この季節が好きだという人も多いと思うが、正反対に嫌いだと言う人も多いだろう。中間的な気候では極端に好き嫌いということもないが、極端な気候では反応も極端になる。特に、らしい気候になればなるほど、その差は広がり、両極端に偏ってしまうようだ。確かに、体に堪えるようでは嫌うのも無理はない。
余りの高温にクラクラしている人も多いが、昔に比べるとその数が増しているようにも思える。日射病と呼ばれていたものが、いつからか熱中症と言われるようになり、気温に対する反応の問題として扱われるようになった。その頃から、その数が増えているように思えるのだ。これは、気温と体温の関係によるのだろうが、体温調節がうまくいかなくなったことによる症状で、処置を誤れば死に至ることもある。ただ、その数が増しているのは、気温が上昇したことによるよりも、人々の適応能力が低下したことによるものが大きいように思える。体温を調節するより、室温を調節する方が楽というわけで、様々な装置が取り付けられた。その結果、普段は快適な生活を送れるようになったが、それができない室外での生活が難しくなったのではないだろうか。これだけが原因とは思わないが、それにしても報告される患者の数が多いように思える。こういう体験や不快さからこの季節を嫌う人もいるが、もう一つ、この季節特有のものを避けたいと思う人もいるようだ。地方によっては反対の季節につきもののものだが、気温が上昇し、大気が不安定になったところに発生する雲が、大きな音と大量の水を産み出す。不気味な光に伴って響く音は、その大きさと大地を揺るがすような響きが恐怖を誘う場合があるようだ。普段聞いたことのない大音量と低音の響きは、子供達の反応を見るとその恐ろしさが経験以外のところから来ていることがわかる。確かに、電気現象だから、落ちたら危険なこともあるが、恐ろしさは光よりも、音の方にあるような気がする。空気が破れるような感覚とでも言うのだろうか、あの音は他にはない迫力を持ち合わせているように思える。近くに落ちなくても、それだけの迫力があれば、人を恐怖に陥れることは可能なのだということがよくわかる。それさえなければ、と思う人もいるようで、暑い夏が大好きという人でも、雷だけは御免となるわけだ。これにて、「つん」の会もおしまい。やれやれといった感じだろうか。
人の態度を気にする人がいる。気に入るの、気に入らないのと、ブツブツ文句を言うこともあるが、意外に思えるのはこういう人が必ずしも、他人に対して受けがいいわけではないことだ。兎に角他人の態度が気になるのであれば、自分の態度にもある程度の配慮を示していい筈なのだが、現実にはそうならない。
こういうとき、一番大切なのは、自分の目で見るのではなく、他人の目で見ることなのだが、そんなことが容易にできるのであれば苦労はしない。どちらかというと、客観という見方は存在せず、主観であるばかりか、その判断基準にまで自己中心的なものが含まれることが多い。こういう人を見る時、一番わかりやすいと思えるのは、他人にやられたら嫌なことを、まったく同じように他人にすることで、この辺りの見え方の違いにまったく気づかないのが特徴のようだ。では、修正が全くきかないかと言うと、そうでもないらしい。これまた不思議なことに、同じような行動を示す人が近くに現れると、それまで気づかなかったことに気づく場合もあるのだ。確かに、現実を見せられて初めて気づくことは多く、それが自分自身でなくとも、類似した行動であれば十分なのだろう。こういう人々の態度の中で一番目立つのは、相手によって態度を変えることである。馴れ馴れしい態度をとる相手がいるかと思えば、丁重に対応する相手もいる。そうかと思えば、ぞんざいに扱う相手もいて、何とも不思議に思えるが、本人の中ではこれらの区別は明確であるらしい。だからこそ、平気な顔をしてそれらを使い分けているのだろう。しかし、その行動区分は身勝手なものが多く、自らの都合で区別が行われているに過ぎない。それ故、冷たくあしらわれた人たちは、理解し難い状況に陥り、何とも不満が残るわけだ。これが更に、上下関係に基づく判断となれば、自己中心の極みとなることになる。確かに、そういうやり方が賢い生き方であるかもしれないが、それが通用しないことも多いから、頭に来る人も多いわけだ。それが結局、自分を窮地に追い込むこととなり、気がつかないうちに、周囲との軋轢が増すことになる。元は何処にあるのか、容易にわかりそうにも思えるのだが。
本は読む為にあると思っている人がどれくらいいるのだろう。ほとんどがそうだろうと思う人もいるだろうが、現実には集めることを目的とする人もいるようだ。その証拠に、ある時期初版本の収集が流行し、思わぬ高値を呼んだこともある。読まれるべく作られた本が、実際には棚を飾るだけになるわけだ。
