パンチの独り言

(2007年7月16日〜7月22日)
(村夫子、損益、蹲踞、存置、樽俎、遜色、尊大)



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7月22日(日)−尊大

 他人の態度を気にする人がいる一方、そんなことにはまったく無頓着な人もいる。謙った姿勢を見せれば、その人の評価が上がることもあるが、人となりを正しく表したものかはわからない。何かしらの目論見があって、そういう態度を取る人がいるからで、一見素っ気なく振る舞う人の方が信用おけることも多いからだ。
 そうは言っても、やはり下手に出られて悪い気がする人も珍しいだろう。こちらを立ててくれれば、何となく信用してしまうことも多い筈だ。ただ、それも何度か経験すると、安易に結論を出すことの危うさが見え始め、もう少し相手を見てから決めようと思い始める。うっかり信用して失敗することも多いが、逆にあまりに見下すような態度に腹を立て、見誤ることも度々あるようだ。態度の取り方はそれぞれの人の育ってきた環境にもよるわけで、単純に比較できるものでもない。だから、初対面での判断はあてにならず、もう少しじっくりと見定めることの大切さを徐々に知ることとなる。そういう過程を経てくると、意外なことに、初対面での判断が正しい方に向かい始めることもある。思惑故の行動か、はたまた正直なものか、そんなところの判断までが持ち込まれ、何とはなしに材料化されるわけだ。そうなれば、まずまず見誤ることも少なくなり、それなりの基準が設けられることになる。ただ、それで全てが上手く行くかというと、そうでもないから難しい。人それぞれの違いの程度はかなり大きく、ある範囲までは容易に判断できるとしても、それを超えてしまうと外すことが多くなるからだろう。自分の判断に自信を持ち始めた頃にこんなことがしばしば起き、もう一度反省する時期がやって来るのも、かなりの人にあてはまるのではないだろうか。如何にも丁寧な物言いがかえって怪しいと思っても、それで十分信用できる人もいるわけだし、見下すような言動は正直の証と思っていたら、単に感情が露になっていただけで、扱いにくい人物であったりする。簡単にはいかないものだと思うと、迷うことも多くなるが、かえってその方がいい結果に繋がるだろうから、心配する必要はないのだろう。表面的な指標だけで判断することはやはり危険であり、それ以外にできる限り情報を集めることや観察することが大切なのである。簡単に見破ることができるという自信は、逆に誤認の原因となり、思い違いを産み出す素となる。ちょっとしたことでもいいから、しばらく相手の挙動を見続ける必要があるということなのではないか。

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7月21日(土)−遜色

 他の人と比較されずに育った人はどの位いるのだろうか。周囲の人々が余程無関心でない限り、何かと比較されることが多い筈で、それを傍迷惑と思ったことのある人が殆どだと思う。ただ、自分に向けられるこうした視線には敏感に反応しても、自分から出る視線には気づかないことが多いのも事実ではないだろうか。
 比較に基づく指標、つまり相対指標は、誰にでも簡単に作れるから、便利なものとなっている。しかし、その指標に使うべき材料は、人が持つ資質や能力のうちのほんの一部しか用いないから、比較そのものが公平に見える割には、その前段階でかなり極端な扱いを施すことになる。それが比較される人間にとっては納得し難いものとなるわけだが、逆の立場に立った時に安易にその方向に走るところを見ると、人間の特性みたいなものを表しているのではないかと思えてくる。相手に対してこういう見解を述べるだけで終われば、勝手な人という評判が立つだけなのかもしれないが、最近の傾向はもう少し違った方向に向いているように思える。つまり、自分を評価する時にこういった見方を適用する人が増えているように見えるのだ。他の人と比べてどうか、という考え方は時として重要なものとなるのだが、全てにこれを当てはめて行くと、窮地に追い込まれることが多くなる。つまり、比較の対象として自分より上の人を引き合いに出せば、人より下という判断が常に出てくるし、その逆をすれば、常に人の上に立てることになる。どちらにしても極端にしかならず、正当な評価からほど遠くなるだけで、時にはまったく役に立たないこととなるわけだ。その上、これを基に次の判断を下すことになれば、どうにも動きのとれない精神状態に追い込まれる。多くの人はこの段階で自らかけた呪縛から解き放す方に向かうのだが、それもできずに落ち込む人が目立ってきた。自分で自分を縛るわけだから、誰も手助けできず、苦しみの底に落ちて行くことになる。本来はそういう袋小路に迷い込まないための方策が自ずと身に付いて来る筈が、最近はそうでもないらしく、教え込む必要さえ叫ばれるようになってきた。比較することはあらゆる判断で重要な手立てになるのだが、こんな方向に進んでしまう人にとっては逆効果となる場合もあるようだ。ただ、世の中の流れは殆どそちらに向いているから、それに逆らうこともかなわず、多くの人は同じ流れに乗るしかないだろう。だとすれば、巧くそれに対処できる能力を身につけることが大切になる。誰が何処で教え込むか、その問題は別のところにあるだろう。

