パンチの独り言

(2007年11月19日〜11月25日)
(山原、やんちゃ、やんわり、やんごと、蜻蜒、Yankee、やんぬる)



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11月25日(日)−やんぬる

 税金を上げることは景気を冷やすことになるという意見がある。但し、どんな税金を上げるかは人それぞれに違っていて、何やら焦点が定まらない。昔の人々が築いた仕組みを破綻に導いた人は去り、跡に残った負荷を片付けるための方策のみを考える人にとっては、言い訳のできる財源が欲しいだけなのだ。
 このところの経済状況を見ていると、これまで続けてきた政策に大きな欠陥があるように思えてくる。減税重視と増税重視の対象の選択における誤りのことだ。全体に均等に負担することは、平等社会において最も重視されてきた考え方だが、平等そのものが揺らぐ中で、改めて考え直す時期に来ているのではないか。累進課税とか贅沢税とか、全てが金持ちにより多くの負担を強いる仕組みだった。ある時期から、平等という名の下に、これらの仕組みに改革が施され、消費税という何とも不思議な仕組みまでが採り入れられた。見方によることだが、日常生活における必需品に対する課税については、国ごとに考え方が異なる。本来の平等からすれば、全てに同じだけの税金をかけるべきとする考え方は正当に思えるが、税金が何を目的としたものかを思うと、少々ずれているように見えてくる。今でも平等の考えは主流であり、一番取り付きやすいところへ行きたい気持ちも分かるが、このところの景気の動向を見る限り、そろそろ考えを改めるべきと思う。増税が唯一の道とは言わないが、特定少数からの反対を恐れ、不特定多数に負担を強いるやり方は、納税の義務を考えると、矛盾に満ちたものに思えてくる。自らの誤りを正すことなく、ただ闇雲に安易な道を突き進もうとしている姿には、先行きを見通す力は微塵も感じられず、大衆と共に一時の欲望に走っているとしか思えない。余分なものを切り捨てるという宣言も、聞こえがいい割には、何を余分と見なすかは不明確で、動けば勇み足になるばかりである。どれもこれも掛け声ばかりであり、本質的なところに立ち帰ることがないから、原則としては現状維持となり、根本からの転換は望めそうにない。改革、変革といった言葉が違う意味に思えるほどの情けなさだが、さてこの先、何処に向かうというのだろう。既に死に体となっているのなら、ここで一番思い切って反対の憂き目に遭う政策を断行したらどうだろう。一時的に叩かれても、すぐにその効果が現れるから、良識ある人々には理解されそうに思えるが。

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11月24日(土)−Yankee

 外から入ってきた言葉、新しく作られた言葉、見たことも聞いたこともないものが大部分で、理解するのは大変である。しかし、それよりも厄介なものがある。既に、ある程度一般的に使われていて、意味も確立されてきたものが、ある日突然違う意味で使われるようになるものだ。誤解とも違うのだが、困ったものである。
 このところ、流行語なるものが取り上げられることが多くなっている。少し昔に遡ると、その大部分が一時的なものであり、定着しなかったことからして、如何にも流行と言える気がするが、言葉の扱いとしてはあまり感心しない。まったく新しい言葉の場合もあるが、人の気を引く為には、既に知られていたものを、違う場で使ったものが取り上げられるようだ。それ自体を言葉が生き物であることを示すものとして考えることもできるが、どこかがずれているような気もする。確かに、違いを感じさせることで、意外性を引き出し、感心を呼んだことが人気の原因なのだろうが、それがその後消え去ることを思うと、人の間での意思の疎通に使われるはずの役目を果たせず、意外性のみが表に出ていることが示されているように思える。言葉による意思の疎通は、互いに同じ意味を思い起こせることが前提条件であり、それが崩れることは無理解に繋がってしまう。流行の先端にいることが重要と思う人はごく一部であり、彼らの中で持て囃されることは、一時の熱気しか意味しない。彼ら自身がすぐに忘れ去る気質を持ち、次々に飛びつく行動を示すことからして、このような展開はごく当たり前のことなのだろう。しかし、ごく一部に限られていればいいのだが、それが一般大衆にまで広がり、皆が流行に走るのでは、不安定な社会が形成されるだけである。変化はあるべきだろうが、それはあくまでも程度問題であり、どこにも安定が無い状況ではあまりに苦しい。最近の社会状況はそんな様相さえ示し始めている。本人達は単純に自分たちの欲望を満たそうとしているだけに過ぎないのだろうが、それが自分の立つ場所の安定を危うくしていることに気づいていない。安定は外から与えられるものであり、自分はそれに与しないと思うのは、間違いだろう。今日の言葉は、本来海の向こうの人を指すが、いつの間にか不良を指すようになり、それが更に変化を遂げている。本来の意味は残るだろうが、さて、こちらはいつまでもつのやら。

