パンチの独り言

(2007年5月21日〜5月27日)
(襟度、謹聴、勤学、近似、禁忌、欣喜、緊要)



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5月27日(日)−緊要

 心配なことが沢山あるという人が多い。ただ、その多くは取るに足らないことであり、人によって反応が様々なものである。心配とも言えないものだったり、無理矢理心配になるように思い込んだり、性格とはいえ何とも不思議な感覚と思うしかない。ただ、全部がそうかと言えばそうではなく、やはり肝心なこともある。
 その中でも特に、今このときの心配より、将来に対する不安を訴える人が多い。過去や現在ならば、無駄な心配を取り除くことも容易だが、未来となると不確定要素が多すぎて、確定的なことが言えない。そんなところから、心配事を相談されてもそれを取り除くことが難しいわけだ。将来に対する不安は誰にもあるが、それを一大事と受け取るか、はたまたなるようにしかならないと判断するかは人によることだ。諦めと言われることもあるが、現実にはそんな気持ちからではなく、数ある選択肢の一つに過ぎないと思うからなのではないだろうか。だから、これから選ぶべきものに注意を払い、うまくすればいい方向に向かうことができると受け取ることもできるわけだ。その辺りに、悲観的な見方をするか、楽観的な見方をするかの差がありそうだが、現実にはそういう見方の違いではなく、対処法に対する心構えの違いによるもののようだ。いつまでも収入が続くわけでもなく、更に子供達に期待できないと考えた場合、自分で準備するものも含め、蓄えや年金を整えておく必要がある。この国の場合、大した額ではないとはいえ、公的な制度が整備されているから、多くの人がそれを頼りにするわけだが、このところの話の流れを追っていると、制度自体の問題ではなく、運用の問題が大きく取り上げられている。つまり、各個人の情報が何処かで失われ、ほとんど何の対策もとられていないというのだ。情報の保存方法の変更から生まれた重大な誤りに対して、担当する人々からの働きかけはなく、加入者自身がそれに対して動き出さねばならないとのことで、間違いを犯した人間がそれを正さないという不思議なことが起きているようだ。その上、訂正する為の手段が限られており、それまでの信頼を完全に裏切る行為が繰り返されているらしい。更に恐ろしいのは、これを役所が担当することが間違いとその後の対応の誤りの原因であるとする馬鹿げた人々の意見で、本末転倒というより、一体この国の人々の責任に対する感覚はどうなってしまったのかと思えるほどだ。確かに、失われたものを取り戻す為にはかなりの労力が必要だろうが、それを失った連中が自ら動かないのは何とも情けない。それは公か民かの違いによるものではなく、根底にある考え方によるものである。問題のすり替えをする暇があるなら、さっさと仕事をすればいい。

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5月26日(土)−欣喜

 勝手な見方かもしれないが、大人しく目立たぬ人で成功した人は少ないのではないか。こんなことを言い出すのは、最近の風潮として、目立たぬことを第一とし、皆と一緒を渇望する人が増えているからである。他人に遅れては一大事だが、集団の中にいる限り安泰と思う人に、人の先を行くのは到底無理だからだ。
 一体全体、こんな考えが何処から出てきたのか、さっぱり理解できないが、原因の一つに挙げられるのは集団の中でのイジメである。標的を求めている人々に、自分の存在を知らせる行為は自殺的であり、それを避けるのを第一とした結果が、このような状況を産み出したというわけだ。本当にこれが当てはまるかどうかは怪しいものだと思うが、本人たちはそう思い込んでいる節がある。実際には、自分のできないことの言い訳に利用している人の方が遥かに多数だろうし、自分の心の中にある何かを抑えることの弊害は、被害に遭うのに比べたら遥かに大きいだろう。いずれにしても、突出した存在は忌み嫌われ、他人とともに行動するのが苦手な人間ほど苦労を重ねて、集団の中に埋没しようとする。何とも不思議な図式だが、これを重視する人がいるから更に首を傾げてしまうわけだ。確かに、才能という形で他との違いを明らかにするのは難しい。努力だけではどうにもならないものだし、たまたま恵まれた人にのみ許されるものとの思いがあるからだ。しかし、才能は実際には様々な形で表に現れるものであり、何も学校での教科に関係したものだけとは限らない。よく言われるのは、性格の問題であり、不思議と好かれる人間とか、憎めない人間とか言われるのもその一つだろう。これも努力だけではいかんともし難いところがあるが、かといって、何もできないわけでもないだろう。普段から明るく振る舞うとか、人の輪に入るとか、躊躇してしまえば無理なことも、少しの努力で何かできる場合もある。それを努力と言うかどうかも人それぞれなのだが、いずれにしても、集団の中で差を際立たせる手立ての一つには違いないのだ。喜怒哀楽も、それぞれに良し悪しがあるだろうが、はっきりさせておくのも一つの方法である。いずれの場合にも、後を引くような形にならないことが重要で、その場で完結させられれば傷を残すことも少ない。これも性格によることだろうから一概には言えないが、そんなことに気をつければいい結果が生まれるのではないだろうか。喜びも、人の不幸の上に立っては意味がないが、皆と共に分かち合えるものならば、悪い話でもないだろう。

