パンチの独り言

(2007年11月12日〜11月18日)
(紋白蝶、匁、問責、門地、紋帳、文言、紋日)



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11月18日(日)−紋日

 誰にでも特別な日というものがあるだろう。誕生日は当然として、それ以外にも様々な理由から、他の人たちにとっては何の意味も持たない日が、自分にとってはある大切な意味を持つ。特別には良い意味もあるだろうし、悪い意味もある。どちらにしても、心に残る何かがそこにあるわけで、それが強い存在となる。
 自分で作り出した特別がある一方、他から押し付けられた特別もあり、その辺りも一概には言えない。他人に自慢できるものがあるかと思えば、話すことさえ憚られるものもある。こんなことを書き綴っていても、きりがないのかもしれないのだが、個人的なものがあるだけでなく、国で決めたものもあり、ある特別な地域や特別な職業の人々にだけ当てはまるものもある。昔、廓で客を取っていた人々にも特別な日があったそうで、五節句などの特別な日がそれに当てはまったらしい。この日には遊女は全て必ず客を取ることが決められていて、客の支払う金も特別だったのだとか。特別な職種の人々にしか当てはまらない日を表現する言葉が、どのような経緯で後々まで残ってきたのか、理由ははっきりしないが、兎に角こんな言葉もあったのかと不思議になる。自分にとっての特別な日という感覚とは、あまりにかけ離れたものに思えるが、商売のためにこんな感覚を利用するのは、現代社会でも通用する考えのように思える。人間は誰しもそんな安直な考えを持っているのであり、それを利用する側も利用される側も、何となく容易に受け入れられることが重要なんだろう。この言葉の語源が何処にあるのかはわからないが、結果的に残ったということには、何か特別な意味があったからなのではないだろうか。どれほどいい加減な思惑を持っていたにしろ、こんな表現を使うことで後に残るようになったとしたら、ちょっと面白いような気がしてくる。言葉の不思議さと言えば、それまでのことかもしれないが、何とも興味深い何かがあるように思えてくる。そんな見方もあるのかもしれないと思うと、言葉との付き合いも更に面白味が増すのかもしれない。

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11月17日(土)−文言

 こんなものを書いていると、文章の中身や言い回しに注意がいくようになると思う人がいるかもしれない。確かに、何を書くべきか色々と考えることもあるが、だからといって表現を注意深く考えることも無いし、最近では推敲などもしないから、ただ言い放つような表現の方が多くなっていると思う。
 言葉とは不思議なもので、書き手の意図と読み手の理解は必ずしも一致しない。その方が好都合であると思う人がいる一方で、勝手な解釈をされて腹を立てる人もいる。怒るだけでは済まず、誤解した人に対して攻撃を加える人もいるから困ったものだ。一度、口から出てしまったこと、手の動きによって作り出された文章は、それぞれに独自の責任を果たしているわけであるが、それが即座に唯一の意味を指すことでないことは、書き物をする人々にとっては周知のことだろう。しかし、それでもあまりに外れた解釈によって、貶められることでもあれば、自分の責任は兎も角、相手に問題ありと主張したくなるものだ。程度問題なのだろうが、この辺りのことを色々と議論すると、一定の答えが存在しないことに気づく。同じ読み手でも、精神状態の違いなど、日々の感覚の違いによって、同じ言葉を違うように解釈するわけだから、簡単ではないのだろう。それでも、相手に伝えたいことがあり、それをいかに的確に伝達するかが大きな問題になるわけだから、こういうことを気にする人々は、文章に気を遣うことになる。その一方で、人それぞれの解釈の違いを楽しみとし、彼らの感覚の違いによってどのくらいの幅が出てくるのかを、機会あるごとに試そうとする人もいる。彼らにとって、極端な解釈も様々な形の一つであり、何も特殊なものではないわけだ。腹を立てることも少なくなるが、だからといって、予期せぬ攻撃が浴びせられたときには、やはりそれなりの対応をする。文章の中身は、文字として考えれば一つしかないはずなのに、受け手によって変わることは興味深いことでもあり、難しいことでもあるというわけなのだろう。

