「天」という言葉には、空という意味とともに、その更に上の何処か遠いところという意味がある。そこから、自然の摂理とか神の仕業とか、人間の能力の遠く及ばないものを示す言葉に使われてきたようだ。更には、最も高い位の人を指すのにも使われ、これも遠い存在という意味が強く現れているようだ。
神の存在となると物議をかもすだろうし、それぞれに異なるものを指すことにもなる。それが自然全体を表しているのであれば、殆ど問題は生じないのだろうが、何かしらの実体あるものを示しているとなると、人それぞれに解釈が違ってくる。何とも厄介なものを取り上げているわけだが、自分たちの力ではどうにもならないことを表現する時には、便利なものになる。そんなところから、この言葉を含む言葉はかなり多くあり、それぞれに微妙に違った意味を含んでいるようだ。また、同じ単語でも、「天」のもつ意味を変えることで全く違った方向に向けることができ、その多様性はかなり大きいように思える。最後に取り上げる言葉も、そういう組み合わせをもつが、多分それぞれが違う時代に生まれたものなのだろう。国王の機嫌を表す意味も、もう一方で気象状態を表す言葉に、その意味が含まれることを知ると、混乱してしまう。もう一つは、お決まりの使い方であり、天賦の才能を表すものだが、はたらきという意味をもつ言葉との組み合わせからでてきたからだろうか。同じような考えから全く違う方向に話が向かうこともあり、仕組みという意味にしてしまうことで、自然の摂理のような意味をもつこともある。ここから先が面白いと思うのだが、摂理は表面に現れることもあるが、その多くは人間の理解を超えたところにあり、秘密めいたものとなる。そんな意味が転じて、これを泄らすことが、重大な秘密を漏らすことを意味することとなるのだそうだ。何とも複雑な感覚だが、こういうものを上手く使うことで、教養をひけらかすのも人によっては重要な戦略なのかもしれない。まあ、一つ間違えれば、墓穴を掘ることにも繋がるから、安易に口に出してはいけないのかもしれないが。
見る目がある人とない人がいると言われるが、本当のところはどうだろう。騙される人と騙されない人と言った方がわかりやすいかもしれない。鑑識眼はものを見る目を指して使われることが多いが、実際には様々なことを含めて観察する力のことを指すわけだから、人を見る目に使ってもよさそうな気もする。
骨董収集を趣味とする人々は、ものを見る目と共に、人を見る目が必要と言われる。それだけ偽物を掴まされることが多いからで、売り手がその気なら人を見る目で見抜けるかもしれない。皆が持っているものを集める趣味の人は少なく、初めのうちはその辺りから手をつけるにしても、暫くすると希少品を欲しがるようになる。しかし、ものが少なければ市場も小さく、出合う可能性も小さくなる。だからこそ、千載一遇の機会を逃さぬようにと焦る気持ちが募るのだろう。そういう時に失敗するものだと先人たちは伝えている。絵画の偽物は多く出回っているようで、権威ある施設でさえ贋作を飾っていたという話だが、器についても数限りなく流通していると言う。特に、大量生産できるものは歴史上の遺物に似せたものが出回り、殆ど無価値なものに大金を注ぎ込む人が出てくる。これに比べると、技術的に難しいものは偽物を作ることも難しく、そういう心配は少ないようだ。釉薬を使わないとして有名な焼き物は、土が焼けるときの反応による発色が特徴で、深い緑色が面白いが、もう一つ、緋襷と呼ばれる種類は土と稲藁の組み合わせが産んだ独特の発色が面白い。土中の鉄分の変化によるものという話だが、偶然とはいえ、こういうものを作り出す発想に感心させられる。誰が作ったものかを偽ることはできても、全く違った手法で再現することは不可能で、そういう意味での偽物は少ないと言えるかもしれない。釉薬を使うものの中で特に難しいとされたのは、抹茶茶碗の底に独特の模様が出ているもので、海の向こうからやって来たと言われる。そちらで残ったものは無く、結局、海を渡って来て、珍重されたことにより、幾つか割れずに済んだものが宝として残っている。その模様を再現しようとする努力は長年続けられて来たようだが、結局、元々の窯で使われた土を取り寄せ、長年の研究で編み出した材料と手法を使うことで、近いものができたと伝えられている。再現できたとの声もあるが、どう見るのか、人それぞれに違うのかもしれない。いずれにしても、数が増えることで価値が落ちることは当分無さそうに思える。
