パンチの独り言

(2007年6月4日〜6月10日)
(兼愛、牽強、狷介、倹飩、眷顧、巻繊、権輿)



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6月10日(日)−権輿

 どんなことにも始まりがある。始めるためには様々な障害を乗り越える必要があるが、一度始まってしまうとそういう障害のことはどうでもよくなる。その上、時間が経過すると、誰がどう始めたのか、そのときどんな困難があったのか、そんな類いの疑問に答えられる人がいなくなり、はじめが見えなくなるのだ。
 全ての場合がそうとは言えないだろうが、はっきりとしたことが言えなくなったとき、事実とは異なることを言い出す人が出てきて、始まりの歴史はいつの間にかすり替えられたものになる。それが必要な場合も多いのだろうが、どんな理由があるにせよ、事実と異なる話が作り上げられるのはいいこととは言い難い。経験の積み重ねが重要であるのに、肝心の情報が改竄されてしまっては、どうにもならないことになる。しかし、世の中にこういう話は沢山あり、変更することで何かしらの利益を得る人がいるから、こんなことが起きるに違いない。始めるまでの過程と、そこから一つの形が導きだされるまでの過程は、全く違うことを始める場合にも当てはまることが多い。一つ一つの事柄は大きく違っていても、そこでの変化や遣り取りには多くの共通点が見られるからだ。にも拘らず、こんな変更が横行しているのでは、何をするにしてもまともな結果が出てくるようには思えない。どうも、そのときそのときの関係者が自分にとって都合のいい話を紹介し、それを成立させるためにそこに至る話をでっち上げることはしばしば起きているようだから、逆にそういうことに引っかからないように考える必要があるのではないだろうか。何かの始まりから学ぶものは数多くあるだろうに、肝心なものに変更が加えられたのではどうにもならない。それでも一部の人々は、変えられる前のものを何とか見つけ出そうとがんばっていて、何とか事実を確かめようとしている。その努力が報われれば、次の課題に取り組む姿勢も自ずと明らかになるのだから。

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6月9日(土)−巻繊

 言葉が時代の流れとともに変化するという話はよく聞く。世代ごとに使い方が違うことは多いし、いわゆる死語と呼ばれるものはその典型なのかもしれない。言葉に関してよく聞かれる話も、他のことについては余り触れられることはない。どんな違いがあるのか定かではないが、兎に角何かが違う訳だ。
 最近流行している服を眺めていると、かなり昔に見かけたものに近づいているように思える。そういう業界でよく言われるのは、流行の循環のような話で、ある程度時間が経過すると、古びたはずのものが復活するというのだ。確かに、そんな話はよくあり、古着が大切にされるのも、一時的に遅れていると感じられたものが、いつの間にか先に進んでいるように見えるからだろうか。そんな流行の変遷もあるのだが、その一方で、完全に消え去るものも多い。消えてしまった場合、余程のことがない限り復活することは少なく、結局は忘れ去られてしまう訳だ。こういうものとは別に、流行の中にはいつの間にか姿を変えるといった形のものもあるのではないだろうか。つまり、呼び名は同じであるのに、全く違ったものを指すことがあるのだ。すぐに思いつくものは少ないが、多分、同世代の人々とそんなことを話題にすると、いくつか次々に思い浮かぶことがあるのではないだろうか。当時は違ったものを指していたのに、いつの間にか今通用しているものを指すようになってしまう。何ともいい加減な話だが、結構多いようだから、呼び名などというのはそんなものかもしれない。こんな話題を取り上げたのは、言葉探しをしているうちに出くわしたある料理の呼び名が、本来の意味からすると全く別のものを言い表していたのに、いつの間にか全く違った料理に変化したと思われるからだ。それは野菜を湯葉で巻いた所からつけられた名前のようだが、いつの間にか湯葉が豆腐に変わり、調理法は似ているが、おそらく全く違った代物になってしまったということだ。こんなことはしばしば起きるのかもしれないが、それにしてもちょっと不思議な感じがした。第一、こんな字があてられるなどとは思いもしなかった訳だから、そこにももう一つの不思議がある。

