パンチの独り言

(2008年1月14日〜1月20日)
(煽動、甘言、排出権、疑心、迂遠、模倣、選抜)



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1月20日(日)−選抜

 ある時代、指示待ち人間の増加が一大事と捉えられていた。その話題はいつの間にか消えてしまったが、その理由の一つが手引にあるように思える。manual、所謂マニュアルをちゃんとした言葉に置き換えると手引となる。こういう時にこうすれば良いと書かれたものは、指示を待たずとも動ける人間を作る。
 まさか背に腹は替えられないと作られたわけでもないのだろうが、海の向こうから渡ってきた外食産業が運んできた教育法は、即席の課題解決として採り入れられた。その後の世の中の流れは、まさにこれに沿ったものであり、全てにおいて一対一の対応があり、答えが示せるかの如く受け取られた。さて、その後の展開を顧みると、同種の大きな問題が噴き出していることに気づく。一々指示を待つ代わりに、決まった行動に出てしまい、間違いが起きたのだ。手引は定型のものであり、定式であれば問題を生じない。しかし、少しでも違いがあると、そこに調整が必要となる。ところが、手引しか見たことのない人間には、他の世界など想像だにできぬわけだから、決められたことしか行えない。それが繰り返され、積み重なれば、差は広がるばかりで、余程の偶然でもない限り、良い結果を産むことはない。指示を待つことで、独り立ちできぬ人が目立つのも困ったものだが、一人勝手にあらぬ方に邁進する人が出るのも困ったものなのだ。事前に確認した手引を丸覚えし、その後の展開に注意を向けない人間には、予期せぬことが起きない単純作業はこなせるものの、人間を相手にするようなことはまずできない。そんな人間が増えてくるにつれ、それを修正しようと躍起になる人々が出てきたが、簡単にはいかないようだ。何処が問題なのかと考えるに、もしかしたら、そういう人間を修正しようとすること自体に困難があるのかも知れないと思えてきた。そう考えてふと思ったのは、全国的に実施される試験での不具合に関する話で、使った機械には殆ど問題はなく、操作法に問題があったとする報告があった。指示を待つ人間も問題だったが、今では指示を守れぬ人間が問題となっている。手引に頼るのと同じように、自分の思いこんだことを反復するだけの人間には、適応力は期待できない。そう考えると、この試験に対応できない人は、その次の段階でもお呼びでないのではないだろうか。万人に可能なようにとの目標は大いに結構だが、不適格者を排除することも重要な役割に思える。

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1月19日(土)−模倣

 学ぶは真似ぶから来たと言われる。人の真似をするのだから、その人と同じになれても、それ以上にはなれない。そういう見方をすると、おかしいと言う人が多いと思う。学ぶことは始めは真似ているとしても、そこから自分で考えることが出てくると思うからだ。では、周囲を見渡してみて、現実はどうだろう。
 昔から、学校を出てきたばかりの人間は役に立たない、と言われてきた。学校という閉鎖された中から、社会という開放されたところに出てきて、すぐに適応できるわけではなく、試行錯誤をしながら徐々に様々な能力を身に付けていった。そういう意味では、今も昔も、学校というところは即座に役に立つ人を作り上げる場所ではないわけだ。しかし、最近よく耳にする話は、少し様相が違ってきているように見える。つまり、その時には同じように役に立たないのだが、その後の展開が違っているということだ。身に付くはずの能力が、いつまで待っても身に付かないと嘆く若者が増えている。徐々に身に付いていくはずのものは、自然にそうなるわけではなく、個人の努力によるところが大きい。もしそうなら、嘆いている本人が何をしたのかが肝心なのではないだろうか。全ての人に当てはまるわけではないが、こういう人々に焦点を当てて取り上げることが多くなってから、問題を社会の中に探そうとする動きが急になった。しかし、よく見てみると、問題は受け手にあり、全ての答えが与えられ、それを真似るだけで良いと思うことがわかる。まさに、学校の延長がそこにあり、閉鎖された安心空間に居続けたい人間がそこにいるわけだ。この意識が変えられないかぎり、状況が改善されるわけもなく、そのために必要なことは社会の認識ではなく、個人の認識なのではないだろうか。このまま、彼らに対して責任を問うことなしに、環境整備を行うのは明らかな間違いなのではないだろうか。これと同じように、学校の中で社会に役立つことを教えるのも、別の意味での間違いと言えるだろう。ここでも応急手当ばかりが歓迎されているのだろうが。

