パンチの独り言

(2007年7月30日〜8月5日)
(陳弁、沈湎、鎮西、丁幾、珍貨、沈魚、枕席)



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8月5日(日)−枕席

 言葉遊びも随分長く続いている。この間、書く側に不満があるとすれば、気になることを書けないということだろうか。以前ならば、そのとき気に留まったことを話題にして、思うところを書くことがあったが、お題が決まってしまうとそうもいかない。無理矢理こじつけることもできるが、限界があるからだ。
 このところ、不可解な発言を繰り返す人々やそれを思わせぶりに流す人々が目立ち、世の中の捻れ現象が極まっているように感じられる。気にしようと思えばいくらでもできそうだが、現実には付き合う価値もないほどの悪質なものばかりだ。狂気の沙汰という言葉を聞くことが少なくなったのは、実際には世の中が狂気で溢れかえっているからであり、そんな状況では常軌を逸した行動が軌道に乗っているように見せられ、常識に基づいた発言は気がふれたかの如く扱われる。人々は全て被害者然としており、何処かに害を及ぼすものを見つけようと躍起になる。個人の行動も、歯止めが利かなくなっており、ぶれが増すばかりで、先行き不安を自ら増長しているように見える。いつの間にこんな状況になったのかと振り返ってみても、狂った人々にはその変化の意識は無く、そうでない人々には余りに突拍子もなくて、意識的に無視した経験しか思い出せない。ひずみとか、ゆがみとか、そんな言葉で表現される現象も、ねじ曲がった眼鏡で見つめる人々には真直ぐに見えるとしか思えない。自分だけは正常を保っていると思い込む人々には、どんな言葉も届かず、自信に満ちた狂気の言葉が発せられる。そろそろ、はっきりと狂気の沙汰を意識すべき時が来ているのだろうが、誹謗中傷と狂人たちに指差されることを恐れる人々には、行動に移す勇気は満ち溢れてこない。となると、何ができるのか、考えておいた方がいいのではないだろうか。別の狂気が溢れていた時代に、破壊行為に突き進んだ国のことを覚えている人々は、今の世の中の趨勢を憂いている。違う形で別の破壊に向かうことは、何としてでも阻む必要があるというわけだ。しかし、新しい世代の人々は、そんなことに気づいている人でさえ、狸寝入りを決め込む姿勢に終始し、一夜にして全てが解決することを夢見る。そんなことが起き得るかどうか、誰にもわからないことだが、少なくとも夜の眠りは安らかにあるよう願うばかりだ。

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8月4日(土)−沈魚

 見たことも無い言葉に触れる機会を得るのはいいことなのかもしれない。こんなことでもなければ、知らないままだったという言葉が多いのは事実だ。それにしても、人の表現というのは何と豊かなものだろう。歴史の流れと共に編み出され、その多くは忘れ去られてしまったのだろうが、一部が生き残った。
 ただ、生き残った筈のものも風前の灯になりつつある。互いに理解しやすい関係が喜ばれ、小難しい人間が敬遠される時代だから、仕方の無いところだろうが、それにしてもこのところの変化は急激なのではないだろうか。四字熟語は試験に出さない限り生き残れそうにも無いし、誤用の例は次々に現れる。必要に迫られて作り出された筈の言葉が、無用の長物と成り果て、過去の遺物のように扱われる。言葉遊びにでも使えば、あと少し長生きできるかもしれないが、そんなことをする意味があるのだろうか。ある意味、遠回しの表現のために考え出された言葉も、余りに遠すぎて姿を見ることさえできない。そんな状況になると、近づく術を持つ人の数もどんどん減ってしまい、ついには死語と呼ばれることになるわけだ。辞書の役割も徐々に変わりつつあり、電子化されてからは全く違った用法が出ているのではないだろうか。暇に任せて頁を繰ったことのある人にも、今の状況では勝手が違いそうだ。漢和辞典ならば遊びで引くこともあったが、国語辞典は言葉を知らない人間には扱いにくい。確かに、読書のような使い方なら、楽しみようもあるのかもしれないが、そこまでの時間は見つけられそうにも無い。このところの遊びはそういう意味で新鮮な感覚が味わえたように感じられる。自分自身の遊びだけでなく、昔の人々が積み重ねて来た様々な遊びの足跡を探すようなものだからだ。今回の言葉は、美人を表す表現の一部だが、言葉だけからそんなことを想像することは難しい。作り出された背景やその後の時代の流れに連れての解釈の変化など、色々なことを知って初めてわかることもある。何しろ魚が沈み、雁が落ちるなどと言われても、何のことやらさっぱりわからないのだから。編み出した本人がどんな思いを描いていたのかはわからないが、こんな思いつきができる遊び心を羨ましいと思うのは、時代遅れなのだろうか。

