子供の頃の遊び、何を思い出すだろう。鬼ごっこ、かくれんぼ、ゴムとび、お手玉、どれもこれも、大した道具も無しに遊べるものだった。男女一緒にやるものもあるが、女の子だけの遊びが特に多かったように思える。男の子の遊びは、五寸釘を使った陣取りやカードを使ったメンコがあっただろうか。
今との違いは、やはり道具立てだろう。広場があればあったで、缶蹴りや三角ベースなどの遊びをしたが、狭いと陣取りやゴムとびとなる。使うものも、缶、ゴムボール、釘、輪ゴムといった、ごくありふれたもので、遊び自体の工夫はあったとはいえ、道具に工夫はなかった。それに比べると、今時の子供の遊びは大袈裟なものであり、金がかかっている。勝ち負けという基本は変わらずとも、勝負の結果を表す方法はかなり違っていた。メンコはその典型であり、自分が負ければ相手にカードを渡す規則のあるところもあった。勝ちたい一心で、色々な工夫を凝らし、巨大なカードを持ち出す相手に、果敢に挑む姿もあった。与えられた道具で、決められたことを繰り返すゲームとの違いは明らかで、勝負に対する気持ちはずっと強かったように思える。しかし、勝ちは勝ち、負けは負けと、結果ははっきりしており、悔しさはあるもののそこで区切りをつけていたようだ。所詮は遊びという気持ちだったのか、それとも別の心理が働いていたのか、よくはわからないが、気持ちの入れようの割には、さばさばしていたように思う。何処でどう変わったのか、生活が豊かになるにつれ、道具に変化が現れ、子供達の心理にも何かしらの違いが出てきた。今では、子供の集まる場所が無くなり、集まる理由も無くなった。社会性というとあまりに大仰だが、機械でない生身の人間が相手の遊びは、何か人と人の関わりを学ぶための機会だったのかも知れない。それを奪ってしまったあと、色々と騒いでみても、あとの祭りということなのではないだろうか。
朝食は何にしている。長寿の医者は固形物を摂らず、飲み物だけで済ませているそうだ。先日読んだ日記の夫婦は日毎に違う食事を楽しんでいるように見えた。朝食抜きの子供達の問題は、様々な背景があり、単純には解決できそうにもないが、子供の寝坊だけが原因とは言えないだろう。どれも家族の問題なのだ。
今でも、伝統的な和食を朝食べている人はいる。焼き魚、海苔、卵、漬け物がついて、ご飯と味噌汁がある。人それぞれだが、ここに納豆をつける場合もあるだろう。ホテルに朝食がついているときには、なるべく和食を選ぶようにするのに、普段は面倒でもあり、簡単な洋食にする人もいるだろう。戦後の給食制度によって、洋食に対する慣れが生じたこともあるのだろうが、手間がかからないという意味では、パンとコーヒーは手頃なものである。それでも、何かお腹に入れればいいものを、大した理由もなく、食べないで出かける人が多い。自分で決める大人ならば仕方ないとしても、子供達がそうするのは家族との関わりもあるに違いない。食育という言葉が使われるようになってから、少しは意識が変わってきたのかも知れないが、依然として朝食抜きの子供が学校に一杯いるらしい。ある調査によれば、彼らのために軽い食事を用意する学校があるらしく、その経費は個人的なもので賄われている場合もある。全てを学校に頼る人々の心理は理解しがたいが、罪のない子供のためとはいえ、そこまでやる必要があるのか、首を傾げたくなる。親子の間での会話も途絶え、そういう状況さえ把握できないとしたら、危機的状態と言わざるを得ないだろう。乳製品でも、飲み物でも、何かを入れることによる効果はあるはずで、それを抜かして、他の子供同様に昼まで精を出すのは難しい。そんな事情を察して、手を差しのべる人々がいるのだが、余計なお世話のようにも思える。パン一欠片、野菜ジュースなど、人それぞれにできる範囲のことをしていると聞くと、感心する反面、違和感を覚える。簡単な朝食が始まり、家族別々の生活が始まり、そして、こんな状態になったのだろうか。洋食での主食としての立場を築いたものには、何の罪もないのだが、話の展開によってはそんな気さえしてくる。
体面、面目という意味なのだが、元々、隣の国から来た言葉なのだそうだ。潰すとか、保つとか、立たないとか、重んじるとか、そんな言い回しをする。最近、こんな言葉の踊る場面に頻繁に出くわす。まあ、人それぞれに守るべきものはあるのだろうが、そこに至る前に必要なことは何か、考えても良さそうだ。