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5月25日(金)−禁忌

 流行病があると、色々なところに支障を来す。それが死に至る病気の場合、拡大することを防ぐのが肝要で、隔離が最も適切と考えられる。これまでの経験に基づき、対処法を定められたものが法定伝染病として指定され、患者の処置法などの基準が設けられている。ただ最近は衛生状態の向上から知らない人も多いようだ。
 細菌やウイルスによって引き起こされる病気の場合、人から人への伝染や鼠などの媒介する生物の関わりが重視され、それを防ぐ手立てが考えられている。人が関わらないものについては、法律などで定められた通りに対応すれば、経験的には蔓延を防げると思われるが、人間の場合は対応が難しい。それでも、隔離を定めてある病気の場合は、強制的な処置も可能なのだろうが、伝染性が高くとも致死率が低い病気の場合、患者自身の判断に任せるしか無くなる。たとえ、医師から自宅での休養を勧められたとしても、本人がそれを聞き入れなければ、他人への伝搬の機会は増える。その判断は本人によるものであり、体調が悪くても、緊急な用件など避け難いものがあれば、医師の勧告を無視することもあるだろう。自分が動けないのならば、選択の余地はないわけだが、ある程度無理が利く状況にある場合、自分中心の判断を下す人もいるわけだ。既に、自分自身は罹患しているわけだから、ここでの判断の核となるのは他人への影響となる。その辺りの基準の設け方は人それぞれであり、利己的にならざるを得ない場合もあるだろう。ただ、多くの人はその病気の伝染性の強さを考えることがなく、他人への影響についての正しい評価の手段も持ち合わせていない。一方で、対症療法的な医薬品が多くあり、症状を和らげることができれば、無理をすることも可能となる。そんな環境ではつい他人への配慮に欠けた行動に出たとしても、仕方のないところかもしれない。現代社会はそんな状況にあるのではないかと思える話がこのところ頻繁に伝えられる。背景にあるのは、ワクチンや予防接種に対する考え方の変化なのだろうが、今回の措置全般に言えることは、上に書いたような考え方への対策がなされたということだ。体力があり、病気に対する理解が薄い人々に対しては、ある程度の強制が必要というわけだ。本来ならば、それぞれにしてはいけないことが親から子に伝えられており、それに基づく判断で十分なはずが、そうなっていないために奇異に見える対応がなされたということなのではないだろうか。

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5月24日(木)−近似

 目の前のものしか見えない人や、一つの事にしか目を向けられない人がいる。了見が狭いと言われることもあるが、心に余裕がないと理解を示す人もいる。しかし、本当に視野の広さが心の余裕と関係があるのだろうか。余裕が出ると、他人のことにまで口を出すというのは理解できるが、それが必ずしも広さに繋がるわけではない。
 世の中がある目標に向かって邁進しているとき、人々はそれ以外のものに対して気を配らなくなる。高度成長期も、その後に起きた崩壊も、その典型だったのではないだろうか。しかし、ある程度の安定が得られるようになると、急に態度が変わり、周囲に目を向ける人が現れ、それらの人々の声に耳を傾ける人が出てくる。様々な考えが世の中に流れることは歓迎すべきと思うが、現実にはこういうことの弊害として、取るに足らない意見や極論が展開されることがある。情報の伝搬が遅れていた頃には、そんなものはいつの間にか姿を消す運命にあったが、大衆を相手に情報提供を施す機関が存在すると、消極的な無視は効果を及ぼさなくなる。人権派と呼ばれる人々が耳目を集めるようになったのは、おそらくそんな背景によるもので、正しい論理とともに、奇怪な話が広まるのもそんなところからなのだろう。定職に就けない人々の話題が取り上げられる度に不思議に思うのは、彼らの同世代の人々の中での割合に関する話がほとんど聞けないことだし、様々な事件が起こる度にも同じような疑問が残る。数の論理は都合よく話を進める為に使われるわけだが、こういう事件や問題を取り上げる人々の心には、弱者や少数派に対する配慮が優先されているのではないだろうか。確かに、全ての人々の人権は尊重されるべきであり、それを守る人の存在は重要なのだが、これらの人々が抱える問題の発端となったところを論じることなく、人権のみを主張することには違和感を覚える。自由と責任の関係が取沙汰されるようになったのは、実際にはごく最近のことであり、それほどそれらの間での乖離が大きくなったことによるものだろう。そんな状況に至った原因は単純なものではないのだろうが、それを無配慮に勧めた人々の存在は確かなのではないだろうか。ごく少数の問題を大きく取り上げ、それへの対応を迫るやり方は、如何にも大きな存在に挑む勇気溢れる行為のように見える。しかし、それによって引き起こされた弊害や悪影響に気づいてみると、それらが誤操作の結果であることが見えて来るのだ。確かに、ほとんどゼロに近い少数の人々にも人権はあり、それを尊重することは重要である。がしかし、その背景を分析することなく、盲目的に行動を起こすことは、理念とはかけ離れたものになる場合もあることを意識すべきだろう。