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1月18日(金)−迂遠

 ゆとり教育に対する批判の声が大きい。実際に逆向きの提案がなされ、これまでの方針は大転換を図られるわけだから、批判の意味があったということだろう。しかし、何処に問題があったのかを明確に示したものは少ない。ただ単に、問題が生じたから問題なのだという、最近よくある論点なき議論に見える。
 ゆとりとは何かを論じても、この手の議論が進むわけではない。時間的なゆとりとともに、心のゆとりを標榜したのかも知れないが、どちらも手に入らなかったと受け取る向きが多いようだ。授業時間を減らすとともに、多様性を導入したことが、歪みを産んだ原因とされるようだが、時間と心の両方を目標とすれば、そうなるのは仕方のないことだろう。表面に現れたことを捉え、批判の的とするのは評論家の定石だが、実際にはその奥に潜む事柄を見抜けぬ無能力の表れとも言える。時間数の設定や多様な授業の導入、更には科目毎の目標設定などは、全てお役所が決めてきたことだが、それを実施するのは現場の人間である。多種多様な人間の育成を目標としているにも拘わらず、最小限の必要不可欠な能力を備えることを条件として採り入れたことは、逆の結果を産み出した。そのことを指摘する意見は殆どなく、誰にでも見えるものしか批判できない人間には、方針を示すことは難しい。そんな人々が寄り集まって、別の批判の矢に曝される思いつきの提案を続出させるのは、結果的には現場での右往左往を招くだけで、好転の兆しは見えてこない。問題の核心を突く意見が出てこないことには、解決の糸口が見える筈はないのだ。いずれにしても、学校が全てを教える場であるとの誤解を消し去らない限り、次の手立てが出てくるわけがない。本来、そういう類のことを話し合う場を設けることが重要だったのが、いつの間にか応急措置を編み出すのを責務とする場に変わってしまった。これでは、更に現場にかかる圧力が増すばかりであり、親という猛獣をなだめることに疲れた人々に救いの手は差しのべられない。この国が抱える最大の問題は、おそらくここにあるのではないだろうか。眼鏡をかけた人間同様、遠くが見えないという。

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1月17日(木)−疑心

 今の時代、平穏無事に生きるために何が必要なのか。安定した職や十分な資産とする人が多いと思うが、それを持っていたのに、いつの間にか失ってしまった人も少なくない。そこから見えてくるのは、何を持つかより、持っているものを奪われないことの方が重要であるということなのではないだろうか。
 奪われるという言葉は如何にも物騒な表現である。しかし、現実に起きていることの多くは、まさに奪われたものであり、それまで平凡な人生を歩んで来た人が、もう少し安心できる状態にと望んだことがきっかけになったものである。美味しい話に乗って、正反対の結果を手にしてしまったとき、被害者である本人は、初めて騙されたことに気がつく。売り言葉の中では、今より更に安定した生活を送るための手段として、ある程度の投資の必要性が説かれ、その実績の高さが示される。しかし、経済活動の常として、ある時期に実績を挙げたものが、そのまま継続的な利益をもたらすわけでないことは明らかで、今までがそうなら、将来に渡ってそうなるという保証は全くない。まともな話しでもこんな状況が当たり前なのに、それが詐欺となれば結果は明白であり、そういうものに首を突っ込まないことが一番の防御法となる。しかし、世の中では成功する人がおり、十分な儲けを挙げる人がいるわけで、その話が流れる度に、自分にも同じことが起きれば良いと思うのも無理からぬことだろう。そんなこんなで、結果的に騙されてしまったという人が出るとすれば、ただ単に触らぬ神に祟りなし、という考え方だけでなく、目の前に示されたものを吟味する力を付ける必要がある。何もかも素直に受け入れることが大切で、それが周囲に受け入れられることに繋がると信じている人には、儲け話を持ち込んだ人に対して、冷たい目や批判的な意見を向けることはいけないと思う人がいるかもしれないが、実際にはそんな考えが奈落の底に落とされる原因となることに気づかねばならない。本当に儲かる話ならば、自分の資金を注ぎ込めば良いわけで、そこで他人に話を持ち込むこと自体、何か怪しげなことがあるわけなのだから。疑い深いことが生きる手立てとなるのかもしれない。

