パンチの独り言

(2007年12月17日〜12月23日)
(廉潔、連木、錬成、憐憫、煉丹、櫺子、連声)



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12月23日(日)−連声

 英会話で発音の変化が気になる段階がくることがある。相手の話していることがある程度まで理解できるようになったとき、そこから先に大きな壁を感じると言われるのがそれで、推測では追いつかない部分を指す。自分で考える場合にはこんな形にと思うのだが、実際に使われているのは全く違ったものとなる。
 文字を追いかけて読む場合には、それを短縮するのは読み手の頭の中であって、入る前にそれが起きることはない。話し聞くことはそれとは全く異なり、話す側が慌てて短くすると、どうしても正確な発音を続けることはできず、何処かで端折ることになる。短く発音するといっても、絶対的な法則があるわけではなく、どんな短縮形が話す側、聞く側にとって、理解しやすいかが重要となる。法則と実際が一致しないということは、何かを決めることもできず、何となく流れていくうちに決まるということになる。結局、習慣によって決まる部分が多いから、それを母語とする人たちにとっては、何も苦労しないわけだが、外国語として入る人々にとっては、それに触れる機会を作ることは容易でない。そんな中で様々な法則のようなものを編み出す人がいて、それを学習する人がいる。彼らにとっては、指針が決まるだけでも助かるものだが、必ずしもすべてが同じように流れるわけではなく、例外が沢山あって、どうにもならなくなる。言葉の不思議と言ってしまえばそれまでだろうが、どうにも困った課題なのだろう。ただ、この手の話は英語に限ったことではなく、おそらくほとんどの言語に当てはまるのではないだろうか。この国の言葉についても、気がつかずに使っているものが多く、話し言葉では当然のことだが、それが拡張して書き言葉にまで広がっているようで、改めて探してみるとその数の多さに驚かされる。生き物らしさの証しとも言えるが、どうにも変化の激しいもののようだ。ただ、解釈によれば、音の繋がりとしての変化らしいから、当然の結果なのかもしれない。

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12月22日(土)−櫺子

 言葉探しは、見たことも聞いたこともないものとの出会いを演出する。よく考えてみれば、何処かで見かけたことがある筈だが、記憶に残るほど印象は強くない。こういう言葉に改めて触れることによって、別の感覚から印象が強まり、結果的に記憶の隅に残されることになる。また忘れてしまうかもしれないが。
 伝統家屋に特有の装飾について、それぞれに呼び名がつけられる。しかし、伝統が蔑ろにされ、装飾が過度なものと受け取られることによって、折角作り出されたものもいつの間にか姿を消してしまうわけだ。それぞれに独自の発展を遂げ、ただ単なる備え付けのものとしての飾りから、そこに動きを採り入れて、変化を楽しむものとなる。子供の遊びと違って、それを続けることが重要なのではなく、ほんのたまに動かしたときに、そこに新たな変化が引き出されることによって、何かそれまでとは違った感覚が呼び覚まされることが重要だったのだろうか。外から見たときに、その動きは予期せぬものであり、そこに新鮮な印象が現れる。そんな意外性に心を奪われた結果なのか、はたまたそれら全てが計画されたものなのか、今となっては分からない点が多すぎるのだろうが、そんなことを考える機会もこの情勢では無くなりつつある。伝統文化を愛した人々が遺した仕事の多くは、そのまま歴史の流れに取り残され、いつの間にか姿を消していく。特に、合理性が重視され、装飾の多くが無駄と切り捨てられる中では、遊び心に基づくものは次々と忘れ去られる運命にある。見た目の美しさに合理性の有無が関係しているのかどうか、はっきりしないところもある筈だが、全体の流れは合理性が先に来るものらしい。以前ならばふとした思いつきが先に来て、それがいつの間にか理の通るものとなった場合も多かったが、最近はそういう考えが入り込む余地は少ない。また、思いつきがあまりに突き抜けたものであるだけに、簡単には受け入れられない事情もあるだろう。少し古い家屋に付けられた無駄にも思える装飾を探してみるのも面白いことなのではないだろうか。