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5月23日(水)−勤学

 能力の点で、他人との差を際立たせるものは何だろう。眼力のある人が近くにいてくれれば、その判断に頼ることもできるが、どうも今の世の中でそういうことは珍しいらしい。そうなると、万人から見てもわかる指標が必要となるのだろう。いつからか、手に職とか、資格獲得とか、そんなことが言われ始めたのもそのためか。
 知識欲という言葉は、最近余り聞かなくなったような気がする。知りたがるという意味では、下世話な話や噂話に耳をそばだてる人のことも指すわけだが、そういう興味とは別の意味での知る歓びを持つ人々のことを指している。教育が、教える立場にばかり耳目が集まり、教わる方の気持ちを捉えることにどう関わるかを論じ始めてから、その人々の内から湧き出る力は対象外となってしまったようだ。つまり、促すことの重要性ばかりに力を注ぎ、それぞれの人が持つ潜在力が自ら開花することには、関わりようが無いということなのだろう。その辺りから、勉強が何の役に立つかが話題の中心になり、あらゆることに目的がくっ付くことになった。如何にも合理的に思えるものだから、皆それを受け入れてきたが、その結果が現状となっているのを見ると、何か大きな間違いを犯したと思える。目的なく、合理性なく、何かを知ることに意味があるとしたら、それはどんなものなのだろうか。その大部分は、やはり本人の心の中にある何か、に原因を求めるしかないのだろう。それが湧き出す機会を奪い、何事も仕様書通りの展開に乗せることを行った結果、交換条件やら実体のある報酬を求める人々が世の中に溢れたのではないだろうか。この方式では、何事も商取引と見なすと事がうまく運ぶわけで、如何にも経済効果を狙ったものと言えるのかもしれない。しかし、人の知りたい欲が経済と直接的に繋がる必要はなく、一部の人々の利益にしかならないことにもう少し目を向けるべきなのではないだろうか。知る歓び、学ぶ歓びを知らずに育った人々は、兎に角そこにある苦しみを乗り越える為の何かを求める。そんな抑圧下で身に付けたものが何かの役に立つとしても、利益と損失の均衡が話題になるだけに過ぎないのではないか。もっと別の次元にあったはずのものが、現実社会に振り落とされて、何とも情けない姿を曝しているように見えるのは、こちらの勝手な想像の産物なのかもしれない。しかし、近くにそんな歓びを知る人を見つけたときの感覚を考えると、どうしても必要な事柄に思えてしまうのだ。