何でもかんでも知りたがる人々にとって、自分達が排除された形での展開は好ましく思えるはずもない。そんなことが起きた途端に、疑心暗鬼による推測が飛び交い、本当のことは覆い隠されてしまい、計画された展開は砕け散ってしまう。それも作戦の一つと言えばその通りだろうが、それにしても壊すだけでは構築は望めぬことになる。心理的な動きが最も重要な役割を持つわけで、興奮していては、後先考えぬ行動に出てしまうだろう。潰されたから、相手のものも潰してやれ、といった考えでは、その場で地団駄踏むようなもので、先には進めない。反撃に出る人々の頭の中には、その程度のことしかないのかも知れないが、もう少し落ち着いて考える必要はあるだろう。一方、仕掛けた人々の性急さはそれはそれで問題である。根回しなどという言葉を出すまでもなく、普段から周囲に働きかけることの大切さを身に沁みて感じるべきだろう。何か不都合なことが起きたから悪いというだけでなく、平穏無事に事が進んでいるときにも、水面下では様々な不平不満が渦巻いていることが多いのだから、表面化していないからと言って、安心してはいけない。また、自らの意見が認められなかったからと、慌てて行動を起こす人も、同じようなものだろう。潔さを表に出したつもりかも知れないが、そう映らないことが多いのは、何処かで筋がずれてしまうからではないか。人々がそれぞれに自分の立場を守りたい気持ちは理解できるものの、漏れ聞こえてくる内容から察するに、互いの意思の疎通の無さが目立つだけのことだ。ただ、今回も強く感じられたのは、こういう話を伝える人々の思惑に溢れる動きであり、推測に基づく話の筋立てである。何とも不自然な感じさえする姿勢には、相変わらずの誘導の意図が見え隠れし、無闇な混乱への誘いさえ感じられる。一部の識者達が、戦前の混乱を重ね合わせようとするのは、この辺りのことかも知れない。
世の中では、男女の役割分担を強く唱える声が少なくなっている。まずは、機会が均等であることに始まり、次に同じ作業を性差の隔たり無く行うことが取り上げられた。男は外に、女は内に、という考え方は古いと言われ、子育てにも両者の参加が促された。疑問を持つことさえ憚られるような状況である。
性差があることに対して、反対意見を持つ人は殆どいない。しかし、対象となるもの、取り組むべきもの、それぞれに、性による効率や能力の差があるかと問われれば、無いと断言する人が出てくる。昔から、色々な人々が色々な意見を持ち、それぞれに立場を変えて、多種多様な議論が為されてきた。しかし、最近の傾向は、その段階を越えて、次の舞台に移ってしまったように見える。つまり、男女の差を持ち込むことは許されず、差を無くすための方策は大いに採り入れられるべきとなっているのだ。未だに首を傾げている人はいるだろうが、どうにも発言の機会はなく、うっかりすると袋叩きに遭う。どちらが正しいかを論じるつもりはないが、多様性が重視される時代にあって、これほどの偏りが見られることには、抵抗を覚えるのだ。確かに、それまでの歴史を顧みれば、男女の格差は明確であり、冷遇されてきたことは明らかである。しかし、酷い仕打ちを受けた人々がいる一方で、それまで同様の生き方を何の疑問も挟まずにしてきた人もいて、こうあるべきという結論を導くのは少々無理があるようにも見える。ただ、その運動が始まって以来、紆余曲折があり、やっとの事で辿り着いた場所は、まだ満足できないものと思う人にとっては、ここで減速することは敗北に繋がるのだろう。いよいよ、主張は極みに達して、様々な格差を是正するとの動きが急になってきた。こんな時に、何か異論を挟もうとすれば、当然、矢面に立たされることは必定であるが、でも、何かがずれているような気もするのだ。差を無くすために、差を作るという手法は、以前から頻繁に行われてきたが、それが新たな問題を生む場合が殆どだった。今回も、おそらくそうなるのだろうが、以前同様、途中までは快調に運ぶに違いない。女性が差別されていた時代に考えられた言葉には、何かしらの意味が込められていたのだろうが、今ではこれらもまた何処かに葬り去られる運命にあるのだろうか。
腹の探り合い、何処にでもありそうな話ではある。しかし、何を考えているのかわからないという状況でなく、何となく皆同じ方を向いていると思っているとき、ふと考える人もいるのではないか。自分の考えはわかっているが、周囲の人間はそれと同じか否か、そんなことをふと思うこともありそうなのだ。
組織を束ねる人々にとって、全員が同じ考えに従うかどうかは、重要な要素となる。それができてこそ、強い結束力が生まれるわけだが、もし、それが上辺だけのものとなったら、どうなるだろう。今の状況に変化がなければこのまま進むが、何かしらの変化があったときには、心変わりをするという人がいたとき、表面的なものは脆くも崩れる。一体化していると思っていたものが、実際には、個々にバラバラで、まとまりのないものとなるわけだ。それまでは腹の中では違うことを思っていたとしても、状況が許されないことから、従うしかなかったものが、ちょっとしたきっかけで、逆方向に動き出すこともある。元々、結束が固いといっても、構成員が全て同じ考えを持つことは考えにくく、力の強い弱いに影響されて、変化が生じることもたまにはある。それを裏切りと評することもできるが、場合によっては、良い結果を産むこともあるのだ。表面的なことばかりに囚われる人間は、結果についても、裏切りそのものに囚われてしまう。確かに、組織を考えたとき、そこから離脱する人間は許せないのかも知れないが、もし、それがそれまでの停滞や閉塞を抜け出すために必要なことだとしたら、さて、どちらの選択が良いと言えるのだろうか。岐路が訪れたとき、そんなことを考えねばならなくなることもある。そんなとき、何を優先的に考えるかが、この辺りの取り組み方の違いに現れてきそうだ。表面だけでなく、本質的なところで議論することの方が重要だと思うが、状況によっては、周囲に悟られないように動くことも必要なのだろう。
