パンチの独り言

(2007年10月22日〜10月28日)
(満更、漫評、瞞着、慢心、孟浪、万能、蔓生)



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10月28日(日)−蔓生

 やっとのことで、メンテナンスが終わったらしい。しかし、その後もファイル転送のためのソフトのアクセスは、依然としてうまくいかない。詳しいことはわからないが、たとえ無料のサービスと言えども、かなりの負担がかかるようだ。使う側にとっては大変ありがたいことだが、うまい手はないものか。
 よくはわからないものだが、問題が生じる前に対策を講じておくことが大切だろうということくらいはわかる。からんだ毛糸を解くのが大変なように、一度問題が起きたら、そう簡単には解決できないからだ。ネット上のこれらのサービスでは、大量の情報を保存するだけでなく、それらに簡単に接続できるようにしなければならない。何が何処にあるのかわからなくなることがあるかどうかはわからないが、探し物ばかりをしているようでは、効率良く作業ができるはずが無い。捩れたものの扱いが難しいのは、経験した人であれば容易に理解できる。らせん状にからんだものでは、一方向に引っ張るだけでは、解けてこないからだ。これは自然界でも利用されていて、支柱に巻き付いて育つ植物は、こんなことを利用している。徐々に高い方に伸びていくために、巻き付きながら伸びていくのは、巧みな方法であり、蔓を伸ばす植物は、それによって生き永らえてきたのだろう。甘くて美味しい果実が市場に出回るようになってから、見かけることも少なくなったアケビは、そういう植物の一つだし、春に花を愛でる藤もそうだろう。こんな紹介をしなくても、野菜や果物についても、様々な植物を思いだせる人が多いのではないだろうか。独り立ちする植物も大きな特徴を持っているのだろうが、これだけ多くの蔓を持った植物が繁栄しているということは、この育ち方が有利なことを示していると思える。どうやって巻き付いているのかは、すぐには理解できないことだが、少なくとも、これが有用な方法であることだけは確かだ。他人に頼る人間と結びつけては、迷惑ということになるのかもしれない。

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10月27日(土)−万能

 個人住宅ならば、自分の責任でということになるが、集合住宅では、個人の責任を問うことは難しい。何かあれば、共同作業ということになり、自分達の手でできなければ、経費の分担となるわけだ。給食費や年金など、そんな考えに基づくものが蔑ろにされている昨今、この辺りの事情はどうなっているのか。
 各人の持つ意識によって支えるといった考えは昔からあった。自分達の町を住みやすく保つための努力を、それぞれがしていたはずだ。しかし、いつの頃からか、こういった意識に変化が生じ始め、土着の感覚が薄れていった。この傾向は都会で著しく、隣近所の付き合いも殆どない状態になっていた。砂漠のような都会で孤独な生活を送るといった話がその頃から出始め、田舎との違いが目立ってきた。集合住宅でも隣に住む人の顔も知らず、挨拶もしない人が暮らす場所といった感覚があったが、流石に最近はそうでもないらしい。新興住宅街でも自治会なるものが組織され、自らの生活を守る手立てが講じられることで、安心できる環境の整備を目指していた。しかし、表面的な整備は可能だったのだろうが、どうも土着の感覚が芽生えることはなく、隣近所の関係も昔とは違ったものにしかならなかったようだ。全てがそうだとは言わないが、ぎすぎすした関係を取り沙汰する話が流れる度に、そんなことを思ってしまう。町をきれいに保つ努力は隣近所という単位よりずっと大きな単位で進められており、この辺りの話とは少し違う次元で動いているようだ。しかし、これとて、個人の意識に頼る部分は大きく、演技に終わっているところもあるのではないだろうか。ゴミの問題は普段の生活から始まるはずで、ある日突然片付けに回っても、簡単には終わらない。草刈りもそうで、結局業者に依頼する方向に流れることが多いそうだ。持ち慣れていない鎌を振り回しても、効率が上がるはずもなく、中途半端な仕事で終わってしまう。回転式の刃を使った草刈り機は素人が扱うには危険すぎるから、もう少し効率のいいものはないかと探すと、万能と呼ばれる鍬のような形のものに出くわす。万能は、ばんのうと読むのではなく、まんのうと読むのだそうだ。そんなもの、知らなかったというのは、触れる機会もなかったからで、古くからあった道具のようだ。その形を見ていると、必要は発明の母、といったことが思い出される。

