何があったにせよ、やむを得ない理由でできなくなることがある。そういうときに使われる言葉だが、元々は何処からやって来たのか、はっきりしないようだ。それでも、便利な言葉だからだろうか、時々見かけることがある。どんな状況でも、その言葉を使えば、無理であることだけは相手に伝わるわけだ。
事情を説明することができるのならば、その方が良い結果を導くだろうことは、容易に理解できる。しかし、どうにも説明することが憚られることもあるわけだ。そんな中で、説明するよりも肝心なことがあると判断する。そうなったときに、説明抜きで、決定だけを伝えることになれば、説明しないことだけは伝えることとなる。そんなときに、上手い言い回しがあれば、それを使おうとするのだろう。昔から使われて言葉がその役目を果たし、他の言葉を使うよりは直接的に状況を説明することが可能となる。本来の意味は別のところから来ていたのかもしれないが、ここではそのことには触れず、中止や不可能を知らせるだけなのだ。最近のように、何事にも説明することが基本となっている場合には、こんな表現を使うことは逃げを意味することに繋がるとはいえ、無理をして墓穴を掘るより、さらりとかわすことの方がよりよい選択と見なされる。状況によっては、その場での説明を避け、少し時間稼ぎをしてから改めて説明をする方が良いこともある。そんなときは、一時しのぎでしかないとはいえ、これだけで相手にある程度のことが伝わるというのはとても便利なことだろう。後付けでも、上手い説明を提示できれば、それで戦略としては十分となる。まあ、結果がどうなるかを前もって知ることはできないから、まずは運を任せるだけのことにしかならないが、それでもやる価値があるとの判断がそこにはある。同じ言葉を使うにしても、少しずつ細かなニュアンスが異なり、結果も微妙に違ってくるから、簡単な判断ではなさそうである。今までこんな事情説明をしたことが無いが、どうだろう。これから使うことがあるのかもしれない。あまり得意な表現ではないから、一度使うことがあるかどうか、まあ、先々そんなことが起きたら、ちょっとしたお知らせをしてからということになるのかもしれない。
長さとか重さの単位と言えば、メートルとかキログラムとなるだろう。しかし50年ほど前までは、この国でも尺貫法なるものが通用していた。世界標準を導入するために、歴史的に意味のある伝統的な単位を捨て、外からのものを採り入れる決定がなされたわけだ。混乱はあったようだが、無事に転換できた。
世界標準というのだから、何処の国でも同じように採用したのかと思えば、そんなことはない。先進国の中にも、対応する気がないのか、意味がないと考えたのか、いつまで経っても導入しないところがある。彼らは彼らなりの言い分があるのだろうが、真の意味の標準を思えば、そんな抜け駆けが許されるはずはない。長さにしても重さにしても、自分達が先頭を進んでいると思っている国ほど、古い単位を捨てられないようだ。これは今でも通用していて、海の向こうの大国では、ポンドやオンス、ヤードやインチ、そんなものが使われているだけでなく、気温の単位も違っているからかなわない。そりゃあ、全てに換算式があるから、それを利用して自分達の単位にすればいいのだが、そんな面倒なことをいちいちするのはかなわない。元々、こういった単位は日常生活で必要となり、互いに誤解しないようにするために導入された。その為日常的なものが単位の源となり、互いにそれを基準とするようになった。それに比べると、現行の世界標準はもっと高度な基準に基づくように思える。正確さを追求するためにはこういった基準のおき方は重要だが、一般大衆の日常生活には、そこまでの要求は出てこない。却って、身の回りのものを基準としてくれた方が、身近に感じられるだけでなく、理解しやすい。しかし、身近ということは、それぞれに異なる基準をおきやすくなり、異なる集団で上手く折り合いがつかなくなる。標準をおくことは、そういう観点から重要なことであり、今も標準の決め方やその保ち方などを決めている機関があるそうだ。科学の発展は精度の要求を高め、異なる標準を許すことはない。そんな中で、紆余曲折を経て、現行の標準が決められたのだろう。無味乾燥に見える話だが、その過程では様々なことが起こったようだ。一方、それぞれの国独自の単位系は、その起源を知ると面白いことが分かる。それぞれに生活に密着したものであり、そこが分かると更に面白みが増すようだ。指の幅を基準とする小さな単位から、手首から肘まで、と大きさを増していく。そんな中で、戦いの道具にまでその役目を負わせていた事を聞くと、なるほど、そのくらいの大きさのものがなかったのかな、と思えてくるのだ。
