パンチの独り言

(2007年10月15日〜10月21日)
(翻案、凡眼、奔騰、椪柑、盆景、煩悩、本草)



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10月21日(日)−本草

 理科離れが進んでいると、多方面から悲鳴が上がっている。工業製品の生産によって現在の繁栄を築いた国にとって、技術の基本となる科学、そのまた基盤となる理科という教科は、必要不可欠なものと解釈される。しかし、負担軽減の波が教育現場にも及び、日常的でない科目は面倒なものと受け取られている。
 この傾向が露わになるのは、大学での生活ではないだろうか。実験が義務づけられている理系の学部と比較して、文系の学生は何とものんびりした生活を送っているように見える。熱心な学生は別として、全体としてみたときには、この傾向はかなり極端になるようだ。子供の頃から楽な道を歩まされてきた人々がどちらを選ぶかは、個人の好みのように思われてきたが、最近では負担の少ない方という考え方も目立っている。そんな過程で、こういった傾向は様々な段階にまで影響を及ぼし、ついには理科離れなどという問題として取り上げられるまでに至った。これだけだと、如何にも、上の方から降りてきたように見えるが、現実には出発点である家庭が発端となることが殆どであり、公教育より、家庭教育の問題として取り上げるべきものかも知れない。まだ、理科教育に力が注がれていた時代には、子供相手の催しが現場の教師の手で開かれていたこともあり、親がその気になりさえすれば、子供の興味を満足させるのは容易だった。最近の催しの多くが最新技術に関連したものが多いのに対して、以前のものは理科そのものであり、自然観察や学習項目に沿ったものが殆どだった。その違いは明らかであり、子供たちの興味だけでなく、理解も促す効果が上がっていた。身の回りの生き物を観察することは科学技術とは無関係に思えるが、興味を持ち、見つめることの大切さを身に付けるには最良の方法である。流行にばかり振り回されている方法と比べて、何とも古くさく見えるが、基本を考えればその意味は明らかだろう。草花の観察といっても、花屋で売られているものしか思いつかない子供たちの様子は、何とも異様なものである。身近なものへの興味がきっかけになることを、再認識する必要があるだろう。植物も、雑草としか見ないのではなく、薬としての効用などを考えれば、何故興味を持たれたかを説明することは容易であり、それこそが見分けることの重要性を示すことになる。本草などという言葉が隣の国から渡ってきたのも、そこに理由があるのだから。

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10月20日(土)−煩悩

 毎日のように、欲をかいた人々が話題となる。金銭欲、名誉欲、性欲など、世の中には様々な欲が渦巻き、人々を誘惑しているようだ。ただ、度の過ぎたものはいけないとしても、全ての欲を無くしたら、生きていくことも難しいだろう。とはいえ、丁度よいところというのは難しく、悩み続けるしかない。
 仏教の世界では、欲を捨てることが必要とされ、そのために修行に励むと言われるが、何も求めていないのだろうか。直接尋ねたことはないが、その境地に達していないものには理解しがたいものなのだろう。そちらの極端はそれとして、最近の強欲的な事件は理解できる範囲にあるが、呆れ果てるものばかりである。身勝手な行動と言えばそれまでだろうが、それにしても抑制的なものが何も働かないとしたら、恐ろしくなる。幸い、身の回りにそんな人間はいないが、これほど頻繁に事件が起きるところを見ると、いつ何時と思ってしまう。地位や収入に拘る人々も沢山いるようで、それにしがみつくために不正を働くことも多い。彼らの心の中にあるものは容易には理解できないが、自分しかないことは確かなようで、他人の介入を妨げるための方策は湯水のように湧き出てくる。要職に就いていた人々の不正が発覚したとき、一番驚かされるのは、不正によって手に入れたものと失ったものの大きさの違いである。欲を満たすために働く不正ではなく、発覚するものの多くは、それに比べたらちっぽけなものが多いのだが、それにしても判断力の欠如は何処から来るのか。ただ、戒めと受け取っておくべきことは、罪の重さは不正の大きさによるのかも知れないが、それまでに築いてきたものを失うことには変わりのないことであり、それを避けるための方策は明らかなことだろう。ほんの出来心は、ついには日常と化し、常態化したものは肥大化する。化けていく過程で徐々に薄れていく感覚は、抑制力を失っていく。そんな道に入ることを防ぐしか方法はなく、現実には難しいことではない。たったこれだけのことなのに、それができない人がいることは不思議に思える。これも、あちらの道に進まないと理解できないものであろうし、それらの人々が同じことを繰り返すのも、そういった感覚の違いによるものであろう。平凡な人生を歩むことが一番難しい、という世の中にならないことを願うのみだ。