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1月16日(水)−排出権

 金に飢えた人々が考えることは決まっている。それは、儲けるための手段を講じることであり、その為に新たな方策を編み出すことが重要となる。それが如何に優れたものであるかは、あとから何とでも取り繕うことができる。まずは、儲かる話を作り出すことから全てが始まるわけだ。そんなことがあるのだろうか。
 この話は逆に読んでいくと分かりやすいと思う。つまり、魅力的な投資話が持ちかけられたとき、その仕掛けはどんなものかを考えるわけだ。それがそれぞれの段階で上手に活用されるようなものであれば、当てはまらないことになるが、何処かに不可思議なところがあるときは、誰かが何かを仕組んだものかも知れない。経済活動を支える上では、こういう新規開拓は必要不可欠となる。なぜなら、経済成長は持続することが条件となるのに対して、それが適用される市場に限りがあるからだ。だから、市場の参加者に限度があったとしても、新種の投資対象を作出すれば、それが新たな成長を産み出す場となる。この論理は経済学者にとっては当然のものかも知れないが、現実社会においては、多大な歪みを産み出す元となる。全体的な成長が見込めない状況では、一部の人々が掠め取るための資金を、誰かが放り込む必要があり、被害を受ける人々を出すのが条件となっているからだ。こんな書き方をすると、経済活動そのものが諸悪の根源と主張するように聞こえるかも知れないが、そんな話ではないことに注意して欲しい。飢えた人間共が、ハイエナの如く振る舞い、弱者から巻き上げる場合に限られたことで、昔からある搾取層の話と何ら変わりがない。大きな違いがあるとすれば、政府や大きな組織がその先頭に立っていることで、それによってお墨付きをいただいた連中が、合法的な搾取を繰り返しているわけだ。需給の均衡から生まれる価値基準とは大きく異なる値がつく取引や証券化などによって新たな利益を産み出す仕組みなどはその代表であり、その歪みの行き着く先は全く別の所にいる人々である。温暖化の原因を減らす運動も、まさに現代的経済活動の坩堝の中にあり、権利売買が主要な行為となりつつある。如何にも平和的繁栄をもたらすものと謳われたものが、その実、利益を産む温床となっているわけで、その見方からすれば、どうにも矛盾に満ちたものとなる。そんなことに挙って参加することが、どんな意味を持つのだろうか。

