木を見て、森を見ず。些末なことばかり気にして、大局を見られない人のことを指す。文字を見るだけでも、そんな感じが伝わってくる、上手い喩えに思える。最近巷で話題になることも、どちらかと言えばこんな喩えが当てはまりそうなものが多く、大所高所からの重要性を再認識させられる時代のようだ。
一つ一つの細かいことは、それが該当する人々にとっては大変重要なことに違いない。しかし、個人で見ればその通りのことが、集団で考えた時には結びつかないことは多々ある。特に、政を行う場合、個人の権利を尊重することも大切だが、それらが集まり、互いの利害がぶつかりあう中を巧く取り纏める能力が求められる。こんな書き方をすると当たり前に思えるが、現実には個人尊重が強められ、特に一部の個人の利益ばかりを満足させることが多くなっていて、まともな政が為されているとは言い難い。国民の代表という言葉の意味を取り違えているとしか思えないし、視野の狭さ、心の小ささを如実に表した判断や行動が目につくわけだ。改めて考えてみれば少しずつ解って来る部分もあり、彼らの出自や支援の状況などがその背景にあるように思える。本来ならば、利害の渦中にない人々が関与することが重要だった筈が、いつの間にか無関係だからこそ滅茶苦茶な結果に動じず、当事者の利害を斟酌できない人が溢れている。大所高所ではなく、ただ異次元の世界を眺めているに過ぎないのだ。責任問題にしても、最近の動きは、潔く辞めるより、責任を持って片付ける方を選ぶ。無責任な立場に自分をおくより、責任を全うするということで、評価されている手法だが、その実何の整理もないわけだから、単なる三文芝居にしか見えない。見得を切るにしても、尻尾が見え隠れするのでは如何にも情けない。所詮は器の大きさが、責任の重さと不釣り合いなところから発する問題なのだろうが、それにしてもそういう人物に任せるしかない状況こそが問題なのだろう。一つの節目が近づいているとはいえ、前任者の人気のように、他に任せられる人間がいないからという理由が、いつまでも罷り通るのでは何ともしようがないではないか。いつまでも言葉遊びを続けるのは単なる遊びに過ぎないことだが、政を言葉遊びの場のように考える人々には呆れるばかりだ。そんなこんなでここらで本来の遊びに戻ることになる。いずれにしても、人物の器を表する言葉にも色々あるのだろうが、こんな表現があるとは知らなかった。
母国語として使っている人間たちにはわからないようだが、この国の言葉はかなり変わっているらしい。文法の話は色々なところで取り上げられるが、話し言葉としてだけでなく、書き言葉としても特異な存在だろう。通常、言語は一種類の文字から成り立ち、その組み合わせによって意味が導き出されるようになる。
これは現代通用している言語だけでなく、例えば昔の象形文字にしろ、甲骨文字にしろ、そこにはある意味を表すものとして、一つの記号が存在していた。それに対して、何処でどうなったのかはわからないものの、この国の言葉は複数の記号が同じ意味を示し、更に組み合わせを工夫することで、その多様性を増大させた。よく考えてみれば、子供に対する圧力はかなりのものであり、これらを習得するために費やされる時間は膨大である。それでもこれが長期間に渡って継続してきた背景には、子供の持つ無限の可能性とともに、この国独特の教育に対する考え方があったのではないだろうか。最近、根幹たる部分が崩壊しているように伝えられるが、依然としてこの能力は伝承され、見劣りが伝えられるとはいえ、まだまだ識字力はある水準を保っているようだ。今後の展開には一抹の不安が過るが、ここまで変革が進んでも保持されることからすると、余程の大改革が導入されない限り、それなりの形での継承は期待できそうだ。書き言葉としての独自性は極めているものの、話し言葉の方は大した違いはないのかもしれない。それでも、音として伝達されるものの場合、正確な音を作り出す必要がある。そこに大きな壁があると言われたのはチェコ語だったか、ある通訳の人が子供には出せない音があり、その習得にはかなりの時間を要すると書いていた。そんなのは極端な例に過ぎないが、そうでなくても、他国語の会話を習得するためには各人それなりの努力が必要となる。所詮は物真似を繰り返すだけだが、音を出すために必要な口の形を再現するためには訓練を要する場合もある。