パンチの独り言

(2007年5月28日〜6月3日)
(薫風、薫染、訓練、群盲、君子、訓蒙、燻製)



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6月3日(日)−燻製

 何にでも工夫をすることが大切と言われるが、それにしても毎日口にするものには、工夫が溢れているように思う。食べられないものを食べられるようにする工夫も歴史の上では大切な一歩だったのだろうが、美味しいものをより美味しくする工夫や食べ物を長持ちさせる工夫はそれはそれで重要な意味をもっている。
 新鮮な食べ物をそのまま食べることは食べる楽しみという点だけでなく、病気にかからないために重要である。腐敗した食べ物に手を出して死ぬことは、最近はほとんど無くなったが、冷蔵庫が普及する以前には死ぬまではなくても、腹を下すことは頻繁にあったのではないか。冷蔵しているから安全と信じ込む人々の中には、今でも古い食品に手を出して痛い目に遭う人はいるだろうが、その数はずっと少なくなっていると思う。冷やして保つということができなかった時代、人々は食品を保存するために様々な工夫を施した。例えば、塩蔵はその典型であり、塩分濃度が高ければほとんどの生き物が増殖できないことを利用している。それ以外にも、この国では酢を使った保存法や醤油や砂糖を使って煮詰める方法が使われていた。これらは生物の生育に適さない環境を作るわけで、場合によってはそのまま食べるのではなく、事前に処理を施す必要も出てくる。漬け物の場合も塩の作用に頼るものと腐敗とは異なる特定の細菌などの醗酵に頼るものがあり、それぞれにある程度の保存を可能とするものだ。極端な例では、保存ということではないが、本来毒が含まれているのにそれに処理を施して食べてしまうというものがあり、河豚の卵巣を糠につけて毒を抜いた食品まである。こういった添加物による保存とは異なる方法もあるようで、例えば、木を燃やして燻すことで食品を加工する方法もある。煙で燻されるだけで何故腐敗しなくなるのか、すぐには思いつかないが、兎に角特別な施設が必要ではないから、色々な地方で実施されているようだ。香りの問題かもしれないが、使われる樹木も決まっているようで、木の煙というところにも意味があるのかもしれない。いずれにしても、人は食べるために色々と工夫をするもので、食欲に勝る欲はないということがこんなところにも現れているのかもしれない。

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6月2日(土)−訓蒙

 出版業界は暗い時代を送っていると言われる。一部を除き、多くの出版物がほとんど何の関心も得られないままに、何処かに消えてしまう時代である。その割には、次々に新たな本が出版され、そこに違和感を覚える人もいるようだ。この差が何処から生まれて来るのか定かではないが、基本的戦略によるものかもしれない。
 いずれにしても、書店には次々に新しい本が持ち込まれる。その多くは短い期間店頭に並ぶだけで、あっという間に姿を消す。流通の仕組みがそうなっているからだろうが、何とも不思議な感じがする。一方、書店のハシゴをする人は余りいないかもしれないが、何軒か回ってみると気がつくことがある。何処も同じような本が同じように並べられていて、本屋による違いがほとんど見られないのだ。老舗の書店ではちょっと事情が違っていて、そこに働く人々が自分たちで選んだ本が並んでいて、おすすめの一言が添えてあったりする。個人的な趣味と言ってしまえばそれまでだが、日頃から数多くのものに接しているからこそ感じることもあるわけで、購入の参考にする人も多いのではないか。昔はこんなことをすることさえ憚られ、兎に角余計なことをせず、購入者の目を信じて並べていたようだが、最近はそれでは不十分といった考えが大勢を占めているようだ。しかし、こんなところは数えるほどしかなく、ほとんどの系列店はただ取次店から持ち込まれたものを並べるだけとなっている。それぞれの店員にそれだけの能力が無いという事情もあるし、限られた面積の使い方という問題もあるが、一方で、購入者の抱える問題も大きいのではないだろうか。だから、老舗の本屋に通うのは今や年寄りか余程の本好きに限られ、一般の人々はもっと沢山の本が飾られているところに通う。売れている本が必ずしもいい本とは限らず、ただ流れに任せているだけではよいものに触れる機会は減り続ける。そんな中で次々に出版される本は次々に流通から外され、何処かに消えてしまうのは仕方のないことかもしれない。一方で、現状をよく表していると思えるのは、売れる本の多くが如何にも当たり前のことを大層な言葉で飾り立てて、それが生きる術のような書き方をしたものであり、まるで本を買う人の大部分がいつまで経っても初心者のように扱われていることだ。初心忘るべからず、と言うけれども、その意味は大きく違う。いつまでも暗がりに居続けているようでは、気持ちが明るくなることもないのではないか。売れる本というものがどんなものかを考えた時、こちらの気持ちが暗くなるのは何とも情けない。