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11月23日(金)−蜻蜒

 子供の頃、昆虫を追いかけていたが、蟷螂など、たとえ相手が小さくても、何となく嫌な感じだった。肉食系の獰猛な行動の虫の場合、その武器の具合がどうにも気になり、近づきがたく思っていた。少しくらいやられても、大したことはないはずで、そんなことは分かっているのに、逡巡するのは何故なのだろう。
 そうは言っても、蜂などの毒をもつ昆虫は警戒すべき対象であり、遊び相手にもならない。そんな如何にも獰猛そうな虫に比べて、黄金虫や蜻蛉などは扱いやすそうに見えたものだ。実際には、蜻蛉は他の昆虫を捕まえる肉食の虫だから、上に書いたことからすれば、警戒の対象の筈だが、どうも違う存在に思えていたようだ。これらの虫に糸を巻き付けて、飛ばしてやるという遊びも、子供たちの間で流行っていたが、甲虫である黄金虫に比べると、蜻蛉は堅い殻をもつわけではないから、ちょっとした弾みに胴体を切断してしまう。こんなところにも、子供の残酷さが現れていると指摘する人もいるだろうが、果たしてそんなものなのだろうか。赤蜻蛉や糸蜻蛉など、蜻蛉は優雅に飛ぶという印象を持つ人もいるが、大型のものになると全く違った飛び方をする。速度が速いだけでなく、高いところを飛ぶものが多く、子供たちにとっては捕虫網では捕まえにくい存在である。それで、欲望の対象となり、誰か友達がたまたま捕まえたのを見せられると、悔しいのと羨ましいのが入り混じった感覚を抱いたものだ。国内最大の蜻蛉は、特に高いところを飛ぶことが多く、飛んでいるのを見かけたとしても、手の届かないところにある印象だった。たまたま、家の中に入ってきたのを捕まえるとか、そんなことでもない限り手にすることはなかった。大型の蜻蛉には別の名前がつけられ、それが更に特別という感覚を強くさせていたのではないだろうか。銀とか鬼とかいう言葉がつけられているが、どんな意味なのかあまり考えたことはない。銀は銀には見えず、ただ緑がかった印象があるだけだが、それが見方によっては銀色に見えるのかも知れない。鬼の方は、おそらく、黄色と黒の縞模様が何かを思い起こさせたのだろうと思われる。農機具の製造会社の名前の由来という話もあるが、どうなのだろうか。特に、男の子供にとって、大きくて綺麗な昆虫はとても魅力的なものだったようだ。今では、あの目玉や獰猛な口の具合で、気味悪さが先に立つ感じもするが。

