現状に不満があるとき、どんな行動を起こすかでわかることがある。何が悪いかを指摘し、それを根本的に解決しようとする人がいる一方、始まりが同じでも、表面的な解決を目指す人がいる。結果は似ているようで、実際には大きく違い、特に将来に渡ってのことを考えると、後者は殆ど解決しないに等しい。
わかることは何かと思う人もいるだろうが、後者は現状維持を強く望むのに対し、前者は改革のためならば現状を変えることも厭わない。ここに大きな違いがあり、その違いが将来的には大きな影を落とすことになる。本来ならば、問題を生じる源を突き止め、それに対応する手立てを講じるのが筋だろうが、多数の人が絡む問題の場合、影響が大きすぎることを理由に、応急手当を講じる場合が多い。その結果、暫くすると別の問題が表面化し、その手当を繰り返すことになる。結果としては良い方に向かっているようにも思えるが、現実には根本解決にはほど遠く、いつまでも泥沼化した雰囲気が続くこととなる。身の回りで起きている出来事をそんな視点で眺めてみると、かなり多くの例が当てはまることに気づくのではないだろうか。法制度の不備はまさにその中心課題であり、改正は特に難しいものとされている。しかし、問題の本質を考えた時に、果たしてそれが不備という解釈に見合うかどうかに疑問が生じる場合も多い。法律は、日常的な出来事に基づいて、人々の考えを纏めたものであるから、どんなに古いものだとしても、正反対とはならないように思える。にも拘らず、最近の動きは、まるでそんな話のように扱われているから驚く。中でも典型的と思えたのは、子どもの戸籍の問題である。離婚しようとする夫婦の場合、誰の子どもかを確かめる手立てが不十分だった時代には、妊娠期間との関係から戸籍上の男親を決めていた。それが法律として残ってきたが、最近は精度が上がり、別の形で確かめることが出来るようになり、法律の意味が無くなったと言われる。そんな中で、子ども達の権利を守る必要性が取沙汰され、特例的な扱いが各地で採られるようになった。この辺りの流れで、最も重視されていたのは子どもの権利だが、それと問題とされる法律には直接的な関係はないと思える。様々な手続きが必要なのは言うまでもないことであり、親の責任からして当然のことに思えるが、その辺りに問題のすり替えがあるように見えるのである。子どもの権利を論じるならば、それを守るべき親の責任はどうなったのか、何とも理解し難い論理が罷り通っている。法律が論じていること自体は時代錯誤なものではなく、ごく一般的な考え方であり、現在も十分通用する道徳観ではないか。それをねじ曲げて、自分達の不徳を棚上げするように見える行動には、自らの現状だけを考える心があるように思える。
食べることが大切であるのは、改めて言うまでもないことだろう。特に、体力の消耗が激しい季節には、それが重要な要素となり、いかにして食欲を増進させるかが問題となる。季節が変わる地域ではそれぞれに違いがあるのだろうが、一年中がそんな季節の地域では、普段の食事からしてそんな雰囲気が漂っている。
香辛料と呼ばれる味付けのための材料は、単純に味を変えるだけでなく、食欲そのものへの影響も大きいようだ。それが舌で感じられる味から来るのか、はたまた胃腸で感じられる何かから来るのか、はっきりしたことはわからないが、効果が上がることだけは確かなようだ。温暖化のためか、気温の上昇が著しくなると、元々高い湿度の影響もあって、多くの人々が食欲減退に苦しむようになる。そんな時、唐辛子などの辛いものに活路を見出す人もいれば、それとはちょっと違う方に向かう人もいる。世界的に最も一般的に使われている香辛料の一つであり、欧州でも亜州でもごく普通に使われていることから、起源はかなり古いものと思われるが、香りが嫌われているところは不思議である。悪魔退治のような風習との関連も、その悪臭から来ているのだろうが、それとは別の作用から食欲増進に使われているようだ。単に味付けとして使うだけでなく、そのものを食べる習慣もあり、一個丸ごと油で揚げたものは圧巻である。一方で、この国ではごく普通と考えられている餃子へ入れることも、発祥の国では殆ど行われないことは余り知られていないかもしれない。彼らに聞くと、本当に美味しいのは生だからという答えが返ってきて、流石に閉口したこともある。玉葱と近縁な種であるから、人によってはその成分を分解する能力が無く、それで苦労した経験の持ち主も多くいる。何とも不思議な習慣だと思うが、玉葱同様、独特の辛味を好む人がいるのだろうか。熱を入れても十分に効果を保っていると思う人からすれば、何とも理解し難い食習慣だが、そういう歴史もあるということなのだろう。
