パンチの独り言

(2007年12月24日〜12月30日)
(論理、論功、論説、論策、論客、論駁、論語)



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12月30日(日)−論語

 世の中がどんなに便利になっても、人間の営みが全て変わってしまうわけでもないらしい。確かに身の回りを見渡してみると、以前とは大きく変化したことばかりが目につく。しかし、その一方で人と人との関わりは大した変化もなく、喜怒哀楽で片付いてしまうことが多い。心の変化を促す進歩もあるかも知れないが。
 そんなことを実感できるのは、昔の人々が遺した言葉が今でも通用するところだろう。ほんの百年ほど前のものが大部分だろうが、世界的ベストセラーと呼ばれる書物はもっとずっと前のものだし、隣の国からやってきた問答集はもっと古いものだ。これらの言葉の全てが今でも通用するとは思わないが、その一部はそのまま、他のものも今の時代に合うような解釈をつければ、十分に通用する。これは人の心の動きが時代の変遷とは無関係に、ある一定の基準の上に成り立っているからで、そこにはある普遍性があるのだろう。しかし、本当に確固たる普遍性があるのであれば、改めて言われるまでもなく、全ての人々が周知のこととして弁えていなければならない。そうでないからこそ、ある周期をもって、世の中に湧き出てくるのではないだろうか。そんな風に考えれば、一つの流行の時期を迎えたということは、それだけ認識の程度が低くなっていて、荒んだ時代を迎えたと言えるのかも知れない。経済的に豊かになるにつれて、心が荒んだ状況になるのは、その後に恐慌が迫っていることと解釈する向きもあり、そろそろ何かしらの準備が必要であることだけは確かなようだ。こういう手当てだけで循環の道筋に乗り、再び豊かな心を持てる時代が来るかも知れないし、そうでないかも知れない。後者の場合は、これまでの例から推測すれば、破壊行為が全体に広がることになるわけだが、今のところ、一部の地域を除けば、荒廃がそこまで進んでいるとは言えないだろう。破滅の寸前まで迫っている状況では、これまでと同様の経過を辿ることも難しく、その為に試行錯誤が続けられている。ただ、前例のない事柄には一つの答えも用意されていないから、何が正しく、何が誤っているのかを知る手立てはなく、試してみるしかないことになる。そんな状況だからこそ、昔の人々の言葉に注目が集まり、いつの時代にも通用する本質を見出そうとする努力がなされる。改めて感じられることもあるだろうし、意を強くできることもある。ただ、自分の力だけでそれをすることが、とても難しいことなのは、ここから分かる。

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12月29日(土)−論駁

 論を立てるのは何のためか、判断を下すためという人々もいるが、どちらが先に立つのか、考えてみると面白い。多くの人は様々な議論を重ねて、そこから最終結論を導き出すと思っているが、多人数の議論による決断にしても、独断にしても、結論が先にあり、そこに至るまでの道筋を後からつけることが意外に多い。
 確かに、ああでもないこうでもないと考え抜いた挙げ句に、ふと妙案が浮かぶことがある。考え抜くことを推奨する人々は、その過程を重視し、誰もがそうすべきと説く。彼らの思考の中には結論などあるはずもなく、徐々に答えに近づく感触を楽しむ気持ちが強くある。しかし、無意識の中に持っていた結論が、時間の経過とともに浮かび上がることは本当にないのだろうか。また、即断を要求される場では、悠長な手順を追うことはできないから、まずは結論を先に出し、そこへの道筋を考える手法を用いる方が適切に思える。どちらの順を選ぶかは本人の判断だろうが、それぞれに好みがあるだろうし、時と場合によることもあるだろう。その一方、出された結論に対する反応にも同じようなことが当てはまりそうだ。つまり、結論そのものへの反対をまず表明してから、その理由を編み出す手順と、結論が導き出された道筋の綻びを指摘した上で、反対を表明する手順である。こちらも始めの場合と同様に、どちらにしても反対が先にあり、その為の理由が後から付け加えられることが考えられる。こちらも表面的には好みの問題にされてしまいそうだ。自分の中でどんな経過を辿っているかを、その最中ではなく、後になってから思い出すことはかなり難しい。どうしても、多数の選択肢から選ぶ過程が再現しにくいし、行きつ戻りつの論理立ては手順を記憶していない場合が多いからだ。だから、どんな人でも説明した順序が自分の中で引き出された順序と一致すると考えてしまう。しかし、多くの場合、考える過程では論理が完成していないから、説明通りに思いつくことは殆どない。反対する場合はそれが更に極まり、考えるべき対象が提示されているわけだから、そちらの判断が先に来る方がありそうだ。どちらにしても、論を立てることは吟味の為に重要な要素となるから、それが欠けてしまっては、結論を導くことに繋がらない。では、この文章の結論にはどんな反応が返ってくるのか。

