パンチの独り言

(2007年7月2日〜7月8日)
(寸善、寸隙、既、寸言、寸土、寸鉄、寸法)



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7月8日(日)−寸法

 今週は、流石に面倒なことが多かった。当てはまる字の数が極端に少なく、そこから導き出される言葉もその多くが同じことを指していたから、選択肢が少なかった。それでも、最近はほとんど使われない言葉も多くあり、こういうものを見る度に言葉の変遷に思いを馳せることになる。消滅速度は以前にも増して、のようだ。
 ほんの少し、という意味で使われる言葉との組み合わせには、二つの方向があるように思える。一つはそのままの意味であり、もう一つは小さいながらも強い、まさに一寸法師のような意味合いを持っている。大きいことは良いことだといった感覚は欧米ではよく見られるが、こちらの方ではそうでもないことがこの辺りから窺える。山椒もピリリと、と評されるように、大きさで量るのではなく、印象の強さのような指標が昔から重視されてきた。ところが最近の情勢はここでも欧米化が進んでいるように見える。兎に角、他を圧倒することが最優先であり、そこから先の展開は勝負が決してから考えればいいといった手法が大部分を占めている。それはそれで一つの選択肢に違いないが、それしかなければ優勢になったものが常に勝利を手に入れることになり、時の運だった筈の勝負の行方は火を見るより明らかとなる。安定した世の中では不安要素は最小限に抑えられ、常に予想通りの展開が期待されるのかもしれないが、それがどんな社会を構築することになるのかは、目の前の茶番劇を見ていれば誰にでもわかることだ。多くの三文芝居が演じられ、杜撰な台本が流布される。その結果は何か大きな不安を孕んだまま、安定を装う社会を築き上げ、いつか訪れる崩壊の日を待つしかなくなる。今さえ良ければと思う気持ちには、将来のことなど無関係かもしれないが、そういう考え方でも大過なく過ごせた時代はそろそろ遠い昔となった。そろそろ真剣にこれまでの歪みを解きほぐす作業に本気を入れてかからねばならないだろう。改革の文字が踊っても、誰も踊らなかった時は過ぎ、何も変わらないばかりか、歪みが大きくなっただけだった。ここからは、なるほどと後から思えるようなことを仕掛けないと、どうにも解決の方向には向かいそうにもない。そのために必要なことは、奇をてらうことではなく、根本から問題を見直すことなのではないだろうか。

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7月7日(土)−寸鉄

 ハンドルネームは、ネット上で正体を明かさず、活動するための道具の一つである。匿名をいいことに、誹謗中傷を繰り返す輩がいる一方、内容から正体がばれることに躊躇しない猛者もいる。しかし、一番の勇者は実名を明かし、自分の立場を明らかにした上で意見を述べている人々だろう。本人はごく当たり前なのかもしれないが。
 特に、ネット上の掲示板はこういう人々の活躍の場となる。誹謗中傷だけでなく、集団によるイジメも展開されるようで、その実情が報道されていた。匿名だからはっきりとものが言える、という人もいるようだが、いつの間にか自己満足に浸るだけになる人もいる。そういう人々が暮らす世界では、現実の社会に通用する名前での登場は自ずと難しくなる。しかし、これまでに何度か目撃したが、そういう中に姿をさらして飛び込んで来る人がいる。勇気とかそんなものを感じるのではなく、そこまでやらねばならないという決断に何かを感じる。一つは、ただ単に自分の発言に責任を持たせるためのものだったが、もう一つは、明らかに掲示板上での誹謗中傷や、推測に基づく誤解が展開されたためであり、燃え上がった炎を消すためのものだった。本人確認が行えない仕組みだけに、たとえそのような行為に出たとしても、確定できるわけではない。それでも、言葉遣いや論旨、知識などという判断材料によって、多くの参加者は納得していたようだ。所詮は仮想空間での出来事と片付ける方法もあるが、別の見方では現実社会への影響も多少あり、対処すべきと言われる。中々難しい問題だが、経験が積み上がるに連れて、変化するものだろう。一つだけ言えるのは、画面を相手に考えると、多くの人々は独り善がりの穴に陥りやすいということだ。これはネット掲示板に限らず、電子メールにもあてはまることで、電話との違いはそこにあると言う人もいる。ところで、パンチというハンドルネームは、バンチと呼ばれたこともあるが、実際には、英語のpunchlineという言葉に由来する。けっして、パンチパーマのヤクザな人という意味ではなく、相手にギャフンと言わせたいという思いが込められているのだ。ただ、ネットの常として、つい自分だけの世界に入り込み、思い込みに気づかぬことがある。そんな状況を眺めつつ、自分にもそれがあてはまる可能性があることに注意したいと思っている。その意味では、たまに返ってくる意見は大切にしたいものの一つなのだ。