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11月22日(木)−やんごと

 一時の戸惑いは何処かに消え去ってしまったのか、再び、建築ラッシュが始まったようだ。しかし、中身は以前とはかなり違うようだ。ただ単に、箱物を作ればいいというわけでもなく、また、終の棲家を作るわけでもない。何やら、様々な思惑が入り乱れての、何とも形容しがたい状況が生まれつつある。
 そんな中で、以前からその土地に住んで、根付いた人々はどうしているのだろう。自らが望んだ環境が徐々に変化し、思いもよらぬ展開が目の前で広がるのに対して、解せない気持ちでいる人が多いのではないか。しかし、それを受け容れるしか道はなく、少しくらいの反対で大勢が変わるわけもないから、少しずつ諦めているのではないだろうか。その中で、少しでも良い方に生活を向けるように、改めて周囲を見渡し、それまでの気持ちでは見つけられなかったものを再発見する喜びに気づいた人もいる。これは、古いものに限った話ではなく、新しいものの中にも、自分が楽しめるものを見つけるのに役立つ。そういえば、都会の真ん中に出かけていくと、老夫婦が仲良く新しい形式の喫茶店に入っているのを見かける。古くからある馴染みの喫茶室で、同年輩の主人と語り合うのではなく、子か孫かの世代の人が働く店で、そういう世代の人がやってくる中、一時の憩いを求めているのではないか。旧来の店が無くなったからという理由があるのかも知れないが、だから出かけなくなるというのでなく、少しでも雰囲気の似たところに出かけるのは、少し離れたところから見る限り、とてもよいことのように思える。依怙地になって、古いものを探し求めるのも一興だが、無い袖は振れぬもの、新しいもので埋まる中に楽しみを見出すことも必要だろう。何となく、雰囲気のそぐわぬ人に見えるのは、致し方ないところもあるが、そのうちそんなことが気にならぬ時が来る。何しろ、変化の激しい時代だから、高貴な人々でさえ、そういうところに出かける時代がすぐそこに来ているのかも知れないのだから。

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11月21日(水)−やんわり

 多くの人々と関わってくると、その違いを改めて思うことがある。他人に物事を頼むとき、つい命令口調になってしまう人がいると思えば、如何にも気の毒そうな話しっぷりの人がいる。どちらを優先するかは人それぞれとは思うが、受ける気持ちは随分と違うのではないだろうか。人当たりとでもいった感じなのだろう。
 同じようなものだと思うが、他人にものを頼んだときも、その反応の違いに驚かされる。意外な依頼であろうが、なかろうが、快く引き受ける人がいる一方、自分の役割でさえ、不満を漂わせる人がいる。これもまた、どちらが良いのか、人それぞれかもしれない。仕事を引き受けるのは、当然依頼があってのことだから、依頼主はそれなりの考えを持ってのことに違いない。それを思えば、単純に自分の気持ちを表すだけでいいものか、少し考えてみた方が良いように思う。確かに、劣悪な依頼主の場合、自分の被害を最小限に留めようという考えしか無く、相手に対する配慮など無いのだが、かといって、次の被害者が出ることを思えば、対応する意味も出てくるだろう。言葉遣いにしても、同じように同じことを言っているのに、印象が大きく違う人がいる。不思議な感覚の違いだが、多くの人が同じように思うらしく、確かにあるようだ。しかし、その違いの元となるものについては、あまりよくわかっていないようだ。これと思うものを並べても、人によって反応が違うし、何か一つに絞られるというわけではないだろう。それにしても、こういった人柄のようなもので得をする人も、損をする人もいる。それを兎や角言う人々の多くは、不当な扱いに辟易としているわけで、それが自らの不徳の致すところ、とは思っていない。しかし、よく見て欲しいのは、こういう他人の反応の多くは、相手から出されているとはいえ、その大元は自分の所作によるものということだ。違いが人柄によるものだとすれば、きっぱりと言うことが似合う人と、柔らかく対応することが似合う人、そんな違いがあっても良さそうである。つまりは、それぞれに得意の型を持つことが重要なのではないだろうか。

