パンチの独り言

(2008年1月21日〜1月27日)
(税収、明暗、再生、拘泥、余地、遵法、中毒)



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1月27日(日)−中毒

 人と人との繋がりが希薄になったと言われる。個人で楽しむものが増え、人が集まって楽しむものは見向きもされない。一時はそんな雰囲気さえ漂ったが、今はそこまで言われることはない。個人遊戯の先頭を走っていた機械が、その汚名を返上しようと仕掛けた試みは成果を上げ、家族の繋がりが戻ったように見えるからだ。
 画面の向こうにある仮想空間が現実になるかどうかは誰にも分からない。広告で意図した光景が各家庭に広がっているという保証は何処にもなく、表面に現れているのは売り上げの伸びに過ぎない。それでも、停滞が続く業界で、爆発的な成長を見せた商品は、何かしらの魅力を備えていたに違いない。ただこれが、個人から家族への回帰を示す証となるかと言えば、ことはそれ程単純ではなさそうだ。ネットという仮想空間を介した対戦形式も、若い世代に大きな影響を及ぼし、国によっては社会問題にまで発展している。目の前にいる相手との争いを避け、何処の誰とも知れない相手との戦いに寝る間も惜しんで入れ込む人々には、社会の歪みが押し寄せているのではないだろうか。世間的には従順で、大人しく、優秀な人と映っていた若者達が、自らの不平不満の捌け口として、世間とは隔絶された世界に救いを求めたとしても、仕方がないとの見解もある。しかし、これらの人々は、世間を相手に芝居を続けてきただけであり、そのしわ寄せとしての欲求の発散を、理解してやる必要はあるのだろうか。要するに、理解のある大人であるべく演技を続ける人々には、これらの若者と同じような鬱積があり、同じような発散を違う形で求めているだけに過ぎない。こんな関係を成立させるような社会は、早晩崩壊する運命にあるから、この辺りで荒療治が必要となるのだろう。画面のこちら側での関わりを少しでも促進しようとする動きは、そういう見方からすれば歓迎すべきものなのだろうが、根幹となる媒体の問題として捉えると、その考えを受け容れることはかなりの危険を伴う。所詮遊びに過ぎないと放置した結果が、隣国での若年層の崩壊に繋がったとすれば、一般大衆にとっても少しは目を向けておいた方が良いものなのではないだろうか。

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1月26日(土)−遵法

 表示偽装などの違法行為が話題になる度に、企業の姿勢が問われる。その際によく使われる言葉に、コンプライアンスがある。本来、complianceとは応諾、従順という意味だが、カタカナで使われる場合は法令遵守という意味となる。企業活動には様々な制限があり、それを定めたものが法令となっている。
 法令があればそれを守るのが当たり前、と気楽に思う人がいるが、では、そういう人々は交通法規を遵守しているかと言えば、必ずしもそうではない。自ら安全を確認したとか、法定速度では流れを乱すとか、注意されても屁理屈をこねる。ただ、一方では交通法規の全てが合理性に基づいているわけではなく、首を傾げたくなるものが多いから、こんなことが起きるのかも知れない。身近な規則については、一般大衆でもある程度の判断が下せるが、企業活動にかかる規則となると、一般常識に照らし合わせた合理性があるかどうかの判断が難しい。しかし、大前提として法令があるわけだから、それを守ることは義務づけられるとなる。違反を犯すと、様々な制裁が加えられ、罰金だけでなく、社会的な名誉を失うなどの制裁も含まれる。以前は、違法行為をしてもひた隠しにし、公に知られないような努力をしたところもあったが、最近は、閉鎖的な組織を開かれたものにする努力がなされ、批判を承知で発表するところが多くなった。ただ、こういう仕組みが法令遵守を推進しているかどうかには疑問が残る。それ以前の段階で踏みとどまらなければ、守るという行為は達成できず、謝るという行為とは引き替えにできないからだ。この問題を取り上げるところもなく、コンプライアンスを最重要課題とすることが全てのように扱われているが、どこかずれた感がある。また、一方で、法令そのものの妥当性を議論することもなく、一度定められたことは中々見直されないことも大きな問題だろう。不自然な規則だけでなく、その適用範囲の逸脱は、更なる混乱を引き起こす。好き勝手を許さないという姿勢は評価でき、だからこそ線引きの妥当性が重要となる筈だ。ところが、他人に対する批判が自分を守る手段として使われる世の中では、不当な制限が横行する結果となっている。厳しい規則を作る一方で、抜け駆けを許すような仕組みは、どこかに大きな欠陥を抱えているに違いない。

