20年ほど前、この国が世界に誇れるのは経済成長ではなく、健康保険と年金という国が用意した制度だったと思う。経済成長は国による保護の影響が大きいといっても、各企業の努力が第一であり、国の関与は徐々に小さくなってきた。それに対して、その後の経過を見れば分かるように、制度への影響は大きいままだ。
影響の多少だけでなく、その後の制度自体の歪みが誇りと言えるものから、恥ずべきものへと転換してしまった。ただ、異論はあるだろうが、この結果を招いたのは、制度自体の誤りではなく、その運用における失敗によるところが大きい。今でもこの状態は続いており、誤解に基づく先行き不安や制度改悪への提言など、根本的な理解のないまま、盲進する状況となっている。如何にも知り尽くしたように振る舞う人々の多くは、制度そのものの理解より、現状の歪みに目を奪われる傾向があり、将来の展望についても、矛盾に満ちた議論を重ねている。もし、人口の不均衡を中心に論じるならば、その現状だけでなく、将来の動向をも視野に入れた議論が必要となるはずだが、ごく近未来の、現在と同様の不均衡が維持される時期に焦点を当てた議論に終始している。人は生まれたら、死ぬ運命にあることは当然であり、誰しも寿命を逃れることはできない。であれば、現在の不均衡がどのような経緯を辿るのかを推測することは、制度の問題を考える上で重要となるはずだが、その辺りの展望は殆ど話題にならない。極端な場合、現状がこのまま続くとする信じがたい推測に基づくものがあり、不安を煽る心理に乗ったものとしか思えない。そんな馬鹿げた主張を真に受ける人々にも大きな責任があり、特に、その意見の真偽を吟味せぬままに、後押しに回る一部の人には呆れるばかりである。数の論理を展開する上では、そこに思惑などが入り込む余地があってはならないが、ここでの議論の大部分は取捨選択が施されたものに基づくわけで、無茶苦茶としか言い様がない。どちらの制度も、今一度吟味をすれば、旧来のものを修正するだけで、問題解決が可能と思えるが、大勢はそう思っていないようだ。結果が明らかになった頃には、今、声高に主張している人々はその全てを忘れているに違いないのだが。
全ての人に通じるわけではないと思うが、人間はお山の大将になりたいのではないだろうか。人を押し退け、蹴落としてでも、という人ばかりではなく、誰かに認められ、道を作ってもらって、という人も含めて、その機会さえあれば、人の上に立つことを、上でなくても人の先に立つことを望むのではないだろうか。
そんなことを思いながら、政治の世界を見渡してみると、そこにある縮図がよく見えてくるのではないか。指導者たるものこうあるべき、という理想論は別にして、俺が俺がという人もいれば、推してくれる人を待つ人もいる。いずれにしても、一度その世界に入れば、頂点を極めたいという思いを描くのが普通のようだ。それが当然と思っているところに、とんでもない提案が飛び込んできて、面食らった。教育現場での皆一緒とよく似た形式だが、挙って一つの組織を作り、全体で動こうとする提案は、一部にはとても受けが良いようだが、それらは理解不足によるものと思えてならない。議会民主主義が、学校でのままごと遊びに似た運営と同じであるとすれば、議論の場を設ける必要はない。社会性が不足する小学生による議論が、概ね平行線を辿ることから、結論ありきの場を設けるわけだが、それと同じことを社会の代表たる人々が行うのは、余りにも馬鹿げたことに思えるからだ。それにも拘わらず、賛同を示す人々がいることに、別の背景があるとしたら、それは政治の腐敗、無責任を原因とするものだろう。誰が何をしようが大勢が変わらないのなら、どんな制度を採り入れても同じであり、効率を追求するのが最適という判断が下る。如何にも近代的に思える考え方だが、これが今の歪みの原因の一つと思えば、その選択の誤りは様々なものに更なる低下を強いることになる。そんな状況が見えていないことに憂う人々もいて、目前の問題解決しか頭にない人の退陣を迫る動きもある。しかし、現状しか見ようとしない人々が決定権を握っている中では、何の変化も期待できないのだ。この状況を作り上げた人は知らぬ存ぜぬを決め込み、他人事を眺めるふりをする。彼にはそれができるだろうが、その口車に乗った人々は自らの責任を考える必要があるに違いない。
国民全体が中流意識を持つという時代は遠く過ぎ去った。今や、下流意識が強調され、この先明るい未来がないかの如く言われる。しかし、こんな話題を出すこと自体、自分達の優位性を主張する思惑が明らかで、格差を意識するのも、同じ心理が働いてのことと思う。暫くすると、施しが注目されるのかも知れない。