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12月28日(金)−論客

 話し合いと議論は何処か違ったものに感じられる。和気藹々と言うと語弊があるかも知れないが、前者にはそんな雰囲気が漂うのに対して、後者は真剣勝負といった感がある。白黒の付け方にも違いがありそうで、どちらかというと決着が急がれるのは後者だろうか。賛否両論が交わされるのも後者となる。
 議論下手の多い国では、兎角感情論に走ることが多い。賛成されれば常に味方、反対するのは敵と見なし、立場を先に決めることが常となる。しかし、議論の基本はそこにある論理性であり、好き嫌いで済まされるものではない。酷い場合には、内容よりもそれを主張する人間による選択が行われ、人に対する信用で物事を決める場合がある。確かに、日頃から無難に事を運ぶ人に全幅の信頼をおく気持ちも分からないでもないが、常に正しいということはあり得ず、時には判断を誤ることもあるわけだから、内容の吟味を怠ってはならないと思う。世論とか時流の向きを敏感に感じ取り、そちらに向けて邁進する人が目立つが、これとても一時の感情に流されているのと殆ど変わりがない。皆で渡れば怖くないという調子で、流れに任せて走り続けたバブルの時代を忘れた人はいないと思うが、その性癖は簡単には変えられないようだ。議論において重要なことは、自分の主張を確固たるものにすることだけでなく、相手の主張の核心を理解することもあり、その比較、対照から攻め方、守り方を導き出すことが肝心となる。にもかかわらず、不完全な論を張り、相手の真意を捉えられず、ただ無闇矢鱈に言葉を繋ぐだけの人が多いのは、どうしてなのかと思うことが多い。攻め口の鋭い人の呼び方や議論好きな人の呼び名がしばしば登場するが、どうにも矛盾に溢れた意見が飛び出してくることが多い。要するに、言葉数の割に、急所を外しているわけで、ただ注目される時間が長いだけに過ぎない。一言でぎゃふんと言わせる意見には、相手の主張の欠点を厳しく追及する言葉が含まれていなければならないのに、ただ口数だけが勝り、それで勝利を収めたと誤解する人が多いのは、そんな国民性が背景にあるからだろうか。論鋒鋭く責め立てる人々に対しても、冷静に対処していける人こそが、真の議論上手と思えば、何とも情けないほどの水準の低さかと呆れるしかない。

