パンチの独り言

(2007年9月24日〜9月30日)
(品格、敏腕、憫察、頻々、瓶詰、紊乱、貧農)



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9月30日(日)−貧農

 最近は、面と向かって使うことが憚られるようだが、馬鹿とか阿呆とか、相手を罵るためのものと言えるだろう。西と東で意味合いが異なると言われるが、マスメディアの普及により、そんな違いも小さくなった。これらに比べると知名度が落ちるが、戯けも同じ場面で使われることがある。一部地域に限られているのだが。
 それぞれの語源が何処にあるのか、諸説ありそうだが、戯けについては以前取り上げたかもしれないが、この字では想像できないところにあると言われる。戯けは「田分け」と書き、貧しい農家が小さな田を複数の子供達に譲ることになった時に、それぞれに細かく分けたというところから来たと言われる。狭い田からは家族を養うのにぎりぎりの量の米しか穫れないのに、それを更に小さくしたら、どの家族も生き延びれず、家系が絶えてしまうことを意味しており、それより、複数の家族が協力しあうことで効率を高めたり、嫡男を除く他の兄弟は何か別のことをすることで血を絶やさぬことが正しい選択ということのようだ。つまり、小さな田を分けることは、それほど自明であるから、そんなことをするのは馬鹿げたことという意味なのだろう。それでも小作人に比べれば、自分の土地を持っているだけでも十分という考え方もあるのだろうが、それほど狭い田しか持てないのでは、おそらく地主から借りて耕す田や畑を持つ必要があるから、大した違いはないのかもしれない。今では考えられないような状況だが、以前はこういう境遇にあった農家は多く、いつまでも貧しい生活が続くことになっていた。そんなところから生まれた言葉なのだろうが、字だけを見ると、ただ貧しいことしか伝わってこない。それに至る過程に通じていないと、意味が伝わらないわけだ。これも他の言葉と同様に、何かしらの時代背景や歴史が込められているもので、そこに知識がなければ理解不能となり、誤解を産むことにも繋がる。こんな例を幾つか見てくると、時代の流れと共に本来の意味を失い、全く違った用法が編み出される事情も何となくわかってくる。始まりは無知と片付けられるのだろうが、それが多数を占めるようになり、通じる相手がある程度増えると、そちらが正しいことになる。そうなってしまうと、本来の意味は間違いと受け取られ、徐々に姿を消して行くわけだ。言葉の変遷というのは、それを使う人間の代替わりによるところが大きく、かなりの注意を払っても防げないことが、何となくわかってくる。

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9月29日(土)−紊乱

 首長の多選を諌める声がある。同じ地位に長く居過ぎると、様々な弊害が表面化し、修正が難しくなるとの理由からだ。如何にも筋の通った話のように伝えられるが、そこに至った過程を抜きにして、このことだけを論じるのは無理に思える。何事にも権利や自由が保障される中で、何故こんな無茶が通るのだろう。
 多選を妨げる動きには、かなり明確な目的がある。犯罪行為を犯す首長の多くが、その地位に長く居座っていたことから、弊害の現れとして問題視されているからだ。ただ、これの善し悪しに関する議論は、一方的な雰囲気の下で行われることが多く、余り意味を成さないように思える。反対論には思惑が強調され、その一方で賛成論には潔白さが際立つ状況では、対等な議論にはならないからだ。しかし、立つ権利と共に、選ぶ権利があり、それが侵害されていると考えることも出来るから、この動きの正当性は安易に保証すべきものではないだろう。本来、人それぞれに持つ倫理観や道徳観に基づいて判断されるべきことが、このような形で議論されることは、そういう感覚が鈍くなったり、無くなったためであり、その穴を別の形で埋め合わせなければならないことに大きな問題がある。そこを再構築することは容易ではなく、また、良識という言葉も力を失ってしまっては、こんな手立てしか思いつかないということなのだろう。ある意味、自虐的な働きかけと思えるが、そんな観点からの批判は殆どできず、勢いに任せて声高に訴える潔癖性の人々が主導権を握っている。社会の秩序を考えた時に、このような動きを成文化することは、明らかに過保護の一種と思えるが、必要不可欠との声が大きい。自制とは自ら行うものであり、その必要性が無くなることは、一種の隷属を意味するのではないだろうか。それは流石に極端としても、秩序を保つために法律があるのではなく、自ら働きかけ、築き上げることであり、その結果として出てきたものを文章にしたのが法律なのである。順序を逆にし、一部の発言だけに基づく判断が罷り通るのでは、秩序を保つよりも、独裁的な動きを強くする方に向かいそうな気がしてくる。社会の乱れが極まり、それを正常化する動きが一部から出た時、別の極端に向かうのは、歴史の流れが如実に示しているのだから。