人間の営みにおいて、比較は重要な要素であり、青く見えるかどうかは別にして、隣近所を窺う動きは絶えることがない。これは、自分の立場を明確にする為もあるだろうが、絶対指標が見つからない中で、自分の立ち位置を確かめたいことから来るのだろう。その一方で、他とは違う、自分なりの姿を思い描くことが推奨されており、自分探しの旅に出たまま戻らない若者達の数は増えるばかりだ。皆と一緒という思いと、独自の姿という思いが交錯する中では、落ち着く場所は見つからず、旅の終着点に辿り着くことはない。そんな状況を産みだした社会は、道から外れた人々のことを心配する風を装い、救済策という手法を乱用している。如何にも、弱者救済と見える手立ても、現実には格差を拡大するだけのものに過ぎず、根本解決にはほど遠い状況が見えるだけに、こんな茶番劇をいつまで繰り返すのかと呆れてしまう。歩き始めた子供に手を貸すのは、自転車の補助輪のようなもので、止める時期を決めるのが難しい。多くの場合、子供自身が補助を嫌うことで、解決を見るわけだが、ここでの救済には、そういった流れは期待できないのだ。このままでは、弱者を落伍者に追いやり、格差を当然のものとして認めることになるのは必然だが、世の中の理解はまるで違っている。自立を阻む手立ては幾らでもあり、その誘いに乗らないことが肝要であるにも拘わらず、その機会を奪う行為が横行する。そこには、救済とか、援助という言葉が踊り、人間の持つ倫理観や社会貢献の表れと受け取る向きがある。一面ではそういうこともあるのだろうが、多くの例を眺めてみると、その裏にある意図や思惑に警戒心を抱かざるを得ず、社会全体の歪みが大きくなっている印象を持つ。何をよしとするのかの答えを見出すことは容易でないが、それでも、今のままではいけないと思うことが、始まりとなるのではないだろうか。
文章を書くためには、いい文章を沢山読むと良いと助言する人が多い。本人がその通りのことをやっていれば理解できるが、その多くは実行しておらず、効果の程は不明である。にも拘わらず、この助言の話をよく聞く。要するに、ちょっとしたことで納得し、それを言い触らしているに過ぎないのだろう。
名文だろうが、悪文だろうが、そこに並んでいるのは文字だけである。それをどう感じるかは、受け取り手によることだ。その意味では、名高き文を幾ら読んでも、何も変わらないことが沢山ある。本の読み方なる解説書も数多く出されているが、これもまた、受け手の事情を無視した代物が多い。同じ話を聴いても、読んでも、人それぞれに印象に残るものが違う。そう考えれば、読み方もこうすればよいと言えるものではなく、自分なりの形を自分で見出すしかないことになる。自分のやり方を伝授するのも結構なことだが、それが読み手の血となり肉となるかと言えば、可能性は低いのではないか。だからこそ、とも言えるが、いつまで経っても、同じようなことを同じように書いた本が続々と出てくる。絶対的な手法があれば、その一冊で済むはずなのに、そうなっていないのだから、事情はすぐに飲み込める筈だ。共感を得るとか、癒されるとか、そんな言葉が踊る評価にしても、その個人だけが感じるものであり、そこから同じ感覚を持つ人が増えるということ自体、怪しいものとしか思えない。ところで、読む姿勢として、何が適切なのかが不明確なのはさておき、世の中に流通している書籍の膨大な量に呆れる人も多いと思う。人の目に触れることもなく、廃棄処分されるものが大部分なのだが、そんな形での商売を訝しむ人もいるだろう。確かに、じり貧状態の業界だが、それが何とかなる部分があることに驚かされるわけだ。しかし、現実はそれ程甘くなく、次々に潰れるところが出ている。評判の良いところでさえ、少しのきっかけで転げ落ちるわけだ。でも、これに関しては、少し見方を変える必要があると思う。最近、どうにも出版の方針が危なげに見えると思っていたところが潰れたと聞いたとき、やはりと思った人は沢山いたのではないか。この業界、堅実な商売は堅実な仕事からしか生まれないと思う。
言葉が先に決まっていたらいたで、面倒なことが多かったが、それが暫く続いた後で、さて、話題から決めようとすると、これが意外に面倒なのである。以前にも取り上げたことがあるが、今、この時に、話題になっているものを扱うと、情報不足から来る誤解が生じる。かといって、余りに古いものは、となるのだ。
所詮は、勝手な独り言であるからして、何をどう取り上げようが、どう扱き下ろそうが、自由なわけである。しかし、これも以前触れたことだが、個人的な関わりのあるものは成る可く避けたいわけで、これが難しくしている。今時の話題は数多くあるに違いないが、一時の気紛れに近い形での扱いは、避けたいこともある。兎に角、色々と面倒ばかりが積み重なって、結局何をどうしたらいいのか、決まらないままに書き出したわけだ。気儘というのは、如何にも気楽なものに思えるが、現実にはそうとも言えないものだろう。自由と責任を論じるときにも、同じようなことが行われるが、独り善がりとしか思えないものに、自由を取り付けるのはどうにもおかしな話だ。しかし、そういったことが頻繁に行われていることからして、どうもこの手の考え方には根本的な誤解があるようにしか思えない。にも拘わらず、そんなやり方が横行しているのは何故か、良識に基づけば大いなる疑問と言える。大人の世界での横暴なこじつけを見て、子供が真似するのは仕方ないとする向きもあるが、果たしてそうなのか、首を傾げたくなるところもある。人間社会の常識や良識は、自然に身につくものではなく、誰かが教えてやるものとする話もあり、それに従った行動規範を説く人々もいる。