パンチの独り言

(2007年6月11日〜6月17日)
(根気、懇々、昏迷、今生、渾沌、混食、昆弟)



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6月17日(日)−昆弟

 次々に聞いたことのない言葉が出て来るので、面食らっている人もいるのではないだろうか。では、書いている本人がその言葉を知っていたかとなると、そんな筈もない。兎に角、辞書と首っ引きで色々とほじくり回しているのだ。語彙が豊かな人は尊敬されるが、その域に達することは容易でないのが簡単にわかる。
 子供の頃はよく本を読んでいたような気がする。しかし、中学に上がる頃からその傾向は薄れ、何に興味を持っていたのか、本からは遠ざかった。肝心な時期と呼ぶ人もいるようだが、成長期で体と心の均衡が崩れた時期に、示唆に富んだものに触れることは重要だろう。但し、それが書物によるものとは限らず、人によっては人に接することがその意味を成す場合もある。人それぞれに刺激を受ける対象が異なるからだろうが、だからといって読書を否定できるわけでもない。人との交流は時間的制約があるのに対し、本との付き合いは自分次第で自由度が大きい。それを利用して、健康を害したところでその機会を得て、その後の展開が図られた人の話が多いのは、まさにぴたりと当てはまったからだろう。それにしても、最近の状況はかなり深刻なようで、肝心の本に直接接するより、誰かの解説を好む傾向はその現れなのではないだろうか。たとえ導入部分でその助けを借りることになっても、自ら原書に当たることを忘れては、本当の理解は得られない。まして、本を読むことがそこから知識を得るだけでなく、自ら持つ考えとの対比により、更に深い考えに至るための道と見れば、その重要性が認識できる筈だ。その意味で、安易な道を選ぶのは効率的に見えて、全く逆の結果を招くことになるのは当たり前のことなのかもしれない。互いの考えを交換することに慣れていない人々は、批判を恐れるばかりに発言を控え、相容れない考えを否定する。同種の人間が集まることを好み、異種を排除することに躍起になるのは、まさに他との関わりを回避してきた結果によるものだろう。揺らぐ人間より、確固たる書物に救いを求める人も多いが、最終的には揺らぎを乗り越えねばならない。志が同じとなればそれなりに理解しあえるだろうが、それとていつふらつくかは知れない。出自が異なっても、同じ志の人間たちが集まり、固い絆に結ばれた時凄まじい力を発揮するという話もあったが、最近はそんな雰囲気も見えない。仲間という意識の括りが違ってきたと言えばそれまでだが、安定の極みがこんなことでは、暴発直前にも見えてくる。血の繋がりが怒りにしか結びつかず、破壊が訪れるのを見る限り、言葉の喩えも本来の意味を成さなくなるものなのだろうか。

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6月16日(土)−混食

 体にいいと聞いたら、居ても立ってもいられない、という人がいる。兎に角いいことを実践したいわけで、そのためにそれまで保ってきた習慣も変えてしまうことが多い。そんな考えを持つ人の頭の中を理解することは難しく、不思議なのは動機だけではなく、それに振り回される感覚もだ。心変わりと言えばそれまでだが。
 誰しも健康に過ごしたいと願うに決まっているが、そんな願いを持つのは、逆に言えば、それが難しいからだろう。だからこそ、様々な情報を手に入れ、新たな努力を惜しまない人がいるのではないだろうか。それにしても、今の時代ほど健康志向が強いときもないだろうし、それに対して色々な形で金が流れることはある意味異様にさえ見える。どんな人でもそういう感覚を持つのは当たり前と思うかもしれないが、そのためにつぎ込む努力の大きさが、以前とは大きく異なるのも事実だ。自分で励む努力だけでなく、つぎ込む金額の大きさも増えるばかりで、何処までいくのかと心配してしまうほどだ。しかし、現実にはどこかに上限があり、そこに向かって突き進んでいるだけのことで、結局は市場として成立するかどうかが最重要の要素となっている。その一方で、健康を目指す人々には聞き捨てならない話も頻繁に流れてくる。それは、健康に害を及ぼすものの話題で、食品の良し悪しや運動の影響などがしばしば取り上げられる。ただ、この手の話は余程注意してかからないと、騙されるから要注意だ。例えば、食品の有害性を論じるときに、その摂取量に触れている場合があるが、この量自体が問題になることがある。想像を絶するほど大量に摂取することを条件とする場合が多く、たとえ危険だとしても、その量自体が意味をなさないほどのものであれば、どんなものかと思えてくる。声高に訴える声が聞こえるが、しかし、そこにはこんなトリックがあるわけだ。最近取り上げられているある種の油についての話も、そんな気がしてならないのだが、どうだろうか。確実なことはどちらにしても言えず、結局はただ不安を煽るだけになる場合も多いのではないか。不安に陥るよりもずっとましな方法がありそうだが、どうも当たり前すぎて余り話題にならないらしい。それは、色々な食品をとること、つまり健康にいいからといって、そればかり摂るのは却って危険であり、それより何種類も食べる方がいいというわけだ。元々、肉食や草食と決まった動物ならしようがないが、ヒトのように雑食ならばそれに従うのが一番ということなのではないだろうか。これなら、悩む必要もないし、変える必要もない。好き嫌いに走るとそうもいかないだろうが。

