パンチの独り言

(2007年12月10日〜12月16日)
(林檎、臨界、霖雨、厘毛、綸言、竜胆、淋巴)



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12月16日(日)−淋巴

 りから始まる言葉は多くあって苦労はしない。更に、漢字も多く、豊かな言葉が多いことがよく分かる。おそらく、ら行では最も多彩なのではないだろうか。此処では七日分しか紹介できなかったが、それら以外にも、嫉妬を表す言葉や勇気の様を表す言葉もあった。それらを退けて、今日の言葉はこんなのに決まった。
 インフルエンザの猛威に関して、かなり大仰な警告が出されている。人の集まるところを職場とする人々は早速注射を受けに走ったようだが、昨年に比べると混乱はなかったようだ。しかし、予防注射と呼ばれるものの、その年に流行すると見込まれるものに対する効果しか期待できないのでは、予想が外れてしまえばそれまでである。また、注射に対する反応も人それぞれで、当日苦しんだ人もいるらしい。今回の予想では、前回の流行がかなり昔のことで、免疫を獲得していない人がいるということが、重要なことらしい。ウイルスや細菌で引き起こされる疾患では、免疫反応が唯一の防御機構と言われ、経験の有無が大きく影響するらしい。確かに、罹患する初期での防御は重要な役割を果たすが、これらの病気において、大流行と被害の大きさを決めているのは、それだけではないだろう。多くの識者が警告を発するに当たって、随分昔の大流行、スペイン風邪と呼ばれるものを引き合いに出すが、そのときの被害と今後予想される被害を同じ尺度で測るのはどうかと思う。死に至る病の場合、運不運で左右されると考える人も多いが、それだけでなく基礎的な体力の差、あるいは抵抗力の差も関係するのではないだろうか。この仮定が正しければ、以前の大流行の時代の栄養状態と最近の栄養状態の差は歴然としており、確かに、高齢者や乳幼児には多くの被害者が出るかも知れないが、果たして元気な若者や働き盛りの人々に同様のことが起きるかどうか、疑問の余地があるのではないだろうか。何にでも無関心になり、高をくくることが常となった人々には、この程度の警告が肝心という意見もあるが、その一方で、行き過ぎを心配する向きもある。ただ単に不安を煽るようなやり方は、その場の過剰反応だけでなく、その後の反動も大きく、精神的な後遺症も心配となる。落ち着いて分析できる世の中であれば、この程度のことは大した影響も示さないだろうが、このところの不安定な社会では小さなきっかけで転がりかねない。体の中で免疫を司る機関の一つに今回の言葉があるが、機械的な反応だけでなく、精神的な影響も取り沙汰されるくらいだから、こういう点も重要になるのではないだろうか。

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12月15日(土)−竜胆

 言葉にはそれぞれ語源がある。たとえ思いつきのように思えるものでも、それぞれに元となるところがあるわけだ。下らないものもあれば、含蓄のあるものもあるだろう。しかし、時が経つにつれ、徐々にそういう由来は忘れられ、当たり前の言葉として定着する。通用すれば、元の意味などどうでもよいのだろう。
 動物や植物の名にも、そんな謂われがあるものが多い。腑に落ちないものもあるが、それなりに納得できると、何となく気持ちがよくなるものだ。生き物の名前はカタカナで表記されるものが多いが、これは正式の名前といった感覚で使われるからだろうか。しかし、和名の多くは同時に漢字で表され、音よりも漢字から意味を汲み取ることも多い。植物の場合は古くから薬として使われたものがあり、海の向こうで発達した医学で用いられてきたようだ。そうなれば漢字を使うことは当然だが、問題はその読みである。元々読み方が違うから、音で入ってきたものは漢字と結びつかないことが多く、和名は異なる発音を使うこともある。時にはよく似た音のものもあるだろうから、少し違うとはいえ、何となく使われてきたのだろう。漢方では植物の根を使うことが多く、それが植物自体の名前の由来となる場合も多い。味わったことがないから確かかどうかは知れないが、この植物も、有名な熊胆よりも苦いということで、こんな漢字を当てはめられたようだ。問題は読みで、漢字の読み自体を少しずつ変化させたものという解釈もあるが、どうなのだろう。文字に比べて、音は記録に残りにくく、特に時間の経過と共に変化したものについては、実際のところが分からないものが多い。確かに、そのまま読んだものから変化したと言えなくもないが、どうなろうか。現実には、この漢字を見て、植物の名前を当てられる人は殆どいないだろう。しかし、単語としては漢方薬に見られるし、植物自体も人気のあるものである。読めるか読めないかよりも、どんな起源なのかに関心が向けられそうな言葉でもある。