特に、筋肉の動きに特殊性がある場合、経験のない者には実現不可能となることもあるからだ。自分がその経験をしている時には、焦りばかりが先に立ち、本当の違いを克服できないことが多いが、逆に、自分の母国語を外国人が習得しているところに立ち会うと、その違いに気づかされることがある。相手は同じようにしているつもりでも、こちらには違って聞こえるのは、何処かに違いがあるからだ。当たり前のことだが、こんなことに気づくのはやはり自らの言葉だからに違いない。微妙な力の調節を自然にできる人にとって、意識してやっとできる人の出す音は、全く違ったものに聞こえる。唇をかむようにして出す音も、意識してみると、力の入れようで違って来ることに気づいたのは、まさにこんな状況だった。
意味するものは変わっていないのに、受ける印象が異なる言葉は多い。その言葉が出てきた社会背景と現代社会を比較すると、そこにかなりの格差が見られるからという場合があるが、それだけでもなく受け取り方の問題ということもある。そんな言葉の多くは徐々に使われなくなり、消えて行く運命にあるのかもしれない。
地道に働き、蓄えをして、老後はゆったりと暮らす。そんな姿が絵に描いたようと思われていたのはいつ頃からか、最近の様子は随分と違っているように見える。どんな時代にも、地道にこつこつという人と一山当てるという人がいるものだが、ごく当たり前に見えた生活がどうにも不器用に見えるようになったらしい。多彩な才能を発揮し、様々なことをこなす人に対する評価は高いが、一つの事に打ち込み、同じことを繰り返す人は評価が低くなる。どちらも組織にとっては重要な人材であり、一つ欠けても困る筈が、評価の違いからはその辺りが見えてこない。そんな時代なのか、多くの人々は地道とか真面目といった類いの言葉には魅力を感じず、多彩とか輝きといった言葉に惹かれるようだ。現実には、明暗の分かれる役割などはなく、どんなものにも明があり、暗がある。にも拘らず、受け取り方には大きな違いが生まれ、できることなら明るいところだけを引き受けたいと思う。派手に振る舞うことは流石に気が引けるのだろうが、それにしても縁の下の力持ち的な考え方は姿を消したようだ。評価される側の問題のようにも見えるが、現実には不当な評価の蓄積がこんな事情を導いただけであり、それが大きな役割を負うようになればなるほど、この傾向は強くなる。この道一筋となる必要はないけれど、そういう人の存在を重視しない世の中はどうにも捩じれて行くらしい。人と違うことをするのも、違うことをするという当たり前のことから、同じことを人にはできないやり方でやるということまで、色々とある筈なのだ。そういうものの積み重ねが、結果的に真面目で地道な人を作り出すことになるわけで、その手の人々を国が評価することも重要だったに違いない。ただ、いつの間にやら、社会はそんな人々の姿に目を向けることが少なくなり、一時の流行に乗る派手な人の姿ばかりを追うようになった。その結果が今の世の中の流れだとしたら、少し考えても良さそうな気がしてくる。
生真面目で杓子定規に取組むことは、必ずしも良い結果を産むとは限らない。しかし、性格的な面や年齢によるところからか、規則通りに扱い、例外を認めない人々がいる。それはそれで、きちんと対応しているのだから、何の問題もない筈だが、その後のそういう人々の変貌を知る人間には、どうにも変に映るのだ。
若気の至り、という言葉で片付けられても、当人には憤懣やる方ないといった感じなのではないだろうか。本人は、至って真面目に取組んだ結果として、相手にそれを示しているわけで、それが年齢による間違いのように受け取られたら、腹立たしいのは当たり前だ。しかし、その考えが当分の間継続するなら、そういう心情も理解できないわけではないが、多くの場合、新しいことを学ぶ過程で微妙な変化が訪れる。そこから先は人それぞれ、二つの姿の乖離に悩む人がいるかと思えば、当たり前のこととしてあっさり受け入れる人もいる。さて、どちらが正しいのか、そんなことが言えるわけもない。人はそれぞれに変化し、それぞれの道を歩んで行くものだから、こういうところの微妙な変化も当然なのだろう。いずれにしても、世の中の変化について行くためには、自分も変化するしかなく、それなりに許容範囲が広がるものらしい。