パンチの独り言

(2007年10月8日〜10月14日)
(便衣、鞭撻、偏倚、弁巧、変節、辺幅、片脳油)



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10月14日(日)−片脳油

 衣替えの時期、冬物を引っ張り出して、がっかりした経験を持つ人がいるのではないか。大切にしていたセーターに穴が開き、台無しにされたというような。蛾の幼虫などが毛糸などの繊維を食べるためで、それを防ぐための薬剤をついうっかり入れ忘れたことによる。この薬剤は防虫剤と呼ばれるから嫌な臭いでも出すのだろう。
 現在は合成された製品が数多く出回り、臭いも感じられないものまで登場して、どういう効果をもつのかさらにわからなくなってきたが、古くは樟脳が使われてきた。樟脳は楠から抽出された揮発性成分で、防虫剤としてだけでなく、医薬品としても使われている。強心剤として使われたこともあり、英語ではカンフルと呼ばれるところから、気合いを入れるなどの意味の言葉として残っているものもある。また、セルロイドの製造に欠かせないもので、これは石油から作られる合成樹脂が登場するまでは、玩具などに使われる主力の製品となっていた。様々な用途のある樟脳だが、天然物だけに大量生産は難しく、合成防虫剤が登場すると、いつの間にかその座を退いたようだ。その副産物も幾つかあり、樟脳を取り出した後に残る油のような成分をさらに精製したものは、殺虫剤として使われたこともあるらしい。今ではこちらも合成品に取って代わられたが、溶剤としての用途だけは残っているそうだ。それだって石油製品が主流ではないかと思う向きもあるだろうが、主流としてはこの油を用いるそうだ。その対象は、英語でjapanと呼ばれる、漆であるところが面白い。勿体ないと思ったことがきっかけなのか、そんなことはないと思うが、何故使われるようになったのかは、検索してみたが見つからなかった。また、片脳油と呼ばれるようになった理由も不明である。

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10月13日(土)−辺幅

 報道は、まず事実を伝えることが務めである。事実を歪曲して伝えることは以ての外だが、最近はその上に誤解に基づく解釈が加わることがある。このような状況では鵜呑みはできず、まず吟味をすることが求められる。しかし、実態は正反対にあり、自ら考えられない人が画面の向こう側も含めて、増えている。
 不祥事が起きる度に問題を指摘する人々がいる。掘り起こす形の分析は価値があるだろうが、表面的な事柄だけを取り上げ、批判を繰り返す話は無価値である。元々不祥事なのだから、批判の対象になるのは当たり前で、それは一般大衆にも十分に理解できる。その代表であるかの如く振る舞う人々は、取り立てて特殊な能力を持つわけでもなく、ただ大衆に迎合しているだけだから、その言葉は単に蛇足になるだけだ。報道の姿勢としては、事実を伝えるだけに留めておいて十分なはずだが、解説や分析を同時に示す手法が主体になってからは、どうも余分なものが目立ち始めた。その場で伝わる事実だけでなく、それまでの背景を含めた分析や、少し踏み込んだ分析などが含まれる場合は、なるほどと思うことが多い。ただ、これが事実を伝える場で同時に流されることには、いささか抵抗を覚える。それは、事実と意見との混同が起こるからである。その上、どちらにも思惑が絡むような状況が生まれるにいたり、現状のように無価値なものが横行することとなった。たとえば、自動改札の不具合が伝えられたとき、各駅に設置された機械がすべて止まらず、一部が動いていたことに気づいた人もいるだろう。全く同じように見える機械が、製造会社の異なるものであり、それが並んでいることに初めて気づいた。考え方次第だが、これは危機管理の一種と見なせ、不具合への対応とも思える。今回は運用面での徹底が無く、管理体制にも不備があったと言えるのだろうが、このあたりの分析は殆ど聞こえてこない。不具合を生じないようにすることは当然必要だが、それが起きたときの対策を講じることも重要であり、今回の事件はそれを示したと言えるだろう。損害額の問題や迷惑の問題を取り上げるのはごく当たり前に過ぎず、解説をするのであれば、もっと踏み込む必要があるはずだ。食品の賞味期限の問題でも、表面的なことばかりが取り上げられ、どうにも役に立たない話に思えるところがある。人に事実を伝えるだけの役目を果たすのであれば、それをきちんとこなす必要がある。今の状況はあまりに杜撰な半端仕事であり、見る価値のないものが流れているとしか思えない。

