パンチの独り言

(2007年8月20日〜8月26日)
(豚児、頓服、遁辞、呑舟、鈍根、頓才、頓虎列剌)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



8月26日(日)−頓虎列剌

 東南アジアの何処かの島で騒動が起きた時、渦中にあったのはこの国から遊びに行った人だけだったそうだ。こういう情報がまことしやかに流されるとき、その真偽を確かめる手立ては殆どない。外電で入って来るものを鵜呑みにするしかなく、何が正しい情報だったのか、沈静化したあとでさえわからないものらしい。
 患者の数はかなりに上り、衛生状態の劣悪さを訴える声がある一方で、清潔な暮らしに慣れた人間の問題を取り上げる人がいた。どちらが正しかったのか、おそらく調べる手立てもないだろうが、こういう中で情報が錯綜することに危機感を覚えた人もいるのではないか。本当に、抵抗力が低下していることが原因なら、病原菌が一度持ち込まれたら一気に感染が広がり、手の施しようが無くなる筈である。しかし、その後も散発的に感染が伝えられる程度で、爆発的な広がりは一度も見られていない。確かに、無菌状態とはいかないまでも、かなり潔癖的な生活を送る人が増えているから、その影響はある程度出ているのだろうが、それ以上に、衛生状態の向上が予防的な効果を示しているという解釈の方が当たっているように思える。人それぞれの免疫能力を問題にする専門家もいるが、病気として抵抗力が低下した人々の悲劇を見る限り、問題視できる線には至っていないように思える。現実に対処法が確立されていなかった時代には、この国でも多数の死者を出し、発病すると数日のうちに死んでしまうことから、病名の頭にそれを表す文字が加わるほどだったようだ。病名自体も、ちょっと言い方を変えて、死を表すものが出てくるなど、それだけ問題が深刻化していたことが想像できる。病原菌は、ごく普通に海水中にいる細菌で、感染すると下痢を引き起こし、脱水症状に陥って、重篤な場合は死に至ると言われる。今では様々な治療法が開発されているから、余程のことがない限り重体とはならないが、それでも油断大敵、法律で指定されているだけのことはある。海水中にはこれ以外にも食中毒を引き起こすものとして知られている細菌が多くいて、生魚を食べる習慣のある人々は注意しなければならない。ただ、やっつける方法はごく簡単で、塩のない水にさらせばいいだけなのだ。刺身を流水で洗ったり、魚をさばくまな板を区別するなどは、そういう意味があるわけである。コロリと逝きたくなかったら、そのくらいの注意をするのは当たり前のことだが、意味さえわからぬ人が増えてくると、少々心配になってしまう。

* * * * * * * *

8月25日(土)−頓才

 「とん」がつく言葉で面白いと思ったのは、「頓」が入ったものだ。辞書には、たちどころにとか、とみに、臨機にという意味とともに、とどまって動かない、落ち着けるという意味もあるとある。時間や場所の一所を表す言葉のようだが、その音のせいか、擬音的な用法もなされているようで面白く思える。
 こういう機会でもないと、改めてそんなものに触れることもないが、それにしても言葉の成り立ちの面白さが伝わってくる。一つ一つの意味を追って、その源となったところを想像するだけで楽しい場合もあるわけだ。そういう意味では、話の種にはなりそうで、何処かで使ってみようかと思うこともある。それも、じっくり準備をして臨むより、その場での臨機応変で、上手く立ち回る方が面白く思える。これ自体も、「頓」を使った言葉として残っているようだが、この機会を得るまで知らなかった。話を盛り上げるためには重要な道具の一つだが、どうも巧みに使えない人が多く、腰を折ることが多い。その多くは、準備万端整えた時にしか使えないことが原因で、少し時期を外してしまえば、すきま風が吹いてしまうからだ。一度白けさせてしまったあとでは、大抵のことは通じなくなる。ポンポンと小気味よく響く話が、こういう場面で歓迎されるのは当然のことだろう。特に問題となるのは、話の筋が読めないことで、自分のしたい話をするだけになることだ。誰でも、自分の分かる話をしたいのは当たり前だろうが、それが筋から外れてしまっては、ついて来てもらえない。筋を読みつつ、そこに上手くあわせる展開が必要となるから、準備だけではどうにもならないわけだ。漫才はそれを見せているわけだが、あそこでは筋書きが既にある。普段の話ではそうはいかないから、現実には別の才能が要求されることになるわけだ。上手な役者の話が必ずしも面白くないのは、そんなところにあるのだろう。多くの人は面白い話を編み出す人の考え出す力に感心するようだが、現実には相手構わず繰り出す力ではどうにもならない。上にも書いたように、話の筋を読み、先を見通す力が重要となるわけだ。それがなければ、単品としては面白い話でも、流れの中では沈んでしまうことも多くなる。その辺りに機転が必要となり、それを巧みに操れる人が話を盛り上げることになる。これは単に面白可笑しい場面で役に立つだけでなく、議論や決定をする場でも大いに有効となる。最近、筋書き通りばかりを見ているせいか、その方が上と思う人がいるのには、呆れてしまうばかりだが。