ただ、それが過ぎてしまい、ついやり過ぎとなると、無軌道な話が出て来ることになる。適当なところで留まるようにしておけばいいのに、どうも走り出すと止まれない人が多いみたいで、この間までは何かにつけて制約をつけていたのに、いつの間にかそんなことはないのが当たり前となる。それも、どちらかというと相手のことを思ってのことではなく、自分中心の考え方から来るものだから、困ったものということになる。情状から来るものならまだしも、自分の都合や利益を中心に考えるとなると、どうにもならないものにしかならない。どうも、このあたりの道筋は時代が変化しても、大して変わらないように思える。これは多分欲に基づく行動だからであり、人の欲が時代に左右されないからだろう。自己主張の大切さばかりが強調されて、最近は特にこの傾向が強くなったとはいえ、基本の部分はほとんど変化ないのかもしれない。相手のことを考え、事情を理解した上で判断すれば、少しは違った目も出てくるだろうが、どうもそういう具合には事が運ばないのだろう。
先日読み始めた小説には、難しい単語が次々と出てくる。最近の書き物には珍しく、流石に辞書を片手にというわけにもいかず、意味を想像しながら読み進めている。軽い読み物が好まれるようになってから、ごく一般的な言葉以外は用いられなくなってしまい、本で新しい言葉に触れる機会も失われてしまった。
あらゆるものが商売を基本として考えられるようになり、教養を高める手段の一つだった筈の書籍も、迎合的なものばかりが目立つようになった。ものを売り買いするわけだから、気に入られることが重要なのはわかるが、あまりに直接的なものしか見ない風潮には辟易する人もいると思う。そんな中で、純文学と呼ばれるものの多くは、いまだに純潔を守ろうとする人がいて、的確な表現のために普段見たこともない言葉を用いる。彼らからすれば、その表現が最も的確であり、変な誤解を招くよりも読者に手間をかけさせる方を選ぶのだろう。この本の中に、このところ使った言葉が次々、と言っても二つ三つだが、出ているのを見つけると、何とも不思議な感覚になる。そういえば、こんな言葉が辞書に掲載されているのも、以前ならばそれなりに使われていたからであり、それに出くわした時の道案内として必要だからだろう。商売の道具となった書籍にはそんな著者の要求は通らず、意味深さは失われることになる。利益追求は現代社会の一大命題のようで、どんな分野でもその追求が課題となっているが、現実には手堅い商売を続けたものが生き残り、一時的に脚光を浴びた際物たちは舞台を去ることになるから、まさに王道を行くしかないのかもしれない。それにしても、詐欺紛いの商売はあとを絶たず、次々に不正が明らかになるにつけ、こういうことの温床は何処にあるのかと考えを巡らす。当事者の倫理観はもとより、金に取り憑かれた人々の考えには想像を絶するものがあるが、その一方で、彼らの標的となる人々に何かしらの欲望がなければ、こんな不正も意味をもたなくなる。特別なもの、特別な扱い、誰しもそんなことを望むことはあるだろう。それを手に入れるために、少々の金も惜しまぬ人もいて、そこに何らかの関係が結ばれることになる。これが正当な形で続けば問題は起こらないが、現実には更なる高みを目指す人々が出てきて、いささかの工夫が取り入れられる。その後の展開は、追々明らかになって行くだろうが、坂を下るより簡単なものかもしれない。そんな人を頼りに、不正を知りながらついて行った人々にもある程度の責任はあるだろうが、さてそこまで話が及ぶかどうか。いずれにしても、人を信じることの大切さとその危うさが表に出た話のようだ。
信じる者が救われない時代なのか、どうもそんな感じがして来るほど、世知辛い世の中になってきた。しかし、全てを疑ってかかれば生き延びられるかと言えば、そうでないことは明らかなのだ。人は人を信じてこそ、社会の中での存在を実感し、その中に暮らす喜びを感じることができる。それを失えば、何もない。
