言葉というのは不思議なもので、同じことを表現するにも使う言葉によって、印象が全く違ってしまうことがある。なるほど上手い言い方だと思うことは日常的にもしばしばあり、相手の印象をある程度制御しようとする意図もありそうだ。正反対に、折角良い提案をしても、すぐに反対にあう人の言葉には刺があるように見える。
言葉の大切さと括ってしまえばそれまでだが、詐欺師のように言葉巧みに相手を欺こうとするのではなく、単純にこちらの意図や考えを正確に伝えるための手段としたら、何も悪いことは無い。ただ、受け入れられ易い人と反発を買う人の違いがどの辺りにあるのかということになると、簡単には区別が付けられないようだ。本人の話の進め方の問題なのか、ここで話題にしているような言葉そのものの使い方だけの問題なのか、簡単には結論できないからだ。いずれにしても、身の回りにそういった類いの人々がいることだけは確かで、それだけのこととはいえ、それによって利害が生じているのだから重要なことなのだろう。ここで取り上げる言葉は、そういう場面で使われるものではないが、一見して印象を和らげる効果がありそうに見える。内容は、対象によってはかなり問題を生じる可能性のあるものであり、一部で使われているような表現を使えば、拒絶されることもあり得るだろう。しかし、歴史的なものやそれが時代の流れに乗ったものの場合、それらの存在は人間の営みを語る上でも重要な位置にあり、ただ単純に拒否したのでは意味を成さなくなってしまう。こういう言葉が考えられた経緯には、そういった背景があるのだろうが、いつの間にかそんなことは何処かに忘れ去られてしまう。そうなれば、言葉自体も使われる価値を無くし、次第に表舞台から姿を消してしまうのだろう。一方で、元々は下劣な表現として忌み嫌われたものが、いつの間にか市民権を得て、ごく普通に使われるようになる場合もある。これもまた、遠回しな表現が忘れられるきっかけを与えるものであり、言葉の変遷の一つの形となるのだろう。こんな形で忘れられた言葉の数はかなりある筈で、ちょっと古い読み物に残っていたとしても、後世の人間にとっては全く意味不明なものとなる。話題の言葉にしても、おそらくほとんどの人にとっては意味を成さないものになっていて、説明を読んで初めて理解できるものなのではないだろうか。しかし、その一方で、今ならどう表現するか、という問題については、多分年代によって様々な反応が戻ってきそうである。変化は続いているということなのだろう。
有名であることはかなりの利用価値がある。何とかの代名詞と言われるものも、その知名度の高さからその地位を獲得したと言えるだろう。では、この国の代表は何かと問われたら、大部分の人は古都の名を挙げるのではないだろうか。近代的な都市として名を売る首都より、遥かに知名度が高いように見える。
これと同様のことは、外国の都市についても言える。実際には国ごとに若干解釈が違っているのだろうが、こういうところと紹介があった時に、多くの人が思い描くという点では、万国共通な面が大きい。ここには歴史によるところが大きく、現在の状況とずれているのは、そんな背景があるからだろう。隣の国でも、その国に関することを表す言葉として、古くからの町の名前が使われ、それがその国由来のものの多くに冠せられてきた。元々の由来がはっきりしなくてなっても、名前だけは残り、今でもそれを聞くだけで想像がつく。辞書を繰ってみると、頭にこの名前をつけて、錠、玉、鼠、袋、米、町、豆、虫、木綿などの言葉が紹介されている。全てが語源を示しているわけではないから、源が同じかどうかはわからないが、ちょっと調べただけで、これだけのものを見つけることが出来るのは珍しいのではないだろうか。そういう意味で、代表的な代名詞として使われてきたことがわかるような気がする。今では、別の意味で使われることが多くなり、それ故に好んで使われることが少なくなったようだが、歴史的にはそんな形で良い意味でも悪い意味でも愛着を持って使われてきたようだ。こんな言葉も本来の意味を失い、使われる機会が減ってしまえば、忘れ去られる運命にあるのだろうが、そんな時、例えば悪い意味に使われている時に限って、横槍が入ることが多く、何とも不思議な感じがする。まあ、自分の名前がそんな使われ方をした時に、気持ちよく受け取ることができないのは当然のことだろうから、仕方の無いことかもしれないが、そこに歴史の流れがあることを考えると、ちょっと違った感覚を持ってもいいような気がしてくるのだが、どんなものだろうか。