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7月20日(金)−樽俎

 本来宴会の席を指す言葉のようだが、そういう場面との繋がりからか、外交交渉に関わる言葉として使われることもあると言う。ただ単に交渉ごとの心得を表したものではなく、宴席を設ける側を指して使われる言葉であり、もてなしによって交渉を有利に運ぼうという意図が含まれているのではないだろうか。
 外交というのは少し違った観点が必要なようで、最近よく目につく、自己中心的な考え方では思い通りに事が進まないようだ。自分達の都合だけを主張する人々は、語気を荒げたり、極端な意見を通そうとするから、交渉の場では注目を浴びることにはなる。しかし、それが効果を上げるかということになると、殆どの場合逆効果と受け取られるようだ。交渉とは自らの主張を通すために、他との調整を図ることであり、そのためには相手の状況を把握した上で、自分の主張の通しどころを探ることが不可欠となる。にも拘らず、聴く耳持たぬ態を通し、あくまでも引かぬ覚悟で臨んでしまうと、決裂という結果しか見えてこない。それでは交渉の意味は無くなり、都合のいい結果を招く代わりに、悪い方向に向かうことになってしまう。最近の外交交渉の度に引き合いに出されるのは、開国後の外交政策だが、ここでの振る舞いは今では考えられないほど巧みなものだったように取り上げられる。現実にはどのような経過を辿ったのかわからないが、その後の発展を見る限り、効果が上がっていたことだけは確かなようだ。ただ、それから数十年後には、如何にも自己中心的な考え方が大勢を占めるようになり、交渉決裂という結果が訪れたわけだから、巧みな外交も人次第ということになるのだろう。そんな形で痛い目に遭った割には、最近の交渉の成り行きは芳しくない。交渉の場で進んでいる議論がそのまま伝えられることはあり得ないから、報道を鵜呑みにするのは危険なことだが、報道する側のぶれが大きいことだけは確かである。そんな状況報告の中では、結果的に、本当の結末が訪れて初めて真相が明らかになるわけで、結局経過について語られることは殆どない。このような情報操作が行われている中で、外交交渉の巧拙を議論しても無駄なのではないだろうか。結果のみが問題と考えた時、やはり下手な動きが多かったと予想されるだけで、真相は明らかにはならない。いずれにしても、頑に自らの主張を通そうとするより、酒や料理の並ぶ宴会の席で、和やかに談笑する中で議論を交わす方が、幾らかでも有意義な交渉ができるのではないだろうか。