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10月12日(金)−変節

 片意地を張って、他人の意見を聞かず、話し合いを成立させない人々がいる。自分の中では、周到に準備された意見であり、曲げる必要を認めていないのだろうが、こういう人に限って、世間の動向に流されるから面白い。相手がいる議論の場での変更は受け容れがたいが、世間という相手のいない世界なら問題なしか。
 頑なに主張を繰り返す人々には、それなりの思い入れがあるのだろうと、普通の人は考える。しかし、彼らの多くは、議論をするための議論に没頭するだけのようだ。つまり、確固たる主義主張をもったものではなく、その場限りの自己主張を繰り返しているだけなのだ。だからこそ、ちょっとしたことで変貌し、他人から見たら自説を曲げることになることにも気づかない。その上、こういう人の多くは、時流に遅れることを忌み嫌い、自分が社会の中心に位置していることを意識しているから、動きの激しい社会では、如何にも変梃な行動をとる。元々、動きを読むことに長けていると思いこんでいるようだが、その読みは的外れで、どうにも矛盾に満ちているから、全体の話し合いでは上手く立ち回れない。こんな人々はどの組織にもいて、場合によっては中核をなすこともある。その場合、組織にとっての被害は甚大となり、様々なことに停滞が生じるが、何かしらの作用が働くことで、何とか組織としての体裁を保っているようだ。熟考の末に導き出された持説ならば、それなりの価値を持つこともあるが、変化に追いつくために付け焼き刃的に考え出されたものは、それほどの価値を示さない。周囲に変化が訪れれば、追従しようとするわけで、全体が振り回されるのは目に見えているからだ。ただ、これが社会全体という組織に起きてしまうと、自分で自分の動きを引き出し、異常な展開が起きる場合があるから要注意である。このところの政治の動きは、これに似た部分があり、振り子のふれが大きくなると言うより、速くなっているように見える。周期は一般には変わらないはずなのに、それが速くなっていると言うことは、何かしらの外力がかかっているわけだ。それに気づかぬ人々は、次々に展開される話題について行くことに躍起になるばかりで、本質を見る余裕を無くしているように見える。もう少し落ち着いて、物事を冷静に見る気持ちを持つべきではないだろうか。

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10月11日(木)−弁巧

 ネズミ講と呼ばれる違法行為がまた発覚した。鼠のように子供を次々に産み出せば、上の世代が儲けを得られるというもので、数に限りのある世界では成立しない手法だからだ。問題が表面化してから、摘発までの道程はかなり長く、複雑な仕組みによる隠蔽が障害となったらしい。法律とは網のようなものなのだろう。
 いずれにしても、被害者が声を上げることが始まりであり、違法となれば訴訟もできる。従来通り、被害者の会なるものが作られたようだが、世間の反応は鈍いようだ。関係者以外から見れば、どこに問題があるかではなく、何故問題を抱えたかに関心がある程度で、騙した方も騙された方も、それぞれの思惑で動いたことには変わりがない。一部の人が指摘するように、手を替え品を替えやってくる、甘い言葉に誘われて心を動かす人々の心理は理解しがたいところがあり、彼らの洞察力の問題を考えれば、取るに足らない出来事と見なすのも無理のないことだろう。金に目が眩むのは欲の表れと片付けてしまえば、そこでの判断力の欠如の原因も容易に導き出せる。だからといって、違法行為が許されるわけではなく、罰するべきであるのは当然だが、次々に起きる詐欺事件の中身が詳らかにされるにつけ、首を捻りたくなるのは仕方のないところではないか。社会的に言えば、将来への不安を煽る風潮によるものとの解釈もあるが、さて、どこまで他人に責任を負わせようとするものか、こちらの欲にも限りはないようだ。甘い誘いや口車に乗せられるためには、やはり乗る気がなければならないだろうし、始まりでの判断は冷静だったのだろう。それがある地点を越えたところから、世間的には見込みの甘さが入り込み、それを増長する論理の飛躍について行ってしまうことになったのかもしれない。ただ、その過程でも欲による心理的な作用は高まるばかりで、抑制がかからなくなったのだろう。こんなことを書いていても、その最中の一つ一つの判断は信じがたいものであり、結局のところ、当事者でなければ理解できないものと言うしかないのではなかろうか。裏を読むというほどのことはなく、ただ単に、甘い話には、と思うだけで、普通の生活が送れると信じるべきなのだろう。

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10月10日(水)−偏倚

 何か変化が起きたとき、あるいは問題が起きたとき、世論調査と言われるものが行われる。変化や問題に対して、有識者ではなく、一般の人々がどんな印象を持っているのか、どんな問題意識を持っているのかを調べることが主たる目的と思われる。その結果は、大々的に発表され、影響は無視できないと言われる。
 統計的に意味を持つ調査はどんな形式のものか。学者たちは様々な観点から検討を行い、抽出された集団がある程度の大きさをもてば全体の傾向を表すと言えることを結論づけた。それを拠り所として、各調査は行われており、信頼できるものとされている。ただ、問題は数だけのことではなく、全体を指す母集団が幾つかの群に分かれていたときに、それぞれを代表するものがどのように抽出されるかが肝心になるといったことが指摘されている。たとえば、年齢層、地域、職業など、一般と大きく括っても、単純に一つの集団と見なすことが難しい場合が多いと思われるのだ。そんな中で、最近は電話による調査が主流となり、乱数として導き出された番号への通話を手がかりとして行われているようだ。これ自体も危ういところがありそうだが、そこに言及することは殆どなく、ただ単に数字の解析へと結びつけるやり方には、不安を覚える向きもあるのではないだろうか。集計結果が偏りを見せたときに、そこから傾向を見いだすことが調査の目的であるから、設問もそれに沿うように作成する必要がある。ここにも作為が入り込む余地があり、調査全体の操作が容易に行われうるところだろう。さらには、文字からの理解と言葉からの理解の違い、つまり読むことと話すことの理解度の違いも問題を生じる可能性を孕んでいる。統計的に正当という意味は、ここで挙げた問題については触れておらず、さらなる検討を必要とする筈だが、そんなことに関わるつもりはないらしい。ある意味不安定とも思える基盤の上に立つ調査結果は、意識的、無意識的に関係なく、偏りを示す数値として出されてくる。それが意図によるものであれば明らかな操作となり、そうでなくても予期せぬ作為的な偏りが現れることもあり得る。数字の一人歩きを問題視する人々が現れたとはいえ、まだまだ振り回される方が圧倒的多数である状況では、そんなところに目を配る気持ちをもつことは重要といえるのではないか。