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6月8日(金)−眷顧

 世の中には馬の合う人とそうでない人がいる、と思うがどうだろう。何も特別なことをしていないのに、気が合う人がいると思う一方で、どうやってもうまく折り合いがつかない人がいる。何処に違いがあるのか、一概に言うことはできないけれども、その存在だけは確かなように思う。好き嫌いとも違うようだが。
 気が合うと言うと、つい同じくらいの年齢や立場のことを思う人もいるだろうが、これもまた一概には言えないと思う。上司や部下でそんな関係が築かれることも多く、いい関係ならよいが、悪い方だと立場によってかなり大きく影響する。誰だって、自分の仕事にいい影響が及ぶことを願っているが、現実にはそんなに簡単ではない。気の合わない上司と付き合うことになれば、仕事も滞り勝ちになり、難しい立場に追い込まれる。しかし、努力でどうなるものでもないだけに、結局は周囲の理解によって窮地から救い出されない限り、何ともならないのではないだろうか。逆に、上司に気に入られた場合、何事にも有利に働くことが多いだろうから、周囲からは冷たい目で見られることがある。これも、一部の打算によって動く人を除けば、気が合う合わないの違いだけだから、本人の力だけではいかんともし難い。他人から何かしら特別な働きかけを疑われたとしても、本人にそのつもりがない場合は濡れ衣に過ぎず、順調に事が運ぶほどに嫌な思いをすることになる。しかし、たまたま上手く行っているだけだから、相手が変われば状況は一変することもある。何が幸いするか知れず、本人の思惑とは全く別のところで判断されてしまうわけだ。打算や思惑が中心となっている場合には、思い通りに事が運ぶかどうかが判断基準となるのだろうが、そうでない時には判断もつかない。ただ、思惑で動いていない分だけ気楽なところもあるし、相手にとっても与し易いのかもしれない。自分が上司の立場になった時に、どんな思いが過るかを考えると、その関係が馬が合うか合わないか位の方が、やはり気楽なのかもしれないが。

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6月7日(木)−倹飩

 使う言葉に制限を付けるとなると、どうしても辞書の世話にならざるを得ない。ただ、だからといって手間ばかりがかかるわけでもなく、これを機会に知らない言葉に接することもできるから、いいこともありそうだ。それにしても、よくもまあこんなに沢山あるものだと思うが、単にこちらの知識が足らないだけなのだろう。
 寿司屋が出前に持ち歩く入れ物のことを何と呼ぶか、というクイズを何処かで聞いたことがあったが、実際にはすっかり違うものを想像していた。今回の言葉探索で、どうもそれにあたるものの名前が見つかり、それこそ得をしたような気分になっている。それは、寿司屋が使うものではなく、うどん屋が出前の時に持って来る箱のことで、巧い仕掛けを考えたものだと、子供の頃に思った記憶がある。箱の中には仕切り板があり、上下を分けることで幾つかの丼鉢を入れることができる。蓋の仕組みが面白くて、何度も閉めたり開けたりして遊んだ記憶がある。他の道具にも使われている仕掛けだが、初めに思いついた人は凄いとしか言い様がない。木でできた箱では、確かに溝を彫るなどの細工しかできず、最近使われているような複雑な仕掛けは面倒なだけで、意味を成さないのかもしれない。忙しい商売の中では、そんな複雑な仕組みを使うより、単純で壊れにくいものを使う方が便利だし、安上がりである。難しいことを考えることも大切だが、同じようなことを単純な仕掛けで実現させたところが凄いわけだ。いつ頃発明されたものかは知らないが、ついこの間まで出前で使われていた。最近は、アルミ製のものやバイクの荷台につけるものなど、様子は徐々に変化しており、更には出前などという習慣も廃れ始めているところもあるが、こういったところに文化の香りが感じられるのではないだろうか。廃れて行くところも含めて、だが。

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6月6日(水)−狷介

 言葉は自分の思いを相手に伝えるためのものである。正確に伝えるために、かなり意識して選ぶことも多いが、送り手の意図を理解してくれない受け手もいる。本を読むことは、ただ流し込むのではなく、自分の中にある何かと比べながら受け取ることだと思うが、これと同じように送り手の言葉が受け手の意思で変化する。
 多数を相手に話をする場合、それぞれに異なる受け取り方をされることも多く、注意を要する。その一方で、それぞれに違う受け取り方をしてもらえるように意図する人もいて、その違いを見分けるのが面白い。慎重に事を運ぶ人の場合、何度も違った表現を使うことで確実性を増す努力をするが、人それぞれの違いを意識する人の場合は、たった一言、それもどちらかと言えば断定的で極端な表現を用いる。その方が印象に残るだけでなく、反論を含めた反応を容易に引き出せるからだろう。いずれにしても、話し手の意図に従って進めば問題ないが、受け手によっては、送り手の意図と無関係に勝手な方に進むからかなわない。こういう人の中でも、特に困るのは、その場での議論には参加せず、別の場所で誤解に基づいた話を恰も事実のように吹聴する人がいることだ。そんな人に限って、自分の考えや理解には誤りはなく、まるで一番の理解者のような顔をするから難儀なものである。同じ場にいた人に間違いを指摘されても、自分の正しさを信じて疑わず、その論理がいかに話し手の意図から逸脱したものかを確かめようともしない。確かに、そういう強さはある程度必要なのだろうが、修正の利かない人間は使いにくいものだ。下にいる時にも問題を起こすが、これが上に立つようになると更に影響が大きくなる。上から押さえつけられれば、否応なく口を閉ざす必要が出てくるが、その蓋が無くなれば、制御が利かなくなるのだ。何処かの集まりで初めて会った人と意見を交わしたが、その場では議論もなく、如何にも丸くおさまった感じだった。しかし、同じ人がその場にいなかった人に伝えた言葉は驚くほど過激にこちらの意見を批判するものだったのだ。こんなことをする人がいると思うと嘆かわしいが、その存在を確認させられた。要するに、発言には注意せねばならないということだけだが、もしそれしかないのなら、意見の交換は無駄となる。自分の主張を通すためにその場で努力するより、他のところでただ言い放つことの方が随分と楽なものだ。しかし、それが何を意味するのかは、少し思慮深い人ならすぐに判る。それを思うと、更に情けなく思えてしまう。