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7月19日(木)−存置

 ある時期、合併やら何やらで、奇妙奇天烈な名前の企業が次々に生まれたことがあった。今では当然の如く振る舞っているが、へんちくりんなことには変わりない。新しいことが最重要であり、それまでの忌まわしき歴史から脱したいという気持ちが表れていたのか、いずれにしても、何とも迷惑な変更だったように思う。
 企業の再編はその後も続き、ただ、度肝を抜くような話は続かず、ある意味の落ち着きが出てきたようにも感じられる。その一方で、それまで旧態依然としていた公の組織に変化を望む声が高まり、これまた次々と理解不能な再編が導入された。全体論としての意味付けは簡単なのに、個別論は殆ど意味のないものに終始し、ただ、変化が必要という宣言だけが強くなるばかりだった。まだ落ち着きを取り戻していないのが現状であり、いまだにある変化が必要不可欠のように訴える為政者がいるが、そろそろある程度の結論が出てきているのではないだろうか。単純化し過ぎるのもいけないことと思うけれども、ここで言えることは変化が解決を招いたのはほんの少数であり、殆どは根本的な改革とは呼べない結果となったということだろう。変わらないことの利点を論じることは憚られ、変われば希望が持てるという何の根拠もない戯言に反論できなかったが、それにしても、ある程度落ち着いて考えることのできた人々には、容易に予想できた結果なのではないだろうか。それを脇に押しやり、無理矢理断行した人は既に過去の人となり、涼しい顔で愛嬌を振りまいている。経済回復についても、どたばた劇が展開されることで血の巡りのようなものが改善されたように見えたが、根っ子のところの心理状態は依然として悲観論に固まっている。上辺だけの改革の結果は常にこんなものなのだが、それにしても、それを嬉々として進めた人々は今何処で何をしているのだろうか。その場のやり繰りで利益を得た人々の多くは、いつの間にか一切の関係を断ち切ってしまい、責任を負わずに済む場所に移動したのかもしれない。そうでなければ、あの当時の騒ぎようを思い出して、何か言い出してもよさそうに思えるのだ。変化があることで利益を得る人々がいるのは、経済という仕組みの中では当然のことだが、その言葉に踊らされただけで、結局何にもならなかった話は、落ち着いて総括すべき事柄に思えてくる。

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7月18日(水)−蹲踞

 何事も勝ち負けが第一となると、様相が一変するようだ。その典型とも呼べるのが運動競技で、礼に始まり礼に終わると言われたものも、単なる勝負事と捉えられている。そこには勝負だけではない何かがあると信じられていたが、いつの間にやら、勝つ事が第一であり、そのための手段を編み出そうと必死である。
 元々技を磨くだけでなく、そこから精神的なものを得る事に重心をおいていた筈が、世間の注目を浴びる事になってから、様子が変わってきた。確かに競技として考えれば、勝つか負けるか、その違いは歴然としている。しかし、本来の姿は其処に無かった筈で、ついこの間までは、そんな中にも一本筋を通そうという思いが感じられた。これも時代の流れと言うべきか、いつの間にやら競う気持ちに重心が移り、そのために鍛錬を積む事になったようだ。これはこれで一種の人間形成であるから、それが悪い事とは一概には言えないだろう。しかし、本来の姿を本家本元が見失ってしまっては、何が何だかわからなくなってしまうように思えてくる。抽象的な話だからつかみにくいかもしれないが、競技となった時、多くのものは細かな規則の上に立つ事になる。また、決着を付けるための工夫が持ち込まれ、本来明確な優劣を問題としたものが、微妙な判定を待つ事になるわけだ。程度の問題に過ぎないが、世界的な普及以前にも、本家でそういう規則が設けられていたのだから、普及を図る方策のみが原因とは言えず、元々そんな傾向にあったということなのかもしれない。これとよく似た現象は、外からやってきた人間たちがその素質を活かし、頂点を極めている競技にも見られ、そこでも本来の姿が失われつつある。それを憂う人々もいて、立ち合いでの動作に注意を促しているが、依然として微妙な動きが目立つようだ。本来、勝負の世界では勝つ事が第一であり、そのために鍛錬を積むわけだが、その一方で、風格などという少し違った観点が持ち込まれる事もある。その意味では、こういう競技も単純な勝負事ではなく、観る人に何かを伝えようとするものと言えるのかもしれない。ただ、何十年も前なら、それで全てが片付いた筈が、今ではそれより優先される事があるらしい。人の考え方が変わるのは仕方の無い事だろうが、伝統というものの上に立つ場合、さて、その辺りの考え方はどうなのだろう。