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7月6日(金)−寸土

 貰えるものなら何でも、といった風潮がある。それほど貧しいわけでもないのに、どうしてか、そんな気持ちの人がいる。努力を積み重ね、財産を築いてきた、という立身出世話が流れていた時代から、折角築いた財産を些細なことで失い、努力や苦労が報われない時代になり、どんな形でも手に入るのなら、となったからか。
 親の財産とてそんな感覚で扱われ、うっかりすると相続人の間での骨肉の争いに発展するという。確かに、権利主張からすれば筋が通っているのだが、争いほどの価値のあるものかどうかは怪しいものではないか。それでも当事者たちは意地でも自らの主張を通し、自らの基準に応じた財産分与を勝ち取ろうとする。金で片のつくものならまだしも、そうでない物品やら不動産やらとなると、売り捌いてでも何とかするしかなくなる。この辺りから他人には理解できない状況が始まるのだが、例えば、土地を分けるということについて、昔の人はこんなことを言っていた。大きな土地、例えば農地なら、兄弟での分配もある程度まで可能となるが、それが小さな土地となるとどうか。それまでそこから入る収穫やら収入やらで成立していた共同生活が、より小さなものになることで破綻する場合があり、それを戒める言葉として「田分け」と呼んだと言う。馬鹿とか阿呆という言葉ほど使われていないが、これもまた思慮のないことを表す言葉だ。しかし、貰えるものならと考える時代には、こんな言葉を思い出す人もなく、ただ争いが起き、奪い合いが続く。先祖代々の土地も売り払えば何も残らず、分ければ役立たずのものとなりかねない。こちらにとっては不可解な話だが、当事者たちは大真面目で競い合う。今でも互いの理解を持ち続ける家族もいるが、最近話題に上るのはお騒がせの人々だけである。都会では小さな土地に小さな家を建て、そこに住む人が増えているようだが、それが次の世代になった時、どんなことが起きるのか。それとも、その頃には、また時代が変わり、違った考えを持つ人々が出て来るのか。どちらにしても、小さく分けられてしまった土地はそのまま残るわけだが。

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7月5日(木)−寸言

 早朝まで降っていた雨も上がり、晴れ間が覗いている。低く垂れ込めていた雲は動きを速め、蒸気が立ち上るかの如く、空の彼方に飛んで行く。何とも不思議な光景だが、どれもこれも自然現象の理を忠実に守っているのだろう。それに比べて、地面を這い回る生き物は意味のないことを喚き散らしているだけだ。
 人々が意思を伝えあう道具として言葉を獲得してから、伝えるべき事柄はその数を増し続け、微妙な雰囲気を的確に表現する方法も増えてきた。しかし、ことが微妙であるだけに、送り手と受け手の間での誤解は絶えず、時には大きな争いへと発展することもある。立場や状況によっては、兎に角正確に伝達することが第一であり、短い言葉を使うより、長々とした表現が好まれることが多い。しかし、そんなことに慣れてしまった人々には、的確な表現よりも多種多様な表現の羅列が適切に見えるわけで、断片的には誤解を産む話が頻出することにもなりかねない。雄弁さを誇りとする人々の話の多くはこんな状態で、一歩間違えれば人の道を外しかねないことになる。多彩な話題を繰り出すのであればまだしも、同じ話題を異なる表現で伝えようとするのは、いかに雄弁と言えどもどうかと思える行動だ。自ら発する言葉の危うさだけでなく、こういう人種は人から尋ねられたことに場当たり的な返答をするから困り者である。首尾一貫しない論旨は当然のこと、恥の上塗りのような前言撤回、嘘の連発などとなれば、口先何とかと呼ばれるのも無理はない。こういう人々に欠けている最も大きな要素は何かと問われたら、おそらく次のように答えるのではないだろうか。まず、口数を減らす努力をすることであり、そのために喋る前に熟慮することなのだと。書き言葉は全てが記録に残るのに対し、話し言葉は記憶にしか残らない、と言われたのは、ずっと昔のことである。今では記録媒体の普及から、あらゆる言葉が何かしらの形で残され、繰り返し同じ芝居が演じられる。そうなれば、話の上だからという言い訳は通用せず、特に長話となれば、断片のみの伝達の可能性が大きくなる。この状況では、如何に手短に的確な表現を用いるかが肝要となり、言葉数での勝負は成立しない。正確さが求められると同時に、言葉に含める意味の深さも重要な要素となるわけだ。雄弁さが価値を持たなくなった時、さて次に来るものは何か、彼らには見えないのだろう。