窮地に追い込まれたとき、神も仏もあるものかと思うことがあると言う。困ったときの神頼みなど、普段からの信心はなく、必要なときだけに頼ることを指すが、信仰とはこんなものかと思われる。しかし、神を信じる宗教の場合、こういう感覚とは全く違う次元での信心が必要となるようだ。その存在を信じればこそか。
諍いは互いの利益が衝突した時に起きると言われる。利益は、今の世の中のように経済的なものに限られるわけではなく、信じるものの違いから生じることもある。東洋と違い、西洋では源を同じとする宗教があり、その間での対立が戦争の原因となって来た。民族間の衝突と言われることもあるが、現実には大元を辿れば同じでも、信じる神の違いから生じたものも多く、心が奪われている状況では致し方ないのかもしれない。それにしても、その存在の有無を論じることが憚られ、議論好きの人々がそれ以前に信じることを強いられる状況には、違和感を覚える。最近出た本では、そんなことが延々と論じられているが、著者に言わせれば、東洋の宗教は神の存在を論じる対象では無いそうだから、変な感覚を持つのも無理のないことかもしれない。自然の摂理を論じることも、神の存在を考慮に入れるかどうかで、全てのことが変わってくる。にも拘らず、科学と宗教の間での衝突は、ある時代を過ぎてからは殆ど起きていないのは不思議なことだ。関わったことのない者には理解し難いが、おそらく、何らかの同意の下に無駄な衝突を避ける協定のようなものができているのではないだろうか。それによって、論理性の薄い物語に基づいた信仰を護る手立てが導き出されたのだろう。だからといって、そちらに書かれた話の真偽に決着がつくわけではなく、また、信じたい人々を無理矢理引き戻すことも難しい。ただ、理解できないのは、新興宗教による心理操作が問題視されるのに対して、古いものにそれが当てはめられないのは何故か、である。いずれにしても、全てを科学で解き明かすことの難しさが目の前にある以上、神秘的なものを含めて、様々な事象を自然の摂理として受け容れる事も大切である。但し、それを何か特別な存在の力によるものと結びつける必要があるかないかは、その人の心の中にあることであり、誰もが同意するべきものとは言えない。上にいるのか、下にいるのか、そこにいるのか、それともいないのか、いずれにしても、自分以外の何かと思う気持ちがこういう表現を産み出したに違いない。
忙しいことを表すのに、猫を引き合いに出すのは何故だろう。犬は器用じゃないから、などと書くと犬好きから反論を浴びせられそうだが、普段の行動を見た上の選択のような気がする。実際に借りることは無いけれども、居てくれるだけで少し雰囲気が変わるという捉え方もあるのかもしれない。苛々が減るだけでも。
人の移動が盛んになると、忙しさが増す職業は沢山ある。時期が決まっているのだから、それに対して綿密な対策をとり、準備すればいいとする向きもあるだろうが、想定外のことが起き、場合によってはかえっておかしくなることもあるから、準備万端というのは難しい。そんな中で肝心となるのは、仕様書通りの行動や言葉遣いではなく、心のこもった言葉と臨機応変な行動だろう。最近は随分状況も変化したが、客と店の関係でも、忙しいときの対応にはそれなりの感覚がある。多忙な時には待つことが必要であり、手短な対応を引き出す配慮が重要となる。店員を捕まえたまま離さなかったり、文句を並べて食い下がる客には、他の人々から注文が出るものだ。最近の変化とは、客が絶対的に優位に立ち、買い物をするのだから全ての要求が通ると思っていることで、人と人との関わりではなく、別の関係がそこに成立しているように見えることだ。確かに、客を神様と呼んだ人もいるが、商売をする人の心得としては通用しても、客の方がそう思い込むのは何とも情けない。