パンチの独り言

(2007年10月1日〜10月7日)
(紛然、粉骨、文選、噴飯、分筆、文理、粉黛)



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10月7日(日)−粉黛

 白粉と眉墨という意味から、化粧を指す言葉として使われ、それが転じて化粧が映える人、つまり美人を意味するようになる。言葉の変遷を如実に表していると思うが、検索をかけてみると全く違った話題ばかりが引き出されてくる。更に進化を遂げたのかと一瞬思ったが、ちょっと考えてみると違うようだ。
 この国の言葉の難しさは、音からだけでは意味がつかめないところにある。話し言葉が第一な筈であり、音だけで伝わらない言語は通用しないと考える向きもあるようだが、文字が外からやってきた国だからか、少々事情が違うように思える。同音異義な言葉が数多くあり、誤解を招きかねないようだが、文字を主体に考えると問題が解決する。音の上げ下げや強調する部分の違いなどで、音声で区別のつくものもあるが、方言による違いが却って誤解を招くものもあって、結局文字に頼る方が良さそうに思える。ただ、日常的には音声に頼らざるを得ない部分も多く、そこから誤解が生まれ、当て字を作り出したり、誤字を当てることになってしまうのではないだろうか。ここでも、何度か同音異義の言葉について取り上げたことがあるが、語源を考えた時に重要となることが、結果的に同じ音を産み出すことになってしまい、混乱を招く例も少なくない。今回取り上げている「ふんたい」と発音する言葉にも、ここでのお題となっている「粉黛」と「粉体」があり、全く違う意味で使われてきた。ところが、音だけから入ってきた人々にはその違いは分からず、本来の意味にも触れる機会がなければ、区別がつく筈もない。そのため、微粒子からなる材料を指す粉体を使った塗料などに、粉黛を使うことになり、意味不明の話が出来上がることになってしまう。ネット社会の広がりが、それまでの音によるものを文字によるものへと転換させたとき、こんな間違いが頻繁に起きるようになったのだろうが、誤解や誤用を避けるためにも、注意を促す必要があるのではないだろうか。言葉を大切にするということは、単に音として伝えるものだけでなく、文字として伝わるものに含まれる本来の意味を正確に引継ぐことにもある筈なのだから。

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10月6日(土)−文理

 「文理」と聞いたら何を思い浮かべるのか。最近では、おそらく文科と理科に関わることと思う人が多いのではないだろうか。最近は見かけなくなったが、地方大学には文理学部なるものもあったくらいだ。しかし、辞書の中ではこの説明は最後に登場する。元々の意味は全く違うところにあるというわけだ。
 理を理科と結びつけるようになったのはそんなに昔のことではない。それ以前は、おそらく「ことわり」と読み、道理などの使い方が主だったのだろう。物理という学問分野もそう思って眺めれば、「もののことわり」ということになり、何となく意味が通じるような気がしてくる。しかし、そこまで理解したとして、では「文理」とは何か、改めて考えて思い浮かぶことはあるだろうか。では、文章のことわり、つまり筋道や文脈という意味だろうかと思いつく人がいるかもしれないが、これも二番目なのである。辞書の中の説明に順位がついている場合、若い番号の方が本来の意味を指し示すとすると、すぐに思いつきそうなものはどちらも本来の意味ではないということになる。何とも難しい話になってきた感じがするが、ここで考える時間を設けても、おそらく埒があかないだろうから、答えを書いてしまおう。そこには、「ものごとのすじめ、あや。条理」とある。条理は不条理という使い方で知っているとはいえ、それが文理と結びつくとは思わなかった、という人がいるのではないだろうか。ちなみに、条理とは、「物事のそうならねばならないわけがら」とあり、「筋道」ともある。なるほどと思うところだけれども、それにしても、理が絡むだけでこんなに色々とあるのかと、思えてくるわけだ。となると、次は理に絡んだものを探し回ることになりかねないが、そうなってしまったのでは大変だからやめておく。興味のある人は、是非辞書を眺めてほしい。文と理で、こんなに違ったものを指しているのかと、面白くなるのではないだろうか。

