パンチの独り言

(2007年7月23日〜7月29日)
(単細胞、耽溺、短兵急、誕辰、談義、蒲公英、端渓)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



7月29日(日)−端渓

 より良い品物、より良い生活、こんな言葉を聞いて、そんなものはいらないと言う人は珍しいだろう。豊かさとか、ゆとりとか、そんな言葉も頻繁に聞こえるようになった。しかし、その実態はどうだろうか。心の豊かさと言いながら、一方で自己中心的な考えが蔓延り、ゆとりを得るために、あくせく働く。
 要するに均衡の問題であり、どちらか一方だけを重くすることはとても難しい。片方を重くしようとすると、もう一方も重くなり、結果的にそれを担ぐ人に負担がかかるわけだ。心の余裕を指標に考えてみるとこういう話はよくわかると思う。時間的な余裕を手に入れるために、精神を擦り減らして働けば、どんなことが起きるかよく理解できている筈だ。しかし、世の中の流れとしてゆとりがあると聞けば、自分もその仲間に入るために努力する。このあたりに不均衡が始まる端緒があるように思うが、当人たちはそんなことには気がつかない。他の人から遅れないようにすることが最優先だからだろう。こんな社会が構築されると、あらゆることに効率化が図られる。貴重な時間を無駄にしないための方策が考えられ、それを実行することが当然となるわけだ。日常生活では気づきにくいことも、ある場所に行くと簡単にわかることがある。そういう社会に出るための前段階として存在する学校という場所だ。限られた時間内に、要求される項目を全て実行することが求められる場では、これまでも幾つもの積み重ねにより効率化が図られて来た。つまりは、省くことができるものはなるべく省き、肝心な部分だけを残すという戦略である。一見論理的に見えるやり方だが、そこに大きな欠陥があることが徐々に明らかとなり、最近では大きく見直そうとする動きも出ている。何が重要かについての見解の相違が、正反対の方向への進展を生んだわけだが、全ての準備を整えて、肝心な所だけを教えれば知識が身に付くという考えと、準備から結論までの全体の流れを掴んでこそ、確固たる知識が身に付くという考えが昔からあったわけだが、効率優先主義の台頭から、前者に大きく傾いた時期があった。その結果、表面的な知識ばかりで武装した、実践的でない人が多数現れ、どうにも無駄な人材が溢れることになったわけだ。単純と思われた手順がそれぞれに意味をもち、そこから多くのことが学べるという解釈が注目されるのは当然であり、この結果からある程度の反省が出たのもごく当たり前のことに思える。理科の実験で結論だけを扱うのは、覚えるべき項目に沿った話であり、その背景は一切見えてこない。書道では書くことが中心である筈で、それだけに集中することが求められたが、実際にその専門家が行うことはそれだけではない。これらのことを考えれば、何をするべきかは容易に理解できそうだ。

* * * * * * * *

7月28日(土)−蒲公英

 大きな都市の人が集まる場所の景色が大きく変わりつつある。新しい建物ができる度に、そこに何処かで見たようなロゴが刻まれ、高級品が並べられているのが窓越しに見ることができる。こんな光景を見ると、この国の人々は舶来品が好きなのだとつくづく思うしかない。外からのものを尊ぶのは今に始まったことではないのだ。
 海に囲まれた国では、外との関わりは限られたものとなる。だから独自の文化が築かれる筈と考えるのは軽率なようで、実態としては中々入ってこないものを貴重とする方が優位なようだ。ただ、その中には自らのものを優位と見なすか、逆と見るかの違いがあるわけで、昔から後者の方が多数を占めていたように思われる。ところが最近、情勢に変化が現れ、依然として舶来品狂いの人々がいる一方で、この国を礼賛する声が高まりつつある。それも、実態を把握した上での評価というより、まずは自国を優先するという気持ちが表れたものが多く、軽薄な考えに基づくものが多いのが気になる所だ。確かに、内より外を尊重するのは間違いと思えるが、これまでの歴史の流れは必ずしもそういう背景によるものではない。どちらかと言えば、いいものを取り入れ、従来のものと融合させることでよりよいものを作り出したり、外から入ったものに創意工夫を加え、更に上を目指すといった動きに基づくものが多かったようだ。そういう考え方が薄れたのは、ここ百年余りの大きな変化の中であり、舶来品というものの扱いに関してはそれが如実に現れている。外国との関わりが深くなると、人間が必要とするものだけが入って来るばかりか、それに付随して入って来るものがある。外来植物はその典型例であり、様々な形で入って来たが、人間の作為で入ったものは少ない。作為があろうがなかろうが、生き物は独自の生活を続ける。環境が適していれば繁殖するし、でなければ消滅するだけのことだ。ただ、殆どの外来植物は一部の人にしか意識されず、土着の植物との違いを考える人も少ない。そのため、いつの間にか蔓延った植物が取り上げられたとき、多くの人々は驚き、その変化に初めて気づくのである。観察することが好きな人が花の形の違いに気づいたとしても、個体差と思い込んでいることも多く、外来種と在来種の違いと気づかぬこともある。花の下の部分の違いをそんな目で見た人には、小さな差にしか見えなかったのかもしれないが、実際には元からの違いがあったわけだ。