都合の悪いことは聞こえない、という高齢者の話はよく聞くが、真偽のほどはわからない。ただ、加齢現象の一つとして、高い音が聞こえなくなることなど、聴力に現れる症状は沢山あるようだ。それだけ問題を抱えた人も多く、様々な補助器具が出ていて、最近は伝達方式の違うものまで現れているようだ。
音を音として伝えるのはごく当たり前のことだろうが、音を振動として考えて、振動に変換して伝える方式が考え出された。骨伝導と呼ばれるが、耳の鼓膜を通して伝えられる空気の振動が別の経路で伝わるようなものである。これは障害を抱えた人だけでなく、健常者にとっても使えるようで、特に騒音の激しい環境下では有効という話が一時期携帯電話の広告で使われていたようだ。その後、余り聞かなくなったのは、おそらくそれほどの人気が出なかったためで、便利かもしれないが、音質などの問題があったからかもしれない。それに対して、以前から普及していた方式は音を大きくする装置をつけるというものだ。一般的に補聴器と言われるものは、拡声器と混同されるかもしれないが、単純に音量を増すというだけでは不都合なことが多いらしい。音の高さによって聞こえ方が違う人たちにとっては、全ての音量を増大させたのでは、不快になる部分が大きい。聞こえない音域を上手く増幅する仕組みを取り入れなければいけないのだ。その点、旧式の器械ではどれも同じ扱いであったために、全ての音域が聞こえにくい人以外は使いにくさが目立っていた。それに対して、最近使われているものでは、音域によって増幅の程度を変化させ、聞こえにくい部分のみを補う仕組みが導入されている。当たり前のことのように思えるが、あれだけ小さな装置の中に、そんなに複雑なものが入っているのかと思う。もう一つ、使っていない人にはわからない弱点が補聴器にはある。音が入る部分と出る部分がすぐそばにあることだ。これは、マイクとスピーカーがそばにあるということで、誰でも経験があるだろうが、増幅が切りなく続く、ハウリングという現象が起きてしまう。それを防ぐための手立ては、ごく単純なものであり、耳の中にだけ音が入って行くようにすればいいわけだ。一見簡単に思えるけれども、電車の中での迷惑な音楽鑑賞を思い出せば、その難しさがわかるだろう。耳に入れ込む部分が密着するようにすれば、音漏れは無くなる筈だが、中々難しいらしい。多くの製品が形を合わせるようになっているのはこのためらしく、なるほど色々と複雑なものだと思えてくる。目も耳も、人間の感覚器官としては非常に重要なものだけに、何とか能力低下は避けたいものである。
建売や賃貸の住宅の宣伝を見ていると、収納空間の広さを謳ったものがある。嫁入り道具に代表される家具での収納が、住空間とうまく釣合いがとれなくなったからか、目的を持った空間の設置を目玉にするわけだ。賃貸のように、移動が前提となったところでは、特にこの考え方が重要だから強調されるのだろう。
この話は、如何にも目新しい概念に基づく空間配置のように見えるが、現実には違う形で昔から用意されていたもののようだ。その証拠に、辞書を眺めているとそんな言葉が目に入ってくる。違うように見えるのは、そういった空間が一つの部屋のように存在していたことで、一般的な収納空間が隠されたものであるのに対して、表に出ているような雰囲気があることだろうか。今使われている収納場所の多くは、押し入れと呼ばれる空間が形を変えたものであるが、古くからあったものは専用の部屋を用意するという点で大きく違っているように思える。ただ、最近の傾向を見ると、収納空間の広さを謳うものが増えていて、まるで一部屋それに充てたようなものと称されるのからは、昔の考えに戻ったようにも感じられる。