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1月25日(金)−余地

 思い付く限り、手当たり次第に走り回る人がいる一方で、只其処に座ったままの人がいる。どちらが功を奏するのか、現時点では誰にも分からない。一つだけ言えることは、救いを求める人々にとっては、前者が魅力的に見えることだ。効果の程は不確かとしても、何かをしてくれたことは記憶に残るのだから。
 一般的に人の上に立つのは、慌てふためき失敗を繰り返す人より、泰然自若として落ち着き払っている人の方が適していると思われている。適切な策が見いだせない中で、前者は次々と失敗を繰り返すのに対して、後者は余分な失策をしないからだ。しかし、本当に見通しが立たない中で、動きがとれずにいるだけだとしたら、その人々に指導者としての資質があるとは言わないだろう。経済の停滞が明らかになりつつある中で、海を挟んだ二つの大国の宰相はここにあるような対照を見せている。世界が緊密に結びついている時代に、個々の国の政策が影響を及ぼせる範囲は小さい。特に、応急措置的な対応策では、限られた範囲内しか効果が期待できない。そんな状況下でのこの違いは何を意味するのか、蜂の巣を突いた状態の市場からの議論は的外れにならざるを得ないだろう。もう少し落ち着いてからでも良いから、こういう場での対応についての総括を行うべきだろうが、これまでの経緯からして、こちら側には期待できそうにもない。そんな中で敢えて、ここに至るまでの経過を顧みると、お互いの立場の違いが明確になり、対応の違いが其処から出ていることが分かる。確かに、厳しい財政事情にあり、経済も冷え込んでいた事実はある。しかし、その後の自然回復から、十分な体力が備わったことが明らかになった時点で、政策転換を断行する勇気を持つべきだった。今の状況では、減税や利下げという一般的な対応策を講じる隙間がなく、身動きがとれないことだけが明らかである。そうなれば、中身のない馬鹿げた号令をかけるより、只悠然と構えることの方が効果があるかも知れない。もし、そんな思惑でここまでの展開があったとしたら、やはりその場限りの対策ではなく、長期的な視野に基づく政策の立案を真剣に考えるべきだろう。人気取りに走ることが、国策としては何の意味も持たないことを認識し、方針転換を図ることが、最優先なのではないか。

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1月24日(木)−拘泥

 世の中を達観して分析する人がいる。金で買えないものはないと言ったとされる人物は、現状では過去の人となった。そこまで極端でなくとも、効率が全てという話は此処彼処にあり、その通りだと思っている人もいる。何事も効率化を抜きにして向上は図れないが、それが全てとする意見には経験不足が見え隠れする。
 人との違いを際立たせたり、目標を定める上で、同じことを如何に素早く、確実に行うかは重要となる。それを効率化と呼ぶことに反対する気は毛頭ないが、世間で言われているものは必ずしもこの範疇に収まるとは思えない。それより、無駄を省くといった匂いが強く、適用範囲を狭め、確実に行えることだけを実施することを重視する。一見正しく思えることだが、完成品の生産だけに限れば当てはまるものの、将来を重視した計画には、大きな制限をかけることになる。多種多様なことを目指す場合には、目的に直接見合わないことにも注意を向ける必要があり、その軽重によって成否が決まることが多い。成熟した社会では、更なる成長に挑むより、現状維持を心がけた方が無難であるように見えるので、世間ではそちらに目が向いているが、それは維持どころか、衰退に繋がることに気づかぬ人が多い。数字の上での成長には当然限界があり、量という指標での増加は早晩止まる運命にある。ここで別の見方が必要になることは、多くの人々が指摘しているにも拘わらず、中々理解されることがない。つまり、量から質への転換である。金銭的な指標に拘る人々には、量は理解しやすいものの、質に対する理解は殆どない。金そのものの質は同一であることが前提となっているからだ。しかし、その他のものを考えると、ある時期に金銭的には同価値の物でも、次の瞬間には大きな差を示す物もあり、それが質からくるものと考えることもできる。更に、身の回りを見渡してみると、それぞれに質の違いを実感できるものは多くあり、その恩恵に浴していることもある。そういうものを全て排除して、効率化を図ることで、生活が豊かになると信じている人がいるとすれば、人生における経験が不足しているとしか表現できない。一時の勝ち負けに拘り、将来を見誤る人の多くは、こんな物差しに振り回されているのではないだろうか。

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1月23日(水)−再生

 環境のことを考えて、様々な対策が講じられている。しかし、それらの間で矛盾する点も多く、個々の問題を解くことだけを考えていたのでは駄目なことがよく分かる。たとえば、油のこびり付いた食器を洗う前に紙で拭き取ることは、水の浄化に繋がるが、パルプの生産を増し、森林破壊に繋がるという考え方だ。
 この問題については答えが出ているようで、価値を比べれば、紙を使うべきとなる。このような比較を必要とする問題が多く、単純な見方は間違いを産む。再利用についても、一部のガラス容器のように簡単な洗浄後に使えるものなら問題は起きないが、破砕後に再生するガラスも含めて、工程が複雑になるものは、必ずしも環境保全に繋がらない可能性が出てくる。その上に、再生にかかる費用が新たに作るよりも高くなる場合、環境に対する影響の大きさとの比較も必要となる。謳い文句は煌びやかだが、実体は地味で複雑なものであるから、表面的な尊さだけを捉えるだけでは不十分ということだ。更に問題を複雑にしているのは、回収効率と呼ばれるもので、再利用を継続するためには重要な要素となる。特に、最近話題になっているものに、古紙回収がある。回収業者の違法行為も問題だが、古紙の価格の上昇とそれを利用する再生紙の原料不足の問題である。環境対策を講じる企業が資格として獲得するものには、企業内から出される廃棄物の再利用が義務づけられており、最も注目されるものに再生紙の導入がある。ゴミとして捨てないで、回収、処理して、再生紙として利用するわけだが、葉書で話題になったことからしても、この業界が期待通りに動いていないことがわかった。となれば、環境に対して思惑通りに働きかけていないことになり、仕組み全体が破綻を来すことになる。葉書に始まった不祥事が、何処まで波及するのか容易には見通せないが、この現象はこういった問題が単純でないことを明らかにしている。どの事業所も再生品の利用を環境対策の柱に据えてきたが、こんなことが度々起これば、対策の根幹を揺るがすものになるだろう。対策のための対策という入れ子構造を作るのも一つの方法だろうが、複雑化が進むだけで解決には繋がりにくい。ここは、根本問題としての倫理観に立ち戻る必要があるのではないだろうか。