数字は単に数を表すものなのだが、何故か好まれるものとそうでないものがあるようだ。人それぞに違うだけでなく、古今東西色々な要因で好かれるものが決まる。八や七のように運のいい番号という形で話題に上るものもあるが、一方で言葉として伝えられるものもある。何故その数字が選ばれたのか、すぐにはわからないものもある。
八という数字が好まれるのは、その形から来ていると言われる。ということは、漢字で表現する国以外では余り話題に上らないのだろうか。数え上げたときに、適当と思える数字もあるようで、当てはまる数としては三とか四とかが選ばれるようだ。最上位のものを選ぶとき、その数が多すぎても少なすぎても違和感が残る。そのため、適当な辺りということで3、4という数が選択されるのだろう。しかし、二では少なすぎ、五では多すぎるという感覚は何処から生まれたというのだろう。単なる好みという意味では、落ち着く数というのは中々決まりそうにない。にも拘らず、言葉として残ってきたものを眺めてみると、ある程度の数に集中していることがわかるから、何かそこにあると考えるのが適当だろう。ただ、これが決め手と言えるほどのものは無いし、更には、長い歴史の中でそれらが残ってきたことは、単純な理由があると言いにくいことを示しているのではないだろうか。まあ、意図的に数字を先に決めることもあるのだろうが、単に数えてみたらそんなものだったということもあり、一概に決めつけられるものでもなさそうだ。不思議なものの数には、七が使われたようだし、美人の数には、三が使われた。それ以上にはいないと決めつけているように思えるが、実際には思いつきで決まったと見える。語呂の良さから来るのか、はたまたそんなものだろうと考えたからだろうか、たとえ始めは思いつきに過ぎないものだったとしても、何となく落ち着きが良いと思われれば、そのまま後世に伝えられるものなのかもしれない。では、今の時代、どんな数字が好まれるのだろう。数字を使ったものに現れているものもあり、部屋の番号に使われないものなどもあるようだ。そういう状況を見ると、単に数字で決まるものではなく、何と結びつけるかで変わってくるものも多い。実際には、たまたまその数だけあったからというのだったら、そこには好みの問題も何も無いわけだが。
調査が為されたとは思わないが、どれだけ科学が発展しても、不可能なことは残ると思う人はどの位の割合いるのだろうか。こんな質問自体、意味のないものと却下されるのが精々かも知れないが、今の世の中の情報の流れからすると、尋ねてみたい気が起こる。意外に高い数字が出そうな予感がするからだ。
科学の発展に伴って、様々な技術が開発され、それらを実現化したものが今や世界中に溢れかえるようになっている。開発前には想像もしなかったものや、開発直後には役立たずと思われたものが、その後、次々と急速に発展し、人々はそんな批判はなかったかのように、ごく普通に使っている。その典型は携帯電話だろうか。そう呼ばれる以前の物は、とても携帯できる代物でなく、本来の機能を果たすのみだった。その後の発展は、誰もが知っての通り、ある時点から急加速し、多種多様な機能を搭載した道具となった。必要性の問題と片付けてしまえばそれまでだろうが、兎にも角にも要求された機能を如何に導入するかが問題であり、実行するしないの選択肢はそこにはなかったようだ。ただ、そういう要求が起こる度に、一から考え始めるのではなく、それまでに培われた技術や考え方が基礎と成り得たことが、これほどの急激な発展を支えたと思われる。科学技術と括られるものは殆ど全てがそんな状況にあり、始めから到達点の設定があったのではなく、徐々に行き先が見えてくるもののようだ。始めは、研究者や技術者の間での極めて局所的で、ある意味趣味の世界のようなものが、形を現すと共に、徐々に変形するという過程を経る。