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10月19日(金)−盆景

 京都のある寺の庭は借景も含めて美しいと評判なのだそうだ。そこの庭師に疑問をぶつけた人がいて、五百年以上昔の創建当時と比べて、どこが違っているのかを尋ねた。答えは始めに取り決められたとおりに維持しているので、全く同じというものだったそうだ。信じるか否かは別にして、すごい自負心である。
 自然をあるがままに愉しむことに異論を唱える人はいないだろう。しかし、人が集まり始めると、あるがままの自然は失われてしまう。そこで、遠出をして、自然に触れることを選ぶ人もいるが、自らの手にしようとする人もいる。庭はその典型と言えるが、それとて広い土地を持つ必要があり、誰もが可能なものとは言えない。箱庭と呼ばれる代物が登場したのは、まさにそんな欲望からで、縮小版とはいえ、自然を模した景色がそこに広がり、それを愉しむことができる。これには、単に見る楽しみだけでなく、作る楽しみも含まれるから、また違った趣が出てくるのだろう。縮めて愉しむことは他にもあり、植物をなるべく小さく育てて、その姿を愛でる趣味がある。盆栽はこの国特有のものと認識され、今では世界中に広がっているようだ。人工的な自然にどれ程の意味があるのか理解できないが、これだけ長い歴史を持ち、多くの人々が関わるものも少ないから、やはり深い意味があるのだろう。縮小版での楽しみには様々なものがあると思うが、作ることの喜びに勝るものはなく、その過程を重視できたからこそ、長続きしたのではないだろうか。それにしても、小さくとも本物と見紛うほどの趣を持ち、それぞれの配置に原寸の庭と同じ意味を持たせるわけだから、庭の維持と同等かそれ以上の高度な技術が必要となる。そういうところで培われたものが、何処かに活かされてきたのかも知れず、伝統のなせる技が知らぬ間に広がりを示した結果が今巷に溢れているのかも知れない。あくまでも人工にこだわる英国の庭に比べて、自然を模すことを重視した点は、精神性の違いを表すものと解釈され、立ち位置の違いを如実に表していると言えるだろう。その伝統も、近年揺らいでいることは否めず、この先どんな経緯を辿るのか、ぼんやりとしか見えてこない。