最も大きな違いはおそらく名称であり、まさか古い言葉を使うことは無いだろう。これに限らず、住空間を構成するものの名前は大きく変わり、その多くは使われることが殆ど無くなってしまった。三和土と言われても、読み方もわからねば、何を表すかもわからないといった具合に、多くのものはその存在自体が無くなり、呼び名も古い小説か何かにしか現れてこない。何もかもが西洋化したとは言えないだろうが、こういうところにも何か伝統的なものがあった筈なのに、いつの間にか失われてしまったということだろうか。伝統、文化を継承することの大切さが訴えられているが、身近なところからこんなことが起きているわけで、身構えなければならないものだけを守ろうとするのでは、何処か大切なものを欠いているように見えるのは仕方の無いことかもしれない。そう思って周囲を見渡してみると、子どもの頃とは大きく変わった光景が広がり、記憶の中にしか存在しないものが沢山あるように思える。言葉だけが残ったとしても、実際のものを見たことの無い人間には、こういう伝統、文化を理解することは難しいのかもしれない。
国が狭いからよそ者を排除するのだ、という論理は通用するのだろうか。国という範囲に対する見識にも色々とあるようだが、島国根性と呼ばれるような感覚が、昔の人にあったとはとても思えない。自分の生まれ育った土地から出たことの無い人間にとって、島という境界が出てくるとはとても思えないからだ。
そういう点から考えると、知り合いの世界の中でしか育っていない人間が、それ以外の人間を区別するようになることが、ごく自然に想像されるわけだが、そういう考え方はある意味乱暴なのかもしれない。いつ頃からか外国人を見かけることが当たり前となり、そんな社会が形成されつつある筈なのに、どうもよそ者意識は何処かに残っているように思える。これは環境から来る要因だけでなく、何か別のことがあるからと思われるが、さて何が決めているのかとなるとよくわからない。それだけでなく、ここで通用するよそ者意識には、両極端の表現があり、簡単に言えば上に見るか下に見るかといったものだろう。それが定着したのは鎖国の時代なのか、はたまたその後の開国の時代なのか、解釈は様々だろうが、兎に角ある種の人々に対する感覚はその頃から一種憧れのように扱われてきた。今でもその雰囲気が強く出ているのは、ブランドと呼ばれる製品群だろう。上質の品であることだけでなく、そこに示された印によって築き上げられた地位は、ある種の人々にとっては憧れの的となるべきもののようだ。外国の製品という意味で使われた言葉も、現実には、一部の地域に限られたものであり、隣国からのものを指すことは全く無い。それとは別だが、こういう地位が築き上げられてきた時代に使われていた言葉は、元々は、ある地域の野蛮人を指していたようだが、その後の変遷で一部地域のある国を指す言葉として使われてきた。現代のブランドを生産する国とは異なっているが、こういう感覚を定着させた功績は大きく、今でもそれらの国の意味で使われることの方が大きい。何度も取り上げているけれども、これらの国の言葉がまるでこの国の言葉のようになってしまったのにも、そういった感情が表れているのではないだろうか。用法としてどんな変化を遂げてきたのかはよくわからないけれども、時代の流れと共に、こういう変化が起きるところに言葉の面白さがあると言えるだろう。とはいえ、これ以上の変化は無いように見える。
地位が人を作ると言われて、抜擢され大いに活躍した人々が歴史を賑わしてきた。潜在能力を見極める力を持つ人がいたわけで、する側される側ともに高い能力を発揮したわけだ。ところが、最近の登用の様子を見ると、その辺りの事情に大きな変化があったように思える。煩い奴を始末するといった雰囲気なのだ。