新しもの好きの国民性は、様々なことを編み出すだけでなく、外から入ってくるものを簡単に受け容れてきた。これ自体の良し悪しは一概に言えることではないが、少なくとも、この傾向によって現在の繁栄が築かれたというのは曲げることのできない事実だろう。ただ、その一方で失ったものがあるのは間違いない。
このところ急激な変化が続き、安定した気分でいられないことに苛立ちを覚えている人も多いようだが、生き物である限り、現実には変化を好む傾向は小さいはずである。それがこういった方向に流れているのは、一部の人々が意図的に実行しているからで、大多数の人々は容認せざるを得ない状況にある。伝統に関しても、守るべきと考える人がいる一方、打破すべきと信じる人もいて、それぞれの立場での主張が入り乱れる。結果として失われてしまうこともあるが、重要なことはただ一つ、失われたものを取り戻すには、打ち破るよりも多くの手間と時間がかかるということだ。閉塞感があるときに、現状を打破するための方策として、旧来のものを破棄することがよく使われるが、多くの場合、あとの祭りとなるから要注意である。折角築き上げたものを失いたくない一心で反対する人々に対して、厳しい批判の言葉が浴びせられ、新たな動きが始められたとしても、暫くすれば、その欠点が露わになり、旧来の良さが再認識される。一気に変化を強いることの弊害がここにあるわけだが、変えたい一心の人々には激変が必須条件となっているから、どうにもならない。外にいる人にとっては理解しがたいことも、渦中の人々にとっては大切なことであり、それまでの漸進的な変化によって築かれたものを、一気に破壊されることは我慢ならないに違いない。全てにこれが当てはまるとは思わないが、一部の例外を除いて、無知な人々の暴挙によって失われたものは沢山あり、それを取り戻す努力は、無知な人々以外の人たちによって為されるしかないわけだ。今の時代の人々が立っているところも、様々な伝統や歴史によって育まれた環境によるものであり、それを無視して成り立つはずはない。新しもの好きとは、単にそれだけのものではないはずで、それぞれに伝統を尊びながら、新しいものを採り入れていく気風のことを指すのではないか。
また、一つ飛ばさなければならない。こうやってきてみると、文字の使い方には意外なほど偏りがあるようだ。言葉の起源を研究する人々にとっては周知のことかも知れないが、素人にとっては何か新しい発見のように思える。まあ、そんな楽しみがこんな営みにあってもいいのではないかと思っている。
ということで、次の文字から始まる言葉に話題が移るのだが、こういう言葉探しでは結局のところ、該当する漢字の有るか無いかが大きな要因となる。飛ばしたところも、当てはまる漢字が無く、ちょっとやそっと工夫をしても、大した効果は得られない。それに比べたら少しはましとはいえ、こちらも先週同様同じ文字が躍ることは避けられそうにもない。そろそろ話題に入らないと始まりもしないから、終わるはずもなくなる。世の中でいじめが横行すると言われてから随分と時を経てきたが、減ることもなく、一方で様相が変わり始めた。昔はいじめとはする側の意識によるものと言われていたのだが、ある時期からされる側の感覚として扱われるようになったのだ。そうなれば、意識的な行為は当然のこととして、無意識の行為も範疇に含まれるようになる。また、別の意図を持った行為も受け手の認識によってはまったく違った結果を産むわけで、時には折角の情けが徒となることもある。そんな事情もあってか、対面してのことが避けられるようになり、徐々に本人のいないところが選ばれるようになる。以前は陰口として忌み嫌われてきたものが、別の事情から好まれるようになったのは、何とも不思議な話だが、致し方ないところと受け取られている。さらに、対面する場合にも、他人の面前での行為より、密室での行為の方が選ばれるようになったのも、この辺りに端を発していることかも知れない。ただ、これも一対一では支障が出る場合が多く、結局は直接的な働きかけを回避することに繋がるだけだろう。間接的なものでは効果が得られないことがわかっているのに、それを選べない状況は道理が合わないように思うが、被害を受けないためには互いの注意が必要というわけだ。確かに、叱責を受けるのはかなりの衝撃となるが、それを経てこそ次の段階があると理解することも重要である。面と向かって注意してくれる存在がいればこそ、と思えば少しは違ってくるのではないか。どうも、被害者意識の高まりが全ての関わりを乱しているように思えてならない。