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11月16日(金)−紋帳

 決まりきった形を好む人がいる一方で、マンネリを嫌う人々がいる。常に変化を求めたくなる気持ちも理解できないではないが、それはそれで危険なことも多い。ある程度予想がついた方が、関わる人々も安心であり、あらぬ方に進むことは少ない。その代わり、同じことばかりが起きて、面白味が少なくなる。
 ドラマや演劇でこういった話がよく引き合いに出されるが、中でも印籠が出てくるものは人々の心の中に残っている。良い意味もあるだろうが、やはり変化の少なさに不満が募る場合も多い。どちらが良いかは人それぞれであり、観劇と同じと見なせば、選択は見る側にあると言える。文句のある人間は見なければいいだけのことで、厭ならしなければいいとなるわけだ。最近はこの考え方が定着しているが、それでも何となく不思議に思えることもある。投げかけておいて、受け取らなくてもよいというのは、どこかずれた感覚に思えるからだ。それにしても、証明書が無い時代には、ああいったものが十分な効果を持っていたのだろう。これもまた、今の時代には想像のつかないものだけに、物語の進行に支障が出ない理由の一つになる。偽物を作ること自体が大きな罪と考えられていた時代に、その危険を冒すことは自分で自分の首を絞めることになるからだ。家を表す印には、様々なものがあることは知っているものの、普段使うことが無くなってからは、自分のものさえ知らない人が増えているのではないだろうか。所詮は無用のものという意見も出るだろうが、現在の自分の存在を決めてきたものの一つだけに、たまには気にかけても良さそうに思える。それにしても、デザインとしてみても面白いものが多く、その起源を辿ることも面白そうではある。まあ、今の時代にどれほどの意味があるのか、使うことは既に諦めたとしても、意匠の一つとして考えたり、自らの出自を考えるのも一興かもしれない。そんなものを集めたものがあると聞いて、どんなものが並んでいるのかと興味を持つのも、一つのきっかけになるかもしれない。

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11月15日(木)−門地

 元々は家柄を表す言葉のようだが、それを起点として別の意味を表すようになったようだ。こういう変化はそれぞれに興味深く、元々の意味とは全く違った方に向かうものもあれば、ある程度の関連が見つけられるものもある。今回の意味は、どちらかと言えば、後者に属するだろう。それはそれで面白い。
 家柄などというものは、最近はほとんど注目されないようだ。それでも、人それぞれに育つ環境は違うわけで、それが家柄のようなもので上手く言い表せるのなら、それはそれで良いような気がする。ただ、こういう言い方をすると腹を立てる人もいて、人は皆平等であるべきという考え方が彼らの心の中では強い主張となっているようだ。確かに、こういうものを上下関係のように扱うとろくなことにはならない。ただ、人それぞれの違いを表現するために使う場合もあって、そちらの方が重要となることもあるから、気をつけて欲しいと思う。親の職業を継ぐのもそんなところから始まるわけで、これを家柄といってしまうと誤解を招く場合があるから、それぞれの人々の才能のような扱い方をした方が良さそうだ。ある時期、固定収入がある仕事の方が、職人のように不安定な収入の人よりも上に見る傾向があったが、今は、それほどでもない。それぞれに相応しい職業に就くことが肝心であり、それが職人だろうが、なんだろうが、環境からの影響を大きく受ける部分があるのだから、そういう流れは何処もおかしくないと思う。ただ、いまだにそういうことを強く主張する人がいて、問題を難しくするのは困ったものだ。ここで取り上げる言葉も、そういった物事の関係や順序が逆転することを表すそうで、職業や家柄の話も、そんなところに重なりが出てきそうである。縛られるのも行けないとは思うが、分相応といった考え方からすれば、身近なものに惹かれるのは当然のことかもしれないのだ。全く未知のものに取り組む姿勢も重要だが、それとは逆に身近で理解できているものに取り組むことも、ある意味重要なのではないかと思えてくる。要するに、偏った考え方を持たないようにするのが一番大切であり、それができれば、大抵のことは上手くいくのだろうと思う。

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11月14日(水)−問責

 決議案がどうこうとうるさく言っている人がいるが、果たして効果のほどはどの程度か、よくわからないところがある。本来の意味は、当人の責任を問うためにあるのだが、そういった目的よりも、政治的な取引に使われることの方が多く、どれほどの意味があるのか、よく分からない人が多いのではないだろうか。
 それでも、ねじれと評される組織では、何かの意味も出てくるようで、以前に比べるとかなり強硬な姿勢が目立ち始めている。本来の意味だけを考えると、その強硬さもほとんど意味がなく、やはりもう少し真面目に取り組んで欲しいと思う人も多いのではないだろうか。小さな間違いで責任を問われるのもおかしな話だが、その一方で、かなり派手な間違いを繰り返す人々が、何ら責任を問われないというのもおかしい。当事者たちは大真面目に、自らの正当性を主張しているが、それとてどれくらいの正当な判断の結果なのか、よくわからないことが多い。わからないことをわからないように行い、その結果として何もわかっていないことが出てくるというのは、何とも皮肉なものに違いない。彼らの果たすべき責任や役割は別のところにあるのかもしれないが、それにしてももう少し正常な動きをして欲しいものだと思う。政治の世界がこれほどの忙しさを増したのは、数年前のことだろうと思うが、これは政治に携わる人々の話ではなく、何か別の役割を持つ人々の話のように思えてくる。責任の果たし方は色々とあるはずで、その辺りを微妙につついてみる必要があると思うが、これ以上、大したことは出てきそうにもない。まずは、できる範囲で、できることを試みてみる必要があるのではないだろうか。実は、自分でできる範囲を知ることはとても重要で、どの世界にも通用するはずである。その割に、多くの人々がその判断を自ら下すことは少なく、ただ手当り次第に何かを繰り返しているのは、何とも情けないように思える。