* * * * * * * *

7月27日(金)−談義

 交渉事や議論が下手だと言われる国民性は何処から来るのか。肝心な所で感情に走る性格は何も国民性によるものではなく、単に人それぞれの資質によるものとの意見もある。しかし、環境が及ぼす力の大きさを考えると、生まれ持った性格というより、何処かで訓練されたものと見なす方が妥当にも見える。
 下手なことが本当に問題だとしたら、もっと改善策を講じるべきだろうが、どうもそういった雰囲気はない。その代わりに批判の声だけがこだまし、言い放つ人々がのさばっている。海の向こうの人々を見ると、自分勝手なことばかり主張しているように見えるが、肝心な所では押える所を心得ているようだ。そこに大きな違いがあり、感情の起伏とは別に、冷徹な評価や判断が行われるわけだ。そのせいか、昔のことは昔のこととして記憶に留めていても、新しいものの評価はそれとは無関係に行われる。この辺りも得手不得手の原因となっているようで、昔のことばかり引き合いに出す手法は嫌われるようだ。では、どのような訓練方法があるのか。おそらくあちらの方式を真似るだけでは無理で、こちら独自の方法を考える必要があるだろう。伸ばすための方法を編み出すのは難しいが、少なくとも逆効果となるものを引っ込める方策はできそうに思う。その典型が報道のあり方で、常に正確な情報提供が求められるにも拘らず、感情論一辺倒のものが目立つし、論理の破綻も甚だしい。要するに、一番に要求される情報提供より、見解の主張を優先することが間違っているのだ。思い込みによる取材や偏った情報への依存など、明らかに誤った手段をとる人々にはこの辺りの重大さは認識できないだろうが、そこに大きな問題がある。学習能力が備わっているかによるとはいえ、目の前で展開される議論から受ける影響は大きい筈で、現状では悪い見本ばかりで、模範が示されることがない。これでは修正をかけようにもできないし、更に悪い方に向かうばかりとなる。少なくとも、この辺りの状況を把握し、改善を求めることが優先されるべきだろう。その上で、模範となるべきものを示すための方策を講じればいいのではないだろうか。それとは別に、特に最近気になるのは、嫌われることへの怖れで、ここではまさに感情が大きな地位を占めている。集団での行動の歪みがそんな所にまで及んでいることは、そういうものに対する意識の高さを示すものだが、それにしても極端すぎるのだ。反対すれば嫌われるという心理は、裏返せば、反対する人を嫌うということに繋がる。そこに大きな問題があるわけで、もう一つの課題がそこにありそうだ。