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6月15日(金)−渾沌

 取扱説明書とか、指示書とかの日本語にするより、カタカナ語のままの方がわかりやすいのかもしれないが、マニュアルという言葉が頻繁に登場する。元々は、パソコンが普及した頃によく使われたが、ある時代から、機械の取扱説明書というより、人間の取扱説明書として使われることの方が多くなったようだ。
 この用法も始めはあるファーストフードの店で使われたものが注目を集め、窓口の人間の質をある水準より上に保つための確実な手法として紹介されていた。これはある職業の人々のすべき作業を全て紹介し、それぞれに起きうる問題とその対策を書き出すことで、誰でも簡単にやるべきことを身につけられるものだった。様々な教育背景を持ち、経験も様々な人を対象とした場合、こんな手法が必要となる。それに対して、総じてある程度以上の教育を受けていた国では、こんな仕組みは必要とされず、導入された当初はその効果を疑う声も聞かれたようだ。しかし、現状を見る限り、この国の人々にもこの方法は通用し、驚くほどの効果を上げている。ただ、こういった考え方にも欠点は存在する。例えば、食べ物を売る店での想定はかなり限られており、特殊なものがあるにしても、その登場確率は極端に低いから、問題として取り上げる必要もない。ということは、例外的なものに対する処置はごく一部の人間が行えばよく、全ての人がそれへの対応に携わる必要はないことになる。ほんの一部だけが対応すればよく、大多数はそのことを知る必要さえないというのは、いかにも賢いやり方のように見えるが、どこかおかしくもある。こういった指示書のようなものが、いつ頃からか、単に店員の教育に使われるだけでなく、若い人々の生き方への助言のような形で表に出るようになった。安定した時代では、とんでもなく珍しい出来事が起こることはまれで、全ての可能性を書き出すことも可能に見える。そうなれば、それぞれに対応できる人を作ることも比較的簡単に思えるらしく、そんな指針に満ちた書物が世の中に溢れるようになった。先人の歩んだ道を進むことは容易に思えるから、そんな方に走る人が増えているのだろうが、最近の状況を眺めるとそれが当てはまりそうにもないことがわかる。結局、何事も予測通りに起き、全てに正しい答えがあるというのは幻想に過ぎず、同じように見えて全く違う結果を導くことが多いことが明らかになった。いかにも安定した世の中にあって、変動の少ない状況では、こんな生き方が適当に見えたのだろうが、現実はそうでもなかったということだろう。

