パンチの独り言

(2007年6月18日〜6月24日)
(讒言、三伏、竄入、三稜鏡 、三枝、惨落、山査子)



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6月24日(日)−山査子

 見ず知らずの言葉との格闘はまだ続きそうだ。こんなことをすれば、それなりに記憶に残るから自分のためにもなると考える人がいるかもしれないが、経験から言えば、そうでもない。記憶に残すためには一度や二度接するくらいのことでは不十分で、印象に残すためのもう一工夫が必要となるらしい。
 知らない言葉を相手にした場合、選び出す段階からしてひと騒動となる。意味を噛み締めながら、書けそうな内容を想像する。そんなことを繰り返して、一週間分の言葉を選び出すわけだが、丁度切りよく七つとなるわけもない。ある程度時間が経過した頃に書く話題は、いつの間にか影も形もなくなっていて、始めからやり直しとなる。そうなると折角思いついていたことも出てこず、没にせざるを得なくなる場合もあるわけだ。となれば、予備を用意しておくことが必要で、大体一つか二つ余分に選び出すことが多い。今週も一つ余分に選んであったから、今ここでは二つの候補が残っている。ここまで書いた時点ではどちらにしても問題ない内容だから、ここで片方を選べば済むことになる。久しぶりに草花の話題をと思っていたが、見たことのない花だったので、暫く先送りにしていたものがある。もう一つは甘い話で、こちらは何か適当に書いて行けば繋がりそうな話題だ。やはりここは久しぶりの花の話にしてみよう。漢方薬として実が使われるというその木は、元々隣の国からやってきたものだそうだ。漢方薬だから当然なのかもしれないが、雄しべが目立つ花も、赤い実も、記憶の中にはない。しかし、花の名前だけは何処かで聞いたことがある。ひょっとしたら、花ではなく、薬の方から流れてきただけなのかもしれないが、いずれにしても記憶に残りやすい名前のようだ。ただ、当て字かもしれない漢字の方は、見たことがないように思う。最後に子がつくことからして、実を指したものかと思われるが、花の呼び名もそちらになっている。検索をすれば、いつものようにいつものサイトがヒットし、いつものようにきれいな花や実の写真が出てくる。全く便利な時代になったものだが、こんな使い方をする人はごく少数なのだろう。これだけ上質な情報を供給するものがある一方で、仮想社会には下劣で下品な情報が溢れている。このことを何故と問う人もいるようだが、実際にはほとんど全てが人間自身の欲望に端を発しているのだ。自分で作り上げたもので自分が苦しむようになるのは、これまでにも度々問題となったことだが、それは人間の感情が入り込みそうにもない冷たい世界にも通じてしまう。宗教で取り上げられるように、欲望とは何とも限りないものなのだろう。まあ、そんな話題は兎も角、ここはひととき、草花の写真を眺めながら、ホッとする時間を過ごすのがいいのかもしれない。難しい話や悲惨な話ばかりが続く時に、こんな場所は休息として重要なのだろう。これも自分達で作り上げたものの一つなのだから。

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6月23日(土)−惨落

 出遅れ気味だった相場もいつの間にか上げに転じたのだろうか。経済状況を映すはずのものが、どうもそんな雰囲気もなく、何やら怪しげな動きを示していたが、やっと落ち着きを取り戻したのだろう。そう信じたいと思っている投資家も多いと思うが、現実にはどうなのか、このまま安定成長するのか、不安は残る。
 人間の記憶は勝手なもので、全てを均等、平等に覚えているものではないらしい。自分にとって都合のいい覚え方をする人もいるが、皆がそうとは限らない。都合の悪いことをどうしても思い出してしまう人もいるわけで、思い通りにならない記憶に振り回されることになる。苦い記憶を思い出すたびに落ち込んだり、反省ばかりするわけで、それはそれで自分のしていることとはいえ、何とも迷惑な話だ。自分のことに当てはめて考えると、果たして良い記憶と悪い記憶のどちらが多いのか、明確には言えない。ただ、程度問題があるようで、例えば大きな事故に遭った人がその瞬間のことを覚えていないことが多いのは、ひょっとすると極端な場合には消去装置が働くことがあるように思える。悪い方は極端があるだろうが、さすがに良い方にはそんなものはないだろう。だから、良し悪しに対してどうなるのかを簡単に結論づけることは難しそうだ。そんな話題だけでは話が続かないからもう少し進めてみるが、どちらとも言えないとはいえ、一つ気になることは同じ対象であれば、どうも悪い方の記憶の方が鮮明に残っているように思えるところがある。相場に当てはめてみれば、上昇相場のときより、下落したときのことを覚えている人が多いようだし、それが極端になればなるほど、強い記憶として残る。良い目を見たときより、悪い目の方が強く残るのは、それが経験として重要だからという意見があるかもしれないが、その割には、何度も同じ憂き目に遭うわけで、その点での意味は余り無いのかもしれない。ではごく最近のそれはいつのことだったのだろう。このところの上げで何度も報道されているからすぐにわかる人もいるだろうが、隣の国の相場の予想外の動きをきっかけとした下落である。実際には、様々な要素が絡んだものであり、隣国の状況が反映されたものではなかったようだから、その後の回復はこの国を除けば比較的急速だった。ここまできてやっと回復したという見方もあるだろうが、これを順調とする考えもあるだろう。今後の展開を見ながら考えなければならないのは、いつものことなのだろうが。