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8月3日(金)−珍貨

 趣味の問題は同好の士以外には理解できないようだ。されないことを気にかけるわけでもないだろうから、我が道を行くということなのだろうが、家族が困ることは多い。そろそろ長寿番組に仲間入りかと思えるが、例の番組はそんな人間模様を描いてみせる。偽物なら諦めるという言葉も舌の根の乾かぬうちとなりそうだ。
 欲しいものを手に入れたくなるという欲求は多くの人々にある。ただ、その程度が異なり、一つのものに執着する人がいるかと思えば、どれにも落ち着かず雑多なものに興味が移る人もいる。更には、品物に拘るより、形にならないものにそそられる人もいるようだ。ただ、中にはそんなことには無頓着で、手元に残さない人もあって、この辺りの心理は千差万別、一概に言い表せないところがある。先立つものとの関係も深いから、誰もができることではないが、そういう世界の人に言わせるとできる範囲で楽しむのが一番ということになる。しかし、そんなつもりで始めても、ついつい度を過ごして、持ち崩す人もいるから、ある意味恐ろしい世界なのかもしれない。いずれにしても、それぞれの分野で拘る人々が沢山いて、それぞれに楽しんでいるらしい。楽しみの範囲で済めば幸いで、他の趣味とも大した違いは出てこないだろう。しかし、欲求が強くなり過ぎると、他人の持っているものを手に入れたいと思うようになったり、誰も持っていない珍しいものを欲しがるようになる。そんな気持ちが出てくると、抑えることが難しくなり、道を外してしまうことになることもある。財産の問題もあるが、違法行為に走る人もいるだろうし、争いの種になることもある。楽しみだった筈が、いつの間にか戦いになるわけだから、何とも不思議なものだ。ただ、欲というものは度が過ぎればそうなるものだから、常に自分なりの歯止めを設けて、動かねばならない。古今東西、そんな話題に溢れているところを見ると、人間の欲というのはいつの時代も、世界の何処でも、大して変わらないことがわかる。ただ、渦中の人々を眺めるに、その大多数は金や権力を握った人々であり、庶民には縁のないものということもわかる。でも、あの番組からすると、だから安心とは言えないような気もして来るのだが。

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8月2日(木)−丁幾

 普段何気なく使っている言葉でも、その起源を探ると面白いことがわかる場合もある。それぞれの国で使われる文字は決まっていて、それらを使って表されるから通常そこから起源を推測するのは難しい。この国の場合は外来語には異なる文字を使って来たのである程度は想像がつくものの、全て明らかとは行かない。
 特に、歴史の古いものとなると、造語なのか外来語なのかすぐには察しがつかないものが多い。江戸の頃に入って来た言葉の多くは今やこの国の言葉となり、起源となった国では使われていないものもあると言う。流行り廃りの変化が激しいのか、言葉とは所詮そんなものなのか、よくは分からないが、次々と現れては消えを繰り返すようだ。ただ、以前に比べると語源に触れる機会が増えている感じで、カステラ、テンプラ、カツ、どんたく、などに関しての話がよく流れる。それだけ言葉を大切にしようとする気運が高まっているのか、はたまた、単に興味が広がったからだけなのか、これも事情はわからないけれども、蘊蓄を傾けるまでもなく、様々な背景を知ることに興味を示すのはいいことに思える。しかし、こういった具合に次々と古い外来語を紐解いて行くと、こんな言葉までと思えるものが出てくるから面白い。それも、現代社会のように外来語専用の文字を使うのではなく、苦労して当て字をはめることをしていた時代もあり、まるで隣の国のように意味なく、音を合せようとする努力だけのものも出てくる。重金属の害を避けるために今では殆ど使われなくなった赤チンもその一つだと言ったら、信じてもらえるだろうか。同じように怪我の際に使われる薬剤にヨードチンキがあり、どちらにもチンの文字が入っている。本来は後者のチンキが正しい言葉のようで、阿蘭陀語を起源とするのだそうだ。今ならカタカナで表されるものが、ある時期には漢字を使って表されていたようで、辞書にはそれが載っていた。変換しようにも出てこないところを見ると、もう既に使われなくなってからかなりの時間がたっているのだろう。検索でもかけてみれば、何か出てくるかもしれないが、今回はそこまでする時間が無かった。