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9月28日(金)−瓶詰

 もう随分昔のことになるが、欧州のある国のスーパーではレジ袋を貰えなかった。買い物客は皆それぞれに手提げ袋を持ち、それに買った物を入れていた。そういう体制に向かった理由は様々だろうが、今では、この国もそちらに向かっている。的外れな議論が気になるところもあるが、総じて環境問題の深刻さを表しているようだ。
 その国では、ある時期から飲料の容器に硝子を専ら使うようになった。石油製品が溢れかえる中で、時代の流れに逆行するような取り組みは、それなりの意味をもっていたようだ。環境の保全を考える上で、原材料の調達は重要な課題となり、再生利用は方策の一つと考えられた。こちらでは石油化学への依存度が高いためもあり、そこから産み出された製品の再生に力が入れられたが、あちらは全く違った観点から原材料の選択に踏み切ったようだ。複雑な作業を必要とする化学合成品に比べ、硝子は融かして成形すれば再生できる。そこに利点を見出したわけで、その重さから来る流通の難点を上回るとの判断なのだろう。古くから使われてきたものには、利点、難点、それぞれにあるわけだが、何事も新技術がもて囃される国に比べて、より広い視野からの判断と言われることもある。その後の展開は、両者とも独自の道を歩んでいるようだが、石油製品を利用する国は様々な問題を抱え始めたようだ。再生には回収作業が不可欠で、そこにかかる経費を何処から捻出するかが問題となる。いつの間にか、隣の新興国にその作業を奪われ、国内での解決が難しくなってきたために、表面的には生産一辺倒の仕組みのままに見えてしまう。利益を産み出すことが重視され、再生そのものへの注目は薄れてしまった現状では、そろそろ新たな方策を編み出す必要がありそうだ。全く別の話だが、硝子容器と石油製品の容器との違いは、まるで、現代社会が抱えている問題を映しているように感じられる。壊してしまったら、複雑な過程を経ないと成形できないものと、融かしてすぐに成形できるものの違い、精神の不安定を訴える人々の状況は、この違いに似ていないだろうか。以前ならば、様々な障害を自ら乗り越え、解決の糸口を見出しながら成長した人間が、壊れた硝子が融けて違う形になるようなものであったのに対して、あらゆる障害が取り除かれ、最短距離を歩んできた人間は、軽くて丈夫に見えながら、一度壊れるとどんな形にもならないところが、何となく似ているような気がするのだが、どうだろう。

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9月27日(木)−頻々

 鵜呑みにしてはいけないと言いつつも、共通の話題として取り上げるしかないのが苦しいところだが、最近の報道でいじめが話題になっているようだ。「いじめ」の一言が全てを語るような内容には疑わしいところが溢れ、真意はどうあれ、核心を暈す効果しかあげていないように思える。何処が問題なのか。
 いじめが社会全体に蔓延していることは誰もが認めるところだろう。これだけ異分子を排斥しようとする気持ちが強くなると、自分の身を護ることも含め、そういった動きが日常的になる。ただ、幾つかある問題のうち、依然として虐められる側の感覚が中心となる点に変化はなく、これほど蔓延しているにも関わらず、いつの間にか作られた基本姿勢が変わらないのは不思議に見える。もう一つの問題は、陰湿かどうかの問題ではなく、法律的に犯罪と認められるものについてまで、いじめと表現することで済まされていることだ。一見、問題の本質を捉えているような雰囲気が伝わってくるが、実態は正反対であり、社会全体の問題という捉え方によって、加害者自身の責任を追及する勢いを萎えさせる効果を持つ。社会が何か大きな問題を抱えていることは事実であり、それを是正する必要があることも確かだが、それと個人の責任とは無関係であり、度を超した人間に罰を与えることを忘れてはならない。その点からすると、このところの報道の捉え方は、如何にも本質を捉えているという自己満足が見え隠れし、通り一遍の解釈に基づくものと思える。いじめが犯罪かどうかについて、議論は不十分であり、場合ごとに違いが大きいのに対して、このところ問題にされている事件は、明らかに犯罪と呼べる代物であり、常軌を逸した行為と呼ぶにふさわしい。そのことを取り上げずに、社会全体の問題とすることは、長い目で見れば正しい方を向いていることになるのだろうが、それが特定個人に対する処分を緩める方に向くのでは、本末転倒となってしまう。社会の問題は重大だが、法治国家である以上、法律遵守が義務づけられていることを忘れるべきではないだろう。情状酌量を持ち出す以前に、こういう議論によって、重大な罪を見過ごすように仕向けるのは、明らかな間違いに思う。事件が起こる度に思うのは、その数と的外れな議論の盛り上がりの高さである。

