。極端なところまで達してしまった場合には、薬に頼るしかないのだろうが、そこに至るまでには気の持ちよう、笑うことなどが気分を和らげることに繋がり、体調を正常に保つ作用を持つらしい。そう思って眺めると、緩めるとか和らげるとか、そんな言葉には何となく柔らかい響きがあるように思う。

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5月16日(水)−環境

 人の能力はどうやって決められているのだろうか。才能と呼ばれるものは、持って生まれたものであり、変えられないという印象があるが、能力の一部だとしても、それが全てというわけでもないだろう。特に、人に物事を教える立場の人々からは、生まれた後に施される教育こそが能力を作り出すという意見がある。
 では、こんな意見を聞いた時に人はどんな反応をするのだろう。その通り、生まれながらに持っている才能は確かにあるのだろうが、それを伸ばす為には正しい教育をする必要があると思うのだろうか。それとも、そんなことはない、教育が伸ばせるのは人それぞれが持ち合わせる才能であり、その程度はたかが知れていると思うのだろうか。極端な言い方には誰も賛成しないだろうが、その中間として、どの辺りが適当と思うかはどうも人によるものらしい。それは単純に人それぞれというわけではなく、その人の職業や育った境遇、更には接してきた人物によるところが大きいのだろう。そんなことがあるとはいえ、一部の教育者が強く主張するような人間の能力は教育の良し悪しで決まるという意見には同意しないのではないだろうか。教育の重要性はどんな時代にも認識されており、それぞれに様々な仕組みが実施されていた。その社会が崩壊するような危機に陥るとき、おそらく、そこには教育自体の崩壊が先にあり、教え教わることが難しくなる時期があったのではないか。それはそれで重要なことを示唆しているが、だからといって教育が全てを左右するとは言えないだろう。補助的な役割を果たすとはいえ、洗脳などに見られるように強力な影響力を示す場合もあり、使い方を誤ればとんでもないことになる。ただ、その一方で最近見直されているように思えるのは、それぞれの人が持つ才能の存在なのではないだろうか。教育を重視する風潮があまりに強くなった反動からだろうが、その役割はゼロから何かを産み出すのではなく、そこに既にあった何かを伸ばすことという認識が広まった。能力についてそんなことが語られるようになると、次には別のことにまで同じような考えが拡張され始める。話が飛んでしまうように感じられるかもしれないが、犯罪を犯すとか非行に走るとか、そんな悪い行状について境遇の果たす役割がずっと強調されてきた。それを修正するのは教育しか無いという主張は、学校ばかりか家庭における整備を促してきたようだ。体罰や虐めという働きかけが大きな影響を及ぼすことについて、心理学者たちが強く主張してきたのだが、家庭の関わりが単純に境遇の要素だけとは言えないことから、問題がそれほど簡単なものではないことがわかり始めた。荒んだ家庭からは非行に走る人間しか生まれない訳でもないし、逆もそうである。全ての責任が何処かにあるのではなく、様々な要因が複雑に絡んだ結果であることを認識したとき、問題の難しさを再認識することになったのではないだろうか。