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6月5日(火)−牽強

 人それぞれに違う意見を持つ。こんな当たり前のことが理解されていないように思えることがしばしば起こる。議論の場はその交換のためにあると思うのだが、誤解された民主主義はただ単に多数決をするための場とすり替えているようだ。儀式のように、順を追って粛々と進められたと思ったら、あっという間の採決、ふぅ。
 予想されたこととはいえ、何とか自分たちの身を守りたいと思う人々にとっては、傷口を大きくするかもしれない遣り取りは最小限にとどめたいものなのだろう。それより重要なことがあると主張することで、正当性を訴えていたようだが、どうにも問題のすり替えとしか思えない。結果としてはそれまでに見られないほど不評なようで、心配する声が上がり始めていると言う。しかし、こんな話題も数日しか持たず、すぐに別の話題が飛び込んで来るに違いない。特に、外遊が控えている人たちの場合、喉元過ぎればという思いが過っているのではないだろうか。それにしても、個人の金が絡む問題はこじれてしまうと収拾がつかない。誰しも、十分な金を受け取っているとは思わないから、何か不安要素が表に出ると、吾も吾もと殺到するわけだ。元はと言えば、記録の保存方法の変更に始まったことだが、どうもそれ以前から杜撰な管理が取沙汰されていたようだ。結局、お役所仕事だから仕方がないと言う人もいるが、これもまたそんな問題ではないと思う。彼らにとっては民営化が絶対の原則だから、こういう論理を展開したくなるのだろうが、現実には公だろうが民だろうが、十分に可能性のあることだ。それを原則論のように展開する人々には、自分達の手を離れれば責任は回避できるという思いしかないのかと勘ぐりたくなる。一度なくした信用を取り戻すことは商売の上ではとても難しいという話は聞くが、今回の話はまさにそんな状況にあり、ちょっとやそっとの手立てで不満が解消されることは無さそうである。例の如くの誤摩化しに走る人々は、いつもの喉元と思い込んでいるようだが、今回の騒動が収まるのはいつのことだろうか。いつも通りに、と書かれること自体、恥と思うべきだろうが、本人たちにはその意識はない。それより、今目の前に積み上がった問題の山を何処かに片付けたいだけなのだ。どうして、こんなに狭い視野と見通しの悪い目を持つ人々が増えたのか、平和だからと言う人もいるのだが。

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6月4日(月)−兼愛

 国を愛する心が話題に上ったことがある。実感のないものを愛することは不可能で、おそらく多くの人は戸惑っただろう。しかし、大きな存在を実感できなくても、それを構成するより小さな存在は意識できるはずで、どんどん降りて行けば最後には家族なり、自分なりに到達することができるわけだ。
 家族の存在を蔑ろにする人々が増えているように思える事件が続き、何とも言えぬ嫌な気持ちを抱くが、その大元にあるのは自分の存在を認められない心なのではないかと思っていた。自分を愛せない人が、他人を愛すことができるはずもなく、それが赤の他人だろうが、血を分けた家族だろうが、同じことになるのでは、と思っていたのだ。しかし、その後も頻発する事件の概要を眺めるに、自己愛の証は見えているにも関わらず、凶悪な事件に走る人々が多いことに気がつかされることになった。自分しか愛せない人の存在はちょっとした驚きで、最優先であることはおそらくほとんどの人に当てはまるにしても、そこから広がらない偏狭な心の持ち主が増えていることに、不安が大きくなる。社会の問題として、こんな病気のようなものが蔓延しているのだとしたら、その広がりを食い止める手立てを講じる必要があるが、本当にそうなのだろうか。確かに、事件は増加しているだろうし、凶悪化も顕著となっている。しかし、増えていると言っても大多数の人々にとっては何の関係もない話だし、たとえ身近で起きたとしても、その異常性は常軌を逸したものだけに、自分のことに繋がる可能性も薄い。ただ、その一方で、自分たちの住む世界が狭くなるばかりで、他人との関係は薄れ、家族にしても友人にしても、その関係が見せかけだけのものになりつつあるのは確かなようだ。虚構の存在を保つことに躍起になる人を見ても、その意味は理解できそうにもないし、おそらく彼らの中では、まるでゲームの中の話のような展開がなされているのではないだろうか。生身の人間と、対決するにせよ、仲良くするにせよ、そこにはかなりの力を必要とする。それを積み木細工の世界のように扱いたくなるのは、自分を守るための一つの戦略なのかもしれないのだ。しかし、それでは世界が広がらないばかりか、恐ろしい暗闇へ吸い込まれる場合もあるだろう。

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