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9月26日(水)−憫察

 以前取り上げたことがあるが、癒しを求める人が増えているという。それだけ抑圧下にあるという意味かもしれない。その一方で、思いやりの必要性を訴える人々がいる。それだけ孤立している人が多いということだろうか。この二つを並べて、同じ問題が潜んでいるとしたら、何だと思うのだろうか。
 受け手と送り手の違いはあるが、どちらも一方向の流れを表している。あるものから癒しを感じる人と、誰かの窮状を思い遣る人、受ける側と送る側の違いはあるものの、そこには一方的な流れしか存在しない。では、どちらかが圧倒的に多数な場合、問題は生じないのだろうか。一人の不幸な人に対して、多数の人が何かしらの施しをする。寄付やボランティアはそんな状況の現れだろう。それに対して、少数の人から送られる癒しの音楽や思いやりのこもった言葉が多くの不幸な人々に届く。こちらは金銭とは違う形のものに当てはまりそうだ。媒介物を取り替えることで問題は起きないようにしてあるが、少し間違えると大変な社会になってしまいそうに思える。ただ、既に後者の場合がかなりの偏りを見せていて、社会的には対応に追われているように見える。癒しや思いやりという言葉で片付けられるものではなく、もう少し病的な感覚が伴う状況で、目の前にある問題への取り組みが困難になっている場合が多い。様々な組織で、こういった問題に対処するために、特別な仕組みが採り入れられている。精神的な不安定は誰にでも起きるものだが、そこから回復するための回路も同時に備わっている。しかし、ある人々はそこに不均衡が生じ、負の螺旋を下る経路に落ち込むことがあるという。その時、組織が為すべき手当は画一的なものではなく、的確な対応が求められる。そのため、専門的な知識を持つ人々が役割を果たす必要があり、何処でもそんなものを作っているわけだ。この状況に陥る人々に共通な傾向は、周囲との乖離であり、同じ面上にいない感覚なのではないだろうか。負い目や落ち込みなど、様々な症状を示すものの、そこには周囲からの思いやりのような働きかけを渇望する気持ちがある。これらの人々を救い出すために、重要な役割を果たす人々がいて、最近は何処を見ても、そんな人がいる状況だというわけだ。環境整備において重要な要素の一つと見る向きもあるが、何処かずれているような印象を受けるのは何故だろう。多くの人々が難題を抱えることで発する警告との解釈もあるが、本当にそうなのだろうか。それが一方的な施しを欲しがるきっかけになるのだろうか。もっと深い所に、別の要因が潜んでいるように思う人もいるだろうが、それが何か、まだ見えていないだけなのではないだろうか。