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12月21日(金)−煉丹

 錬金術の元々の意味は、文字通り、金を作り出すことだった。しかし、最近では「きん」ではなく、「かね」を作り出す意味に使われることの方が多い。現代の科学からすれば不可能に決まっていることを可能にする怪しい技術といった解釈から、普通なら考えられないような方法で蓄財を謀るものを指すようになった。
 洋の東西を問わず、こういった怪しい技術の発達は人々の夢を実現するものとして、人気を集めていたが、その対象は微妙に違っていたのかもしれない。金属がその貴重さから貴金属と卑金属に分けられ、金が全ての金属の頂点に立つものとして珍重されていた中で、自然に産するものを探し出す努力より、自ら作り出そうとする努力を選んだ人は多く、基礎知識の不足から生じた誤解とはいえ、今では科学者と呼ばれる人々にもそんな道を選んだ人がいた。西洋では金属の価値に心が奪われたのに対し、東洋では自分自身の命を永らえることに力を注いでいた。不老不死は永遠の課題であり、何千年も続く歴史の上に立つ隣の国では、権力者の多くが自らの地位を守り、手に入れられる最後のものの一つに挙げて、様々な知識をそのことに集中させるようになった。そんな力を手に入れた人間の呼び名まで飛び出す中で、実現可能なものとして、次々に新たな試みがなされたのは、西洋での錬金術と多くの類似点を共有するように見える。目的も目標も、明らかに違っていたにも拘らず、そこに同じような道筋を見いだし、特異な性質をもつ金属が同じように使われたのは、ただの偶然かもしれないが、不思議な力を有するものはそんな性質をもつと思い込む考え方には、偶然と軽々しく呼ぶことは憚られるような気もする。場所の違いだけでなく、時代の違いもあるのだろうが、それぞれに共通して言えることは、些か動機に不純なところがあるとはいえ、こんな技術の発達によって、基礎知識が豊かになったことは確かだろう。知識が不足する中では、明らかに間違っていると後から分かったことも、試みる価値のあるものであり、そこから何かが生まれたと言えるかもしれない。論理的に正しいことを試みるのは当然のことだが、知識不足の中では論理も不十分だから、まずは試してみることが重要なのだ。何もかも知り尽くしているという素振りで、試すことを避ける態度には、大きな問題があるのではないだろうか。

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12月20日(木)−憐憫

 怒り、喜び、悲しみ、人間の感情で最も強いものは何だろう。喜怒哀楽、それぞれに特徴があり、それぞれに起伏がある。個人的なものばかりのように思えるが、巧く集めれば社会的な効果も期待できる。互いに理解できるものもあれば、何故と首を傾げたくなるものも。兎に角、複雑なものなのだろう、感情は。
 では、同意を得るために最も有効なものはと問われたらどうだろう。どれも共有できるものばかりだが、効果を考えると悲しみに勝るものはないのではないだろうか。悲劇の主人公に同情しない人は少なく、多くの人々が救い出そうと考える。暮れの定番となった募金も、最近は事ある毎に組織され、そこに繰り広げられる小説より奇なるものに耳目が集まる。その際には現状を伝えることが最優先とはいえ、多くの場合悲惨なものに時間が割かれ、そこから救い出すために心を動かされる。決して間違ったこととは思わないが、事実を伝える代わりに、そういうものに力を入れることには、いささかでも抵抗を覚えるのは何故だろう。その典型として、今でも思い出されるのは戦地に赴き誘拐された人々の親族の傍若無人ぶりだし、ごく最近には、被害者全員の救済を訴える人々に纏わる話がある。被害者と一括りにするのは明らかな間違いだし、それぞれに事情が異なることも多々ある。その場合に重要なことは背景の筈だが、伝える人々にはその意識はないように見える。ただ、そこにある悲劇を主人公の立場に立って伝えることが当然の役割であり、人々の悲しみを誘うことの重要性が垣間見える。それぞれに被害を受けたことは事実であり、それに対する救済も当然のことには違いないのだろうが、だからといって、そこで展開される手法が正しいと決まるものではない。余りに感情的になった姿には、悲惨さが漂うだけではない、何か別のものが見えているように思える。そんな感覚を抱くのは、こちらの感受性の問題なのだろうが、どうにも胡散臭く見えるのは正直なところだ。何処から何処までが事実かと問うたときに、おそらく全てが事実との答えが戻ってくるに違いないが、そういった話とは違うところに、大きな問題があるように思える。つまり、そこにある事実だけが全てを語る事実なのか、見せられている事柄が全てなのか、といった疑問なのだ。特に、世論を操作しようとする思惑が見え隠れする中では、被害者自身の問題ではない問題に気をつけるべきである。