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6月14日(木)−今生

 日々の生活に追われていると考えることは少ないかもしれないが、自分が死んだあとに何が起きるのか、そんなことに興味を抱く人もいるだろう。生まれる前の記憶がないところを見ると、たとえ何かが次に起きるとしても、それと今とを比較する術はないように思える。それでも気になるのは何故なのだろうか。
 こんな話は宗教の世界でしか出て来ないものなのかもしれないが、そちらに興味のない人でもこんなことを考える人がいるということは、宗教がどこか別世界の話なのではなく、それぞれの人が既に持っている感覚と密接に関係するものかもしれない。ただ、そこに至るにはおそらく今の時代との関連があり、そこにある悩みや障害などが、そんな思いを抱かせるきっかけになっている場合が多い。それは単に自分自身の問題だけでなく、身近な人の問題であることも多く、病に苦しむ人を看ることで、そんな考えに到達する人もいる。目の前にいる人間は身近に感じられるものだろうが、その人が死ぬときには遠くに離れていくような感覚があるわけで、それがこんな考えの端緒になるのだろう。それにしても、そんな思いに至る人とそんなものには全く関心を抱かない人がいるのは不思議なもので、今を考えることにおける違いがここでの差を産み出すのかもしれない。前と後のことを考えるのはそんな動機から来るものだろうが、それにしても何故これほどまでの違いが生まれるのだろうか。今を生きることへの違いによるものとの解釈はあるが、そこにそれほどの違いあるようにも思えない。確かに、生きることに必死な人とそうでない人がいるのだろうから、違いは明らかなのだろうけれど、それだけを原因とするのはちょっと無理に思えるのだ。でも、この世にいる人は全て今を生きているのだから、その違いは大したこともないようにも見える。後生を大事に思うことより、今を大切にして、楽しく生きることが本当に重要なのであり、それを楽しめれば、後も明るいものになるかもしれない。こんな書き方をすると、まるでその存在を認めてしまったようにも見えるが、現実にはそんなことはどうでもよく、心の満足の問題に過ぎないのだろう。まずは、楽しく、明るくを心がけていけばいいだけのことなのだ。

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6月13日(水)−昏迷

 他人の世話ばかり焼いて、自分のことがおろそかになることを表す言葉がある。今回はその言葉について書くつもりだったが、辞書を眺めてみたら読み方が違うことに気がついた。なるほど、漢字としてはこのところの流れに合うのだが、読みが違うのでは使えない。ちょっと残念だが、こうなっては仕方ない。
 それにしても言葉とは難しいものだ。辞書を繰ってみると次々に知らない言葉が現れる。そういう楽しみを持つ人が昔は沢山いたようだが、電子辞書が普及してきて、さて同じような楽しみ方ができるものか、どうなのだろう。ただ、言葉を知らないことはそのまま無知に繋がるわけではない。どちらかといえば、難しい言葉を知ることには付加価値を決めるような所があり、人よりものを知っているのを見せるためといった感じなのではないだろうか。本当に問題となるのは、表面的な意味を知っていたり、難しい言葉を知っているかどうかということではなく、そこにある本当の意味を知っているかどうかなのだ。倫理とか道徳とか、人間として持ち合わせるべきものが身についているかということや、道理が通じるかといったことが重要になるわけで、人が人として生きる上で、大切な事柄となる。しかし、最近の社会情勢を見る限り、こういった方面の欠陥が目立つようになっているし、共通理念のようなものが存在しない中では、互いの信頼も得られないから、疑心暗鬼ばかりの生活に陥ってしまう。それ自体を問題視する人々もいるが、最終段階で表に出てくる特徴を見て、それへの対策を考えたとしても根本的な解決にはほど遠い。現実には、根元の所にある欠陥が全ての原因になっているのであり、それを修復しない限り効果は望めない。応急処置的なことばかりを続け、根本的な修復を怠っていると、結果として悪化の流れを止めることはできない。問題に直面して戸惑う人々が、表面の問題だけを捉えていたのでは、迷路から出てくることはできない。教育のことを考えるべき会議の面々が、ただの思いつきを次々に出すばかりでは何も変わらないし、そんなものに振り回されていたのでは、深みにはまるばかりとなる。こういうときに肝心なことは、まずは自分たちに足らない部分を補い、理を通す道を作ることであり、それができるまではただ迷路に閉じ込められたままであることに気づくべきなのだ。ちなみに、始めに出した言葉は「紺屋の白袴」である。