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10月5日(金)−分筆

 何となく平静に戻ると、その時の騒ぎが嘘のように忘れ去られる。何にでも当てはまりそうな話だが、ほんの十年くらいしか経過していないのに、すっかり忘れられているように見えるのは何故だろう。経済的には沈没するのではないかと思われたものが、いつの間にか繁栄に戻っている。喉元過ぎればということか。
 当時、様々なところで儲け話が湧いて出ていた。目敏い人々はすぐに駆けつけ、上前をはねて立ち去った。後に残ったのはババを引いた人々で、二進も三進も行かなくなった様子で、立ち尽くしていたようだ。その一方で、そんな喧噪とは無関係に、ただ日々の生活を送る人々もいて、何が弾けたのかさえわからぬ始末だった。そんな中で沈没の話が出て来るわけだから、どうにも理解できないものとなる。一部の暴走が全体に悪影響を及ぼしたと受け取る向きもあるが、その後の展開を見る限り、尻拭いをさせられたという表現の方が正しいように思える。経済の浮沈は様々な要因から起きるわけだが、この国の場合は土地が鍵となっていたようだ。投資の対象としての共通の認識から、予想を上回る速度で上昇を続けた相場は、ある時その支えを失った。そこから先はあらゆるものを巻き込んでの下降で、全体責任のような解釈までなされて、それに基づく措置がとられた。これほどの大騒ぎをしたにも関わらず、このところの動きは懲りない人々の狂騒を思わせるものになっている。著しい発展を続ける隣国では、土地は国有であり、その活用は政府の方針によるものとされる。そのため、直接的な投資の対象とはならずに、異常な状況には陥らずに済みそうに思える。ただ、強制立ち退きの光景を見る限り、方針は確実に実行されているように思えるが、歪みが出るとすれば暫くしてからだろう。こちらでは、私有地が主であり、そのことから様々な問題が生じた。バブルも一例だろうが、それとも関連する相続の問題はこの国独特のものだろう。国有で国が管理すれば起きない問題も、私有となれば諍いも起きる。登記に関する不正が色々と指摘されることからも、管理の仕組みとして万全とは言えない状況にあるのだろう。戦国時代に始まった土地所有の概念が言葉として残っていることは、何かまだ不完全な仕組みが継承されていることを表しているように思えるが、それは流石に言い過ぎだろうか。田を分けることの無知さとは違い、所有地を分割することはある目的を果たすものとなる。その背景には、税制度や人との関わりなどがあり、時代を映すものとなっているに違いない。

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10月4日(木)−噴飯

 驚いた時の人の反応は様々である。面白可笑しいか悲しい出来事か、そんなところでも違ってくるが、声を失ったり、涙したり、呆れたり、笑ったりと、同じ話題に対しても、人それぞれに違った反応が返ってくる。驚くという感情表現でも、それほど多様なものであり、それぞれに意味深いものであるに違いない。
 人それぞれと言っても、世間一般で考えようとすると、同じ話題を引き合いに出すしかない。ここ最近の驚きと言えば、おそらく政治の社会での辞任劇が当てはまるのではないだろうか。自らを中心とした航海を何とか進めようと努力していた人が、ある日突然船を降りると言い出す。海に出てしまった船から、どうやって降りようと思ったのかは定かではないが、兎に角後先考えずに決断したらしい。その瞬間の反応は様々だったが、その後の展開は予想を遥かに上回るような盛り上がりを見せたことになっている。現実問題がどうだったのかはさておき、いつの間にか収拾がつけられ、船を降りた人は過去の存在となった。現代社会で問題となっていることをこの話に当てはめると、そこには精神不安がちらつき、最終盤の異様さはその現れと見る向きもあるだろう。これまた真相は闇の中であり、既に過去のものとなった話には、誰も見向きもしないのかもしれない。いずれにしても、そこまでの展開と急転直下の辞任劇に、驚くというよりも、呆れた人の方が多かったのではないかと思う。あの年代の人にはああいった無責任な挙動が目立つという意見もあるが、果たしてどうなのか、一つの例で断言するのは余りに無謀だろう。一方、次への展開の素早さとそこでの方向付けの意外さにも、また別の驚きがあったのではないだろうか。どちらにしても、自分達の心の内から吹き出す不安定を持て余す人々の動きに、不安を掻き立てられた人も多かったのではないか。ただ、一部を除けば、平静を装う傍観者が大部分であり、こんな展開も舞台上の喜劇の一種として眺めていたのかもしれない。吹き出すほどの面白さかどうかわからないけれども、迷優ばかりの田舎芝居を眺める気分になりつつあるようだ。

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10月3日(水)−文選

 伝統工芸の展覧会を見に行った。それぞれに力のこもった作品が並べられているのだろうが、ふとあることを思い出した。いつだったか、芸術と工芸の違いを論じる人がいて、装飾を施し過ぎた作品は使う側のことを考えていない、という話だった。竹細工の制作者である人物は、自戒を込めて、そんな話をしていた。
 そのままとは言わないが、よく似た感覚を多くの作品を前に抱いていた。使うための器なのか、はたまた技術を結集させた上での芸術なのか、制作者自身に尋ねてもはっきりしないかもしれない。同じものを同じように作ることの重要性は、伝統工芸では強調されることが多い。その中で、新たな境地を開拓することは、諸刃の剣のようなものかもしれない。同じものを同じように作りながら、そこに技術の向上を織り込むことは容易なことではないが、明らかに違うものを作ったのでは元も子もなくなるからだ。そんな中で、伝統も人気に頼るところは大きく、衰退し、消滅することもある。技術が別の形で継承されることもあるだろうが、多くは工芸品が姿を消した瞬間に失われることになる。ある時、その技術を復活させようとする人が出てきても、継承されていないものの場合、簡単には行かないだろう。一方、工芸とは違う世界でも、様々な伝統が受け継がれ、芸能や芸術の世界にもそんな話が当てはまる。更には、普段何気なく使っている製品についても、様々な技術が注ぎ込まれているものがある。工業製品とは違うが、印刷物にもそんなものがあった。町の印刷屋は次々に姿を消し、この業界自体が苦しいところにあることはよくわかる。今ではコンピュータによる印刷が当たり前となり、人が持つ技術の入り込む余地は無さそうに見えるが、以前は、限られた時間内に活字を拾う作業が大きな比重を占め、そこに技術者の活躍する場があったらしい。印刷屋にも、独自の活字を開発するほどの力を持つところもあり、それぞれに技術の向上を図っていたのだろう。しかし、機械化が進むにつれ、人の関与が小さくなり、結局活字拾いは無くなってしまったようだ。ただ、継承すべき伝統は別の形に変わってしまったのかもしれないが、何かは受け継がれなければならない。それさえも無くなった時、何かが大きく変わるのだろう。