* * * * * * * *

7月26日(木)−誕辰

 遊び半分で始めたとはいえ、ついにタ行にまで入って来た。そろそろ限界は近いと思うが、こういう遊びも楽しみになる。縛りをかけると窮屈になることがあるが、それはそれで中身と題名をどう繋げるかという遊びに結びつくし、一番大きいのは語彙の少ない人間にとっての楽しみだろう。知らない言葉が続々だから。
 こういう状況では、当然の如く思いつきでは事は運べない。毎度説明しているように、辞書との相談が続くわけだ。そうなれば、その言葉を知っていようが、知っていまいが、関係ない。兎に角、説明のところで意味が通じさえすれば何とかなるものなのだ。それにしても、言葉というのは不思議なものだ。特に、この国の場合、外から取り入れた文字を使うようになって、自分達の中での意味と元の国で使われていた意味を通用させて来たから、一見無関係な繋がりと付き合わねばならないことも多い。言葉の意味の多くは、それが使われる社会との結びつきが強く、時代背景やら文化やらと深い関連を持つ。本来の意味にはそんなものが含まれているとしても、それが流れ流れて来た先では、その関係を推し量ることが難しくなることも出て来るわけだ。導入された当時であれば、その部分の理解をした上で同様の意味を受け取っていたのだろうが、少し時代が下ってくるとそんな事情に通じる人は殆どいなくなる。そうなれば、本来の意味は意味を成さないものになり、ついには死語となったり、全く違う意味で使われてしまうことが多い。言葉を生き物と見なす人たちからすれば、こんなことは明らかなことであり、時代ごとに全く違う意味で使われたとしても、構わないと思う人までいる。しかし、便利さの追求からそんな事情が出ていたとしても、少なくとも本来の意味くらいは知っておいた方がいいのではないだろうか。今回紹介する言葉は、一度も接したことはないけれども、同じ意味の違う言葉なら、誰でも年に一度は接する筈である。それをなくしてしまうことはあり得ないし、嬉しいものかどうかは別にして、毎年必ず訪れるものだから、一つの節目になるとも言えるだろう。この題名が上に書かれていたとしても、意味の分かる人は少ないだろうから、大して邪魔にはならない。でも、まあ、何となく想像はついていたに違いないのだが。まるでクイズのようになってしまったが、今回はそんな趣きの言葉選びとなった。

* * * * * * * *

7月25日(水)−短兵急

 何処を見ても付け焼き刃的な対応が目立つのは何故だろう。変化が激しくなり、対応が追いつかなくなったという指摘もあるようだが、この指摘も何となくとってつけたように見える。それより、大局的な見方や長期展望に欠けるところが多く、結果的に先が見えていないことによる方があてはまりそうに思える。
 いずれにしても、朝令暮改のようにころころ変わる対応も困るし、深く考えることなしに思いついた対応も困る。対応を考える部署はそれなりに責任を負っている気がしているのだろうが、現実にはそのしわ寄せが現場に降りて来ているのだけは確かだろう。それに対する不満も募っていて、かなりの歪みが生じているところも多くなり、崩壊の一歩手前といった状況もありそうだ。対応の仕方を変えれば解決しそうに思えるが、実際には根本的な戦略の欠陥が露呈しているわけだから、別の付け焼き刃を登場させても無駄なようだ。それより、基本に立ち返り、押えるべきところを押える方向に物事を進めることが重要に思える。問題は、即席の効果を狙わねばならない環境にあるから、その辺りの整備をしない限り、どうにもならないだろう。こういうことは政治の世界にあるだけでなく、経営やその他の営みにおいても重要な選択となる筈である。にも拘らず、表に現れているものは正反対の結果を産み出しているわけで、何処か根本が抜けていることが予想できる。そうなると、何を考えるべきか、簡単には答えは出ないだろうが、何か別の試みをする必要があるだろう。今のまま突き進めば、早晩崖っぷちに追いやられることは明白だから、それとは違う針路を探し出す必要がある。これはおそらく、進むことばかりを考えていては見つけられないもので、逆に立ち止まったり、後戻りをすることで何か打開の策が見出されるように思われる。進むのを止めるように見える行動は、中々決断しにくいものだろうが、ここは一番慌てず騒がず、落ち着いた分析と方針決定を行う必要があるだろう。