* * * * * * * *

8月24日(金)−鈍根

 生まれつき、という言い方を耳にしなくなって来たような気がしないだろうか。本人の力ではどうにもならないことを言うべきではない、という考え方が定着したせいなのか、はっきりしたことはわからないが、そんな雰囲気がある。誰しも、断言されることには抵抗を覚えるだろうが、違った面もあるように見えるのだが。
 今の世の中を見渡してみると、如何にも夢にあふれた環境が作られているように見える。努力さえすれば、何でも実現できるといった話が頻繁に取り上げられるが、もし、それが当たり前だとしたら、何故殊更に注目させる必要があるのだろうか。人それぞれに持っている可能性を否定する気持ちは全くないが、逆にどんな可能性でもあるとする考えには同意できない。それぞれにそれぞれの才能があり、それを見出して伸ばす努力は重要だが、何でもかんでもというのは無理なだけでなく、本人のためにならないように思える。しかし、そういう考えを表明することは今の社会ではかなりの勇気を要するように見える。おそらく、人それぞれにという点が残されず、可能性が無いという部分だけが強調されるからだろう。現実には、それぞれに了解していることを取り上げるよりも、別の方を向かせた方がいいという考えに基づくのだろうが、根本的な誤解を産んでいることに気づいていないのではないだろうか。出来の悪い子どもを持って悩むという話を聞くようになったのも、そんな変化が現れて来てからのように思え、それに触れると、おそらく昔からそんなことはあったと反論が返ってくるだろう。しかし、出来の良し悪しの線引きを何処でするのか、その基準となる対象は何か、という点に着目すると、大きな違いがあることに気づかされるのではないか。標準の置き方に違いがあるなどとは信じ難いだろうが、実際にはそれが当然のように行われている。元々はそういうところに生まれながらという話が関わっていたのに、今はまるで全てに当てはまるものがあるように信じているから才能の話がこじれるのではないか。勝手に誤解や曲解をしておいて、躍起になって攻撃して来るのでは、標的となったものはたまったものではない。自分達の視野の狭さを棚に上げ、馬鹿げたことに血道を上げるなんて、もってのほかなのだ。適材適所は組織のことばかりでなく、全てに通じることなのではないか。

* * * * * * * *

8月23日(木)−呑舟

 世間の評判を常に気にしなければならない世の中のようだ。一つでも弱みを見せたら、そこを徹底的についてくる。どんな立場にあっても、相手の大きさが変わるだけで、この図式は変化しない。そんなところからだろうか、最近、誰彼なく好かれようと振る舞う人が増えて来た。敵に回さぬようにだろうか。
 臨機応変に、その場を切り抜ける能力は誰にとっても必要だろう。しかし、多くの人は一つ一つを巧みに打開しても、それらの間の整合性にまでは考えが及ばない。一つ狂い始めれば、あとは雪崩のように崩れてしまうわけだ。誰にでもいい顔をしようとする人の問題点はそこにある。場当たり的に最適解を模索するが、それらが時間軸の上で繋がる可能性を無視してしまうのだ。そのために、あっちとこっちで正反対のことをすることになる。もしも、それが深い考えに基づくものであれば、善と悪との両極端になったとしても、申し開きが出来る状況に向けられる。しかし、今の世の中のように、常に善でなければならないような状況に自らを追い込むと、自己矛盾だけが残ってしまうことになる。善人は善人なりの、悪人は悪人なりの処し方を当然のこととして受け止めていた時代には、こんなことはなく、それぞれに矛盾を生じることは少なかっただろう。それも、一人の人間の中で善悪が混在していたとしても、それなりの形で受け止められていた筈だ。それが、世知辛い世の中になり、周囲の目が厳しくなるにつれ、自分を狭い箱に閉じ込めるような行動をする人が増えて来た。彼らの問題は自身にあるだけでなく、同じことを他人に求めるところにあり、それが伝搬したのが現状なのかもしれない。どうやっても、こういう変化を止めることはできず、常に振り子は動いていなければならないのだから、今の状況もある意味では変化の一瞬でしかないのだろう。しかし、たまたまこういう時代に生きて、狭くて苦しい状況に追い込まれた人々は、まるで周囲から押し付けられているかのような錯覚を覚えるに違いない。現実には、自分達が中心となってそういう状況を築き上げているにも拘らず、そんな思いを抱くのは勝手なものと言うべきではないか。身勝手というものにも方向があるらしく、外に向かっていくものもあれば、内に向かうものもある。そこのところをもう少し冷静に見つめて、自分がいいと思う形を模索していかねば、この閉塞感を脱することなどできないだろう。いつもながら、引っ張ってくれる人を待つだけに終わるのかもしれないが。