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10月2日(火)−粉骨

 虚勢をはるとか、強がりを言うのは、自分も含めて、若者の特徴と思っていた人もいるのではないか。しかし、様々な障害が紹介され、生き抜くための術の伝授が必要不可欠という声を聞くようになると、彼らの生きる環境が大きく変貌し、反発する術を失った人々が溢れていることに気づき、驚く。
 ただ、実際のところはどうなのかはわからない。例えば、自信過剰の若者は今でも沢山いると言われるし、誤った方向に無謀な行動に出る人はあとを絶たない。問題の一つは、試行錯誤の重要性が失われつつあることで、一気に頂上を目指す人々や、はなから諦める人が多いことだろう。こうなる原因には、待ちの姿勢などと呼ばれる消極的な態度が目立つことや、地道な努力を惜しまぬより、手っ取り早い近道を望む心情などがあるのではないだろうか。どちらも、当人達の精神構造から来るものだが、時代背景も深く関わっているように思える。即ち、外からの働きかけが強くなり、自主自立が失われつつあることや、安定的な時代の生き方には模倣すべきモデルがあると信じられていることである。これらは試行錯誤の機会を奪い、無駄とも思える努力を省く助言となる。それが賢く生きることに繋がるとの主張はある一面では正当に思えるが、安定しているとはいえ、無数の選択肢が存在する中では、不当な扱いと言うべきなのかもしれない。「楽」という文字一つとっても、今は「楽をする」という感覚が大きな部分を占め、「楽しむ」という解釈は後ろに追いやられている感じがする。見方によることだが、ここにも消極と積極の二面が現れていて、全体的な傾向としてある方向性が導き出されていることを意味するように思える。無駄な努力は、直後には確かに無駄だったのだろうが、後々眺めてみれば、また違った一面が窺えるように、それ自体に様々な意味が含まれる。親心の働きと言ってしまえばそれまでだろうが、これを省くことによる副作用は計り知れないものがあるのではないか。壁に当たったときの対応一つにしても、随分と様相は変化しており、それによる悪影響はあらゆるところに現れている。にも拘らず、依然として手を差し伸べる動きが緩むことは無く、甘やかしの螺旋階段を昇り続けるばかりだ。受動から能動への転換が図れなくなった時、全ての動きは負に向かうのかもしれない。

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10月1日(月)−紛然

 コンピュータによるネットワークは、初期段階では様々な障害があり、とても使える代物ではなかったらしい。現在の状況からは想像できないが、何事もそんなものであり、そこで使われる仕組みや道具が普及することで、ある時爆発的に発展するのだろう。しかし、その陰で別の障害が多発しているのも事実だ。
 情報を集めるために有用な仕組みは、あらゆる点で改革をもたらした。ある年齢以下の人々にとっては、これが全てであり、其処に無いものは何処にも無いと思い込むほどになった。これも一つの障害だが、誰とでも繋がる仕組みは、下手をすると鍵をかけていない家に盗みに入られるような状況となる。田舎のように、知り合いしかいない状況であれば別だが、誰ともわからない人間が家の中を歩き回るのは、余り気持ちのいいものでは無いだろう。同じように大変革と言われる電子メールも、最近では無意味なものの方が圧倒的に多い状態になっている。様々な篩がかけられているが、嘲笑うように無意味な件名、既存のアドレスが使われ、無用の長物と化しているようだ。人間が行う選別は何を基準にしているのか、そこがわかればもう少し有効な手段が講じられるのだろうが、自分のことが自分でわからない状況では何ともならない。無意味な文字の羅列は言葉にならないわけで、相手に伝わるものは何も無い。しかし、機械的な選別ではある特定の意味をもつ文字列の排除が可能となるだけで、意味を成さない言葉というものを選び出す能力は無い。機械は本来ある目的を持って作られるものだから、こういう結果になるのは当然のことなのだが、悪賢い人間はそれを逆手にとることになる。ふざけた話のように思えるが、これによって通信障害が生じるようになれば、重大な問題となるわけだ。人間が考え出すものを排除するという目的では、十分に実現できる筈なのだから、そのくらいのことはさっさとやれと言うべきか。あるいは、根本から考えて、阿呆な人間の排除を計る手段を講じるべきなのか。どちらにしても、利用者には縁遠い話には違いない。

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