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7月17日(火)−損益

 誰だって金持ちになりたいに違いない、と思う人は沢山いるだろう。しかし、どの位の金が必要なのか、あればあるほど良いと答えるのではないだろうか。当たり前のように見えるが、この答えほどいい加減なものは無いだろう。生活とか人生の設計を考える上で、十分と思える額はそれなりに導ける筈なのだから。
 そうは言っても、周囲に泡銭を持つ人を見つけると、心穏やかにはおられない。あんな生活がしてみたいと思う気持ちが、わからなくもない。ただ、現実はそれほど甘くないし、そんな生活をしたからといって、満足できるわけでもないらしいから、まあ、現状に甘んじて、日々の生活を送ることが一種の幸せなのでは無いだろうか。それでも、何かしら上の方を見ていないと、安心できない面もあるだろうから、ちゃんと上を目指す心を失わず、不満ばかりを漏らすこと無く、過ごして行くのが一番だろう。金の損得は一番わかりやすい指標の一つだろうが、少し違うけれども、何かしらの損得勘定で動く人々を見ると、感心したり、呆れたりの連続となる。何故、そんなことが重要なのか、などと思ったりするが、考え方の座標軸が全くずれているのだから、理解できる筈もない。かといって、損得抜きで全てのことができるかと言われると、口籠ってしまうわけだから、こちらもこちらだろう。命を捨ててまで、などということは一切思ったことが無いから、これも損得と言われればまさにそうに違いない。そこまで極端なのは脇に置いておくとしても、何しろ計算高い人々と接していると、嫌な思いをすることが多くなる。自分のことを中心に考えるのだから当たり前だ、と言う人がいるが、こういう人に限って、大局を見ることが無いから、その程度のものということだろう。そんな人々と付き合っても、何の得にもならない、と言ってしまうと、これまた損得となるから困りもので、結局のところ、回り回って自分のところに何かが戻って来るのだ、と信じてかかるしか無いのではないだろうか。金の損得も、それと似たところがあり、株で儲けた人の話は如何にも羨ましく聞こえるが、その一方で損をした人がいるわけだから、事は単純ではない。全体として考えたときどうなのかを見れば、また違ったように見えるわけだ。まあ、こんなところで全体論を展開すること自体、儲け話とは縁遠い印なのだろうけれども。

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7月16日(月)−村夫子

 都会だけでなく、田舎でも近所付き合いが少なくなってきたようだ。それだけ人との関わりが希薄になってきたのかもしれないが、一方で仲間内の関係は濃密になっているようにも見える。こちらも単に見せかけのものかもしれないが、それにしても仲間かどうかで判断することには、危うさが感じられるのは何故か。
 同じ考えを持つ者同士であれば、衝突は避けられるし、批判も少なくて済む。兎に角、身を守ることが第一の時代にあって、こういう環境が重視されるのは致し方のないところだろうか。ただ、同じ考えに浸ることは、そこから新たに生まれる考えを得る機会を失うことであり、発展という観点からは正反対の方向に向かうことになる。違いがあることを当然のことと受け止め、その中で様々な考えに触れることを良しとしない限り、次の段階が訪れることはあり得ないのではないだろうか。ただ、多くの人々はこの考え方に違和感を覚えるのかもしれない。これまでも、様々な人々が同じ思いを持つ人と共に、一つの目標に向かって努力した話は沢山あり、それとこの考えは全く逆なのでは、と思うのだろう。しかし、こういう流れの時の同じは、同じであることを絶対条件として寄り添うためのものではなく、方向として似ている程度のものであり、そこには相容れない部分が必ず残されていた。それに対して、最近の傾向は同じであることを第一の条件とする点が大きく違うように思える。人それぞれが個人を尊重せねばならないと言われてから、こんな傾向が強くなったように感じるが、尊重が孤立を招く一つの現れのようにも見える。仲間大事の一方で、近所とは没交渉となるのは、この辺の事情によるものか。もう一つ大切に思えるのは、指導者のことで、その不在が大きく影を落としている。長老と呼ばれた時代は遥か昔のこととはいえ、ついこの間までは相談相手としての存在が住民の頭の中に常にあった。他の人が持たない知識や洞察力に信頼が集まったのだが、最近ではそんな存在も意味をもたなくなったのだろうか。

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