こういう類いのことを全か無か、全部を当てはめるか、それとも何も当てはめないか、そんな形で考えること自体が間違っているのだが、臨機応変ということが風前の灯のように消えかかっているだけに、難しいと感じられるようだ。相手を見て考えればいいと教えられたのはそれほど昔のことではなかったが、最近では相手の見えぬ話が急激に増えている。そんな中では判断材料も乏しく、全てを捨ててかかる方が手っ取り早いことになってしまう。確かに、情報との関わりからすれば、冷たい画面を通してのことが多くなったが、それでも人と人の直接的な関わりが失われたわけではない。自分の居所から一歩外に出れば、そこには誰かがいるわけだし、何かが起これば関わらざるを得ない状況も生まれる。更に、親しい仲間となれば、その関係が親密化するのは当然のことだ。しかし、世の中の歪みは仲間意識の中にまで浸透し、互いに全幅の信頼を持てず、ある程度の距離をおいた関係を続けることが多くなったという。現実はどうなのか知る術もないのだが、どうにも形だけの関係を保とうとする人が増えているようだから、何かが大きく変わってきたに違いない。全てを委ねることのできる友人の存在が、その人の価値を決めるというわけではないが、周囲との軋轢が増す環境が当然となっている現代社会では、そんな存在が必要となる場合も多いのだろう。果たして、それが自分を幸せな方に導いてくれるかどうかは定かでなく、逆に窮地に落ちるきっかけになる場合も多いのだろうが、それもまた、人を見る力の現れと考えることができる。利害関係が明確になっている場合には、大した考えも必要とならないだろうが、そうでない関係の場合、互いにとって相手の存在はどんなものか、考える必要が出て来るのかもしれない。ただ、こんなことを長々と書いていると、現実にはそんなに複雑なことが起きるわけでもなく、ただ単にその時の気分と流れに従って、自分の進む方向を定めているに過ぎないことがわかってくる。その中で、誰とどう出会うかは運に任すしかないということなのか、それとも自分で気づかぬ何かが動いているのか、ある意味どうでもいいことなのだろう。変えられないものを変えようとする努力は報われないのだから。
「生き馬の目を抜く」ほどの商売人、と言われたらどんな感じを受けるだろう。優れた商売人として認められたと感じるか、はたまた抜け目なくずる賢い商売人と思われていると感じるだろうか。本人の性格はさておき、商売自体は上手く行っていることを表している。ただ、それが正当なものかどうかは、別の話だ。
最近の商取引では、これほど極端なことはないにしても、かなり危ないことが行われている。例えば、経費削減のための方策を次々に繰り出す経営者の多くは、一部に表面化する歪みに目をつぶっているし、法律に触れない限り何でもありという勉強家の経営者もいる。法治国家だから法律こそが重要であると考える人もいるが、彼らは法律が何処から出て来るのかを考えたことがあるのだろうか。文章としての形式を整えているし、誤解や曲解の起きないように注意が払われているが、その大元となるのは、人それぞれの持っている感覚に過ぎない。倫理観だったり、正義感だったり、色々な見方があるが、構成員全てにとって利益となるものを文章化したに過ぎないのだ。逆に言えば、法律になっていないからやってもいいという考えではなく、人として許されることかどうかを判断基準とすべきなのではないか。そう考えると、あれやこれや違法行為ぎりぎりの、と評される人々の全てが、明らかに間違ったことを繰り返していることになる。では、どんな商売を正しいと判断するのか。儲けないことなどと言うつもりは毛頭ないが、少なくとも正当な形での利益を上げるだけに終わらせる必要がありそうだ。最近起きた問題の一部に、仕入れ価格の下落による圧迫が挙げられているが、下請けなどを含め、本来ならば正当な価格をつけるべきところを、そうならなかった話が伝えられる。これにより、努力の限界を超えたところに至り、不正を働く結果となったというわけだ。この話の真偽は兎も角、最近流行の被害者意識に基づく展開に思えるが、そこに欠けているのは本来の感覚の欠如なのではないか。事情は違うが、管理の不備など入札による取引の悲惨な結末についても、同じことが当てはまりそうに思える。全てが金にまつわる話であり、特に、経費削減を目標としたものであるのは、偶然の一致ではあるまい。何を追求すべきかを見誤った結果であり、そこに本来あるべき姿を見失った結果である。海の向こうの紳士たちの姿を見ると、この言葉も意味を成さない気もしてくるが、本来の意味は、今世の中に欠けているものなのである。