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8月1日(水)−鎮西

 色々とお騒がせが続いたが、今は他人に任せて、恰も何も無かったの如く進んでいる。こんな書き出しでは、何を始めても良さそうに見えるから不思議だ。中身は運動能力の高さを買って特別扱いすることの是非であり、こういう時に必ず引き合いに出される、他の競技との平等という、何とも不可思議な考え方のことだ。
 当事者間の問題として大きく取り上げられたのは数ヶ月前、それ以来、議論するための会が作られ、情報収集が続けられている。途中経過がどれほど重要かはわからないが、例外的措置がとられたとはいえ、関係者は気が気で無いのだろう。ただ、この間漏れ聞こえて来たところによれば、単純に当事者間の問題と片付けるのは間違いで、整理するためには当事者の枠を更に広げる必要があるとのこと。現実には、他の競技とて同様の状況であるに違いなく、若者の売買のような行為には厳しく対応する必要が出てきそうだ。海の向こうを例として、自由化の波を学校も被っている以上、こういう事態は当然予想されたものだが、この国の人々の道徳観は市場経済とは相容れない部分があるようだ。金銭的な感覚として理解できるのに、精神的には抵抗を覚える人が多いのは、そんなところによるのかもしれない。学校の売り込みに利用する代わりに、といった感覚は商売としては当然でも、心には何か引っかかるものがある。何処かに落ち着くべきところを見つけるのが会の役割で、当然何らかの答えを出すのだろうが、どちらに転がっても不満の声は上がるだろう。何しろ、子供の将来を考えて、運動に熱を入れる親がいるのは、どんな理由か容易に想像できるからだ。それにしても、この季節、次から次へと学校名が発表され、確かに宣伝になることがわかる。意味不明な名前がある一方、同じ名前のところも多く、何か源となるものがあることが想像できる。蔭という文字を使うところが多いのは、あの辺りが起源かと想像するが、土地に因んだところも多い。こちらは地域での重複があったとしても、他の地方にまで及ぶことは少ない。だから、この時期に同じような名前が出ることも無く、地方色が出た名前だと理解できる。その上、地方によるからと起源を気にしないことも多いのだが、言葉を探していたら出て来た。それもその県に固有というより、少し広い範囲の中で使われたもののようだったので驚いた。なるほど、そんな呼び名が通用した時代があったのかと。

