パンチの独り言

(2007年7月9日〜7月15日)
(詮方、千三つ、先憂、前言、選良、専行、栴檀)



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7月15日(日)−栴檀

 音楽家は短命な人が多く、それでもかなりの業績を残すのは、早熟だからだ、とよく言われる。その代表格の人物は誰かの演奏を初めて聞いて、それをすぐさま再演したと言うから驚きである。ただ、こういう話が全部に当てはまるかというとそうでもないらしく、例外は幾つもあるとのことだ。
 当時短命だったことの理由の一つに、食料や衛生に関する事情がある。そういう中で、何かに没頭する人々は、健康管理など二の次となり、命を縮めてしまったのだろう。最近はそういうことも無くなったから、昔のようなことが繰り返されることは無くなった。あるとすれば、精神的な圧迫による自死だろうか。天才は幼少の折からその片鱗を見せると言われるのは、こういう人々を指してのことだろうが、長生きとともに晩熟の例外も数多くあるようだ。人それぞれに異なる才能を持つことだけは確かなようだが、それが芽を出し、実を結ぶ過程にもそれぞれの様がある。いち早く才能を見出された人は、はじめから順風満帆、陰の努力はあるとはいえ、光の当たる場所を歩み続ける。その一方で、自分自身も含めて、才能に気づく人がおらず、平凡な道を歩んでいた人がある時を境として、急に脚光を浴びることがある。その時期が遅れれば遅れるほど、その後の時間は短くなってしまうが、急激な変化は想像を超えた速度で訪れ、一気に開花する場合もあって、それはそれで興味深い展開を見せる。超一流の世界では、そんなことが起こり、それぞれに世間の注目を集めるから、話題となるわけだが、ごく一般の人々にだって、同じような展開は起こりうる。話題性がそれほどでもないから、注目されることが無いだけであって、本人の中での転換は予想を遥かに超えるものなのだろう。ただ、こんなことが起きるのは滅多に無く、結局多くの人々は、自らの才能にさえ気づかぬままに人生を終えるのではないだろうか。ほんの一握りの人々だけが、そういう幸運に恵まれて、名を残すだけなのだ。自分の力だけでは何ともならないことがここにあり、色々な人々の助けがなければ、と言われる所以がここにある。ただ、真の才能に気づかなくても、それなりに人生を楽しむことができれば、それで十分なわけで、そんなことを嘆いている人を見ると、嘆くことに対する哀れみを覚えてしまうのだ。無い物ねだりと言い切ってしまうと、向上心を失わせることになるが、自分のできる範囲で楽しむことの大切さも、重要なのではないだろうか。小さな頃から注目されて、そんな環境で育った人間が、必ずしも幸せではなかったという姿を見る度に、そんなことが思い出される。

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7月14日(土)−専行

 学校の教室では、皆で決めようというやり方が当たり前になっていると思う。合意とか、総意とか、そんな言葉が使われるのは、もう少し年齢を重ねてからだろうが、小さな頃から皆と話し合って、皆にとって最良の選択をする習慣をつけようとしている。ただ、これが儀式のようになっているのも大人の世界と同じか。
 このところ、政治の話題ばかりを取り上げているが、その理由の一つにこういう儀式の頻発が挙げられる。兎に角形式のみを重視して、如何にも手順通りに運んでいるように見せるが、ここまで極端な行動が目立つと、誰の目にも明らかであり、総意という感覚はほとんど存在していないように思える。では、誰がそのような勝手な行動をしているのかと言えば、ある特定の人物というよりも、そういう輩の集まりが傍若無人ぶりを発揮しているのだろう。それぞれに重要な決定をしていることは確かだろうが、小さな頃から押し付けられてきた習慣がいとも簡単に破られるのを目の当たりにすると、あれは何だったのかと思ってしまう。しかし、よく思い出してみると、教室での儀式もその多くがその場を牛耳っている人間の思惑通りの展開を見せていたし、子供らしい行動がいつの間にか押さえられていたことが見えてくる。どちらにしても、こういう社会なのだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、そうだったら、そんな振りなぞしなくても良いのではないだろうか。合意や総意によって全員に責任が覆い被さることは、ごく当たり前のはずなのだが、こんな状況ではその一端を担わされることは本意とは言えない。そういうことならはっきりと、自分たちの思い通りに動かしているという状況を認めるべきであり、夢物語を呟くべきではないだろう。独断が悪いとは必ずしも言えないことはほとんどの人が認識している。気になるのは、そこで芝居が演じられることの方で、区別さえはっきりしてくれれば良いのではないだろうか。