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10月9日(火)−鞭撻

 いくら電子メールが普及したと言っても、まだ転職などの知らせに葉書などの挨拶状を使う人が大部分だろう。改まった形の挨拶となると、どうもメールというものは馴染まないところがあり、葉書を選んでしまうのではないだろうか。自由が束縛される挨拶では、媒体だけでなく、中身も形式に則ることになる。
 独自の形が尊重される時代といっても、まだ一部に限られているのは、こういうところからわかる。形式を重視するのは、旧来の習慣を尊ぶことになり、若い人々は抵抗を覚えるはずだが、こういう場では冒険を控えるようだ。しかし、そこで使われている言葉を眺めていると、普段の言動からは想像つかないものに思え、違和感を覚える人も多いだろう。自由と責任の組み合わせの重要性を説かれている人々も、こういうところでは無難な選択として、別の方式に落ち着くようだ。しかし、形式に走れば走るほど、現実感のない表面的な表現が満ち溢れ、本人の意気込みが感じられなくなる。無難に流れることは、逆の意味での冒険に走ることとなり、単純に何も印象に残らないか、あるいは、逆効果を及ぼすことになるのかもしれない。何より、そこにちりばめられている言葉の一つ一つに、意識が働いているとは思えず、ただ単に形式に当てはめただけのものであることが、普段の行為との乖離に繋がることが印象を悪くする可能性があるのだ。いじめ問題に注目が集まる時代には、まさか、むちで打たれたいと願う人はいないと思うが、いつの間にやらこの言葉が定型文として使われるようになった。色々な意味が含まれるのは当然のことで、ここでもそこから派生した意味合いが適切と判断されたことからの使用であるのだろうが、決まり文句となってからはその意識は感じられない。こんな形ででも、古い言葉が生き残るのは良いことなのかもしれないが、そのうち差別語の一種として姿を消すかもしれず、何とも不安定なものである。

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10月8日(月)−便衣

 何だか世の中は緊張の糸が張りつめたもののように言われているようだ。明らかな圧力だけでなく、見えない圧力に曝され、潰されて行く人々の悲鳴が伝えられる。事の真相は当事者にしか分からないことだが、これだけ頻繁に取り上げられるのだろうから、間違いないのではと思う人もいるのではないだろうか。
 当事者にしても、立場によって事実の解釈に違いが現れ、何が本当の問題なのかは殆ど分からない。人それぞれの解釈は、本来ならばある範囲内に収まるべきものだが、最近の傾向を見る限り、逸脱することが多く、そのために判断に迷うこととなる。ではこの違いはどの辺から出てくるのか、要因の一つと考えられるのは、気楽さによるものである。緊張せざるを得ない環境では、気を楽に保てる時間が貴重であり、それをなるべく長く持ちたいと思う人も多い。その一方で、見えない圧力は常に自分に迫ってきており、そこから逃れたいと思う気持ちが入り混じってくる。そうなると、何が何やら分からない状況に陥りそうに思えるが、本人はある地点に留まっている感覚を持っているようだ。落ち着いているようで混乱している状態からは、様々な展開があり得る訳で、上手く修正できないことになれば、一気に外れて行くことになる。精神的な平安、気楽さを求める傾向は、他のところにも現れているように見える。かなり前から目についていたが、家の外に家の中でいるような格好で現れる人々が増えてきた。普段着と呼ぶには少々度が過ぎるように見える姿に、はじめの頃は驚かされたものだが、最近は気にならなくなった。ひょっとすると数が減ったのかもしれないが、こういうところに現れているのが気楽さと思えてくる。その表し方が変わっただけで、恐らく多くの人にとっての気楽さが重要な要因にあり、自ら緊張を招く状況に向かいたくないことは確かなようだ。一方、冠婚葬祭の場は選択の余地なく、緊張を強いられるものである。葬儀でも当然礼装が求められると考えるのも無理ないが、何となく解せないことがある。それは、通夜の席で普段着で現れる人が殆どいないことである。この辺りは解釈の違いだろうが、どうなんだろうか。気楽過ぎて、緊張がないと言われることを避けようとする緊張は、何とも変に思える。

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