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6月1日(金)−君子

 世界一安全な国と名を馳せたのも、今は昔、物騒な世の中になってきた。飛び道具を持つことが難しいから大丈夫、という考え方は根底から崩れ、闇の市場での取引がある意味当たり前となった今では、法律による抑止力は期待できない。その一方で、本当にそれだけが犯罪率の小さな数字に反映していたのか、疑問も残る。
 凶悪な犯罪の増加は、毎日の報道から明らかなように見えるが、幸いなことに、元々少ない数が一気に数倍となったとしても、犯罪大国に肩を並べるほどにはなっていない。だから大丈夫という保証ができるかと問われると、流石にその自信はない。それより、最近の傾向として気になるのは、先に書いたように武器の有無だけが犯罪の発生率を決めているわけではないという点だ。もしもこれが事実ならば、最近の小さなものから大きなものまでの諸々の犯罪の原因は人の心の中にあるという指摘が真実味を帯びてくる。心が荒ぶと表現すると行き過ぎになるかもしれないが、このところの犯罪の傾向にはこんな背景があるような気がしてくるのだ。自己中心的な考え方や、過度の自己愛、どうにも不可解な言動が世の中に溢れているのを見ると、人の心に大きな変貌が起きたとしか思えない。逆に言えば、元々心の奥底にそういったものを抱えていた人々が、留め金のようなものを外されて、本性を現したということだ。犯罪大国とそうでない国の違いは、武器の流通といった環境要因や人の精神性の差異から生まれて来るのではなく、単に社会からもたらされる抑止力の違いによるものと考えれば、この辺りの事情は容易に理解できる。動物としての人間にそれほど差があるわけでもないが、その一方で社会性を重要な因子と見なせば、こういう結果の違いもわかりやすくなるのではないか。そうなると、今の荒れた環境は元々社会の抑止力の減退によるものであり、その遠因は個人主義の台頭にあるとも言える。個人の尊重はともすればこういう結果を産むものであり、本来は慎重に扱われねばならないのだが、何処か他人事のように扱ったところから今の状況が出てきたのではないだろうか。既にそんな仕組みが確立されたとなると、各人がそれに巻き込まれないように配慮するしかない。監視の確立や法整備などを待つ方法もあるだろうが、それは別の歪みを招くことにもなる。それならば、自分で自分の身を護る方が安全確実なわけで、何をすべきかそういった観点で考えるべきだろう。興味を持つことと首を突っ込むことは違うわけだし、自らを律することも重要な要素となる。ただ騒ぎ立てているだけでは無駄だということにも気づく必要があるだろう。

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5月31日(木)−群盲

 何か新しいことをやろうとした時、障害となるものは沢山ある。中でも、人間という障害は時に応じて変化するから厄介だ。金とか物に関する問題は、その多くが大きく立ちはだかるものだが、一方で姿を変えないから対応しやすいと言える。それに対して、変幻自在な人間という生き物は、次々に問題を産み出す。
 相談や議論の場で、様々な問題について話し合う時、厄介な相手が明確となる。同じ文句を言うにしても、計画をよりよいものにしようとする気持ちが表れていれば、議論の価値が出てくる。しかし、ただ壊すための議論を好み、何も築き上げようとしない気持ちが表に出ている人とは、付き合うのも嫌になるものだ。こういう人種の多くは批判することを好み、される側に立つことを忌み嫌う。要するに、自分の立場を確かなものにしたいだけで、それは批判を繰り返すことによって成り立つと思い込んでいるのだ。最近こういう人が目立たなくなっているのは、対案の要求が日常的となり、批判のみの意見を抑え込む戦略が盛んに取り上げられるようになったからだろう。それでも、世の中には色々な場があり、色々な人々がいるから、こんな人でも生き残れる場所はあるに違いない。一方的な働きかけができる場が最適なのかもしれず、そういう場を渡り歩く人々がいる。更に、そんな人種を好む人々がいるようで、まさにそんな集まりが其処彼処で開かれているようだ。現実的で、建設的な意見は、そこでは好まれず、兎に角批判に徹することが要求される。普通の人には居辛い環境かと思うとそうでもないらしく、如何にもご意見を拝聴しようと意気込む人々が集まるらしい。何とも不毛な議論の場と思うのは、常に何かしらの生産を願うような人々だけで、そこではそんな人種はお呼びではない。こんなことを書いても、あり得ないと思う人が多いだろうが、例えば画面の中ではまさにそんなことが起きているのではないだろうか。同じ批判を眺めるにしても、眺め方次第で様相は一変するのだが、さて、どんなものだろう。