指示待ち人間が多い、という指摘がされたのはいつ頃だったか。自主性を重視するという話が出された頃に、正反対のこととをして話題に上っていたような気がする。ある問題に注目して、それを解決するための方策を編み出すとき、こんなことが起きるような気もするが、この問題はそれほど浅くないようだ。
この問題が取り上げられたとき、既にかなり深刻な状態にあったと思えるが、その状況の深刻さより、その継続期間の長さの方が遥かに大きなものに思える。というのも、こういった指摘が出されたとき、自主性尊重などの方向性が決められたはずなのに、それが全く反映されていないことに重大な問題があったように見えるからだ。様々な形で、一人一人の人間の考えを引き出し、そこから議論を進めるようにしてきたのに、いまだに指示を待ち続ける人々が現れる状況は何ともおかしなものに思える。色々な手立てが講じられても、どこかに重大な欠陥があり、それを克服できないとしたら、根本的な変更を考えるしか無いだろう。では、何をする必要があるのか、肝心なことが明らかになっていないのではないだろうか。それぞれに努力を続けており、改善を図っているのに、何故効果が上がらないのか、何とも不思議な状態である。これまでにもこういった状況は色々な場面で指摘されており、応急手当の問題が表に出てきているが、その辺りの矛盾がこの場合にも当てはまりそうに思える。つまり、設定された状況の中では手当が効果を上げているように見えるが、それは所詮決められたものの中だけのことで、全体がどこかからの指示のもとに進められていることになっているわけだ。こんな中で、演技を磨いたとしても、実践できる状況に高まるはずも無く、結果的に頭でわかっているふりはできるが、実行力の無い人間が出来上がる。社会全体からは厳しい批判が降り掛かるから、萎縮した人間は動けなくなるわけだ。何処に違いがあるのか、まだはっきりしないところもあるが、基本である任せることにおける認識の違いに何かありそうに思える。自主性には肝心なことであるにも拘らず、何かが欠けているような、そんな気がしている。
正直な感想を出しにくい世の中である。人間の弱さが目立つのは、ほぼ全員の認めるところだと思うが、では、それをはっきりと言えるかとなると、話が違ってくる。一人一人の人権を尊重する必要から、特定の人物に関しての意見を述べることが憚られるからだ。全体論はいいが、個別論はいけないというわけだ。
この矛盾に気がついている人も沢山いるが、社会の流れは明らかに逆向きである。弱い人間を庇う必要ばかりが強調され、その弱さの問題点を突く話はタブーとなる。ふざけた話だと思っている人は沢山いて、そういう話題も閉ざされた世界では頻繁に取り上げられる。しかし、社会全体に向けての場では、取り上げることさえできないのが現状だ。弱者保護を問題というのではなく、何をもって弱者と呼ぶのかを話題にしているのだが、その話を始めた途端に、前者の話のように扱われ、何処かに追いやられてしまう。全くもってふざけた話だと思うし、こんな状態が長く続けば社会の中に存在する病巣は深く広がるだけだろう。正義という名の下に、矛盾を放置する動きがここまで強くなると、少数派にとっては何ともやりにくいことになる。精神的な弱さをごく当たり前に主張できるようになり、彼らが楽しく過ごせる環境の整備が周囲に対して要求されるようになると、以前ならば無駄としか思えなかったことが頻繁に起こることになる。我慢をする必要はなく、勝手をすれば良いと言うと語弊があるだろうが、そんな風にしか見えない人が増えているのは事実だ。こんな中で真面目に生きることに疑問を抱く人が出てきたら、どんな答えが用意できるのだろうか。被害者であることを声高に主張する人々が闊歩する世の中が健全であるとはとても思えない。