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11月20日(火)−やんちゃ

 昨日から始まったヤ行の戦いは、かなり厳しいものとなる。全てを一気にすっ飛ばしてもよかったのだが、さすがに芸がないと言われると思い、少し工夫をすることにした。何をどう工夫するのかはあとの楽しみとして、肝心の話を進めていくことにしよう。難しいのは当てはまる漢字がないからで、ただそれだけなのだから。
 それでも、今週に関しては言葉がないわけではないから、まずは何とかなる。少し頭の中で描いてみれば幾つか出てくるだろう。だからといって余裕があるわけではないから、毎回ちょっと捻る必要が出てきそうだ。遊びで始めたことだから仕方がないとはいえ、ここまで続けてくるとそろそろ終わりが見えてくる。どちらかと言えば、それを楽しみに最後の追い込みをしていきたいものだ。世の中には自分で始めた遊びの始末をできない大人が沢山いる。何やら散らかしたまま、何処かに逃げてしまう人もいるし、他人を巻き込んだまま、自己弁護を続ける人もいる。要するに自分勝手なだけだが、責任ある立場となれば、そうも言ってはいられまい。たとえ、遊び心からのものにせよ、一つ始めたからには何かしらの形を残すのが、責任というものなのではないか。身勝手な大人が増えている中で、子供の状況は更に悪化しており、行き着く先が見えなくなっている。こんな世の中で、明るい未来を思い描くことは難しいように思えてくるが、現実にはどうだろうか。確かに、困難は増しているとはいえ、各人それぞれに夢を持ち続けているし、実現に漕ぎ着けている人も多くいる。悲観的な見方をしようと思えばいくらでもできるが、その意味の無さは歴然としているのだ。それよりも、自分の姿を意識しながら、一つ一つの思いを遂げる事の大切さを説く方がよほど重要だろう。できない理由を考えることの無駄を意識できない人には、行く末の明るさを見つけることはできそうにもない。それがたとえ子供のような遊びに見えたとしても、叶えてしまえば夢は現実となる。その一つ一つが自分の糧と信じることの大切さを意識し、意識させることが、何よりも重要になるのではないだろうか。

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11月19日(月)−山原

 方言の話はこれまでも幾つか書いてきたが、地方ごとの特徴があり、面白いものである。特に、その語源を考えるとき、一つの解釈に基づくものに比べると、その多様性に驚かされるが、人それぞれの感覚の違いと考えれば、何となく納得できる。しかし、それを意図的に異なるようにしたのは何故だろうか。
 元々、周囲の地域との断絶を謀ったと言われる南の地方の言葉は、その特殊性から戦争では暗号として用いられた。しかし、その地方出身者が敵にいたために、見破られてしまったというのは何ともおかしな話だ。暗号化自体に特殊性を持たせるのではなく、暗号化される言葉自体に特殊性を持たせたのは、着眼点としては面白かったのだろうが、ばれてしまえば簡単なことである。それに対して、北と南の端に位置する地域では、昔は全く違った言葉が使われていたので、発音だけでなく、文字の当てはめ方も異なってくる。たとえば、一番高い山の名前の起源といわれた北の言語も、その説が知られている割には、その後の国語学者による否定説はあまり普及していない。これは、魅力的な話に流されてしまう大衆の気質が表れている話に思える。文字の当てはめ方の違いとは、つまり、言葉の意味と文字との相関を無視するような用法が成されたり、その逆に意味を表す文字が使われているのに、全く異なる発音が用いられることをいう。どちらも理解しがたいものではあるが、最近は耳にすることが多くなったので、何となく入ってくるようになった。しかし、前者は無理矢理の当て字であるから、発音を考えるようにするのに対して、後者は意味を成すだけに、まさか発音が違うとは思わないところに、間違いの元がありそうだ。但し、この話はそれほど単純ではないと言われる。というのも、南の端には昔の発音が残っているからで、そちらが本家であり、今通用しているのは分家に過ぎないと思われるからである。言葉の中にもこんな時代の変遷が組み込まれているというのは、面白い話ではないだろうか。

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