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1月22日(火)−明暗

 海外旅行に出た時に、気がつくことが幾つかあると思う。人それぞれであることは確かだが、特に欧米への旅行では、食事をする場の雰囲気の違いに驚いた人も多いと思う。入り口に本物そっくりの偽物が飾られていないのは当然だが、中に入ってから気がつくのは、照明の暗さである。メニューが読めない程のところもある。
 食事は味だけでなく、雰囲気や色で楽しむものと言われていて、その為には成る可く明るい方が良いと言える。しかし、その一方で自然色でなく、変に偏った色具合になる照明では、却って台無しとなることも多い。ただ、電灯を作る側も様々な工夫を凝らしており、最近は明るく自然に近い色が出る照明が普及してきた。そのせいもあり、国内では明るい雰囲気の中で食事をするのが当たり前となったが、海外に出ると事情が一変する。色の鮮やかさを重要視するものならば、そうはならないのだろうが、そちらに対する配慮があまりない状況では、少々暗くても構わないというのだろう。不慣れな人々にとっては、時には何とも味気ない食事となる。ある意味、慣れというのは恐ろしいもので、こんなところにも一種弊害のようなものが出てくる。しかし、別の見方をする人もいる。明るさの追求と言っても、今求められているのは余りにも明るすぎるのではないか、というものだ。何もかもが照らし出されて、さらけ出された状況では、雰囲気にのめり込むことができず、却って楽しめなくなるというわけだ。慣れされてしまった人にとってはそんなものかと思う程度だろうが、慣れることのできない人には大きな問題なのではないか。光の影響は常に大きく、明るくするだけで隠し事は減るだろう。ただ、その代わりに失うものもあり、程度問題とされるところもある。この話を聞いていた時、ふと思い当たったのは、知識に当てる光のことで、若者達の探究心との関わりである。全てに光を当て、全てを教え込むことが、最近の流行だが、暗い部分を残すことの大切さを説く人もいる。それが知りたいと思う心を育て、全体的な意欲の向上に繋がるというわけだ。何もかも親切に教えるのではなく、時に盗むことが大切とする人たちも、何処か共通点を持っていそうだ。明は暗と共にあるから際立つのであり、全てが眩しく輝いてしまっては、大切なものを見失うことがある。

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1月21日(月)−税収

 鶏か卵か、その手の議論は何処にでもある。本来の考え方のどちらが先だったのかが論点の場合とは別に、どちらを先に行うかが論点の場合があり、先行きを占う上で重要なことが多い。その割には、議論だけに終始し、結論を出せぬままに時が過ぎることも多く、議事進行役の無能ぶりが目立つ結果となる。
 会議などでは進行役は議長と決まっているが、巷の論議ではその役を負う人を特定できない。その中では、出される意見によって議論の進む方向が決まる場合が多いのではないだろうか。となると、誰がどんな意見を出すかが重要になる筈で、多種多様なものが出てくることは意味を持たない。当然、施政者の意見は最重要で、方針を決めることとなるが、それが必ずしも正しいわけではないことに注意しなければならない。同じ目的を持ったものでも、二つの手法のどちらを選択するかによって、経過や結果が異なってくる場合が多い。それが政治の決断となれば、関係する市民全体に影響が及ぶこともあり、他人事では済まされないこととなる。ついこの間まで絶大な人気を誇った内閣は、その分岐点において、人気を保つことが約束された選択を行った。国民により多くの税を要求する前に、効率化を図る方針をとったわけだ。一見魅力的に思えた政策も、その後の展開を分析する限り、当初の輝きを失っている。効率化はあくまでも同等の水準を保てることが前提であり、それが実現できなければ、元も子もない。如何にも社会の歪みによるものと思われる事件も、その多くがこの方針と関係するという見方をすると、何となく見えてくるものがありそうである。個人的には依然として人気を保っているように見える人々も、実際にはその悪影響に気づき、目立たぬ程度の修繕を施そうと暗躍しているところにも、そんな影がちらついている気がする。税の増減を安易に行うべきでないことは確かだが、だからといって、人気取りに走るような行為は慎むべきだろう。スリム化が不要というのではなく、財源の確保も同時に図るべきという意見を、きちんとした論理に基づいて出すことが、こういう状況下では必要なのではないだろうか。

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