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12月27日(木)−論策

 この頃の若い者は、という言い回しはいつの時代にも使われるという。漱石もそんなことを書いていたそうだが、確かに経験を積んだものから見れば、頼りない若者は何時でも何処でも存在するものだ。そんなことは承知の上で敢えて言いたいのは、やはり今時の若者の異様さで、従来にない行動様式である。
 未熟な若者が無知をさらけ出すことはいつの時代にもある。そんな姿を見て頼りないと思うのは時期尚早であり、暫く様子を見るべきという意見に反対するつもりはない。しかし、最近の傾向にはこれとは正反対に見える部分がある。つまり、無知を見せるより、訳知り顔を装う若者が増え、他人の批判に精を出す姿が目立つことだ。その他大勢とは違うところを見せようとする演技と受け取る向きもあるが、そこまでの深慮があるかどうかも怪しい。批判精神に溢れているところは評価したいが、その実、自らを分析できない姿に唖然とさせられるからだ。一時期流行した自分探しがその典型であり、落ち着き場所を見いだせないままに、時代の寵児と言われたり、社会の落ちこぼれと言われる。彼らの多くは、自分の欲するものが何かを知らずに、ただ闇雲に歩き回っており、あてのない旅に明け暮れている。中には、消極的な人も目立つものの、多くは他人の選択に文句をつけ、落ち着き場所を見つけた人々を批判する。その一方で、自分が何をやれるのかは見えず、資格取りに走ったり、何が何でも流行の先端に立とうと努力する。一見積極的に見える人生も、中を覗いてみれば、一時の欲望に走るばかりで、目標が定まっている様子もない。何故、そんな若者が生まれてきたのかを議論するのもいいが、おそらくこの状況が長続きしないことが予想されるから、大した成果は上がらないだろう。それより、彼らのことをどうするのかが急務であり、社会環境整備を急ぐ人々もそんな考えを持っているのかもしれない。しかし、それとて、大した成果は期待できず、多分祭りの後の散らかりが残るだけではないか。批判精神の育成は重要だろうが、その一方で冷静な分析も必要であり、更には対象による違いを生じないことが最重要となる。社会を見渡せば、まさに一つ目だけが尊重されており、他人が出した案への批判に終始し、自らは何も産み出せない人が溢れている。そんな中で、悲劇の主人公たる若者はただ迷走しているだけなのだろう。

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12月26日(水)−論説

 論じるという行為には、白黒を明確にさせるという意味が込められている。そういうことからすると、最近の議論は不毛であり、無意味なものと言えるのだろうが、当事者達は有意義なものと受け取っている。ガス抜きなどといった卑近な表現を使うほど、成果の上がらぬものはないが、さて何をしたいのだろう。
 本来の議論とは、賛否両論が並び立ち、その間でとことん論を突き詰めることの筈だが、最近では放言が罷り通り、その根拠も意味も示さずにいる輩が目立つ。思いつきを次々に放つ人には、責任に対する認識はなく、場当たり的な表現に終始するようだ。これが社会的風潮になることに抵抗を覚える人もいるだろうが、このところの流れからすると、暫くの間は勢いを減ずることも難しいのではないか。無責任発言が続くと、発言の影響力での争いでは、戦う前から勝ち負けが決まっているようなもので、本質的な勝負ではなく、上辺だけの勝ちに拘る人々は、更なる無責任へと向かっていく。社会的傾向としてこのような形になったときに、責任の所在を明らかにしようとする力が大きくなるのは興味深いことだが、端から無責任な立場にある人々には、何の影響も及ぼさない。この傾向は、却って、真面目に議論を行う人々を縛るだけで、真っ当な仕事をすることの馬鹿らしさが表に出てくる。本人はいたって真面目な風を装っているものの、そこから出てくる言葉は誠実さの欠片もなく、先々の展望も見えてこない。こういう時代が長く続くと、個の力が益々強くなり、格差が広がるのが容易に推測できるが、そんなことを考える暇もないほど、次々に思いつきがぶつけられてくる。確かに、どの選択肢が選ばれようが大勢に変化はないと思う向きもあるだろうが、現実には大きな変化をもたらすものも多い。結果が出て初めて気がついたように振る舞う人々には、罪の意識は全くないのだろうが、それにしても、ここまで落ち込んでくるとどうにかしたくなる。筆力によって世論を左右するのも、ある職業人に与えられた特権の筈だが、彼らの中途半端さがこれほどまでに目立つ時代も少ないのではないだろうか。反体制を貫く必要はなく、その場での正当な判断が要求されるだけだが、どうにもそんな姿勢が見られない。世の中全体が賛否を重視していないとも受け取れる雰囲気なのだ。