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6月22日(金)−三枝

 昔の人々が考えた教えには、動物に関係のあるものが多い。中でも、犬畜生さえできることを人間ができないのはおかしい、といった観点から考え出されたものが多いようだ。人間を上に見ることが当然という思いが込められていて、傲慢さの現れと思うこともあるが、今に伝えられるところは何かしらの意味があるからか。
 上下関係に拘るという捉え方は、ひょっとしたら的外れのものかもしれない。考えた本人は単に動物たちを観察し、そこに人間との比較を持ち出して、何か為になることを導き出しただけなのかもしれないからだ。ここで最も重要なことは観察力であり、いつの時代もこの有無が差を引き出す。ただ、これも科学の世界とは違い、客観的な観察というより、人間との対比が主体となるものだから、思い込みに溢れ、偏りに満ちたものである場合が多い。一般的にはこんな観察法の方が当たり前で、擬人化した解釈を巧みに当てはめることが肝心だと思われている。それはそれで重要なことだろうが、本能的な行動を人間が熟慮の上でする行動と比較するのは、如何にも無理な気がするし、その意味も理解できない。にも拘らず、こんなことが頻繁に行われてきたのは、動物と人間の間の共通性を認識していたからだろうが、その一方で、最終的には人間を上につけるわけだから、何とも不可思議な考え方である。最近は、親子関係が崩壊していても取り立てて珍しいことではないと受け取られるようだが、こんなことは昔からあったのではないだろうか。親の絶対権力が強調された時代もあったが、そうでない時には、常に子供の反発や親子間のいがみ合いが多少なりともあったと思える。そうでなければ、親子の間の礼儀を説く教えが出て来る必然性は無いように思えるし、そんなことの喩えに鳩を持ち出すなど、とても考えにくいものである。親鳥のとまる枝の三つ下の枝に子供の鳥がとまるという観察に基づく教えは、親子関係が荒廃した時代にしか通用しない。その意味では、現代社会はまさにその真っ只中にあると言えるだろうが、如何せん、既に聞いたことのないものになっていた。落語家の名前しか思い浮かばないものが、まさかそんな意味をもっていたとは、と思うわけだが、現実には、そんな経緯で消滅する言葉の何と多いことか。これもまた、言葉探しの副産物として紹介することになる。