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12月19日(水)−錬成

 誰だって、できることしかできない。こう言ってしまえば簡単だが、それだけのことだろうか。その時にできる限りを尽くすことはここには含まれていないし、できないことをできるようにする努力も含まれていない。どちらも当然だった時代には、始めの言葉が全てだったかも知れないが、今はそうでもないらしい。
 努力にも2種類あると言われ、成果が上がるものとそうでないものとなる。後者は無駄な努力と呼ばれ、始めから分かっているのならば、すべきでないと言われる。但し、これも時代による違いが大きく、昔は無駄と分かっていても試す価値はあると言われたこともある。無駄は所詮無駄と見るのが最近の生き方のようだが、何故始める前に見通せるのかという疑問は湧かないのだろうか。多くの場合、如何に無駄か、如何に達成不可能かを主張するのに時間を費やし、試すことに費やす時間を無くすことに躍起になる。取り組み姿勢の違いと言ってしまえばそれまでだが、兎に角賢く生きることばかりが重んじられているのだろう。しかし、自らの能力を引き出す機会をみすみす逃すのが、本当に賢いと言えるのだろうか。それは賢いと呼ぶべきものではなく、ただ単に楽をしたいという欲望によるものなのだろう。それでは通用しないからこそ、色々とこねくり回して、如何にもという理由をでっち上げる。その為の努力は惜しまないのだから、面白いものだと思う。体を動かすこと、知恵を絞り出すことは、それなりの集中力を必要とする。その為に工夫すれば、そこから新しいことが生まれる可能性もあるが、取り組む気がないのだからどうにもならない。生活は豊かになったのに、心が貧しくなったと言われる所以は、この辺りにあるのではないだろうか。立身出世などという言葉が聞かれなくなったのも、ある程度安定した世の中になったことだけでなく、そこにある格差が小さくなったことによるのではないだろうか。格差社会と声高に訴えても、それを意識させるような環境がなければ何にもならない。どう見ても、いい加減な取り組み方でもそれなりに生活が保障される。こんな社会で努力を促してみても、簡単には同調されないようだ。そうなると、外力によってのみ動く人々には期待が持てず、内から滲み出てくる何かに突き動かされる人々に期待するしかない。それを資質と呼ぶ人もいるかも知れないが、こういう人々はいつの時代にもある割合でいるもので、だからこそ滅びずに済んでいるのではないだろうか。努力の大切さを説かねば動かない連中には、期待することもできない。