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12月25日(火)−論功

 そろそろほとぼりが冷めたと判断したのだろうか、退任したあと本来の仕事もせずに姿を消していた人物がカメラの前に現れた。何を話したとしてもその言葉には重みが無く、誰からも振り向かれないことは分かっているにも拘わらず、行動に出たのは何故か、例の如く凡人には理解しがたいところだろう。
 一般的にある地位に就いていた人の業績は功罪を交えて語られる。同じことをしても評価が二分する場合も多く、特に頂点を極めた人の場合にはその傾向が強い。しかし、あれから数ヶ月を経過して、すっかり人々の記憶に残っていない件の人については、著しく偏った評価だけが印象に残っている。おそらく、前任者の潔さとの比較から、実際よりも低く見られることもあるだろうが、それだけではない、何か特別な異様さが漂うからではないだろうか。特に、実行したことについては人気を集めた前任者と大した変化はなく、褒められることもないだろうが、ここまで貶される必要もない。にも拘わらず、これほどまでに堕ちてしまったのは多分今流行の空気の読めない人だったからなのではないか。人気があるとの誤解もさることながら、担ぎ出されている事情も理解しないままに、自らの夢を実現しようと動いたのは、あまりにも無謀だった。当時は人事の不手際が取り沙汰されていたが、人の選び方の間違いは、人物評価のみならず、その背景にまで及んでいたから、かなりの重症だったということだろう。味方についた人間に有利に動くことは、その恩に報いるために必要と言われるが、誰にも分かる形での恩返しは、却って仇となることが多い。まさにそれを地でいったわけだが、そこから始まった暴走は結果的に止める人もおらず、ついには破局へと突き進んでいった。そんな経過を辿った人の心の中を覗いたとしても、何の役にも立たないと思うのだが、今の社会はそうとは思わないらしい。こういう形で取り上げるのも、名誉回復のためと受け取る向きもあるかも知れないが、おそらくそちらには向かうまい。正しい評価を下さなかった人に任せられる仕事は見つかるはずもないのだから。

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12月24日(月)−論理

 いよいよ終わりが近づいてきたが、あと少しの間お付き合いを願いたい。人がものを書くときには、何か伝えたいことがある場合が多く、備忘録を除けば内容を他人に理解してもらう必要がある。その為に必要なのは、そこにある言葉の共通性だけでなく、話の流れ、筋道が共有されることである。
 如何にも仰々しい言葉が並んでいる文章でも、そこに骨組みのようなものがなければ、単なる言葉の投げ売りにしかならず、相手には何も伝わらない。平易な言葉が並んでいても、そこに多くの意味を含めることはできて、このところ取り上げ続けている難解な言葉を使わなくとも、含みを持たせることは可能である。では、何が最も重要な要素なのかといえば、おそらく共通理解の上に立つことであり、そこに積み上げられているものが正確な順序で並んでいることであろう。これを難しく捉えようとすれば、色々な議論もできるのだろうが、現実に文章を書く上で、それほど複雑なことを思い描く必要はない。それより、話の流れや筋道のように、複雑な分岐を持たせず、単純な道筋を示すことの方が余程重要であり、そこに共通性がありさえすれば、他人に理解して貰えるものを作ることはさほど難しくはない。美辞麗句が並んだ褒め言葉より、たった一言での賞賛の方が喜ばれるのは当たり前で、策を弄することは逆効果となることの方が多い。単純な道筋は誰にでも理解できるが、それを作り出すことは理解ほど簡単ではない。きちんと順を追って説明し、それぞれの間で矛盾無く、話が繋がることが第一条件であり、それを乗り越えることで初めて、共通理解を手に入れることができる。出来上がったものの容易さ、簡潔さに比べると、そこに至る道筋は如何にも困難に満ちたものであり、その格差に改めて驚くことがある。最近の巷の話を漏れ聞くにつけ、この辺りの整備が不十分なものが多く、独り善がりの話の多さに驚かされる。更にその傾向を増長しているのは、話を伝える人々の感覚の鈍さで、ずたずたに切れた流れを繋げるための手入れさえできない。一度身に付けてしまえば常識ともとれるものだが、それさえ身に付けていない人が増えることは、身勝手な話の蔓延を招くから、社会としても警戒しなければならないはずだが、現実には一部の権力が突出しているように見えるのは、そんなところによるのかも知れない。

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