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12月14日(金)−綸言

 最近、立場と無関係に発言する人が増えているような気がしないか。正論は立場云々に関係なく正しいものと、思う人もいるだろうが、果たしてそうだろうか。どんな方向から見ても正しい論理があると信じる人がいるのは分からないでもないが、こういった発言の多くは盤石なものではなく、かなり微妙なものが多い。
 特に、人の上に立つ人間の不用意な発言は、影響が大きいだけでなく、それが誤っていれば大変なことになる。その場しのぎの言い訳を繰り返し、行き場を失う人々もいるが、元々通じない論理を使い、思いつきに終始するから、収束に向かうことは殆どない。その代わりに、各所からの指摘を受けて、修正を繰り返すことになるわけだ。確かに、その時点での全体把握が不十分だったことも原因の一つだろうが、それを認識せず、ただ闇雲に受け答えをするのは軽率の誹りを受けても致し方のないところだろう。いずれにしても、一度責任ある人間の口から出た言葉は、どのような方法を使っても覆い隠すことはできない。たとえ、覚悟を決めての発言としても、内容が伴わなければ火に油を注ぐことに繋がるのだ。自らの進退をかけて、と発言する人も多いが、組織全体の被害を考えると、一個人の責任だけで済むわけではないことがよく分かるだろう。しかし、当人達はそういったところに考えが届かず、ついその場しのぎに奔走する。結果としては、墓穴が其処彼処に散らばり、修復不能に陥るのだ。ちょっとした進言も、時と場所を弁えないと、また逆効果を産む。言葉は、それを発する人の傍ではある特定の意味しか持ち得ないが、その場を離れてしまえば、如何様にも解釈できる。それも、立場に応じた発言の重要性を示す話であり、その理解の上での慎重な発言が求められる所以である。にもかかわらず、何と不用意発言に溢れていることか。何と、立場を弁えぬ無理難題が続出することか。最近の傾向の興味深さは、立場のある人は好きなように行動できないから、そこに達しないような人生を好む人が増えているという。確かに、一つの選択には違いないが、能力のある人がこういった行動をとると、社会全体としては、甚大なる被害を受けることになることを、もっと強く主張すべきではないだろうか。人材不足の一因になっていなければいいのだが。

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12月13日(木)−厘毛

 最近の社会の傾向は、自分の回りも含めて歪んだ状況にあると思う。皆が気づいているのだったら驚きだが、木を見て森を見ずとでも言うのだろうか、些細なことばかりに心が奪われ、全体の把握が疎かになっている。日々の生活に追われている人々でも、目の前のことしか見ていなければ道を誤ることになる。
 こんな話を持ちかけると、一部の人は決まって次のように反論する。年金問題など、自らの将来に対する関心は高く、直近の話ばかりではない、と。では、自分が年金を受け取る年齢に達したとき、人口分布や国の財政がどのようになっているか、何処まで推測したというのか。彼らの多くは、何処の誰か知れぬ者が出した意見を鵜呑みにし、不安を掻き立てているだけであり、本質を見抜いている人は少ない。現状を基に引き出された分析は現状には当てはまるものの、将来に対しては別の推測を取り込む必要がある。こういう不完全な分析を恰も真実の如く流布する人々にも責任があるが、受取手が熟慮もなく信じるのもどうかと思うのだ。目の前の問題を片付けることを最優先するのは、多くの人にとって最良の考え方だが、だからといって、遠くを眺めることを忘れてはならない。この違いに気づかぬ人々は、自己分析において、自らの正当性を主張するが、大きな間違いに気づかない。分析能力の重要性を説く人々も、知識の有無を問題にするだけでは駄目で、近くと遠くといった感覚、喩えれば、虫の目と鳥の目を持つことの重要性をも説く必要がある。このところの世論を眺めると、そういった感覚の欠如が表面化しており、一部のミスリードに導かれる傾向が強まっている。これを戦前の状況に当てはめる人もいるが、注意を喚起するための方法の一つかも知れない。ただ、仮想空間の中でしか、戦争そのものの感覚がない人々にとって、この忠告がどれ程の意味を持つのか、定かではないのだ。いずれにしても、まるで円卓の上に乗った人間が、次々に上がろうとする人々を蹴散らすかの如く、自分の周囲にしか関心を示さないのは何とも情けない。自分の能力を見定めることは必要だが、一歩も踏み出さない姿勢では、何の発展もないことになる。近くと遠くという感覚は、視線の向け方だけでなく、こういった心の問題にもその歪みが及んでいるのかも知れない。