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5月22日(火)−謹聴

 会場に野次、怒号が飛ぶ。そんな光景が映し出される時、成人してもなおその程度の人間にしかなれないのかと呆れ果てるが、同じような光景が、この国の政治を司る場で繰り広げられるのを見ると、そこにあるのは年齢という問題ではなく、人間の格なのではないかと思える。そんな連中に任せていいのかとも思う。
 他人の話をじっくり聞くことが苦手なのは、子供の特徴だと言われてきた。自分と周りとの関係を築いていく過程で、自分中心にしか物事を考えられないのは、まだ心が成熟していないからであり、精神的に未熟な証拠というわけだ。だから、子供達に人の話を聴くことの重要性を知らせる為に、教室という空間に閉じ込め、人からものを習うという手順を踏ませてきた。そう考えてみると、最近の情けない状況の原因の一つに、学校での遣り取りが含まれそうに思うが、もしかしたら、そんなところに至るずっと前の時点での脱線によるものの方が大きいのかもしれない。それにしても、落ち着きのない子供が多いのは仕方のないところとして、彼らの扱いの時代による変化には驚かされる。座り続けられないのだから、自由にさせるという発想にも驚かされたが、それが幾つになっても続くことには、驚くばかりなのだ。会合を中座し、用を足しに走る人々の準備不足に嘆息しても、素知らぬ顔で同じことを繰り返す。同じように、誰かが発表しているのに、皆に聞こえるほどの声で隣の人に話しかける人がいる。邪魔にならない程度で、更に発表の内容も理解できているのなら、問題にはならないのだろうが、そういう連中に限って、他人の話を理解する能力はゼロに近い。自分の話の内容も劣悪なのだが、人の話を理解できないから、話し合いを成立させることは困難を極める。こんな人々がどんな過程を経て作り出されてきたのか、興味がないわけでもないが、それを知ったところで、今目の前にいる人間が変わるわけではない。また、こういう人々を育てる環境に対して、こちらから働きかけることもほぼ無理だから、結局のところ、ただ苛立ちを露にしながら、そちらの方を睨みつけるのが精々である。昔は、こんなところで使われる掛け声があったそうだが、最近そんな話は聞いたことがない。少々の働きかけでは、自分たちの世界に閉じこもっている人々を引きずり出すことは難しいのだろう。ただ、頑固に固まってしまった大人とは違い、まだ何かしら変化の期待できる子供達には、もっと厳しく対応する必要があるように思う。一時に比べるとこんな声が上がることが多くなったのも、漸く問題に気づいた人が増えたからだけなのかもしれないが。

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5月21日(月)−襟度

 世の中の生活のしやすさを昔と比べたらどうなのか、そんな質問を所謂団塊の世代にぶつけたらどうだろう。彼らは様々な状況下、様々な年代の時、それぞれに不利益を被ったと考えているようだから、こんなことを聞いてみるのは興味深いのではないか。ただ、最近では楽しんでいる方が多いのかもしれぬ。
 生活する為には先立つものが必要だということは、一致した意見だろう。ただ、それだけが生活の快適さを決める要因ではないということも、多くの人が理解していることだ。確かに、とんでもない大金を持てば、あらゆる楽しさが手に入ると思う人はいるが、快適さはそれだけによるものではない。無人島に独りぼっちで暮らすのならいざ知らず、人が住む町で暮らすとなると、人との関わりは大きな要因となる。それは都会か田舎かということによらず、毎日何らかの形で人と出会う状況にあれば、出て来ることである。今でも孤独死は話題になるが、一時期急激にこんな話題が新聞紙上を賑わしたことがある。都会のど真ん中で暮らす人々が、人知れず死んでいくのを伝えていたが、そこに至る過程が伝えられることはほとんどなかった。一人を好む人々が、よそ者としてその街に入り込み、周囲との関係を一切絶って暮らした場合、こんなことが起きたとしても何も不思議なことはない。ただ、いくら一人を好むと言っても、全ての関係を断絶することはそう簡単にはできない。そう考えると、どうしてそんな状況に陥ったのか、それを知りたくなる人もいるのではないか。おそらく、人間はほとんど集団の中で暮らすことに適応している。ただ、集団の中では人との関わりが重要な要素になるだけに、巧く立ち回ることができない人には困難が立ちはだかることが多くなる。そんな環境では、自分の方から断絶するつもりがなくても、何となく流れがそちらに向いてしまって、いつの間にか孤立する場合も多いだろう。ある特定の人物との関係が悪化し、それがこんな結果を産むこともある。自分が逆の立場になったらどう感じるのかを推測できる人はいいが、自己中心的な考え方しかできない人に出会うと、そうなる可能性は大きくなる。たとえそんな状況に追い込まれたとしても、それを避ける手段を持つことがうまく生き延びる為の知恵のはずが、身に付けていない人にとっては今更ということになるのだろう。大きな集団を形成する世代は如何にも不利益を被っているように見えて、その実、集団の強みを発揮してきたのではないだろうか。そう考えると、彼らが他の世代を受け入れるかどうかが、重要な意味をもつことにもなる。考え方が違うだけなのかもしれないが、これからも他を圧する力を持ち続ける人々には、もう少し考えて欲しいと思うのだ。

(since 2002/4/3)