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7月13日(金)−選良

 呼び名というのは面白いものである。正式なものは知られず、通称名ばかりが有名になることも多いが、それは何とも味気ない公式の名前に比べて、何かしらの思いが込められたものに愛着が感じられるからだろうか。ただふざけて作ったものではなく、多くのものは意味を込められているわけだから、当然なのだろう。
 こういう話は何処にでもあって、お堅い世界だろうが、遊びの世界だろうが、余り関係ないように思う。堅いところは堅いなりに、柔らかさを込めた名前を考え出すのだろうし、遊びでは逆に真面目なものを作ったりする。正反対にあるものの方が面白みが増すだろうし、それによって、人々の関心を呼べば、何かいいことがあるかもしれないのだ。ただ、こんなことをするのも時代背景によるわけで、少し時が経つと、まるで通じないものも出てくる。それはそれで化石や文化財のような扱いを受け、何とか生き延びるものもあれば、誰か掘り出してくれないかと待つだけのものもあるようだ。いずれにしても、人の目に触れてこそ意味のあるものだから、何とか、そういう機会を作ることが大切なのかもしれない。そんなものに触れる機会は多分昔の雑誌や小説を読むくらいなのかもしれないが、大作家のものならいざ知らず、こんなに変化の激しい時代となると、そういうものに触れることもほとんど無さそうだ。今回の話題にするものは、そんなところから見つけてきたわけではないが、呼び名の面白さと言うか、こんな言い方も洒落たものだと思ったので、持ってきた。唐突だが、代議士とはどんな人々のことを指しているのか、知っているだろうか。これも正式にはちゃんとした呼称があるのだが、これはこれでおそらくかなりの歴史を持つものなのではないだろうか。ただ、こういう言い表し方ではなく、別の感覚を持ち込んだものがあるのは、余り知られていないのではないだろうか。読んで字の如し、と言うべきものかもしれないが、そこにはその呼び名に込められた思いがはっきり現れているように思う。こんな言葉にはこれまで全く触れたことがなかったので、何とも言えないけれども、まさにこういうことを行動で示して欲しいという思いが、代議士にしても、この呼び名にしても込められているように思うのだ。今回は、違った場所の人々の選択なのだが。

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7月12日(木)−前言

 人間はものを忘れることによって生き続けるという人がいる。そんな馬鹿な、と思う人もいるだろうが、何でも全て覚えていることが必ずしも良い方向に働かないことは、確かなのではないだろうか。そういう人々に限って、自分で自分を苦しめている人がいて、簡単に忘れられる人が羨ましいと言うのだ。
 個人的な話ならば、こういうことは確かにあると思うが、しかし、社会全体として見ると、すぐに忘れ去られることには違和感を覚える。その典型とも言えるのが政治の世界で、このところの流れを思い起こすだけでも、あれだけの紆余曲折があったのに、ちょっと引き合いに出されるだけで、過去のこととして片付けられているのだ。その中でも個人的に気になる話は、失言や失敗をした人々を庇う人たちの言動である。失言をした人が直後に弁明をした時、当人が属する政党の代表者の一人は、きちんと説明した「ようだ」から、これで十分であると答えていた。そこから先の展開は目を覆うばかりのもので、この代表者もコロコロと発言を変えていた。呆れたのは、数日後の新聞に、発言直後にその真意を質し、撤回するように求めたとあったことで、始めの答えとの余りの格差に驚くばかりだった。この手のことは日常的に起きているようで、次に火の手の上がった大臣の説明に対する、その任命責任者の感想のようなものも、同一線上にあるように見えた。つまり、本人がきちんと説明した「と伺っている」ので、それで十分と答えていたのである。この類いの話が次々と出ては去り、どの順序だったかも思い出せないほどだが、兎に角、世間一般に強調されている「説明責任」なるものは有名無実であることだけは確かだろう。噂話に踊らされるのは一般大衆だけかと思えば、重大な責任を負う人々までも、形が違うとはいえ、伝言に頼っているのである。情報社会というものがこれほど危ういものとは思わなかったが、いい加減な情報に基づいて行動することの危険性をこのところの流れは如実に表しているのではないだろうか。以前発した言葉を引っ込めることはとても簡単にできるのだが、その一方で一度世の中に出てしまったものが広がることを止めることは不可能である。単純にその勢いが無くなり、消え去ってしまうのを待つしかないわけで、何とも居心地の悪い思いが続く筈なのだ。それにしても、自分の言葉に責任を持てない人々がこれほど増えてしまったのは、何故なのだろう。