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12月12日(水)−霖雨

 この国の特徴を尋ねられたら、何と答えるだろう。産業や国民性の話に向かう人が多いと思うが、では、それは何処から来ているのだろう。人間そのものという答えもあるだろうが、移民の様子を見てみると、どうも徐々に外れていく傾向があるように思える。つまり固定された性質ではなく、環境によるものかも知れない。
 そこで次の質問は、この国を環境の立場で見たら、どんな特徴があるのか、となる。生まれ育った国の特徴と言われても、他の国を見てみないと違いは分からない。それに、人それぞれに好き嫌いがあり、悪い印象を持つものは、こういうときに取り上げられないことが多い。見方にもよるわけだが、自然の豊かさをその一つとして数えることに反対する人は少ないだろう。ただ、自然保護の立場に立つと見方は大きく変わる。なぜなら、保護とは人間の手によるものであり、あくまでも人為的なものであるのに対して、この国の自然の豊かさは人間の手によるところが少なく、気候の特徴が反映されたものだからだ。人間の英知を重視する立場の文化では、こういった自然任せの考え方は嫌われるが、不完全な英知の負の遺産が此処彼処に残るのを眺めるに、自己満足とか傲りによるものとしか思えなくなる。温暖な気候に恵まれた国は他にも沢山あると言われるが、中でもこの国は多雨が特徴となっている。地球上には雨の道があり、最も大きなものが四つあることを以前取り上げた。そのとき触れたのは、その内の三つがこの国を通り、その恩恵に浴しているという話だ。それぞれに、生き物にとってなくてはならない水の供給に大きな役割を果たしているが、訪れる季節が違うことで、一年中一定の水準を保っている。からりと晴れた気候が好きな人間にとって、春夏秋とやってくる長雨は嫌なものだし、冬に雪で閉ざされるのも遠慮したい。確かに、心理的にも負の面があるわけだが、その反面農作物を含む様々な生き物がその恩恵に浴している。そんな国だからだろう、雨や雪に関する言葉も多くあり、熱帯とは全く違った印象を持ってきたことが容易に想像できる。季節ごとの違い、様相の違い、様々な違いを見出し、それを表現する言葉を編み出す。自然との触れ合いが感じられるのはこういった部分であり、何でも制御しようとする気質の人々とは、明らかに違うところが見出される。長く続く雨は憂鬱なものだが、それも一つの風物詩と見なす心の余裕が感じられる。