収集とまではいかないが、ちょっと違った方向で書籍を購入する人もいる。読みたい本が沢山あり、順番を考えていたら買う機会を失うので、さっさと買ってしまおうというわけだ。それでも速読を駆使して、片付けられるのなら良いのだが、入りと出のバランスを崩してしまう人もいる。そうなると、欲しいと思う気持ちが抑えられない場合、山はどんどん高くなり、書籍が本来もっている筈の役割を果たせなくなる。いつか読む筈と思っていたものが、いつの間にか忘れ去られ、場合によっては、何故その本がそこにあるのかがわからなくなることさえある。ここまでいけばかなり重症だが、新本を購入する人の幾らかはそんな行動を示すようだ。ただ、こんな人の数は昔ほど多くなく、保管する場所の問題や、購入費の問題から、徐々に減って来た。読書という欲を満たす為には、ただ本があればいいわけだから、その意味では公共の図書館の利用に向く人もいる。読みたい本が必ずしもあるわけではないが、それでもどの図書館もかなり多くの蔵書があるから、その中で選ぶようにすれば何とかなるかもしれない。その上、最近では利用者の希望を叶えてくれるところも増えていて、随分と様子が変わって来た。その辺りが、本の保有数の変化に影響を及ぼしているのではないかと思うが、自分で持つより、公共のものを利用する方が良いと思う人もいるのではないだろうか。しかし、本屋に通うことを好む人の場合は、待つ時間が大きな問題となるから、つい目の前に積まれたものに手を出してしまうことが多い。そんなことが繰り返されれば、どんな結果が出るのかは容易に想像できる。古本屋のように堆く積まれた本の山に囲まれて生活する人はそれほど多くはないだろうが、読んでもいない本を何冊も持っている人はまだまだかなりの数いそうな気がするのだ。そんな人々の行動を表す言葉も、最近は余り使われなくなって来たが、まだ、そこらに生き延びているような気もしている。
言葉の話をしていると、つい死語についての話になるが、世の中では言葉どころか、言語そのものが消え去ることが取沙汰されている。少数民族の使う言葉はそれらを継承する人々がいなくなると、あっという間にこの世から姿を消すのだそうだ。そう思うと、この国の言葉は沢山の人々に使われているから一安心。
言葉は生き物のよう、という表現がよく使われるが、生き物にも消滅の危機が迫っているものが沢山ある。先日話題になった、コウノトリは海外から連れてこられたものであり、在来のものは絶滅した。再起を目指すという考え方だが、これが野生と言えるのかどうか、中々難しいところのようだ。それでも自然繁殖が行われたと喜ぶ姿は、何とも言えない雰囲気がある。これはたまたま他所の国で生き延びていたからよかったのだろうけれど、これまでに地球上から姿を消した種は数知れないほど沢山いる。危ぶまれるという意味で絶滅危惧種と呼ばれている動植物についても、動物保護を呼びかけたり、植物の種(たね)の保存にも力が入れられている。一方、とうの昔に消え去った生き物についても、何とか復活させられないかという声が上がり、映画の影響からか、遺伝子に細工をすることで夢を実現しようとする人もいる。中でも、数年前の万博で有名になったマンモスの話はかなり真剣に議論されたもののようだ。通常の化石では石のようになってしまったものには遺伝子が残る可能性がなく、映画でも琥珀の中の昆虫が運び屋として紹介されていたが、やはりそれなりの保存状態が見込める場合にしか可能性は残っていないようだ。その意味で、マンモスは凍土の中に冷凍された状態で保存されているものがあり、一般のものに比べたら可能性はかなり大きいと考えられている。但し、だからといって実現するとは断定できず、これからも長い道程を歩んで行く必要がありそうだ。その一方で、絶滅した種を復活させることの意味を考える必要もあるように思える。夢の実現と言えばそれまでかもしれないが、事は生き物の命を扱う事である。軽率な行動は慎むべきだろう。凍った大地からその命が甦ったとしても、それは今の世の中で何の役に立つのだろう。映画のように見せ物として考えるのは一つの方法かもしれないが、その危険性も実際には指摘されていた。技術の発展が制限を取り払う方向にだけ進んでしまっては、別の危うさを手にすることになりかねず、注意を払う必要も出て来るのではないだろうか。
「つん」という音には、何か刺激的な意味が込められているのだろうか。元々数少ない言葉の中で、どうも悪い印象を与えるものが多いのは、そんなところから来ているのかもしれない。多分、「ん」という音自体に、断定的で強い感じが含まれているところへ、はっきりとした音が加わったためなのだろう。
ただ、言葉を考える上で、そんなことを一々取り上げながらということはないから、どの道後付けの言い訳のようなものだろうが、こういうことを考えてみるのも面白そうだ。突っぱねるという雰囲気を漂わせる言葉だが、これを女性に使えば注目はされるが近寄り難い存在を指すことになるだろうし、全く同じ言葉が強烈なという意味に使われる場合もある。そういう意味では、強いという意味が前面に出ていて、それを断定するような役目をする音が続いているのかもしれない。いずれにしても、扱いにくいものであることだけは確かで、こういう言葉で表される存在に触れる時には誰もが用心しなければならない。不思議なのは、何故女性にだけ使われるのかという点で、男女差別から来るものかどうかはわからないが、何かしらの背景があるのだろう。鼻をつんと上に向けるという仕草が、男より女によく見られることもあるのかもしれないが、こんなことも先入観から来ている場合があるから、一概には言えないだろう。もう一つ、強いという意味とは少し違うが、尖ったという意味で使われることもあるようだ。こちらも、女性も、臭いも、そんな印象を持たれることがあるし、剣山を表現するのに使えば何となく通じそうな気がする。この辺りの使い分けや感覚の違いは、おそらく人それぞれが持つ感性の違いから来るもので、同じ言葉を使ったり、聞いたりしても、微妙に違った意味が込められている場合がある。更には、擬音のように使われることもあるから、中々難しい。こんな具合だから、言葉の受け取り方も変わって来て、本来ならば余り良い意味には使われなかったものが、そのうち、全く正反対の意味をもつようになるのかもしれない。今の辞書に載せられている意味だって、数十年前には間違いと解されていたのかもしれないのだから。