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7月31日(火)−沈湎

 鬱陶しい天気が続いたり、寝苦しい夜が続くと、どうしても精神的な安定が保てなくなることがある。人それぞれに溜まったものを解消する手立てを持っているのだろうが、どうにもならなくなる人がいるらしく、其処彼処からそんな声が聞こえてくる。これもまた季節の変わり目なのかと思うが、こう度々では閉口する。
 憂さを晴らすために体を動かす人、話をする人、食べる人、などなど数え上げたらきりがないが、普段溜まった鬱憤を晴らそうにも、世の中の流れが淀んでしまってはどうにもならない。不平不満の捌け口として格好の対象だった筈の人選びは、結果としては満足いったのだろうが、その後の展開は更なる歪みを産み出している。こんな状況では、溜飲も下がる筈もなく、もう一杯と言いたくなる人も多いのではないか。それほど表面には出ていないものの、こういった社会の抱える問題の一つに、この「もう一杯」がある。ある有名人が公に認めた話だから、知らない人は少ないと思うが、依存症に悩む人は少なくないようだ。習慣性という感覚からは、多くの人々に当てはまる話も、精神的な依存となると手を挙げる人は少ない。どうしても、そこに高い壁が存在するように思うからだろうが、現実には、習慣と依存は全く同じとは言えないようだ。だから大丈夫と考える人も多いが、自己判断ほど頼れぬものはなく、ご都合主義に流れてしまうから要注意である。しかし、以前ならば溺れる人々は既に世捨て人的な境遇にあるものと思われていたのに、最近は多くの要職にある人や有名人が取り上げられる。これは心の病いに関しても同様で、どうも精神的な圧迫があらゆるところに及んでいるようだ。それと共に気になるのは、本来ならば、そういう圧力にも屈しない精神力の持ち主がつく筈の地位に、一般大衆同様の脆弱さを持つ人々がいることである。一方で、何があっても同時ないどころか、傍若無人ぶりを発揮する権力者も目立ち始めたから、この辺りの適材適所は大きく崩れていると言わざるを得ない。だからといって、それなりの人材は何処に隠れたのか、さっぱり姿を現さず、この窮状を救う人も現れそうにもない。そんな時代と言ってしまえばそれまでだろうが、その時代にたまたま遭遇した人間にとっては何とも迷惑な話だ。まあ、迷惑と言うくらいなら、何とかしろと言われてもかなわないところだけれども。

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7月30日(月)−陳弁

 子供は適応力があると言う。ただ、その現れ方には大きく分けて二つあり、途中経過は全く違った様相を示す。その例としてよく引かれるのが、外国語の習得の話だ。外国へ引っ越した時に、その土地の言葉を覚えるのは大人より子供の方が速い。ただ、子供によって辿る道筋が違い、周囲が心配する場合もある。
 一つは、当たって砕けろという形で、兎に角矢鱈喋りまくるが、意味のない文章だから、始めは全く通じない。しかし、段々慣れて行くうちに、意味を成すようになり、いつの間にか会話が成立するという具合だ。どちらかと言えば、こちらが大多数なのだろうが、それにあてはまらない子供もいる。それは、ある期間寡黙を装うという形で、殆ど会話をせずに数日間、場合によっては数ヶ月の間過ごす子供がいて、話ができないのかと周囲が思い始めた頃に、急に流暢な発音で会話に加わる。自分の中でかなり綿密に準備をして、満足ができて初めて臨むという具合だ。前者はよく言えば臨機応変、場に応じて対応をその場で決めるのに対して、後者は慎重で、準備周到にして全体の動きまでも先導する。それぞれ良い所はあるが、一方で、一つ間違えれば取り返しのつかないことにもなる。要するに、こうすれば絶対大丈夫で、完璧だというものはなく、どちらにしても、その場での適切な対応が要求される。たとえ間違いを犯したとしても、その後の対応が適切であれば、傷口は広がらず、回復も容易だろうが、想定外のことと片付けて、何も処置しなければ、悪化の一途で回復の兆しも見えてこない。言い訳でも、通じるものとそうでないものがあり、その辺りの見込みが違えば、退かざるを得ないことも起きる。ある人の発言を聞いて思うのは、百点満点にしろ、続投にしろ、事前に考えたことばかりで、対応とは呼べない代物であることだ。決まった台詞を如何に感情を込めて放つかは、舞台俳優にとっては重要な要素だが、これはお芝居ではない。たとえ、ある程度の想定がなされていたとしても、予想外の結果が出て来たのなら、それに対応する必要がある筈だ。弁明にしても然りで、何があろうとも動じないという態度が適切と見なされる場とそうでない場がある。場が変わってしまえば、それまで通じた論理が通用しないことも出てくる。そんな空気が読めない人間には、臨機応変を要求される立場は務まらないと思えるが、さて、今後の展開は如何なるものか。注目するほどのものでもないようにも見える。

(since 2002/4/3)