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1月15日(火)−甘言

 人を騙すのはよくない、当たり前のことである。では、嘘も方便となるとどうだろう。嘘は騙すためのものだが、時と場合によってはということになる。正論は常に正しいのだろうが、それだけでは通用しないのが世の中の常、と言う人もいる。その一方で、論を展開することで人を欺く人もいて、複雑なものだ。
 如何にも理解しやすい言葉を並べて、相手を自分の調子に乗せるのが巧い人がいる。営業成績の良い人や組織を巧みに動かす人は、こんな才能を身に付けていると言われる。平易な言葉でも、正論を展開する人がいる一方で、一つ一つの要素はまともでも、その繋がりには無理がある論を展開する人もいる。そういう人の中には、明確な目的を持って相手を騙し、自分に有利な展開を招こうとする人がいるのだ。経済活動は、個々の集団が互いに関係を築くようになると必要となる。自給自足の集団には、他との交流の必要はなく、独立することができるが、他との関わりを持たねばならない集団は、何らかの形で交易を行う必要があり、そこに経済活動が生まれる。ある時代までは、集団を率いる人々が様々な制限を設け、これらの活動を制御下に治めていた。ところが、集団を構成する個人の力が増すにつれ、制限は徐々に取り除かれ、自治に似た仕組みが成立してきた。市場原理と呼ばれる考え方は、そんな変遷の中で生まれたもので、上から押しつけられた制度でなく、自分達の中から出てくる動きが基本となる。響きも含めて、参加者の自立性を促す仕組みは、多くの賛同を得て、社会に受け容れられているように見える。しかし、このところの経済停滞が、まさにこの仕組みから産み出されたものであるとしたら、どうだろうか。需給の均衡とは無関係に動く相場、証券化によって影響の範囲が拡大した融資破綻、どれもが市場原理に則ったものとして賞賛されていたものばかりだ。特に、金融商品と呼ばれる代物は、単純に金銭の取引を行うだけでなく、そこに更なる利益を産む絡繰りを導入した。今や、環境保全も商品として扱われ、経済の魔術をかけられている。これら全てが、響きのよい言葉によって始められたものの、いつの間にか破綻の憂き目に遭うことになるのではないかと心配するのが、停滞の原因となるとする向きもあるが、さて、どちらが正しいのか。甘い言葉に騙されてはいけない。

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1月14日(月)−煽動

 ここ数年の鍵となる言葉は、不安を煽る、ではないかと思っている。月並みすぎて、誰にも振り向いて貰えそうにないけれども、実際には、かなり重要な見方だと思う。個人の心理も、それが集まった群集心理も、満足感とか、高揚感とか、正の方向に働くものより、不安感という負に働くものに影響されるからだ。
 心理分析が整うにつれて、戦略は複雑化しているのは事実だが、根底にあるものは大衆の心配する心だから、そこさえ見極めておけば、対処法は容易に見つかる筈だ。しかし、様々な事態を想定して、その中でも平静を保つ訓練をすることが、その条件となるだけに、全ての人々にそれを要求することは困難である。ここでは、情報の流れを中心に取り上げるが、全ての情報をその源から直接手に入れられる人はいない。誰しも、不特定多数の耳と口を経て、吟味された情報を入手するしか方法はない。その中で重要な因子として考えられるのは、情報伝達を生業とする人々の関与である。彼らは、他の職業の人に比べると、格段に関与の頻度が高く、吟味を通した影響力も大きいと言える。つまり、取捨選択をしようと思えば、思いのままにと言っても過言でないわけだ。但し、多くの人が関わる職業だけに、一個人や少数の思惑がそのまま表面に現れることは少ない。これがある意味の歯止めになっていたわけで、複数の手を経た情報を眺めることにより、様々な見方を採り入れることができた。しかし、この状況は既に過去のものとなりつつある。情報源が思惑を込めて流したものを、裏も取らずに垂れ流す人々が増え、受け手に見極めの能力が備えられなくなったとき、不安情報ほど早く正確に伝わるものはなくなった。そこに付け入る隙を見つけた人々は、情報操作を最重要課題として考え、その為の戦略を組み上げることとなった。この図式が成立するのは、仲介者の存在だけでなく、受け手の吟味力の喪失が条件となるが、同じ状況が継続したことが条件成立に役立ったようだ。それだけでなく、情報仲介に関わる人々が、放送様式の変更に伴う広告の中で、物事の順序を逆転させるような言動を繰り返しているのを見ると、自らその先頭に立とうとする意欲が表面化していることに気づく。ここまで来たら、末端の判断が唯一の手立てとなるが、さてその担い手にその気はあるのだろうか。

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