* * * * * * * *

8月22日(水)−遁辞

 調査がなされたかどうかはわからないが、こんな質問をしたら、どんな答えが返ってくるだろう。自分の思い通りに事を進めたいとしたら、どうするのが一番いいのだろうか。選択肢の中には、権力を握る、協力者を集める、納得させる理由を考える、関係者にお願いする、などを挙げておけばいいのではないか。
 民主主義で育った年代は、何となく、納得させることを選んだり、賛同を得る方法を模索しそうだが、今の世の中で育った人々は、圧倒的に権力を選ぶのではないか。現実には、前者も心の底では権力を最適と思っているが、表向きはそれでは行けないとしているのかもしれない。いずれにしても、力を握ることが物事を進める上で最重要であり、それさえ手に入れてしまえばあとはどうとでもなると思える。これが独裁者の考え方であることは、いつの間にか余り触れられなくなり、善悪に関わらず、兎に角実行に必要なものはこれだと思っているようだ。そういう思惑を持って力を手に入れた人々は、全てを断行することが出来る。そういう状況を望んだわけだから、そのまま突き進むわけだ。しかし、ある程度の時間が経過すると、様子が大きく変わっていることがある。風が逆向きに吹くわけで、折角手に入れた権力を手放すことにもなりかねない。民主主義がそのためにあるとは言えない状況だが、時間がかかるにせよ、ある程度の変化が起きる可能性があるわけだ。この話、まさにこのところの情勢に似ているようだが、現実はそんなに簡単ではない。つまり、力を持つ勢力に変化が起きただけで、元々の力を行使する考え方には違いがないからだ。何でもいいが、長がつく地位に就いた時に、どう処するかが判断基準となるだろう。自分の仲間に有利に動こうとすれば出来る状況で、それをするかどうかが分かれ目となる。現代社会では、そうするのが当たり前であり、そうする為に選ばれたと思う人の方が圧倒的に多い。しかし、ふた昔ほど前だと、状況は全く正反対だったのではないだろうか。長たるものは中立を保ちつつ、判断を下す責任を持つわけで、それを実行することが求められた。どちらの側につくかが問題とはならず、正確な判断を求められたわけで、その期待を持って迎えられた。それがいつの間にやら、権力争いの真っ只中に入ってしまった。こうなると、あれやこれやと言い訳を考えながら、思い通りに事を進めることとなる。それが極みに達した時、逃げ口上を考える羽目に陥るわけだ。以前ならば、口から出ることは正論に限られていたのが、事を進める為の曲論だったりするわけで、何とも情けない。最終的には、正論に基づく話であれば、賛同を得られる筈なのに。