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6月21日(木)−三稜鏡

 言葉を使った遊びも様々である。知らない言葉に接することも面白いが、知っている言葉を違う表現で表したものに触れるのも楽しい。おそらく、昔の人々が一所懸命捻り出したもので、そこに苦労の跡が見えるからだ。ということで、そんなものが一つ見つかったので紹介してみよう。今回のお題は、三稜鏡である。
 この国の言葉の便利さを示すものとして、二つのアルファベットをもつことが挙げられる。かなと呼ばれるそれらは、上手く使い分けることで相手に音だけでない何かを伝えることができる。その一つの例が外来語の表記で、汎用性の高い便利さとは裏腹に、そこに潜む問題点が指摘されることも多い。それはつまり、音しか伝えられず、意味の伝達がないことであり、乱用によって言葉の乱れを招くと批判される。しかし、一対一対応でない言語間の関係は簡単には結びつけられず、そこでの手間を考えると、安易な乱用も致し方ないと見ることもできる。カタカナによる外来語表記が盛んになったのは、おそらく戦後になってからだと思うが、それ以前には知識人がよってたかって意味のある言葉として新語を編み出していた。以前にも取り上げたが、その傑作の一つは型録だろう。音と意味を兼ね備えた素晴らしい作品で、発明者の見識の高さをうかがわせる。その一方で、音は捨てて、意味を残すやり方が大部分を占め、科学、機械などという言葉もその中で生まれたものと聞く。さて、今回のお題の「三稜鏡」から連想されるものは何だろうか。稜とは山の尾根のことを表すから、そのまま繋げれば三つの尾根をもつ鏡という意味になる。ここで気がつく人はかなり鋭い方だろうが、観音開きの鏡台を思いついたのではちょっと方向違いだろう。鏡という言葉に惑わされずに、鏡のような作用をもつという意味で考えると少し近づきやすいかもしれない。ニュートンが光の性質をあばくために用いた道具で、雨上がりに見られるものと密接な関係がある。自然現象を人工的に作るために編み出された道具は、光のもつ性質を利用して、その構成要素を誰の目にも明らかにしたことで知られる。そんなものが名称と共に輸入された時、原語から意味を連想することは不可能で、その形さえ想像がつかなかったのだろう。ここでは、機能ではなく、形態を表現するための言葉が編み出されたわけで、連想としては頑張った方だろうが、なるほどと思うまでに時間がかかり過ぎるようだ。ただ、これも一種の言葉遊びと言えるのではないだろうか。

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6月20日(水)−竄入

 ヒトという生き物の特徴を挙げるとしたら、何を思い浮かべるだろう。万物の霊長などという表現は既に過去のものとなり、一部の人々はいまだに大きな差を主張しているとはいえ、他の動物と大差無しという見解が勝っているのではないだろうか。となれば、一つ二つ特徴を挙げたとしても的を射ることは難しい。
 そんな中で、暫く前に話題になっていたものに、多世代に渡る家族関係がある。通常、生き物は生殖能力を失った時点で生涯を全うするのだが、ヒトに関してはその後も生き長らえる場合がほとんどである。そこに他との違いが歴然とあり、それがこの生き物の特徴となり、更には様々な能力を獲得した源となったという考え方だ。確かに、経験を何らかの形で受け継ぐ機会を得ることは積み重ねを可能にし、継続性に基づいた発展を導き出す。二代前の女性の関与が以前から重要と見られ、それが家族の繁栄を導いたというわけだ。この考え方は最近になって注目されたわけではなく、昔から何度も引き合いに出されていたのだが、特にこの国では、いつ頃からか核家族化が急激に進み、世代の重複が希薄になったことから、再び注目されるに至ったのではないだろうか。生き物としての特徴だけでなく、それが基盤となり、情報伝達能力が増したことも大きく影響しているだろう。つまり、言葉という手段を手に入れただけでなく、それを文字という形に発展させることで、仲介する存在を抜きにして、伝達が可能となったことが継続という観点から大きな要素と考えられるのだ。このこと自体に反論する人は少ないと思うが、しかし、これとて不安定な部分がないわけではない。口伝えで行われた伝承が、文字という媒体を介することによって誤伝が格段に減少したことは確かだが、その一方で、記録媒体が永久的なものでないために、作為的かどうかは別にして写し間違いなどの問題が生じるようになった。以前から伝えられたものとの照合が正しく行われていれば、このような誤りは防げる筈だが、歴史はそうでないことを語っているようだし、更に作為的なものとなれば、伝達者の思惑が入るだけに避けることはほとんど不可能に近い。しかし、後世の人々は伝えられたものを頼るしかなく、その作為を暴くことはかなり難しい。そんな悪意は別にしても、人間による間違いは常にあるものだから、それが残ってしまった時の対処については難しいものがあるだろう。ついこの間まではこれも古文書の世界だけの話と思っていたが、このところの話題を見ると、そっくりそのままのことが起きているようだ。技術の発達が人間の考え方には何の影響も与えられないことを如実に示しているような出来事だが。