自ら動くことの難しさは誰しも感じているだろう。他人の動きを見張り、それを批判することに精を出すのも、そんなところから出ているのかもしれない。前向きの批判は、その後の展開を考えても重要であるが、多くの批判は後ろ向きであり、改善を目指すものとは言えない。そんな中で、矢面に立たされた人間のとる行動は、これまた不可思議なものとなっている。つまり、批判をする人間を登用し、する側からされる側にしてしまおうというのだ。これによって雑音が減り、少なくとも説明に費やす時間は少なくなる。効率のみを考えれば、如何にも正しい方向に向かっているように見えるが、その実、新たに登用された人材の能力は考慮に入れられていない。結果的には、それまでの一部とはいえ、有効だった批判の声も無くなり、実務能力の向上も期待できないから、何もいいことが無いことになる。人材活用の考えからはほど遠い対応だが、何処の世界でも見られることから、最近の流れのようにも見える。声を上げることが役割と思い込む人間が増えたのと、成果主義と言われるようになってから、かえって成果が求められなくなったところから来るのだろうか。厳しい意見にさらされることによって、より良い計画を練ることが求められていた時代に比べ、生温い意見と慣れあい、表面的な議論で目先をかわす時代には、本来の成果を求めることは無理というものだ。その上に、臭いものに蓋をするような人材活用となれば、どうにもならないことは明らかだろう。仲間意識に代表されるなれ合いも批判の対象となるが、それ以上に、こういった思惑による人材の登用は回避されなければならない。どんなに強固な組織も、間違いを数回繰り返せば、ずたずたとなる。組織を護りたいと思う人間にとって、その手法を間違えることは大失態の筈だが、そういう観点も失われつつあるのだろうか。他山の石の話を引き合いに出すまでもなく、様々な組織で同様の展開があることをもっと意識するべきなのだろう。
情報交換の場として利用されることの多いネット社会は、その特異な仕組みによってそれまでとは違う役割を演じている。それまでの情報は、上から下にしか流れない水のような一方向の道筋を持っていたが、この社会では多方向の流れが存在し、参加者がそれを互いに支えあうような構造が作られている。
こういう構造であるが故に、情報の正確さより、その広がりに重きが置かれ、多様な混じりあいと思える雰囲気ができている。これが成熟してくれば、更なる深まりが訪れ、確固たる地位を築くことが出来るのだろうが、現実はそんなに簡単ではないようだ。参加者の審美眼が問われる仕組みでは、一つ一つの情報の質の鑑定は個人が行うことになる。誰かがお墨付きを与え、それを追認するような従来の手順ではなく、個々が別々に判断を下すわけだ。情報操作が注目され始めたのはその辺りに源があるだろうが、個人の判断の材料となるものを思惑を持って供給すれば、全体の判断をある方向に固定させることも可能となる。それが現在の状況を表していると思うが、これはネット社会に限ったことではなく、現代社会が抱える大きな問題の一つとなっている。それが表面化したのがネット社会であるが、実社会ではもっと深刻化しているように見えるわけだ。互いの顔が見えない社会では、信頼という考え方が重要となるのだが、歪んだ心の持ち主たちには正反対に見えて来るようだ。それも、相手に対する気構えというより、自分についてのことになるから困ったものとなる。だから、見えないから大丈夫という安易な考え方が蔓延ると、この社会は基盤を失うことになる。そんな中では、放言が罷り通るようになり、無責任な発言だけでなく、誹謗中傷や難詰が目立つようになる。実社会では反撃や逆襲に対する怖れが歯止めの一つとなり得るが、ここではそういう展開は期待できない。優位に立ったものが常にその立場を維持し続け、危うくなれば仮想空間での存在を消せば済むだけのことなのだ。そういうことが明らかになるにつれ、仲間を意識した付き合いが濃密となり、標榜された筈の多様性は脇に追いやられてしまった。結果として残るのは、井戸端会議的な雰囲気ばかりとなりそうで、このままでは本来の機能は失われてしまいそうだ。様々な道具が導入されるけれども、結局のところは、単にペチャクチャと話す場を提供するだけとなり、極端な場合には、そこに他人の存在が感じられなくなる。こんな風に、何とも不思議な社会が形成されつつある。