終着点から後ろを振り返れば、如何にも直線的に歩んだ道に見えるものも、現実にはそれぞれの段階で先が見えず、途方に暮れた場面があるものだ。そんなときには、闇雲に手当たり次第に何かをする事が最善と言われ、結局ごみの山の中から宝を見つけ出すことになる。その過程を解説する人々の多くは、そこに論理を挟もうとするが、現実の多くはそれが当てはまらないものである。一方で、日頃接しているものの中から問題が生じ、それを議論するうちに科学に結びつくことも多い。確率についての問題はその一つであり、どの程度の見込みがあるかを推測し、意志決定に用いられるようになった。役に立つという表現で括れば、こういうものはその範疇に入るのかも知れないが、解釈としてではなく、真の意味での活用が可能かどうかについては、意見の分かれるところだろう。確率は意外性を含むことから、研究の対象と思える部分もあるが、同じ数学でも、そんな大層に見えないものもある。地図を作るときに、国別の色分けをして、塗り絵を完成させる作業は小学校でするようだ。さて、何色の色鉛筆が必要か、などと小学生が考えることはまずないだろうが、それを大真面目に議論した人々がいる。これも数学と言われても、すぐには納得できないほど、たわいのない作業であり、簡単に分かりそうに思える。こんな事も科学のきっかけになり、それが発展して、何か途轍もない製品になるとしたら、何とも面白い話ではないだろうか。
夢とか、箱庭とか、そんな言葉から連想するものは何だろう。そう、あれである。最近は、ここでも海の向こうの国の医療が重視されているので、投薬治療が主体となっているが、本来は、それだけで済ますものではないだろう。心の悩みを聞いてくれる人もなく、ただ指示通りに薬を飲むのは間違いではないか。
自立した人格を形成することは非常に重要なことであり、各人がそれを目指せば、社会は安定なものとなるだろう。しかし、今の世の中を見渡す限り、そんなことは夢物語であり、不足分を何とか補おうと対応策に追われている。目の前で展開されているのは、まさにそんな光景であり、障害を抱えた人々を救うべく、多くの人が神経を磨り減らしている。確かに、対症療法は効果の上がる方法ではあるが、根本的な解決には繋がらない。当然、一部で持て囃されている投薬治療も、様々な副作用と改善の見られない症状という問題が生じている。本来は、人と人との間での意思疎通によって、様々な問題が解決されるはずが、その手立てを持たぬ人が増え、心の交流が途絶えてしまっては、薬に頼るしか方法がないのかも知れない。しかし、体の調子がそれぞれに保たれていることを考えると、そこに一石を投じることが必ずしも良い結果を産まない事も何となく理解できる。そんな中で相談の役割は依然として重要視されているわけだが、このところの流れを見る限り、投薬への受付としてしか機能していないところも多いようだ。何事も金銭での解決が図られる時代には、効率を重視する風潮もやむを得ないところだろう。しかし、悩みと戦う上で、何をもって効率と見なすのかは、殆ど誰にも分からないことではないか。にもかかわらず、手短な対応で済まさねばならないほど多くの相談者を抱え、通り一遍の助言をするしか方法がない状況では、これが精々と言わざるを得ないのかも知れない。それにしても、あらゆる事が定式化され、基準が設定されていることは、千差万別だったはずの人格を分類することに繋がり、治療方針が安易に決定される。医療の根本はここにあると言うべきかも知れないが、未だに解明されていないことの多い精神や心の問題では、その適用が適切かどうか疑わしく思う人も多い。確立された治療法の一つとしての箱庭にしても、人と人との触れ合いという重要な要素を除いても、意味あるものとして残るのか、そんな疑問がふと浮かぶ。
早速混成部隊とすることにした。冬には雪がつきものだが、準備状況によって結果が大きく異なる。思ったよりも早い到来に対して、油断したわけでもないのだろうが、事故が多発する。山での遭難は非難されることが多いが、状況を考えたとき、何が正しかったのかを論じることは実際にはかなり難しいことだ。