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6月19日(火)−三伏

 このところ、言葉遊びに徹しているようなものだが、これもまた一興、知らない言葉に触れられて楽しいのではないだろうか。と言っても、こちらはどうもこういうものに対する容量が足りないせいか、暫くすると記憶素子から消えてしまうらしい。何とも情けない話だが、そうでもしないと次が困るということかも。
 語彙の豊かさが教養を表すと昔は言われたものだが、最近は教養という言葉自体がそろそろ死にかけているようだ。目的を定め、それに邁進することを常とする世代にとって、行き着く先が見えない知識は無用と映るのだろう。これもまた、何とも情けない話に思える。その一方で、欲を消すことのできない世代は、幾つになっても何かを吸収しようと躍起になっている。ただ、彼らも自力で努力するより、誰かを通して手に入れることを重んじていて、何処か教養の意味を取り違えているようにも見える。面白いのは、これらの二つの世代が親子関係にあることで、互いをどう認識しているのか尋ねてみたい気がする。さて、今回取り上げる言葉だが、これまで一度も接したことのないもので、辞書で見つけるまでまったく知らないものだった。そろそろ、季節は夏に移りつつあり、梅雨らしくない天候が続いているが、それも湿度が低いところから、そろそろじめじめしたものになり始めた。そうなると、夏の盛りのこの国独特の暑さが思い出されるが、その季節を指す言葉として紹介されていたものだ。庚という言葉も、最近はとんと見かけなくなったが、甲乙丙丁に続く十干に含まれるものだ。これとの関係がある言葉だが、夏至から立秋にかけての暑い時期を表すものだそうだ。夏至から数えて三つ目の庚の日を初伏と呼び、そこから三回の庚の日を数える期間を指すわけで、確かに、そういわれれば、立秋の前後の暑さは尋常ではない。そんな表現があることさえ知らなかったわけだから、言葉自体、知る筈もないわけだ。これが今年はいつからいつまで、ということには興味が湧くが、さて、何を調べたらそれがわかるのか。以前ならば、日めくりカレンダーやら、普通のものにも書き込まれていたようだが、今では、おそらく、暦を持つ人にしか調べようがないのかもしれない。それだけ、こういう感覚が失われつつあるわけで、言葉が消えてしまう背景には、色々な事情があるものだと思えてくる。

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6月18日(月)−讒言

 人の口に蓋はできぬ、と言われるが、噂話に限って早く伝わるものらしい。情報社会で一番便利になったのはこの部分ではないかと思うが、その速度が格段に増したようだ。自分に関係がなく、面白可笑しいものは特にそうなるらしく、当人には何とも困る話のようだ。真偽のほどは兎も角、垂れ流しでは困るだろう。
 情報社会も、対面式のものであれば大した違いも生まれなかっただろうが、匿名性まで高まるとなると、悪用したい人々にとって大歓迎ではないか。現実には痕跡を消すことは難しく、本気で調べればすぐにばれてしまうわけだが、やられる方がすぐに行動に移れるわけでもない。そんな状況からか、手口が巧妙になるに連れて、内容は悪質化している。ありもしないことを騙るだけでなく、当人の写真を載せたり、実名を書き込むなどといった明らかな犯罪行為にまで及び、狭い世界の噂話といった感は失せてしまった。確かに武器が手に入れば、何か事を起こしたくなる人もいるだろう。しかし、それを抑えることが倫理とか道徳とか言われるものなのではないだろうか。その能力を失った人々が世に溢れ、馬鹿げた行為を繰り返すのを見ると、何とも情けなくなる。今の世の中の乱れの象徴のような現象だが、現実には人々の裏の顔には倫理もへったくれもない場合が多いようだ。例えば、組織の中でのし上がるために、上に立つ人々に媚び諂う人は多いが、それだけでは不十分な場合がある。自分より能力があると思える競争者がいれば、ただ自分を目立たせるだけでなく、相手の欠点を露にする必要が出てくるからだ。そのための方策の一つは調査研究だろうが、そんなことをしても明らかな差を見出せない時、こういう人はあらぬ話をでっち上げるのが手っ取り早いと考えるらしい。そんな話を噂として流せば効果が得られる場合もあるが、現代社会の仕組みのような流し方では、かえって発信源を特定される恐れもあり、単なる垂れ流しは敬遠されるのではないだろうか。それより、肝心の相手にだけ限定的な話としてまことしやかに伝えるのが、真の効果を産み出すと思われている節がある。そんな行為を表す言葉が存在する事自体、その大切さを表しているのではないか。

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