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11月13日(火)−匁

 何か入力システムに障害があるようで、何度書き込んでも上手くいかない。さて、どうしたものか、といって、このまま放置しては、独り言のアップはできないから、何とかするしか無いだろう。今回のテーマは、古い重さの単位であり、それについて、色々と書いたのだが、どこかに消えてしまった。
 まあ、そういう事故は仕方のないところだが、こんなに時間がかかるのでは、嫌になってしまう。長さや重さの単位は、世界標準が基本のはずだが、それから外れている国もいくつかある。先進国ほど同じ基準を使うはずが、肝心のところがそうなっていないので、結局はそれほど簡単ではないのだろう。伝統が邪魔をすると言われるが、この国はそれを廃してまで、何とか新しい仕組みを取り入れることに腐心した。まあ、それはそれでかなりの苦労があり、途中の段階では最後までたどり着けるのか、不安になった人もいるようだ。それでも今ではそれなりの段階に達し、基準は正確に守られているようだ。こういうものがあってこその交換のはずが、最近はそうなっていないことが多く、自己主張ばかりが聞こえてくる場合もある。統一ということの第一の効用は、それなりの基準ができることで、互いに同じ土俵に上がることであろう。それがきちんと進むから、様々なことが解決していくはずだが、現状は少し怪しげな感じさえ漂う。まあ、難しいことだろうから、一概に決め込むことは許されないが、それにしても、上手く立ち回る必要がありそうである。実際には使ったことの無い世代でも、この単位のことは聞いたことがあるだろう。それは、結局のところ、ある宝飾品の重さを考えるところに意味があるからであり、それはそれで重要なことに違いない。三度目の正直がちゃんと働くことを期待して、次の作業に移ることにしよう。

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11月12日(月)−紋白蝶

 ちょっと勝手が違う。出先からのアップだからだが、落ち着いて書いている余裕は無い。その上、題材を検討する暇も手立ても無いから、ここは一番簡単なものに走るしかない。それでもあれこれ考えながら書くしかないわけで、今ここでじっくりと考えるわけにもいかない。まあ、そういうときもあるのだ。
 で、今週のお題はあれだから、言葉はふんだんにある。しかし、選んでみたら、知らない言葉が多く、改めて考え込んでしまいそうだ。それはそれとして、今回は辞書を引く暇もないから、まずは馴染み深い言葉に飛びつくことにした。虫の名前と言えばすぐに思い当たる人もいるかもしれない。この名前の虫はよく話題に出ていたから、どんな人も一度は聞いたことがあると思う。しかし、ある時期から少し様子が変わってきたという話がある。元々、昆虫は人間が見る色とは違った色を見極めることができると言われてきた。色を色として表す以上、我々が見えない色をわかるように表すことは難しい。しかし、紫よりも波長の短い色を見分けることができると言われたものを、実際に示した写真は色ではなく、単に白黒で表していたのは、面白いアイデアだった。雄と雌の区別をこれでしたという蝶は、人間の目には雄雌の区別がほとんどつかないのに、彼らの間ではいとも簡単に区別がつくという。紫外線の反射による違いは、写真から見る限り歴然としており、なるほどと思うしかない。そんなことでも有名になった蝶だが、キャベツ畑でよく見かけるものとして、少し田舎に行けば春に簡単に見つけることができるものだった。ありふれたものと思っていたところに、ある時期からもう一つ別の蝶の優勢が伝えられるようになり、本家本元と素人目には区別がつかないものに思えた。解説によれば、白い蝶という意味では同じだが、模様は全く違い、簡単に区別がつくという。しかし、それを聞くまではそんなことに気づかなかった。人間の観察力というのも大したことは無いというべきなのかもしれないが、知らないものを見分けるのはかなりの力が必要だろう。そういう意味で、こういった違いというのは改めて考えさせられるところが大きい。そういえば、もう一つのありふれた大型の蝶も、最近は違う名前で呼ばれているような気がする。まあ、通称名と和名との違いと言えばそれだけのことだろうが。

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