忙しくなれば、対応できる範囲も狭まり、誠意ある対応にも限界が現れる。その中で上手く立ち回ることが要求されるのだが、これとて、相手次第というものである。目が回るほどの忙しさの中で、他人から見たら下らないとしか思えないことで食い下がる人には、冷たい視線が向けられるに違いない。そういう立場をどうしても手に入れたい人は、多分、全く違った場所を選ばなければならないだろう。そうすることで、自分の満足が手に入れられるのであれば、少しくらいの散財などは気にしても仕方が無いだろう。取引の原則はそこにあった筈なのだが、どうもこの頃の風潮にはそんな所が感じられなくなっている。何を重要と思うかに変化が生じているのかもしれないが、何故相手の気持ちを考えない人々が増えているのか、不思議に思う。双方向の情報交換と、言葉の上では言われているが、そこに人間の心の存在が無ければ、何にもならないのだろう。
見えないから意識しないのか、当たり前のようにそこにあるから意識しないのか、自然の現象に対する反応は人それぞれだが、無視する人たちには共通の何かがあるような気がする。都会では夜空を見上げても数えられるほどの星しか見えないが、田舎では満天の星空となり、その違いに驚く人々もいる。
しかし、そんなことを気にしない人も沢山いるわけで、夜空を彩る瞬く星も、彼らにとっては見えないのと同じなのだ。彗星の軌道を地球が横切る時に、彗星の塵が大気との摩擦で燃え尽きて光る流星は、年間に何度かその山を迎える。願い事との関係もあるせいか、観察というよりもただ眺めるだけの人が出てくるわけだが、冬に比べて、気軽な格好で眺められるこの時期は、夜空を眺めてみようと思う人が多くなるようだ。ただ、先入観からか、流星雨と呼ばれる数えられないほどの流れ星が見られると思う人も多く、数分に一つの割合で見えたとしても感動は薄くなってしまうようだ。星の輝きという意味では、大気が澄んでいる冬の方が格段に美しく、また形のはっきりした有名な星座が多いこともあって、星を眺めるのなら冬と思う人も多い。特に、都会では、数少ない星でも形が見えて来る冬の星座は、人気があるようだ。それに比べて、大三角形と名付けられた星たち以外にははっきりとしたものが少ない夏の星座は、余り人気がない。ところが、田舎に行くとこの様相が一変する。無数の星が瞬き、全く別のものとなるのだ。それを昔の人々は川と呼び、白い流れと呼んだ人もいる。自分達の住んでいる星が、銀河系の端にある為にこんな違いが生まれたわけだが、この国のどれくらいの人がその存在を知っているのだろうか。直接見たことは無くても、そういう施設で見せてもらったことのある人もいるだろうが、最近はその数も減り続けているように思える。自然の不思議と呼ぶほどのことも無いが、意識しなくてもそこにある星空は、何とも変わった存在に思える。自然と向き合うことを意識的に行うようになった人間には、いつでもそこにあるものにはちょっと違った感覚を持つのではないだろうか。本の中、教室の中でしか見ることのできないものを科学と呼んでしまったのでは、身近な存在はその範疇には入らない。こんな所にも、最近の流れがあるように思えるのは、こちらの見方も変わったからか。
ある頃から、突然脚光を浴びた言葉に、個性を伸ばすというのがある。ある脳科学者は、こんな馬鹿な話は無いと言っていたが、確か、ある限られた環境での話だったような気がする。同じようで違う表現に、才能を伸ばすというのがあるが、こちらには余り反対意見は聞かれないようだ。何処が違うのかはっきりしないが。