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5月15日(火)−扞格

 数年前に売れた本の中に、相手の言うことを理解できるかどうかを論じたものがあった。中身はそれだけではなかったらしく、売れた原因はそれぞれに頷けるところがあったから、ということらしい。どうもそういったものに食指は動かず、結局手に取ることもなかったのだが、それだけ常識が通用しない世の中なのだろう。
 家族の単位が小さくなってから、局所的に通用する規則のようなものが罷り通ることが頻繁に見られるようになった。自分の周囲ではこれで良いとか、自分はこう思うといった形の、よく言えば主張のあるものなのだろうが、その実、周囲との軋轢を生じることに対する配慮の欠如ばかりが目立つものだ。確かに、個人主義の尊重はこういった考え方も重視する。ただ、その台頭と同時に、褒めることの重要性が強調された為に、歯止めをかける機会が失われてしまったのではないだろうか。叱ることが萎縮を招くのは事実で、そうされた人は次の機会に臨む場合により強い動機を必要とする。これは如何にも悪い方向に相手を押し込めているように見えるが、実際には始めに叱られた状況を検討してみれば、当然の結果であり、改良を促しただけのことなのだ。つまり、軽い気持ちで提案したものの質が悪ければ、当然その部分を責められる。もっと質をよくしてこいという意味だが、そこで提案したことを褒めた上で悪いところを指摘すればいいではないかと言う人がいるだろう。確かにそれも一つの策だろうが、受け取り手の考え方次第で何処が強調されるかは微妙に変わる。そうなれば、思った方向に向かわず、また気楽な形での提案を続けるかもしれない。それは場合によっては修復不可能な傷を残しかねないのではないか。それより、悪い点を正確に指摘し、もっと考えなければならないことを分からせた方が、良い結果を産む場合もある。それがより強い動機を必要とすることに繋がるのであれば、作戦通りのこととなる。おそらく、心配する人はそれが次の提案を妨げることに繋がると思うだろうが、もしそうなったのであれば、その提案者の実力はそんなものなのではないか。褒めて伸ばすことが大切との指摘を否定するつもりはないが、時と場合に応じる必要はあり、その判断がつけられない人には勧めたくない方法なのだ。相手のことが理解できないとか、受け入れられないということが根本にあるとしたら、こちらの意図を理解させる為に間接的な手法をとるのは得策ではないと思う。

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5月14日(月)−奸計

 世の中が乱れてきたように見えるのは何故だろう。一部の人から見たら、巧みに生きているように見える人でも、その実、暴かれない程度の不正を働き、その立場を守っていることもある。この程度というのが曲者で、取るに足らないものから、気づかれないとはいえかなり悪質なものまで含まれるから難しい。
 ただ、全般的に言えることは、倫理という言葉が様々なところで飛び交い、道徳などといった感覚まで話題に上るようになったことだ。これを指して乱れと言うと変に聞こえるかもしれないが、本来社会を形成する者たちにとって重要であるはずの規範が、本人たちの都合でねじ曲げられたり、解釈されること自体、まともな状態にないことを表しているのではないだろうか。その一方で、この話題が出る度に首を傾げたくなるのは、事件に関わった人々の倫理を論じる時に、それぞれの専門性に応じたものがあるかの如く扱われることだ。つまり、それぞれの職業には独自の倫理観があって、それに対する適応が不十分であるかのように議論されるのである。ここから導き出されるのは、個々の訓練の過程で独自の倫理観を植え付ける教育の必要性なのだが、如何にも正しい対応に見えるこの議論に大きな誤りがあると思う。まず、学校教育での道徳に対する軽視がこれらの事件の背景にあるということを強調する必要があり、それらは職業訓練の過程で初めて触れる類いのものではないことを認識することが重要である。それぞれに重要と考えるべきことが違うかのように扱うこういった考え方には、実は他の勢力からの口出しを阻もうとする気持ちが強く影響している。専門性が高くなればなるほど、その中身に対する理解は一般には低くなるのが普通だが、これを倫理観にまで拡張して考えるのは明らかな間違いだろう。どんなところでも基本的な規範は多くの共通点を有し、それらは社会生活を営む上で欠くことのできないものである。それらと同じ根をもつ倫理観に違いはないはずで、敢えて違うところを見つけようとすれば、そこには重視する順序のようなものの違いがあるのかもしれない。何を最優先と考えるかということに目を向ければ、それぞれの職業により違いが出るだろうが、それは一組の集まりの中のどれを選ぶかの違いであり、組の構成要素はまったく変わらない。様々な悪巧みを駆使して、自らの利益を追求する人々の心の中には、ある道徳観や倫理観の欠如やそれらに目を向けない心理がある。そこには、人として何をなすべきかという気持ちより、どうすれば得になるのかという企みがあるだけなのだ。

(since 2002/4/3)