* * * * * * * *

7月24日(火)−耽溺

 働いている人々の意識調査なるものが時々行われる。何故働くのか、仕事は楽しいか、などといった働くことそのものに対する質問とともに、余暇の過ごし方や家族との関係、などといった生活全般に渡る質問も並んでいる。まったく同じとは言えないだろうが、よく似た調査が何年も実施されているから、比較ができて面白い。
 中でも、働くことが生き甲斐、と断言する人の数は激減しており、そんなふりをすることさえ憚られる時代になったと言えるのかもしれない。家族を大切にするとか、自分の時間を有意義に過ごすとか、そういった仕事以外への傾倒が著しくなったことが、最も大きな原因だろう。また、働くこと自体も社会への貢献などという大義名分ではなく、自分が生きるために必要な金を稼ぐなどという直接的な動機を挙げる人も増えている。この辺りの違いは思っていることをそのまま口に出すかどうかの違いであって、昔からそんな考え方の人はいたという識者もいるが、実際のところはその数は大きく違っているのではないだろうか。たとえふりをするだけにしても、それをすればどうなるかを考えてのことだから、今のように、ただ自らの欲するままにという状況とは大きく違うように思える。その一方で、無気力な人々の数は減っておらず、自分のことでさえ十分に配慮できない人は世の中に溢れている。彼らの多くは何をしたいというより、目の前に与えられたものを最低限やり遂げれば、あとは何もしなくていいと思っているように見える。中には色々なものに熱中しているように見える人もいるようだが、世間的にはその熱烈さぶりは理解し難いものがある。何故、あんなことに熱を上げるのか、と思われている人の多くは余暇の大部分をそれにつぎ込み、場合によっては家族のことも顧みない。わからない人には永遠にわからないことだが、あれほどの熱意が向けられるものには、何か特殊な吸引力が備わっているように見える。その力を受け止められる人にしか魅力は理解できず、その他大勢にとっては何の効果も上げられないわけだ。不思議な存在のように見えるが、そういうものにどっぷりと浸かる人の数は増しており、例えば、電車内の人々の行動には大きな変化が起きた。彼らの行動の多くは電子機器を通した形で成立しており、そこには別の世界が築かれているようにも見える。全体から見れば、大した数でもないのかもしれないが、それでもこれほど目立つようになった背景には、何かある筈と思いたくなる。出先でもこんな調子なのだから、自分の世界に浸る時間となれば、更にその度が増すのでは、と思ってしまうが、実際のところはよくわからない。いずれにしても、こういう魅力が溢れる世界になりつつあるのだろう。

* * * * * * * *

7月23日(月)−単細胞

 科学って、何の役に立つの、という疑問を持つ人は多い。身の回りの製品の多くはその恩恵に浴しているのに、と思う人もいるだろうが、人によってはそれは技術であり、科学ではないと反論する。その真偽は兎も角、日頃使わざるを得ない言葉の世界に比べて、科学や理科と呼ばれる世界はどうにも遠い存在のようだ。
 理科離れなどという言葉は、自分たちが学校に通っていた時代には存在していなかった。いつの間にか要不要の考えが全てに浸透するようになり、効率の問題まで引き合いに出された結果、この科目は面倒なものとして脇に追いやられたようだ。しかし、製品を作り出すための基礎を知らない人間には、同じものを作ることはできても、新しいものを開発する手段がなく、このままでは先行きが危ぶまれると言われるようになって、何となく世間的には重要なことの一つに挙げられるようになった。しかし、その実体はかなり酷いもののようで、梃入れしようにも肝心の仲介者の存在が確保されていないのだ。好き嫌いではなく、苦楽を指標として選択した筈が、いつの間にか面倒が嫌いに変換され、遠い存在に転落した。そういう感覚を持つ人が持つ梃子では、曲がってしまって役に立たないわけだ。意識の問題だからこそ、心に働きかける必要があるのに、そのための言葉も持たず、面白いと思えないものを伝えようとする。これでは光は見えてこないわけだ。そこで、経験者たちを動員してという手段がとられているようだが、大した効果は上がっていないように見える。梃子でも動かないとか、焦点がぼけるとか、猿でもできるとか、こんな言葉は科学との繋がりから来ていると思うが、このままではそのうち死語になるかもしれない。生き物の不思議さを伝える情報は沢山あり、新聞でもそんな紙面が設けられているが、果たしてどれほどの効果があるのか。ヒトのように沢山の細胞が集まった複雑な生き物も面白いのだが、たった一つの細胞で全てを賄う生き物もいる。見てみると、確かに単純なことしかできていないように思えるが、それでも生き物としての仕掛けは備わっているのだ。この言葉もそんなところから使われるようになったのだろうが、複雑に見える世界だからこそ、今こんな考え方が重要なのかもしれないと思えてくる。思惑ばかりが空回りするより、もっと直接的な行動が必要なのではないだろうか。

(since 2002/4/3)