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10月26日(金)−孟浪

 いつものように知らない言葉に出合って、辞書にある意味も今一つ理解できなかったので、検索をかけてみた。すると出てきたのは、例の独裁国家の話題、なるほどそんな使い方をするのか、と思った。辞書検索で出てきたのは、坪内逍遙の書いたものにある文例で、そこだけ見てもやはりわからない。
 「いい加減なこと」という意味だけでは、どの程度のことかはっきりしなかったが、あの国の主張を表現するために使われるところを見ると、かなり程度の低いものに思える。しかし、このところ話題にしているように、この国の報道の姿勢はそれに近いものに思え、国家の独裁と同様に、報道に携わる人々の心にある傲りが感じられる。世界全体としてその傾向が強くなりつつあり、何も一部の国に限った話ではないようだが、それが通用していること自体が愚民政策の表れに思える。政治の情勢についても、選挙の度に考えさせられるのは、一時の気の迷いとしか思えない行動で、それが反映されることの恐ろしさである。何処まで進めば止まるのかは誰にもわからず、おそらく、歴史の繰り返しから想像できるのは、大戦という混乱を招きかねない状況であることだけだ。良識ある人々が呆れ果てて、声を上げない雰囲気も、問題が深刻化する原因の一つで、つるし上げや非難などを恐れることなく、言うべきことを言う気持ちを持つことも必要だろう。今のままが続くとは思いたくないが、このところの非常識な振る舞いや反応を見るにつけ、水準の低下の大きさに目を覆いたくなる。自浄作用が働かなくなった組織は、所詮は自滅する運命にあるわけだが、それを止める周囲からの働きかけは期待できなくなった。何故、こんな状況に陥ったのかと言えば、おそらく、良識や常識というものの存在が蔑ろにされ、集団の中の多数意見のみが採用される主義が台頭し、それら全てのことを考えようとしないことが許されるような時代になったからだろう。多数意見の問題は特に深刻で、これを安易に許さないための議論の必要性を再認識する必要がある。このまま行けば、無能な人々が増えるばかりでなく、利己主義が蔓延する可能性が大きく、多数の不利益が少数の利益の下で続く時代がやってくるに違いない。そうならないために必要なことは、いたって単純で、一人一人が自分で考えるだけのことである。良識ある個人の声が上がるようになれば、今の荒廃した社会に改善の兆しが見えるはずだ。

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10月25日(木)−慢心

 他人が馬鹿に見える、今時の若者の特徴なのだそうだ。一部の極端な例を引き合いに出して、こんな結論を導き出したのかも知れないが、反論はあまり聞こえてこない。自分の能力を過信して、与えられた仕事に満足できず、不平不満を並べる人が増えているのは確かなようだが、馬鹿にするのは少し違うことだろう。
 個人の能力を活かせる社会を築くと言われながら育った世代は、独自性の存在を信じていた。しかし、大人になるに従って、その考えを改める必要を感じ、大部分の人々は環境に適応しようと努力した。最近問題視されている、定職に就いていない人々は、その流れから取り残されたわけで、確かに社会問題には違いないが、教育が産み出したとは一概に言えないように思える。適応力は、独自性の問題とは別に育まれるものであり、人間としての資質には当然必要となる。それが足らないとなれば、どんな世の中でも通常な生活は望めず、問題になっているような状況に追い込まれる。だから、割合で見ればかなりのものに感じられるが、現実には定常的にそれなりの数値になるのは、仕方ないところではないか。目の前にそんな人がいたら、やはり慌ててしまうだろうし、どうかして助けられないかと思うのも無理はないが、本人の問題であることは確かだ。馬鹿にする人々は、今問題視されている世代ではなく、まだ社会に出る前の段階にあるわけだが、このまま進めば、また別の問題として取り上げられるようになるだろう。比較することを重要としてきた人々にとって、自分の能力は常に他人より高く、努力の有無に関わらず、優位は保証されている。そんな思いがあるからこそ、傲り高ぶった態度が現れ、他人に不快感を与える結果を生じる。しかし、比較の場にあれば、自分の方が下になることはあるはずで、それを考えなくて済む心の動きに、一番大きな問題があるのではないだろうか。適応すること、合わせることは、常に何らかの努力を伴うものであり、その手段をとらないことが大切となるのは、何かが欠けているように思える。これを資質と見なせば、そういう人々が外されるのも当然のことであり、そんな結果を驚くのは何処かおかしい感じがする。だから、時代の申し子として取り上げたとしても、何の役にも立たないだけだろう。