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6月12日(火)−懇々

 根気の足らない若い人が増えてきたのに対して、さて、年寄りはどんな様子なのだろう。年寄りと書くと自分は違うと思う人も多いだろうが、現実には若い人より経験のある人という意味であり、一部を除いた全てという意味になる。先輩だったり、上司だったり、そんな人々の様子にも変化はあったのだろうか。
 若い人のことをとやかく言う人は多く、彼らの頭の中には自分たちとは明らかに違う性格を持った人間が映っているのだろう。面白いのは、彼らの時代との違いが大きく取り上げられる半面、その時代の上に立っていた人々の状況に関する情報がほとんどないことだ。つまり、今の時代の若者と年寄りの様子は詳しく伝えられるのに対して、昔の年寄りの状況がほとんど伝えられず、ただ若者の今昔の違いが注目されているだけなのではないだろうか。これでは不十分と思う人は少ないらしく、若者の比較だけで十分とされるが、果たして本当にそうなのだろうか。若者が育つ環境を作るのは、若者自身ではなくその上にある世代である。そこにはかなり大きな幅があるが、多分その中でも中心になる世代があるのではないだろうか。そう考えてみると、今の時代の若者の考え方を決めているのは、彼ら自身である部分もあるだろうが、彼らが育つ環境も大きく影響していると言えそうだ。つまり、そこでの年寄りたちの関わりは決して小さいとは言えず、若者だけを取り上げて彼らのことを論じるのは、情報不足の中で何かを語ることに似ているわけだ。もう少し厳しく言うと、根気の足らない人々を育てた環境があり、それを築いた人々がいるわけで、当事者たちもどこか同じような問題を抱えている可能性がある。自分たちで問題を解決できず、すぐに諦めてしまう人々を批判する人の中に、そういう人々を言い聞かせるような努力を惜しまない人はどれくらいいるだろう。現実には、すぐにキレる人々のことを批判する人の多くが、そういう人々の相手を根気よくした経験がないのであり、何が必要かさえ、上手く伝えて来なかった人々がいる。そんな中で、どんな人間が育つのか、容易に想像できるが、それで終わってしまったのでは、何も変わらない。ここで、何をすべきかを考えない限り、次の行動は明確になって来ないし、ただ単なる文句の羅列に終わるだけだろう。そうだとしたら、何をしたらよいか、簡単にわかりそうに思えるが、どうだろう。

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6月11日(月)−根気

 時代の変遷とともに人々の感覚も変化するのは当然だろう。しかし、その中でも最近の流れは特殊なものの一つなのではないだろうか。そこには人々の考え方の変化があり、それが起きる原因となったものがある。多くの人が他人と同じことをしたいと思い、人真似を悪いこととは思わないことが根底にある。
 人と同じことをするのは、ある年齢に達するまでは別に悪いことでもないだろう。面白いのは、教育現場では低年齢での独自性の強調が始まるのと対照的に、人と同じを好む人の数が増えたことなのだ。独自が重んじられる中で、共通を追い求めた結果なのか、はたまた、独自を模索するうちに、それに無理があることに気づいたためなのか、はっきりとした答えはないのだろうが、いずれにしても、行き着く先には皆同じという考え方がある。これを悪いことと言い切るのは難しく、同じで何も問題が起きないのであれば、それでいいではないかという意見が出る。この話は、いかにも筋が通っているように見えるが、現実には一部の世界を除いて、様々な問題が生じる原因となっているのではないだろうか。その場で起きる問題は少ないが、その一方で歪みがたまり、取り返しのつかない所に達して初めて、気がつく人が出ているのだ。ここに大きな落とし穴があり、それに気づかずに色々なことが進められ、結果的に修正不能な誤りが積み重ねられる。本来、こんな状況に陥ることはないはずだが、それは人それぞれに違う考えを持つことによるものであり、指令書通りに動く人の数が多くなると、皆同じという安心感が間違いに気づくのを遅らせるわけだ。何とも不思議な状況だが、これが現実である。さらに、指令書に馴らされた人々は全てが思い通りに動くことを期待し、粘り強く物事に取り組む姿勢が失われてしまった。これがどんな問題を生じるのか、まだ明らかになっていない所もあるが、おそらく様々な社会問題の根元にこれが影響しているのではないだろうか。もう少し時間が必要かもしれないが、明らかになったときには、上に書いたのと同じように取り返しのつかない所まで話が進んでいるかもしれない。些細な問題が大きなものに変わるのに、大した時間はかからないものだ。

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