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7月4日(水)−既

 安心して暮らせる社会を望まない人はいないと思う。ということは、社会にはそれだけ危険が一杯で、一時も安心できないということかというと、流石にそこまで極端に思う人もいないだろう。しかし、時々、ほんの一瞬でも危険を感じた人は多く、上手く免れてホッとする。ただ、それが繰り返されることを気に留めないのだが。
 個人的なことで同じようなことが繰り返されたとしても、大して気にしない人が多いだろう。以前、こんな場面に遭遇したという思いが過ったとしても、それを深刻に考えることもない。しかし、多数の人を相手にする職業ではこんないい加減さは通用しない。大量輸送に携わる鉄道や航空などの分野では、小さな事故の繰り返しが大事故に繋がることもあり、被害の大小で対処を変えることは危険度を増すと言われる。大事故が突然起きるのは当然のことだが、そこに至る道筋については事故それぞれに事情が異なる。予期せぬことが起きる場合もあるが、多くの事故ではそれ以前に同様のことが起きていることが多く、その時点で対策を講じていればという反省の声が聞こえることもある。しかし、人間は結果によって判断を下す場合が多く、たとえ運良く最小限の被害でおさまったとしても、最悪の場合のことを考えることは少ない。そのため、小さな事故からの情報の蓄積はほとんどされず、起きるべくして起きた事故でさえ、予想だにしなかったという反応しか出てこない場合が多い。そこに根本的な欠陥を見出した人々は、これらの小さな事故や事故に至らなかった事例を収集して、そこから問題を抽出しようと試み始めた。現実には企業の多くが事故に至らないような対策を講じる努力をしているのだが、中でも人を運ぶ業界では影響が大きいために注目されるようだ。最近もそれらに関する情報収集の結果が報道されていたが、どんな対策が講じられ、その効果がいかほどだったかについての報告はまだない。人それぞれが自分の経験から学ぶよりは、こういう集団での情報を集約したことからの学習の方が遥かに効果がある筈なのだが、期待通りになるのか明らかではない。また、個人的な問題ではたとえ事故に繋がったとしても、被害はそれほど大きくならないのに対して、大量輸送ではたった一つの事故とはいえ被害は甚大である。この違いを考慮すると、更なる努力が必要に思えるが、さて何をするのが良いのか、見えてこないのである。