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10月18日(木)−椪柑

 遺伝子組み換えを敵視する人々がいる。神の領域と思う人は希としても、天然でないことを理由とする人は多い。経済効果が優先されることに対する反発も大きく、本質的な議論が難しくなるばかりだ。的とすべきは、経済ではなく、改良の結果が及ぼす作用の問題であり、論点が散漫になることは避けねばならない。
 遺伝子組み換えによる品種改良と古くから行われていた品種改良の違いを論じることは珍しく、何か全く新しいことが起きたと思う人は多い。確かに、組み換えでは標的とする対象が絞られ、結果も明確なだけに、何か不都合なことが起きれば、原因となることが明らかである。それを利点として捉える人は少なく、欠点とする人が多いのは、何故だろう。従来の品種の掛け合わせや放射線などによる突然変異によって行われる品種改良では、何が起きるかを予測することは困難であるばかりか、結果として起きたことを特定することも難しい。ただ、新たな品種の特性は慎重に吟味され、有用となれば利用することとなる。最終結果が望ましいものかどうかが問題とされ、そこに至る経過を見極めることは殆どない。わからないからいいとは言わないまでも、明確でないことに疑問を挟むことは少ないのだ。この辺りの事情は微妙な情勢にあると思うが、議論では別物として扱われることの方が多いようだ。普段の生活では気づかぬことだが、食品の多くは品種改良によって作り出された作物などを原料とする。穀物、野菜、果物など、殆ど全てが改良の産物であり、原種の話は豆知識として語られるに過ぎない。原種を交配させたり、突然変異体を選び出すことによって、様々な特性をもつ品種が開発され、それが人間にとって有用なものとして広がっていった。ここで起きたことも遺伝的な変化であり、組み換えと基本的には同じである。にもかかわらず、片方は無視できるとする考え方には首を傾げざるを得ない。目的が明確であることがいけないとする意見もあるが、一部を除けば根拠薄弱となるだろう。今でも、稲の品種改良は従来通り行われ、その一方で組み換えによるものも行われている。しかし、実用化への道は大きく異なっている訳だ。ただ、消費者の立場からすれば、何かいいことがあればそれだけで十分という見方もあり、これまで同様に受け容れる姿勢も見られる。気温が下がり始め、炬燵が恋しくなる季節、柑橘類の話題もそろそろ出そうだが、そこでも改良が続けられている。それでも古くからの品種への拘りもあり、それぞれに出回るようだ。その中の一つに、インドを原産とするものがあり、その土地Poonaに名前の由来があるものがある。漢字をあてれば、題名のようになるが、さて、読めるだろうか。

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10月17日(水)−奔騰

 景気は確実に回復したのだろうか。実感がないという意見が多い中で、数値としては、右肩上がりを続けた時代に匹敵することが示されている。この違いはどこから来るのか、未だに答えが出ない状況だが、一つ考えられるのは、以前経験した風船のように膨らむ感じがないことで、高度成長こそが、と思うからなのかも知れぬ。
 全ての数字が全く同じになってしまうと、次に待っているのは、同じような崩壊の筈で、それを避けるためにも、変化の仕方は違っていた方がいいに決まっている。頭ではわかっていることでも、気持ちとしては受け容れがたく、その辺りの差が今の感覚を導き出しているように見える。もう一つは、経済成長という観点からしても、世界的な成長は既に望めず、その中で資金運用の成績を伸ばすためには、表面的な数値の変化のみに頼る選択しか無いことに、原因があるように考えられる。マネーゲームと評される動きは、一部の人々を除けば、蚊帳の外に追いやらるばかりか、騒乱の被害を受けることになるわけで、現実には歪みが増すばかりの状況に追い込まれる。そんな中では、折角の経済成長も、何処かに吸収されてしまい、いつの間にか消滅したように見えるわけだから、一般市民にとって実感の薄いものとなる。奥底では様々なことが起きていても、それが浮かび上がる過程で、横槍が入ることで、泡として表に出ることができない。そんな状況が生まれているのではないだろうか。精神的な痛手から回復したと言っても、将来に対する不安が様々な形で煽られ、不安定な体勢をとっている感覚は拭い去れない。個人の感覚がそうなっているところへ、企業の実績と評価の乖離が広がるようでは、市場の安心感は生まれるはずがない。分析を生業としている人々にとって、過去のことをあれこれいじくり回すのは簡単なのだろうが、将来への展望を見いだせない状態は、必ずしもいいとは言えないだろう。感覚のみをとやかく述べてみても、数値が示されなければ駄目という声も、その逆が起き始めているときには、なりをひそめてしまっている。心理的な要素の重要性は認識すべきだろうが、今の歪みをそれで説明したとしても、埒があかないのではないだろうか。これは、急激な上昇を望むのではなく、単に正当な評価を望む意見として、もっと前面に出てきてもいいはずのことである。