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10月24日(水)−瞞着

 いつの間に、こんな世の中になったのだろう。人を騙し、誤魔化して、利益を得る人々の話題が毎日のように繰り返される。人を欺く行為は、今に始まったことではなく、いつの時代にもあったものだ。それがこれほど取り上げられるようになったのは、実は罪を犯す人ではなく、被害を受ける人に問題があるからではないか。
 食品の問題は、騙した手口について次々に紹介され、如何に悪質なものであったかを訴えることに重きが置かれている。罪の重さを伝えるには確かな方法だが、一方で、伝達者としては、右から左へ情報を流しているに過ぎない。報道するのが良識を持つ人々の代表と考えると、あまりに杜撰で、無知な振る舞いに、驚くしかない。犯罪を捜査する立場でないことは当然だが、会見の場での遣り取りを眺める限り、一方的な主張しか見えず、違法行為が発覚した途端に叱責するのでは、何とも情けなく思える。本当に遣り取りをした上で、情報を流したいのならば、それなりの追求は必要であり、当然の手法であるはずだ。思い出してみると、ああ言えば何とか、と呼ばれた人が活躍していた頃から、情報の送り手の無能ぶりは明白となり、何処にも良識が感じられなくなった。そんな中で、これらの犯罪が起きたとき、その被害者達が自分達の責任を感じないのも、どこか似ている話である。人は、様々な形での経験を繰り返すことで、対処する力を身に付ける。その経験が不完全なものばかりだと、欠陥のあるものしかできてこないわけだ。原発の地震による被害についても、的外れな情報ばかりが流され、肝心なことは断言されなかった。様々な欠陥が露わになったとしても、緊急事態での最大関心事を確認しない姿勢には、呆れ果ててしまう。この傾向は、あらゆるところに現れていて、些細なことに心を奪われ、全体像を見失う。現代人の特徴のように扱われるようだが、現実には個人の問題とは思えないところまで、病状は進行しているようだ。ついこの間まで、美味しいと言いながら食べていた代物に、問題が発覚した途端に、そっぽを向く態度も理解不能であり、看板に惑わされていた自分を反省する気持ちは微塵もない。こんなことを繰り返していて、欲望ばかり追いかけていては、早晩被害に遭う確率はかなり高そうに思える。

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10月23日(火)−漫評

 言われたこと以外はやらないという人が増えているという。仕事は金を稼ぐためのもので、それに見合う最低限のことしかしないという感覚が、当然のことと受け取られているのだろう。公的な組織に見られた傾向は、ついには企業にまで広がり、社会全体が当然のようにそんな態度に満ち溢れている。
 指示を待つ人々にとって、何もしないことは自らの責任とはならない。仕事を与えようとしない上司や組織の問題であり、自ら動くことは思いもしないことだからだ。その割には他人への批判は厳しく、内向きと外向きの乖離は大きくなるばかりのようだ。こういう使い分けができないと、今の時代を生き抜くのは難しいという指摘もあるが、何故評価基準を大きく変えることができるのか、不思議な点は多い。誰も試したことはないだろうが、自分のやったことを他人がやったことのようにして、本人に評価させてみたらどうだろう。面白い結果が出ると思うのは、彼らにとって自分がやっていることは意識の上に存在するだろうが、過去にやったことを正確に記憶していないことが予想されるからだ。同じような仕事を他人がやった場合の評価も一つの例となりうるが、やはり、別人がやったこととして判断させるのが一番だと思う。他人に対する評価の厳しさは、当然前面に出されるだろうが、果たしてその違いに気づくことができるのか、そこに楽しみがある。一見厳しいように見える批判も、現実には他人事として気楽に考えられるから出てくるもので、自分自身や組織の人間に対するものとなれば、全く違った心情が現れる。使い分けと一言で表現したが、現実には区別の基盤が別のところにあり、正常な判断基準によるものでないことが多い。結果的には、そういった考え方をする人間が要求されていなくても必要と思われる仕事をこなすことはまずなく、組織や社会として期待できない対象であることが明らかになるだけだろう。ただ、ここまで数が増えてくると、全体で支えることも難しくなるわけで、そろそろ根本的な改善を図る必要があるのではないか。とはいえ、何から始めるのか、上に書いた試みで自覚を促すことが効果を上げれば、まだ傷は浅いということだ。

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10月22日(月)−満更

 若い人々の言葉の乱れが指摘され、心配する向きもあるようだ。その一方で、まるで迎合するかのような動きを見せる年寄り達の言葉遣いは、捨て置かれている。敬語の誤用が目立つに従い、謙遜という行動様式も姿を消しつつある。自分と相手の立場を比較することができなくなったことによるのかも知れない。
 若年世代に目立つ傾向だが、自分との精神的な距離を意識することが多い。仲間かそうでないかは、身を守る手段として必要なものであることは確かだろうが、これほど高い密度で生活する中では、その基準だけでは通用しないと思える。しかし、同じ水準にあるかどうかを判断の第一とすることから、相手との違いを意識する必要もなくなり、立場による違いは日常的に感じられなくなる。そんな中では尊敬も謙譲も意味を持たず、あくまでも対等であることが基本となるのはやむを得ない。折角の伝統と言いたいところだが、人の上に立つ世代の行動を見る限り、既に伝統は打ち消されていると言うべきだろう。慇懃無礼な言葉遣いだけでなく、あからさまに態度を表す人々が上に立つようになると、兎に角様々なことが直接的になった。それはそれで分かりやすいのだろうが、上から下への圧力が表面化すると、息の詰まる環境としか思えなくなる。前の総裁選びの時には遠慮していた人が、今度は決意を新たにしていたのも、周囲の状況に押されてのことと解釈できるが、現実に選ばれていく過程を眺めていると、何かしらの違和感を覚える。謙遜という言葉も踊っていたが、その後の振る舞いを見る限り、そういう感覚も少し違っているようにも思える。つまり、謙遜という態度の意味を考えてみると、今の状況は望んだものに見えてくるわけだ。そういえば、あの顔つきはそんな感じだ、と誰かが言っていたっけ。

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