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9月25日(火)−敏腕

 やり手の人のことをこう呼ぶのではないだろうか。ただ、どちらかというと専門職に当てはまるようで、管理職などの全般を見渡す人々には使わないような気がする。その仕事を成し遂げるために必要な技術や知識は広く身に付けているけれど、他の仕事に必要なものには余り縁がない。そんな人を指しているようだ。
 一つ一つの仕事を確実、迅速にこなすためには、それなりの人材が必要となる。重要な役割だが、他のところで役に立つとは限らない。逆に、一つの細かな作業については頼りないように見えて、全体を把握する力の備わった人がいる。それぞれに役割分担があり、それにきちんとはまれば組織全体として効率よく事が進むことになる。教育程度に変化が無くなり、誰も彼もが同じような学歴を持つようになると、そこでの区分は難しくなる。その代わりに、それぞれに仕事をさせてみて判断することが必要となり、それを見分ける力を持つ人が重要となる。以前ならば、出身から出世の道が決まるのが当然だったものが、誰にでも均等な機会が与えられるようになったというわけだ。これが事実でないことは誰もが知っているが、表向きはそういう仕組みになっている。機会均等は魅力的な仕組みだが、現実には評価を基にした配置から、役割分担が決められ、ある程度固定される。元々は、別のことを基準とした役割分担だったものに変化が起きたわけだから、思いもよらない経過を辿ることもあり、それぞれに悲喜劇が展開される。専門職として能力を発揮した人が、管理に回った途端に沈んでしまうこともよくあり、人事異動の難しさの例として引かれることもある。ついには、昇進を拒絶する人まで現れる始末で、何とも不思議な状況が生まれている。適材適所の典型と思われることもあるが、首を傾げてしまうものもあり、一概には言えないような気がする。職人として一生を終えることのできた時代には、別の苦労があったのだろうが、最近の状況は何処かに歪みがあるような感じなのだろう。一時期流行した自分探しも大した効果を上げなかったようだし、人材登用の悩みは人事に携わる人々に共通のものなのだろう。本人の好きなように、というのは基本のように思われているが、人材活用においては必ずしも正しいとは限らない。才能を見出すことの難しさは常にあるが、それを見過ごさない気持ちを持つことが、上に立つ者の役割なのだろう。そこにはこの言葉は似合わないような気がする。

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9月24日(月)−品格

 やっている本人達はカッコいいと思っているのに、傍にいる大人達は眉を顰める。こんなことも日常的な光景になり、そろそろ異様に見えなくなっただろうか。頭が固い年寄りにとっては、いつまでも気になるものだが、寛容で他人のことなどどうでもいいと思う人々には、目に映らぬ景色なのかもしれない。
 地べたに座って話に夢中になったり、服の裾を引きずりながら歩いたり、下着を見せながら髪をいじったり、そんな若者の姿に目を逸らす年配者という光景が当たり前だったのはいつ頃までか。最近では、電車内での異様な行動に注意する人もなく、その代わりに、あてのない張り紙が苦言を呈している。ずり下ろしたズボンの上に見えるのは下着としか思えないが、女子の見せる下着と違って、こちらは本物だろう。ああいう姿を情けないと評した人は無視されるだけで、個性を重視する時代には周囲との兼ね合いなど考える暇もない。自分達が作り上げた社会に危機感を抱いたためか、このところこういう人々に意見をしようとする声が強くなっている。但し、その多くは個人に対する直接的なものではなく、不特定多数を相手とした文章を媒介とするものである。本来は、一人一人が自分の周囲に対して働きかけるだけで効果は十分なのだが、その気もなく、こういう文章を頷きながら読み続ける。何とも言えないすれ違いが展開される時代になったものだ。他人と同じように行動することが忌み嫌われ、独自性を強調する時代が流れた時、いつの間にか、誰かが始めた独自を他人が模倣するようになった。所詮はその程度のものに過ぎず、協調性を重視すべきところで、逆向きの働きかけが行われた結果、何処かに大きな矛盾を抱えた心が築かれたのだろう。今では、こんなことが当たり前となってしまった。真似しかできない人間に独自を強要することは、かなりの危険を伴う筈だが、猿真似と評された世代には、我慢ができなかったのだろう。結果として出て来たのはこんな姿であり、真似すべき手本を奪われた人々は、奇妙奇天烈なものへと走ったわけだ。ここまで来て、やっとのことで、矛盾に気づき、警鐘を鳴らしたとて、容易には巻き戻せない。暫くこんな捻れを含んだ社会が進んで行き、徐々に別の姿に変貌するのかもしれない。手本を示せなくなった世代を飛び越えて、その先に何とか到達できた時、そんなことが起きるのだろう。

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