言葉はそれぞれに特有の意味をもつ。たとえ擬音語だとしても、そこには何らかの意味が込められている筈だ。また、一時の流行り言葉で、すぐに忘れ去られたものでも、当時はちゃんとした意味をもっていたわけだ。赤ん坊が使う言葉でも、彼らなりの意味があるわけで、こちらが理解できないだけなのだ。
そういう言葉に対して不快感を露にする人々がいる。特有の意味をもつということは、他との区別に使えるわけだが、それを差別と捉える人々だ。確かに、差別的な用法がなされ、問題視されるものもあるのだが、ある時代からその適用範囲が急激に広がった。公共という場において、不特定多数を相手にする場合には、相応の配慮が必要であるとの考えに基づくのだろうが、首を傾げたくなるものも含まれる。更に、その後の時代の流れを見直してみると、そこには差別との戦いから、被害者意識の高まりへと繋がる道筋が見えてくる。全く違った背景によるとする人もいるだろうが、改めて考えてみると、その変遷が並行していたように見えて来るのだ。差別意識は本来受ける側にあるとされたが、いつの間にやら行う側にあることになり、受け手には被害者としての意識が強まることになった。その為、相手に格段の配慮を施す必要が意識され、最も身近な言葉がその対象となってしまったのではないだろうか。いじめの問題についても同様の流れに乗ったものに思え、ある時点から極端な例ばかりが目立つようになる。意識に基づく話はどうしても想像の域に入ってしまうから、逆に事実とは異なる状況を産み出すこととなる。にも拘らず、重要なことは被害を及ぼさぬこととなり、過度な気遣いを要求される。激しい言葉など、相手を傷つける怖れのあるものには注意を払う必要があるが、何処に境界線を引くべきかは確かではない。歴史的に使われたからという論法はこういう事例には通用しないらしく、兎に角区別する言葉が使えなくなってしまった。こんな時、一番困るのは文化活動のようで、長い歴史をもつものほど厳しい状況に追い込まれた。この言葉も多分その部類だと思うのだが、そう言えば最近聞くことが少なくなった。それは差別のない世界が築かれたからではなく、単純に使うなと言われたからだけのことであり、意識は更に強まっているように思える。表面に現れるものだけを相手に幾ら働きかけてもこんな程度のことであり、奥底にあるものには何の影響も及ぼさない。そんなことの為に失われて行く言葉には、もっと大切な何かが含まれていた筈なのだが、それは価値のないものと思われたのだろうか。
関心を持たれているとも思えないが、まあ、ここまでやって来た。もし、気になっている人がいるとしたら、そろそろ息切れだろうと思っているのではないだろうか。確かに、「つ」の文字から始まる言葉は数少ない。漢字も音読みでは一つもないから、限界と言えばその通りだ。しかし、少ないが、あることはある。
そんな状況であるから、少し続けてみようと思うわけだ。この一週間を乗り切れば、また次には少しの間続きそうだからだ。音読みが無いということは、当然の如く熟語も無い。意外に思えたのは、無理矢理の当て字さえ無かったことで、こういうこともあるのかと思った。そう考えてきてふと思いつくのは、五十音のそれぞれにかなを充てているとはいえ、それぞれの音を含む言葉の数にはかなりの違いがあるということだ。基になる言葉によるところもあるから、こういう状況も致し方ないかと思うが、もう一つ気になったのは音そのものに違和感を覚えるのではないか、ということである。発音しやすい言葉とそうでない言葉、人それぞれに得手不得手もあるが、それとはまた違った共通項的なものもあるのかもしれない。さて、そんな形で始めておいて、どの言葉に結びつけようかと思ったが、今回はやはりそのものを取り上げよう。「つん」という言葉は、元々「突き」が訛ったもののようだ。発音しやすいように変化することを音便と呼ぶが、その形と言われている。元を知らない人間にとっては、結局何もわからないだけなのだが、そういう解説がついているのだ。つんのめると言うことはあっても、つきのめるなどと言うのは聞いたことが無い。それは音便のためだと解説を受けても、突きのめるって何だ、と思うわけだから、どうにもならないわけだ。辞書によれば、語源はそこにあるとのことなので、そう信じて書いているだけのことである。こんな簡単に思える言葉でさえ、本当の意味はどういうことかと問われると、簡単には答えられない。何とも不思議な言葉たちである。