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10月16日(火)−凡眼

 国の政府が用意した制度では、自分の将来の保障は不十分だから、自分の身は自分で守らねばならない、とする考え方が定着しつつある。この国が築き上げた社会保障制度が揺らぐ原因は、制度そのものではなく、それにまとわりついた人々の思惑の結果に過ぎないが、それ自体を批判することもなく、変わったようだ。
 しかし、社会という大きな存在が基盤となるのと違い、個人という小さな存在が少々の蓄財をしたとしても、植え付けられた不安感は拭い去れない。そこに来る儲け話に、乗ってしまうのも無理からぬことかも知れないが、わざわざ地雷を踏みに行く行為であることには変わりがない。利益を得るためにはある程度の冒険も必要と言われ、宝籤は買わねば絶対に当たらないと言われては、つい手を出すのも仕方ないのかも知れないが、少なくともそこに横たわっている危険性に目を向けないのは間違いだろう。冷静になって考えればわかるとする意見もあるが、その必要のないものにまで手を出す人々には、心の中の損得勘定を判断する部分に何かしらの欠陥があるとしか思えない。口車に乗せられたとする人々の多くは、それを話す相手よりも先を見通し、薔薇色の未来を思い描いたわけで、その想像力たるや尋常ではなかったのではないか。骨董品の世界で騙される人々の多くは、損の勘定よりも得の勘定に心が向き、目論見だけが独り歩きを始める。それを戒める言葉が沢山あるようだが、時代が変化しようとも、そういう人々の数は減らず、結局人間の鑑識眼を曇らせる欲の存在が、全ての根源となっていると思える。本人は十分な見識を持ち、確実な人生を歩んでいても、心の隅の何処かに蠢く感情に、流されてしまうことが起きるわけだ。経験豊かで、判断力の優れた人間に、そんなことが起きるのは不思議で仕方ないが、それが現実なのである。そんなことを考えると、他人を出し抜く眼力を持つことより、自らの分を弁え、相応な生活を送ることの方が重要であり、そのためには、かえって、普通の目利きであることの方が大切なのかも知れない。自信が過信に繋がることは頻繁に起きるわけで、それを防ぐには、普通でいることが第一とも言えるのである。

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10月15日(月)−翻案

 少しくらい異常でも、他に類を見ないことが高く評価される時代になった。しかし、このことは実は表面にとどまり、本質的には以前と変化無く、無難な亜流が選択される。そのため、一部の人は掛け声と実際との間の大きな矛盾に悩み、苦しむこととなる。自信の無さが現れるのは、そのためなのかも知れない。
 独自性を標榜するとき、最大の問題はそれを確信することだろう。誰も思いつかず、誰も考えなかったことを、実際に手に入れていると信じることは簡単に思えるが、一つの反証によって脆くも崩れるからだ。ものを作る上でも、珍しいことを行った人々は多いが、他に例を見ないものかとなれば、そうとは言えないことが殆どである。そんなことは百も承知の上での実践だったのか、教育現場での独自性の育成は何とも言えない矛盾に満ちた結果を産み出した。放置しておくことの重要性を説いた識者もいたが、殆ど無視され、結果的には手取り足取りの中での異端育成という何とも不思議な状況になったようだ。その中で育った人々が仲間意識を強くし、中庸を望むのは無理からぬことかも知れず、ただ批判の的とするのはお門違いかも知れぬ。そうは言っても、それなりの認識力、判断力はあるはずで、それを無くしたとあっては、誰のせいというのでなく、酷評されるのは仕方のないところだろう。流石に、独自性の育成は困難となり、バラバラの世界を築くことの馬鹿らしさは理解されたようだが、その先はどうだろうか。異常なものより、正常なものを産み出そうとすれば、従来のものからの変化を選択することができるから、少しは安心できるのかも知れないが、かといって、変化が小さければ評価されない危険性がある。また、範囲は狭まっているとはいえ、歓迎される変化を選択しなければ意味がない。結局のところ、独自性を追い求める心と違うと言っても、それなりの革新が求められることには変わりがない。小説などで、古い話を元に、新しい話を作る人々にとって、どこに新鮮さを導入するかはそれと似て、困難を伴う問題なのだ。元があるから簡単だと批判する人々には、そんな作業の難しさは理解できないのだろう。

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