* * * * * * * *

8月21日(火)−頓服

 成人病と言われたものがいつの間にか名を変え、生活習慣病となった。より的確な表現を、ということなのだろうが、その必要があるのだろうか。病気になるくらいだから、食生活などを改めるべきと言いたいのだろうが、どれほど効果のあるものか。一方で、精神的な抑圧に耐え切れず、壊れる人を見て、首を傾げる。
 確かに、命より大切なものはないだろう。そのために病気に罹らないように気をつけることは、重要なことに思える。多くの人々は少し気をつけるだけで十分だろうが、一部の人は度が過ぎるほど気にするようだ。そこまでやってどれほどの意味があるのかと思うのは、こちらの勝手だろうか。検査能力が格段に増した現代では、無病息災より、一病息災を選ぶ方が、無難に思えるのだが。そんな中では薬を飲まずに過ごせる人は少数派となっているだろう。毎日飲む薬を分別して、小さな袋や箱に入れて持ち歩く人もいるくらいで、どれが何の効果をもつのか記憶するのも難しい。そんな人々は悩むこともないのだろうが、たまにしか医者にかからない人は薬の飲み方一つとっても、悩むことがあるのではないだろうか。食前、食後はすぐに判るが、食間とは何ぞや、というのは笑い話としてよく使われる。食べ物に混ぜてしまう人がいるらしく、困った末の知恵とでも言うのだろうか。しかし、前後はわかりやすいとしても、間となるとかなりの時間の幅がある。わかっていても、判断に苦しむのは当たり前なのかもしれない。もう一つ、食事とは無関係に困る用法がある。必要な時に飲む薬という意味らしいが、どう判断するのか、これまた人によっては悩まされるものだろう。飲む時間とか、回数には、それぞれ理由がある筈で、最近では薬局で説明してくれることもあるが、すぐに理解できる筈もない。それが一つ二つならまだしも、数えるのを止めたくなるほどの数となれば、致し方ないところだろう。なるべく、薬のお世話にならないようにと心掛けていた人でも、症状が重くなり、医者に強く勧められたのでは、抵抗する力も弱ってくる。諦めの境地で、お世話になることを決断した途端に、あれやこれやで袋の束を受け取ることになったのでは、何ともはやである。そんな中に、他とは違う飲み方の薬が入っていたとして、混乱しない方が珍しいのではないだろうか。

* * * * * * * *

8月20日(月)−豚児

 自己主張が大切と教わった人々には、謙遜という言葉に触れる機会がなかったのではないか。あることないこと並べ立てて、自分を売り込むことを第一とする人々を眺めていると、客観というものは其処に無く、自らを軸として全てが回っているような雰囲気が伝わってくる。時に必要なことでも、常にとなると辟易する。
 自画自賛という表現が更に度を増すと、自画自慢のようになって来ることがある。こんな様子は日常的になりつつあるようで、どうにかならぬものかと思えてくる。自分のことだけでは飽き足らず、子供達を絶賛する親に出会うと、その場を立ち去りたくなるものだ。彼らにとっては誇りに思っているからだろうが、その中身は何とも貧弱なものだ。子どもそれぞれに何かしらの才能があることは認めるが、それがどの程度のものかを身近で見極める人がいなければ、本人たちは不幸なのではないか。欧米から移入された教育法に「褒める」ことがあるが、そろそろその限界に気づくべきだろうし、何でも鵜呑みにする人々には土台無理な注文に思える。悪いところを指摘するより、良いところを持ち上げるという手法は、伸ばす原動力になりそうに見えるが、良し悪しを判断する人の力量によるところが大きい。叱ることと褒めることの組み合わせは、こういう時にも重要である筈なのに、片方だけに偏る手法は歪みを産むことになる。そんなこんなの繰り返しが、一部の傍若無人ぶりを育てたと思えるが、発端となった筈の教育法はそんなことには目を向けない。今更遅いことはわかっているが、それでも歴史の繰り返しを期待するならば、そろそろ別の見方が出て来てもよさそうである。流石に、謙遜とか謙虚といった自己表現を前面に出すことは難しいのかもしれないが、その背景に客観的な見方があることには気づくべきだろう。状況把握なしに遠慮する輩は逆に礼を失すると言われるが、周囲との関係がこういう態度に表れているわけだ。場の空気を読めない人々が多くなったのも、実際にはそういうものを排除することを第一としたところから始まっている。自分を大切にする気持ちは他人を思いやる心があってこそのものであり、自分達だけを重視することではない。この辺りが今の世の中で最も歪んだ状況にあるもので、その修正が必要なのだろう。他人の前で愚かとか、豚とか呼ばれて喜ぶ子どももいないだろうが、そういう言葉には周囲との関係を見極めた上での意味が含まれることを、思い出すべきではないだろうか。

(since 2002/4/3)