しかし、子供の目から見た大人達の行状は、そんなに単純な受け取り方をされるものではなく、彼らなりの基準で判断されているのではないだろうか。手本となるべき行動は重視されるのが当然としても、それがなければ無鉄砲な人間が作り出されるかどうかは、決まっているわけではない。そこら辺のところが、何か十分な理解もされずに、勝手に暴走を繰り返しているのが、今の世の中の歪みの元となっているように思える。じゃあ、何もしなくて、欲望に走ればいい、としてしまう心理が、現代社会の大きな問題であるとすれば、さて、何をどう考えればいいのか、唯一無二のものを探し求めるのではなく、時と場合に応じたものをその場その場で編み出す力が要求されるのだろう。
誰だって心配の一つや二つ持っているものだろう。しかし、今の世の中ほど、心配を探し歩き、売りつけられる時代はないのではないだろうか。社会状況の問題と片付けることもできるが、現実には、それぞれの人間が心配を持ち歩くことを当然と見るのではなく、まるで被害者に成り切るための小道具と見ているのだろう。
こんな雰囲気の中では、当然の如く、不安を煽る情報が尊重される。同じ情報でも見方によって正反対に解釈されることが当たり前なのに、それを大仰に取り上げ、恰も全てを知り尽くしたかの如く、悪い方向にのみ解釈してみせるわけだ。少し落ち着いて眺めてみれば、その解釈の曲解たる所以が見えてくる筈だが、表面をなぞったり、意見を鵜呑みにすることしかできない人々には、そんな余裕は全くない。ただ、有り難い悲観説をそのまま受け取り、大騒ぎに転じるわけだ。それを宣った人間の行動を見ていればすぐに分かるように、如何にもとってつけた理由を振りかざし、自分に都合の良いように解釈して見せた後は、知らぬ存ぜぬを決め込む。そんな輩が闊歩する世界を覗き見ることは、愚民大衆にとっては何の役にも立たぬことだが、一方的に送りつけられる情報を唯一の頼みとしている限り、逃げ込む場所は見つからない。自分の目で、自分の耳で、自分の頭で、と、何度もしつこいくらいに言い聞かされても、その気が起きない人々には何の意味もなさないわけだ。それにしても、情報が氾濫するにつれて、質の良いものの割合は激減していることは何を意味するのだろう。元々、肝心な情報などというものは矢鱈にあるわけではなく、ただ一言で済むようなものが多い。それを流しているだけでは注目を集められず、雑多で悪質なものを流し続けることで、時間を埋める作業を繰り返しているに過ぎないのではないだろうか。そんな行為が続けば、本来ならば、見向きもされなくなるのが普通なのだが、判断力を失った人々はその手段さえ失ってしまったらしい。これ以上落ちる場所がないくらいのところまで行って、そこで何を考えるのか見てみようという案もあるが、おそらく、何処まで落ちてもそういう人々には何も起きないだろう。こんな人達に期待するより、自分達のことは自分達で解決しようとする人を優先する手立てを講じるのが、ずっとましなのかも知れない。では、何から始めたらいいのか、これは簡単なことではないようだ。
やっと終わった言葉遊び、次が始まるのはいつになるのか、考えたくもないが、まあ、何とか無事に終わったということで、話題はここまで。縛りが解けたところで、気になる話題を取り上げていきたいと思う。年が改まっても、世の中の動向は相変わらずの様子で、いささかも改まる気配がないのはどうしたものか。
構造改革、市場原理、言葉は次から次に飛び出し、それぞれに物議を醸し出す。しかし、暫く様子を見ていると、その実体が露わになり、張りぼての化け物のような姿に呆然とすることになる。これが何度となく繰り返され、その度毎に狂ったように踊り回る人々を見ると、そろそろ学習効果が現れてもと思うのだが、現実には踊ることが運命づけられた人には出るものはあっても入るものはないらしい。需給の均衡と説明される原理にしても、今世の中を牛耳っている力には、そんなことは無関係であり、ただ私利私欲に走る姿しか見えてこない。市場という制御不能な環境を最優先させる仕組みには、これを防ぐ手立ても、排除する力もない。ただ、闇に向かって走り続ける列車の如く、行き先知れずの箱の中から這い出る妙案も浮かんでこない事態となっている。にも拘わらず、更なる儲け話に流れようとする勢いは、緩む気配も見せず、次の生け贄を探し回る物の怪の如く、この惑星の上を縦横無尽に走り回っているわけだ。経済原理とは本当にこのようなものなのか、はたまた、違う姿を見せることがあるのか、誰にも分からない状況だが、こういう事態に陥ったときこそ、人と人との関係を再度考える必要があるのではないだろうか。法律での縛りが自由経済という仕組みの中では殆ど役に立たないわけだから、それ以前の問題に制動力を期待するしかない筈である。経済が人間の営みである以上、それに参加する人々の心の問題は、必ず関わりを持ち続ける。そんな中で、どんな所作が望ましいのか、内から出てくるものにこそ、意味があるはずだ。欲望を満たした後で、社会への貢献を考えるのは、結局は私利私欲の塊に過ぎないことは明らかである。