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12月18日(火)−連木

 約束を守るの守らないのと、いつからこんなに煩く言われるようになったのだろう。多分、約束を反故にするのがごく当たり前になり、自分を有利にするためだけに約束を重ねることが横行し始めてからだろうか。守るのが当然ならば、そのこと自体をとやかく言う必要はなく、ただ見守るだけで十分なはずだから。
 それ以前は約束の内容に注目が集まり、それを達成したあとのことを判断の基準としていたが、守るか守らないかが問題になるにつれて、中身のことは議論にならなくなった。これも重要なことであり、本来ならば、方針を示すことによって道筋をつけるはずが、どんな道だろうがちゃんと歩むかどうかを問題にするわけだから、将来の展望が明るくなるはずがない。守れそうな約束を選ぶ人がいる一方で、実現不可能なことを言い連ねても自分の欲しいものを手に入れようと奔走する人がいる。人間の格とか徳とかの話として、こういうことを説明する人もいるが、どうにもそれ以前の問題のように思えてならない。つい、その場の勢いで口走るということはよくあるものの、それを文書として残すことには普通は躊躇いを覚える。しかし、勢いがついた車が止まれないように、あの頃のあの人々にはその文言の意味するところを深く考えるだけの余裕はなかったようだ。あのまま居座っていたら、どんな言葉が聞けたのかと残念がる向きもあるようだが、あっさりと交替した人からはいとも簡単に謝罪の弁が漏れた。責任がないわけではないものの、その当時の距離感からすれば、このくらいのことは容易であり、自らの招いた災難でないだけに、気楽な対応ができたのだろう。しかし、結果として出てきたことには何も変化が無く、迫る期限は消し去ることもできない。その上、被害を受けた人々は自らの落ち度はなく、ただぞんざいに扱われただけのことで、憤懣やるかたないといったところだろう。前の人なら、ここで責任をとることもあり得ただろうが、今の人にはその気もない。約束を違えたとしても、あれは別の人間が判断を誤った結果とすればいいだけのことだ。まあ、何とかで腹を切るという喩えにぴたりと収まった形だが、責任の有無は棚の上に上げられたままになりそうだ。

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12月17日(月)−廉潔

 公僕たるもの、私利私欲に走らず、国民に尽くすべき、などと書いても、何のことかと思われるだろう。本来の姿はかくあるべしと言葉で理解していても、現実には余りの隔たりに声も出ない。始めはそれなりの収入が保証されていたが、民間の後塵を拝するようになり、不正を働くのも止む無しと言われていた。
 ところが、社会全体の勢いが無くなると、先を行っていた人々がいつの間にか後ろに回り、労働対価として認めがたい収入は批判の的となった。そんな中での異常な行動は、止むを得ずの範囲を遙かに超え、私利私欲の塊として紹介されるに至る。自らの地位がそれに見合うとの誤解は、自制の機会を失わせ、暴走を止める介入も届かぬほどになった。権力とは様々な形で人の上に降りかかり、その恩恵に浴す人も、被害を受ける人も、それぞれに関わることとなる。しかし、当事者よりもその取り巻きが利益を得ることとなり、勝手な方に走り出すに至っては、利権争いとは異なる世界に舞台が移ってしまったのではないだろうか。向上心と功名心には多くの共通点があるとはいえ、本来の舞台から下がってしまった人に、どんな心の動きがあったのか、容易には理解できない。要するに、全てが出鱈目だったということなのだろうが、それにしても、ここまで軌道を外れるのは尋常ではない。関係者がそれぞれに欲に駆られた行動を示しただけに過ぎないのだが、これまでとは大きく異なる流れには、今回の事件の異常さが現れているということなのだろう。自らを御せないばかりか、連れ合いの身勝手を放置したことは、異常さを際立たせるものとなった。暴走の終着駅は、いつもと同じものなのだろうが、そこに一人ではなく二人の姿があることは、前例のない事件の特徴である。全貌が明らかになることはまず無いと思うが、欲望に走る人の行動と心理が容易には理解できないことを示しているということなのではないだろうか。単なる贈収賄とは異なる様相に、こんなことはいつでも何処でも起きるという意見は殆ど出てこない。そこがこれまでと大きく異なるところであり、特異な例として記憶に残るものとなるかも知れない。

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