しかし、現状はそんな方向に向かっているようだ。耐え忍ぶとか、苦労するとか、一部の人々の感覚には今でも残っていると思うが、ある種の人々の心の中には別の感覚が巣食っている。それが当然のこととして扱われるようになってしまい、あらゆる外圧が害圧と呼ばれるようになってしまうと、課題を与える事自体が難しくなり、上を目指す気持ちへの応援はしにくくなる。何とも不自然な状況にあると思うが、これが現代社会の重要な要素の一つとなっている。このまま進めば荒廃は避けられないが、さて、それを止める手立てを編み出す力が腐った社会に残っているのだろうか。期待できないとしたら、ドンキホーテのように風車のような社会に立ち向かうしかないのだろうか。
生き物の話の続きのようなものだが、絶滅しないための条件があるとすれば、それは何だろうか。難しく考える必要はなく、ただ単に子孫を作り出すことにあると言えるだろう。そのために必要な条件は数々あって、それを一つ一つ紹介し始めるときりがない。ここでは、生殖という点に限ることにしよう。
個体の死は当然訪れるものであるが、それより個体の誕生が多く起きれば、集団として増加することになる。逆になれば減少し、ついには誰もいなくなることとなる。それが絶滅であり、それを避けるためには死の数より誕生の数を多くすればいいだけのことだ。定常的な状況ではこんな解釈で十分だが、突発的な出来事があると、そんな悠長なことは言ってられない。環境の急変などによる絶滅は、その生き物がそれまでどんなに均衡のとれた生産を行っていたとしても、避けられないものだろうから。生と死の均衡は生き物全般に当てはまることで、人間とても例外とはなれない。だから妊娠出産という出来事は特別な意味をもつと言えるだろう。しかし、これとは違った事情でこれらのことを考える人も沢山いる。何らかの原因で、望んでいるのに、その出来事に遭遇する機会を失っている人々だ。治療を基本とする医療において、これもその一つの現れと受け取る人々は、あらゆる手段を講じてきた。ごく生物的な営みに人工的な手段を持ち込むことには賛否両論があるが、望みを叶えるという一言が全てであるかの如く、関わる人々は全力を尽くしている。基本的には、機会を逸する状況が出来る条件が、ある危険性の回避を目的としたものかもしれないが、ここでは夢がそれを上回るものと受け取られているようだ。様々な手段が講じられ、次々に出される新手法に戸惑いを見せる社会も多いが、一個人を対象とした考え方には躊躇が見られない。先日流れていた情報では、その中で利用される技術に新たな展開があったとあった。詳しいことはわからないが、人工授精に使う卵子を長期間保つ技術が開発されたのだそうだ。技術革新は生活を豊かにするための基礎となるものだが、こういった技術についてもそれが当てはまるのだろうか。それよりも、技術の適用自体の問題を論じることが、重要な要素になって来るのではないだろうか。人工的に誕生した個体が正常な生殖を行ったとする報告がなされること自体、予想のつかないことが沢山存在していることを示しているし、更には、何かしらの蓄積を仮定すると、一世代だけの検証で十分かどうかは誰にもわからない。何を重要と考えるかで向く方向が変わることは当然だろうが、だからといって、何でもありという状況を放置するのはいかがなものだろう。
生き物はこれまでもこれからも、自分達を他の生き物とは区別する必要がある。そんな当たり前のことを何故、と思う人も多いだろうが、子孫を産み出すために重要なことはそこにあるのではないだろうか。ただ、人間の世界を見渡すと、余りに簡単に出会うことができ、余りに多くがいるために意識できないのだ。