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5月30日(水)−訓練

 誰だって病気にはなりたくないだろう。癌や心臓病など、自分の中から出て来るものは、体質改善などの努力によって、ある程度防げそうだから、頑張っている人々がいる。しかし、流行病となると自らの努力のみではいかんともし難い。特に、社会の中では他人との接触が当然だから、一度広がれば何ともならない。
 そんな考えから採用されたのが隔離という手段だが、これも使い方を誤ると人権侵害になるようだから、難しい問題だ。いずれにしても、伝染病の多くは接触感染によって伝播するから、そんな時期には人混みに出ない努力も必要なのかもしれない。ただ、このところの報道を見ると、騒ぎ方の異常さもさることながら、対応の異様さも目立っている。それまでに築き上げた仕組みが崩壊している様子も不安を煽るようだが、一方で、この程度のことで騒ぎ立てている人々を心配したくもなる。彼らの心の中には、最大の被害を出したインフルエンザの猛威が強烈な印象として残っているのだろうが、もしそうだとしても、今回の騒動くらいでこれほどの騒ぎを引き起こすのだとしたら、本番は一体どうなるのか、心配したくなるのも無理はないのではないだろうか。だから、流行病そのものに対する心配よりも、それが引き起こす騒動に対して注意を促す声も聞かれ始めた。特に、その先頭を進んでいる人々の多くは、ウイルス感染の本当の怖さを知らないばかりか、逆に、それを防ぐ為の手段についての知識もない。こんな状況では、ただ騒ぎ立てるばかりで、それが社会的な混乱を引き起こせば、心理的に追い込まれた人々を制御する手立てはないだろう。そこに至る為にはまだまだ長い道のりとは思うが、現状で、この程度のことで煽り立てている有識者を眺めていると、ここから先、急激な加速が起こらないとも限らない。煽るという表現は何とも悪い印象ばかりを与えるが、当事者たちは警告を発することの重要性を認識しているだけに、こう断定されることを好むはずがない。しかし、彼らの行動を煽りと呼びたくなるのにも理由がある。彼らは、患者数の激増とか、死者数の推計などを示すことで、予想される被害の大きさを訴えているが、その数値にはどんな根拠があるのだろうか。更には、そういう警告の多くに、対策の不備を訴えるものがあるけれども、対案が示されていないのは何故だろうか。本当に専門家であるならば、ただ無闇に不安を煽るやり方ではなく、落ち着いた行動を促す為の方策を示すのが本来の姿なのではないだろうか。そんなことを考えさせられる事件が頻発しているが、これがまた喉元過ぎればとなることが、実は彼らを野放しにする原因となることに、もっと注意すべきなのではないだろうか。