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7月3日(火)−寸隙

 昔からそうだったのかもしれないが、最近特に注目される人材に何でも屋がいる。こう書くと悪い意味に取られるが、現実には様々なことに的確に対応し、仕事を片付けて行く人のことを指していて、カタカナ語ではユーティリティープレーヤーと言うようだ。専門家だけでは動かない仕組みに必須の人材である。
 器用貧乏などと呼ばれた時代もあったが、一つの事に打ち込めず、多種多様なことに興味を抱く気質は、移り気とか落ち着きが無いといった表現で卑下されてきた。しかし、専門家集団が様々な問題を抱えるようになると、それを支える人材として登用することが増えてきた。多種多様なことに通じていれば、様々な状況に対応することができ、専門馬鹿では解決できない事柄を片付けられるからだろう。時代の流れは更に進み、専門家の存在が危うくなり始めると、こういう人々の役割は更に大きくなる。さほど高くない専門性を上手く寄せ集めて、それなりの組織を構成する能力や、先を見通した計画を立案する能力が評価されるようになるからだ。以前ならば、一匹狼で、属する組織を持たず、協調性が乏しいように思われていたが、それがこういう時代には上手く適合するようで、特定の組織に属さないからこそ、全体を的確に見渡せるということになる。こんな人材には次々に仕事が舞い込むわけで、処理能力の高さも重要となるが、移り気な性格では一時の集中がものをいい、短期決戦が鍵となる。目の前に積まれた仕事をその場で片付けることを主義とすれば、溜まる仕事はなく、忘却の彼方に押しやることもなくなる。多数の仕事に対して、その場での対応を心掛ければ、素早く片付けることが可能となるが、その一方で、熟慮に欠ける仕事を憂慮する声も聞こえる。しかし、全てとは言えないだろうが、多くの場合、考える時間はほんの少しで、その後で積んでおく時間が長いわけだから、このやり方は必ずしも間違いではないだろう。それに、沢山のことを積み上げて、その山の中で一度に色々なことを考えるのに比べたら、ずっと効率的で、高い成果を挙げられる筈だ。そうでなければ、こんな人材の登用がこれほど盛んになるとは思えない。更に言えば、こういう気質の人々は一つことに集中しないから、切り換えが早く、時間の繋がりが一見変化に富んでいるように見えて、滑らかに流れていることが多い。時間の使い方が上手いと言われる所以は、この辺りにありそうである。暇を持て余すことがないのだから。

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7月2日(月)−寸善

 人は大きく分けると二つに分類されると言われる。乱暴なやり方だが、楽観的な人と悲観的な人ということだ。何事も良い方に捉えようとする気質の人がいる一方で、何でも悪く受け取る人がいる。悪意という意味ではなく、結果が悪い方に向くという意味で、結果の良し悪しが始めから決まっているということか。
 現実には、予想が外れることもあるし、毎回同じことを繰り返すわけだから、余程のことがない限り予想通りに事は運ばない。こんなのは当たり前の事だが、しかし、持って生まれた気質だけに、ちょっとやそっとでは変えられないようだ。世の中の割合がどの程度かは知らないが、両方が適当に入り交じってこそ、時代は上手く流れるのだろう。ところが、最近はこの辺りの情勢に変化が起きているようだ。以前ならば自分自身の判断だけで、どちらに流れるかを見定めていたものが、いつの間にか、他人を頼りにする事が多くなった。情報収集力の差と言ってしまえばそれまでだが、しかし、判断力は収集力とはほとんど関係ない筈で、ただ雑多な事柄を積み上げたとしても、何の判断もできない。にも拘らず、誰かが適当に下した判断を有り難くいただいて、それによって一喜一憂している姿は何とも滑稽に映る。特に耳目を集めたいと思えば、楽観的な結末より悲観的な結末を選ぶのが適当で、それによって人々の不安を煽ることができれば、ほぼ完璧な仕上がりとなる。そんな思惑が見え隠れする判断を有り難く頂戴するなどということは、何とも不可思議にしか思えないが、それが最近の流れとなっているようだ。目の前にいる人も、画面の向こうにいる人も、同じような目でしか見つめられない人々にとっては、表の顔の下に隠れている本心を見抜く必要はないのかもしれない。できないことをできるようにする努力より、皆と同じ方向に進むことの方が安心であり、心強いからだろう。それがたとえ、自らの不安を大いに掻き立てる結果になったとしても、皆も同じとなれば別の形の安心が手に入る。何ともおかしな光景に思えるが、それは違う側にいる人間だけのものかもしれない。このところの流れは悪い方向に固定されているように見えるが、現実にはそうでもないらしい。また、人それぞれの事情によって大きく違うわけだから、一概に断言することは無理だろう。それにしても、ここまで人の行動が悪く見える時代も珍しい。ある意味の生活安定を感じられる時代に、こんな不安定な状況が生まれることに疑問を抱くが、これこそが今の時代の象徴なのかもしれない。楽観か悲観か、それとは違う感覚が潜んでいるようにも見える。

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