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7月11日(水)−先憂

 政治の世界の馬鹿騒ぎを、まるで他人事のように眺めている人がいる。確かに、彼らが窮地に追い込まれたとしても、ほとんどの人々には無関係なことであり、どの道忘れ去られることに違いない。ただ、出来事そのものは無関係でも、そこに何かしらの類似点は見つかる筈で、全てを他人事にする神経は疑うべきだ。
 政治の世界に限らず、最近の世の中の状況は安定という不思議なものの上に胡座をかいた人々と無闇矢鱈に心配事を並べる悲観派が溢れている。彼らに共通する点は無いかといえばそうでもなく、例えば先行きの見通しの悪さなど、表現方法が違う点を除けばそっくりに思える。何でも他人事と片付けるのは安易な方法で、それによって得られるものはほとんどない。にも拘らず、最近の風潮がそちらの方に動いているのは、どの道を選んでも結果は変わらないという思いがあるからだろう。例えば、誰かの能力が無いと言っても、それに代わる人材がいないからと放置するのは、後先考えない人が思うことであり、それらの問題に真面目に取組む姿勢がないことの証左だろう。本来の考え方から言えば、役に立たず将来性も無い人間を見限るのは当たり前のことであり、その代用として不十分に思える人間でも、見込みのない者と置き換える価値はある筈なのだ。それがわからず、動こうともしない人々の心の中には安定の二文字が居座っており、変えないことの利益が全てに勝ると信じている。現実には、たとえ小さくとも日々変化があり、それに応じて自分自身を微妙に変えているのだが、それ自体を実感できないほど神経が鈍磨しているのだろう。そんな状況では見通しも反省も無く、集団心理の典型的な行動が繰り返されることになる。何処かで怒りが爆発すれば、何が原因かわからないままに、その流れに乗る人々がいるかと思えば、その火が消えた途端に、火事場の野次馬よろしく、さっさと立ち去るわけだ。彼らにとって自分の考えは無いに等しく、目を閉じたままに現場を目撃するようなことになる。目の前の出来事でさえ、そんな程度の分析しかできない者が、果たして前方に広がる景色を眺めることができるか。まず無理だろうとしか言い様が無い。しかし、これが一般大衆に限らず、経営者や為政者にまで蔓延する流行病だとすると、困ったものだと言うしかなくなる。取っ替え引っ替えが必ずしも良い結果を産まないことはわかっているが、現状を見る限り、交替が必要なことは明らかなのではないだろうか。

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7月10日(火)−千三つ

 七転び八起き、五十歩百歩などなど、数にまつわる言葉が沢山ある。数自体が何かとの因縁を表すこともあるし、単純にその多少による意味合いを用いたものもある。いずれにしても、数というのは感覚的なものに過ぎないのだが、人それぞれが同じ感覚を共有することができるので、便利なものということだろう。
 中には、ものすごく大きな数と小さな数を対比させることによって、違いをはっきりさせることを目的としたものもある。とはいえ、50と100がどの位違うかを明確に示すことはできないし、現実には人による話になるわけだから、こういう使い方が必ずしも的を射ていると言えない場合もあるだろう。それでも、長い間使われ続けた背景には、共通認識があり、当たらずとも遠からずといった受け取られ方がされる、許容範囲内にあることがあるのではないか。その一方で、中々面白い考えに基づくものでも、人々が口にすることが少なくなり、消え去ってしまったものも数多くある。洒落たものほど一時の人気は博すものの、いつの間にか消えてしまうことが多く、万人受けすることは必ずしも良い方向に向くわけではないことがわかる。大きな数と小さな数の対比の例として、万に一つもない、という表現があるが、同じことを一万回も行うことなどほとんどあり得ないから、それほど起こりえないという意味になるわけだ。これが正しい解釈かどうかはわからないが、もし正しいとしたら、人間の通常の生活では試行自体があり得ないという考え方は面白いと思う。しかし、その一桁下になるとまだ起こりそうな気がしてくる。だから、その中で小さな数字を使えば、これはあるかもしれないが、無さそうだという意味になるのだろう。しかし、千と三を比較するのはどんな理由からなのか、こちらの疑問は簡単には解けそうにもない。

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7月9日(月)−詮方

 諦めの溜め息と共に漏れる言葉がある。自分自身のことに使う時は良いが、他人に関わることで使う時は用心が必要なようだ。それが本人に伝わり、あらぬ誤解を受けることもあるし、誹謗中傷に受け取られる危険性もある。時には、自分に向けたものを誤解され、それによって窮地に追い込まれることもあるのだ。
 解決に結びつくまで一つの事に拘る気持ちは理解できないわけでもない。ただ、全ての人々がそうしたら、おそらく世の中のものは何も動かなくなるだろう。一方では、先を見据えて、後ろを振り返らない気持ちも重要なのだ。ただ、こういう書き方をすれば簡単に片付くものも、現実には複雑な絡み合いがあり、ここという線引きができないことが多い。そんな中で不用意な発言をすれば、誤解が生まれるのは当たり前のことで、立場によっては細心の注意が必要となる。ただ、一般大衆にとっては、大した責任もなく、自分自身のこととして捉えた考え方は、何も問題を生じない。それより何より、一つの事に拘り、それから抜け出せなくなることによる弊害の方が遥かに甚大であり、深い苦悩の井戸から這い上がれない人々が増えている。諦めと拘り、正反対の感覚に思えるが、実際にはほんのちょっとした違いに過ぎないのではないだろうか。決断という意味でも、同系列にあるものであり、将来への展望に基づく点でも同じである。しかし、結果としては全く逆の方向を向いているように見え、現実にその後の展開も対照的である。ただ、人はそれぞれに抱えることのできる課題の数か量が決まっており、それを超えると自分が沈み始めることを理解しなければならない。過剰な負荷を自分から背負い込む人々に接していると、制動の利かなくなった過積載のダンプのように見える。必要だからと抱え込んだとしても、それを処理する能力も時間も足らない。そんな中で落ち込むよりは、この場は他の選択がない、という気持ちを素直に表した方が結果的には良い方向に向く。では何でも諦めれば良いかと言えば、そうではないわけで、その意味で、一番難しいのは、どちらにするかの一瞬の判断にある。時には気軽な気持ちになり、詮無いと一言言うことも大切なのだが。

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