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12月11日(火)−臨界

 最高学府の頂点に立つ大学の総長だった人が科学技術関連の役所のトップだったとき、ある事故が起きた。無知な人間達が右往左往する中で、彼は自らの専門に基づく冷静な判断を下し、被害は最小限に留められた。安定であるはずのものが分裂し、それが連続することで制御不能に陥る現象は、その恐ろしさを垣間見せた。
 同じ反応はそこから発せられる力を利用して、発電にも用いられる。今は消えて無くなった大国や今でも大きな顔をして世界を牛耳っていると誤解している大国では、人の手による誤操作で甚大な被害をもたらせた施設は、別の形で大きな被害を受けた国では忌み嫌われる存在となっている。これまでにも幾つか小さな事故があり、その多くが人為的なものであるだけでなく、証拠隠滅などの情報操作が行われるなど、汚名を返上する機会を逃してばかりいるのは、そんな背景によるところも大きいだろう。この間の大地震でも震源が施設の間近にあり、様々な被害が報告され、数多くの問題点が指摘された。騒ぎを大きくしようという思惑があるとは思いたくないが、自らの無知を棚に上げ、根も葉もないことを書き立てたり、言い募るのを見るにつけ、この国の情報伝達に関わる人々の不見識に呆れ果ててしまう。確かに、地震を原因として、建物を始めとして多くの被害が出た。危機管理の問題も数多く指摘され、電力会社は被害を受けた当事者だけでなく、同じような施設を持つ企業全てが管理手順の再検討を余儀なくされている。そういう姿勢は、負の評価の一つとして扱われ、事前検討の甘さと受け取る向きもあるが、どんなことにも完璧はなく、適切な対処と事後の対策検討が重要であることは明らかで、その点からすれば、高い評価を受けても良いのではないかと思われる。最も重要なことは、あれほど大きな被害をもたらせた揺れに対して、反応炉自体は暴走することもなく停止したことにある。誤操作を繰り返せば暴走に繋がるのは外国の施設の事故から明らかで、それがたとえ天災でも同じことが起きる可能性がある。その中で、今回は施設自体の被害は大きかったものの、肝心要の部分では踏みとどまったことは大きい。施設の規模からして、暴走したらどうなったのかを想像すると、恐ろしくなる。こういった点の評価は、世界的な組織による検査からも明らかになったはずだが、誰も取り上げようとしない。そこに、今の報道機関及び大衆の抱える問題があるのではないだろうか。最悪の事態を想定するのなら、それを避けられたことは大いに評価されるべきだ。

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12月10日(月)−林檎

 気候変動は一筋縄では理解できないようだ。単に暖かくなるとか寒くなるとか、そんな尺度で測ってみても、感覚の問題も含めて、変動のある中では一概に言い切れないからだ。冬の訪れが早いというのと温暖化が正反対との理解はあるが、その通りとは限らないことに気づく人は少ない。感覚のみの理解の常だろう。
 では、何を指標に変動を語ればいいのか。通常は全体をおしなべて比べることが必要だと言われる。つまり、平均を導き出し、それを互いに比較することが重要だというわけだ。元々、温暖化という言葉が使われたとき、年平均気温の変化を指標として考えたわけで、その点からしても、何を指標と見るかは重要になる。しかし、人の感覚には平均といったものは当てはめにくい。今暑いか寒いかは分かっても、平均として暖かくなったのか涼しくなったのかは、殆どの人が感覚として持ち合わせないものだからだ。この辺りに気候変動に対する理解の難しさがありそうだが、その割には、言葉の選び方と話題の進め方によるのか、多くの人が温暖化を認めている。もう一つの見方は、人間には実感が無くても、自然界に生きるものに起きている現象を実感することができるということだろう。つまり、農産物や水産物における変化が気候変動の影響によるものと見なせば、それが温暖化によるものと解釈することができ、間接的ながらそれを実感できるわけだ。このところ話題になったものだけでも、米、秋刀魚、牡蠣など、それぞれに事情が異なるのだろうが、色々と出てくる。養殖という形で人間との関わりが強いものでも、自然の中でのものとなれば、気候の影響は少なくないからだ。年毎の作況指数として現れるものとは違い、味が変わったと言われる米の銘柄も、このままでは衰退してしまうと噂される。同じ農産物でも、栽培の北限、南限と言われた地域が、徐々に移動していることが指摘されており、北の果物、南の果物、それぞれに変化が現れている。単に生育できるか否かの問題だけでなく、米同様に、味の問題が取り沙汰されているから、今後名産地と呼ばれる地域が移動する可能性は大いにあるとの意見もある。生育と違い味に関しては、実際のところは、結果が出てみなければ分からないが、歴然としたものかどうか、すぐには信じられないところもある。いずれにしても、様々な点から温暖化が取り沙汰されており、深刻な状況に向かいつつあることだけは、確かなようだ。

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