いずれにしても、伸ばすという言葉には教育に対する期待が込められている。家庭でも学校でも、教育は子供の力をある方向に向けさせるというわけだ。ただ、個性にしろ、才能にしろ、どちらも本人が既に持っているものを指していることに気づかない人がいる。どんなことでも教え込めばできるようになるという教育絶対主義であろうか。ある程度まではその効力を認める人でも、全てと言われるとかなりの抵抗を覚える。思考活動だから可能に思えるけれども、運動能力を引き合いに出すと急に情勢が変わる。才能と言う意味では同じ所にある筈なのに、こういう扱いの違いをするのは何とも不思議な考え方である。こういった考えるとか行うということより、もっと根源的なものに躾けと呼ばれる普段の行動がある。これは親の及ぼす力が大きいと言われ、ヒトが生まれながらにして持ち合わせているものではない、と言われる。だから、幼児期の教育が重要であり、その時期の親の影響力が大きいと強調されるわけだ。ところが、その考え方に合わない行動をする子供が時に現れる。性格と表せられるものなのかもしれないが、引っ込み思案だとか、内弁慶とか呼ばれる子供の中には、親からの働きかけが大して無いにも拘らず、そんな風になる子がいるようだ。何処かにきっかけがあったに違いない、とする考えもあるだろうが、意外なほど従順に行動し、自らを律しているように見えるから不思議である。一方で、どうにも制動が利かない子供がいて、親の顔が見たくなるわけだが、兄弟姉妹で全く正反対の性格だったりすると、首を傾げたくなる。これもまた才能の一つだろうかと思ったりもするが、心理学者に言わせると多分違うのだろう。でも、観察する限りにおいては、人それぞれの表に現れるものは何とも不可解なものが沢山ある。面白いと言ってしまえばそれまでかもしれないが、それほど変化に富んだものを矯正できると信じる人がいるのは不思議に思える。真っ白で生まれて来る子供に、色をつけるのは親の役目と言うけれど、本当に無色で出て来るものか、他の才能も含めて、もう少し考えた方がよさそうにも思えるが、どうだろうか。
世界の国や地域ごとに、様々な文化があると言われる。何でもかんでも文化と呼ぶことには少し抵抗を覚えるが、兎に角地方独特の何かがあるということだ。中には理解できる範囲のものもあり、場合によってはそれが知られることによって、他に波及することもある。しかし、殆どはそのままそこにだけ定着している。
文化という言葉にどんな印象を持つかは人によるだろう。ただ、その頭に言葉をつけることによって、ある特定の事物に対する表現を作ることができるのは、それぞれに何かしらの伝統に基づいたものがあるという意味なのだろう。衣服に関するものも、以前ならばそれぞれに特有のものがあったのだが、今では資本主義という支配者に侵された結果、特別な時以外は世界中何処でも同じような服装をするようになってしまった。もう一つの大切な営みである、食べることについても、これだけ情報や人の行き来が盛んになると、混ぜこぜのものが登場したり、その土地とは縁もゆかりもないものが人気を博すこととなる。とはいえ、日常的には伝統的なものが残っていて、家庭ではそれなりのものを食べていることが多いのではないだろうか。いつ頃からか長生きということが前面に出され、それが食によるものとの解釈がなされた結果、この国の伝統と思われる食に注目が集まり始めた。思われるとわざわざ書いたのは、実際にはその多くがそれほどの歴史をもったものではなく、ごく最近に変貌を遂げ、定着したものだからだ。黒い紙と呼ばれたものも、最近では何の抵抗もなく受け入れられているようだし、同じ原料から作られる海の雑草という名のものも健康食品と受け取られている。海に囲まれた国では、そこから得られる恵みを何とか活かそうとする動きがあり、旨味成分と言われるものを利用したり、想像もつかない加工をして全く別の形の食品に仕上げて来た。創意工夫の賜物と言うべきものなのだろうが、それにしてもこんなことが起きるのを誰が見つけたのか、不思議なものである。特に夏場にはその食感が受けるらしく、酢醤油と合せたり、甘味の一員として利用している。原料にも、それと似た食感があるとはいえ、それを加工すればこういうものができると想像するのは難しい。更に、煮詰めたものを固め、乾燥させる技術には特別なものが感じられるのだ。何処でどうなったのか、あるいは何処からか入って来たのかわからないが、兎に角この食品は様々な所で利用されることになり、ついには食品に留まらない利用法まで考え出されたわけだ。何とも不思議なものの一つだと思う。