それに対して、雪によって誘発された交通事故は、その殆どが予測可能なものである。このところの大雪は実際には遠く欧州から流れてきたものかと思えるが、一週間ほど前にあちらでも突然の大雪による事故が多発していた。まるで、雪上の車のスキーに見える光景は、夏用タイヤの弱点をさらすものだったのだろう。しかし、南米での大量の雹による被害と違い、雪は積もるのにそれなりの時間を要する。だから、ある程度の予測は可能であり、そこに見込み違いがあったことは明らかだ。車の運転では見込み違いは致命傷になるのだが、普段はそれほどの危険を感じることはないから、つい油断をしてしまう。極限を目指す車のレースでは、路面状態の変化が大きな要因になることがよく知られているが、普段の運転ではその意識は起きない。たとえ、雪が降ったり、凍結したりして路面の状態が劣悪になっても、見た目には何とかなると思いこむ人が多いのだろう。それだけ通常の運転条件での安全性が向上したわけだが、それが完璧でないことを事故を起こしてから気づく人が多いようだ。特に、雪の被害が伝えられるときに、道路脇に突っ込んだ車が紹介されることが多い。中でも、いわゆるワンボックスと呼ばれる車高の高い車が目立つことに気づいた人もいるだろう。車は真っ直ぐに走ることが一番得意で、曲がるために様々な工夫が施されている。普段はあまりに安定しているので気づかないが、この点が状況の悪化と共に表面に現れるわけだ。特に、横の力がかかる場合、車の幅と高さの割合は大きく影響する。そういう意味で、こぼれている車にあれが多いのは理にかなっているわけだ。更に、最近は多くの車に四つのタイヤ全てを駆動するものが増えていて、走行安定性を高める役に立っている。加速中はその通りだが、減速では意味を成さないことに気づかぬ人も多く、それがこの手の事故に結びつくようだ。まずは足元を固め、冬用タイヤに履き替えて、いざ出陣とするべきなのだろう。
手薄なところを補うためには、少し変わったこともしなければならない。今までは、一つの音から始まる言葉で一週間をこなしていたが、ここに来て、言葉数の少なさから、二つでこなす必要が出てきた。そろそろ終わりが近づいてきたとはいえ、こういう縛りは常に厳しいものである。さて、始めようか。
最近のパソコンは、ソフトの脆弱性が大きな問題と捉えられ、対応策に追われているようだ。その為、毎週のように新たな対策を加えたものが配布され、常に万全を期すように施されている。しかし、その大部分は対症療法であり、発覚した欠陥を補うものに過ぎない。つまりは、発覚前に出会してしまったら、何ともならないわけである。今回の手当てでは、何やら文字入力と出力に変化が生じたらしく、今までに見たことのない表示がなされている。何を意味するのか、さっぱり分からないが、全てが黒箱化してしまったからには、仕方のないところだろう。そんなこんなで話の始まりは遅れたが、話題は右左のことである。左右を区別するのに、子供たちにはお茶碗とお箸と教えるのは昔からのことだが、利き手が違うとき少々困る部分もある。それに比べると、武術に関するものは、本人の利き手に関わらず、右左を決めていたように思える。道具を使う以上、それに左右されるのは致し方ないが、最近のように、左利き用のものが出回るようになると、そんな世界にも何かしらの変化が訪れそうに思える。剣道で、両刀遣いはたまに現れるけれども、持ち方を変えている人を見たことはない。それと同じように、弓道でも、逆を向いて弓を引いている人に出会ったことはない。何か特別な仕掛けがあるからなのかも知れないが、兎に角制限がかかっているように思える。逆に言えば、それだけ厳格に保たれていることにこそ、右左の区別をつけさせるのが適しているのではないだろうか。時折放映される神事の一つに流鏑馬があるが、あの時、手綱を持つのは右、弓を持つのは左と決まっている。的が向かって左にあるのだから当然のことだが、そう考えるまでもなく、決まったこととして続いてきたのだろう。こういうものがもっと一般に知られるようになっていれば、茶碗と箸を引き合いに出すより、弓と手綱を引き合いに出すようになっていたのかも知れない。起きなかったことを論じても仕方ないが、こんな言葉があったことを知っておくのも良いことではないだろうか。