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5月29日(火)−薫染

 友達のような親子とか、親しい師弟関係、最近よく話題になるが、何処か違和感を覚える。明らかな違いがある二つの人格が、異様なほど近い関係を結ぶことは、何か矛盾があるように感じられるからだ。近しい関係であることは確かなのだろうが、それが同じ高さにいるということには繋がらない。そこに違和感がある。
 信頼という感覚に変化が現れたのはいつ頃だったか、いつの間にか、友達親子が当たり前のように扱われ始めた。いつまでも若くありたいと願う母親と、背伸びしたい娘の間が、縮まっているように見えるのは、ごく当たり前のことかもしれないが、その距離が異常に近くなった。全ての母娘関係がそうなっているわけではないのは、身の回りを見渡せばすぐに解ることであり、だから、話題になった関係が当然のものでないこともすぐに理解できるのだが、何しろこういう時代だから、話題になること自体が大きな影響を及ぼす。すぐに時流に乗ろうとする人々が現れ、吾も吾もとそうなるべきと思い込む。何とも異様な光景に映るが、一部の人々にとってはそれが喜びに繋がるのかもしれない。そんな感覚は学校の中にも出現し、先生と児童・生徒の間にあったはずの溝は埋められてしまった。馴れ馴れしい言葉を先生に浴びせる子供達の姿には、ある意味の信頼が感じられるが、それは仲間としてのものであり、違う種類の人間の間に築かれるものとは異なる。それが異様さを醸し出しているのだろうが、こんな光景が多くの学校で見られるようになっているということは、これが常態化していると言うべきなのだろう。断絶という言葉で表された関係が無くなり、誰とでも仲良くすることが重視されると、ほとんどの垣根が取り外されてしまった。更には、これこそが理想の関係のように論じる識者が現れるに至っては、状況が深刻化していると言うしかないのではなかろうか。深刻とは悪い意味を指すわけだから、これをよい兆候と扱う人々にとっては心外だろう。しかし、近しい仲間としての存在に、尊敬の念が芽生えることは少なく、ましてや感化されることなどあり得ないことだ。親や先生がそんな対象で無くなったと言ってしまえばそれまでだが、しかし、そういう存在が身近にいることの重要性は無くなっていないのである。人が育つ過程において、そういう存在を意識し、見て育つことは大切な段階と言われる。にも拘らず、今の状況はそれを妨げる方向にしか働いていない。こんなことで人が育つはずもなく、将来大きな負債を抱えることになりかねないが、今この時を大切に思う人々には、そんな見識はないのだろう。社会問題のように思う人がいるかもしれないが、これはあくまでも個人の問題であり、すぐにでも変えられることなのだ。

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5月28日(月)−薫風

 季節の変わり目、気温の差も激しく、安定しない天気が続く。それでも、どうにもならない寒さは遠ざかり、そろそろ厳しい夏の暑さが迫ってきている。指標を定めるのが好きな国民らしく、暑いなら暑いなりに、それを示してくれと言わんばかりの呼称が使われ始めた。実感が深まるばかりで、かえって逆効果ではないか。
 ここからじめじめした季節が始まるまでは、気温の上下があるとはいえ、比較的爽やかな天気が続く。屋外の活動も活発になるはずだが、ちょっと度を過ごすと、日射病やら熱中症になってしまうから要注意だ。自分で調節できるものだけでなく、日射しの強まりとともに、光化学スモッグなるものまで出てきて、活動の機会を奪われることもある。一時期なりを潜めていたが、最近復活したように見えるのは、温暖化のせいなのか、はたまた別の環境悪化のせいなのか、よくは分からない。いずれにしても、反応は人それぞれとはいえ、用心にこしたことはなく、運動会も中止に追い込まれる始末だ。確か、空気中の成分によるものだったと思うのだが、公害対策が講じられたことから、その原因物質はかなり取り除かれていると思ったが、どうもそうでもないらしい。こんなところを見ると、後手後手に回っている対策の不備が何処かで綻びを見せているのかと思えてくる。そんなこともあるが、総じてこの季節は気持ちのいいものである。少しくらいの雨が降っても、気温がある程度高いから気にならないし、乾燥するとはいえ、風の涼しさが感じられていい。周囲の人々も、春の気忙しさが一段落して落ち着きを取り戻し、こういう季節を楽しめるようになっているのではないだろうか。木々が芽吹く時には、人間も何やら落ち着かず、おかしな行動に出る人や落ち込む人が目立つようだが、そちらの方もそろそろおさまってきそうだ。折角のこの季節、外で風を楽しむのが一番だろうが、気温がちょうどいい場合には屋内でも十分に楽しめる。まだ落ち着いていない人は、やはり外に出て大きく息を吸い込むのが一番と思うが。

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