他の動物では、単独で行動することが多く、他の個体との遭遇自体が難しいものがいるし、そうでなくても、小さな集団で暮らしているだけで、閉じたものの場合は自ずと限界がやってくる。植物は移動ができないだけに、事態はより深刻であり、個体数の少ない種類では様々な媒体を使う工夫をしたものが多い。その状況は不思議に思えるし、神の仕業と考えたくなる人もいるだろうが、今では殆ど失敗と成功の繰り返しによるものと考えられている。たとえ工夫を施したとしても、違う種類のものが同じことをしたのでは、混乱が生じ、互いに滅亡を迎えるしか無くなる。こういうことも淘汰の一つであり、偶然が二度起きない必要があるわけだ。相手任せの工夫の問題点がそこにあり、それに比べれば、動物が行っているような直接的な確認の方が信頼性は遥かに高い。しかし、それは同じ仲間であることの認識が確実に行われているからであり、そこでの信頼性に依存していることは確かである。異種間の交雑は結果的には子孫を絶やすことに場合が殆どで、存続にはほど遠いものとなる。その意味で、確かな認識が必要となるわけだ。人間だけが特別という考え方は、まさに人間だから出来ることで、そういう観点から考え出された言い回しも沢山ある。同じ人間でも、相貌に大きな違いがあるものを区別しようとする感覚が多くの人が持っているようで、そんなところから出た言葉もある。差別的な表現であるといってしまえばその通りなのだが、何とも直接的な言い回しである。これ以外にも、色々とあるようだが、それぞれに歴史的な違いもあり、用法も微妙に違っているようだ。しかし、大元のところでは、他の人との違いを言い表し、それを話題の中心におくことを目的とする。差別と片付けてしまえば、違った見方が必要となるだろうが、一方で、仲間とそれ以外を区別するための一つの考え方と思えば、話が違って来るようにも思える。そんな言い方をすると、それ自体が差別意識の素となるという批判が来るかもしれないが、違いを見極める力はそれぞれに必要なものであり、重要な要素なのではないか。それが力の大小と絡むことで別の影響を及ぼしたことと直結させるのは、別の危険性を孕んでいそうに思う。
経済活動が成長を続けるために必要な条件は何だろう。世の中では永遠に続くように言われていても、それを鵜呑みにしない人もいるだろうから、そこには何かしらの条件が存在しているように見えるが、これまでの歴史から推測できるするとしたら何が言えるのだろう。追従に専念する場合には無用な心配なのだが。
誰もが即座に思いつきそうなことは、市場の開拓ではないか。新たな市場には二つの意味があって、一つは地理的な要素としての市場であり、もう一つは取引するものの異なる市場である。どちらも現在進行形の発展を遂げており、より大きな市場を求めて、関係者たちは奔走しているようだ。しかし、前者には自ずと限界があり、球体の表面を覆ってしまう時が来たら、そこで終了となる。但し、歓迎はされないだろうが、世界的な戦争という一種の初期化が行われれば、話は違ってくる。それはそれでかなりの犠牲を伴うことが明らかだから、経済活動だけのためにという考え方は導き出されないだろう。一方、新たなものを編み出す努力はおそらく限界を見ないのではないだろうか。人間の欲望をかき立て、必要性を強調することで、新たに築き上げられた世界は、関係者の努力次第で拡大を続ける。これはまた、一つの世界が限界に近づいたとしても、それに新たな変化を導入することで、初期化に似たことが起きるから、その繰り返しが継続を導くことになる。これまでの歴史はこれら二つの拡大手段を大いに活用してきたわけだが、その上昇速度はかなり鈍化してしまった。そんな中で、成長の上でのみ成立する一部の経済活動は、単なる数字の操作としか思えない取引に精を出しているようだ。しかし、爆発的な成長は見込めないかもしれないが、多くの産業では新規開拓は依然として進んでいる。情報化社会では、あらゆるものが電子化されているけれども、自分の財産を失いたくない人々にとっては、便利さに裏切られる可能性が増大しているのではないだろうか。そんな中で、個人を特定する手段も持ち主の特定できないものより、本人自身の体を用いる方法が導入されている。指紋、掌紋などに始まり、これまで注目されていない特徴を使ったものまで現れ、その市場はかなりの勢いで拡大している。財産の保護という観点から始められたもののように言われるが、よく見ると、ここでも市場という観点が強く影響しているようだ。財産を守るために金を使うことは、ごく自然に受け入れられているように思えるが、現実には、それを預けた先がやるべきことなのではないか。サービスの中にサービスを入れ子とし、それを次々に反復する。錬金術の一種と言いたくなるような図式だが、今のところ批判の声は聞こえていないようだ。