パンチの独り言

(2008年1月28日〜2月3日)
(迷惑、巧言、異状、逃亡、商魂、困惑、有用)



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2月3日(日)−有用

 世の中は弱者保護が叫ばれる一方で、格差拡大を推し進めようとする力が働いている。差別化を図ると言われると、抵抗を覚える人も、手に職をつけるとか資格を取ろうと聞くと、ふと興味をそそられるのではないだろうか。建て前と本音ほどには差がないかも知れないが、無意識的に心が動かされているのではないか。
 同じようなことは、別の場面でも起きているように思える。たとえば、道具や知識の話題の中で、役に立つという言い回しを頻繁に使うことがある。自分にとって意味あるものかどうかの判断基準として、こんな尺度が用いられるのだが、使われる頻度が余りに高いように思う。それも、判断を自分で下せる年代だけでなく、まだ色々なことの区別が付かない年の子供達が、その場や自分の将来に役立つものかどうかを考えている様子を見ると、どこか焦点がずれているように思えてならない。その理由を考えてみると、役立つという言葉の意味が、直接的な適用に限られたもので、誰もが即座に思い当たるものであることが、大きな要因になっていると思える。文字を覚えるのは読み書きのため、と考えればそうだろうが、読み書きは何に結びつくか、更にその先は、と派生先を考えていくと、きりのないことに気づくだろう。しかし、子供達も含めて、世の中の趨勢は一歩目が全てとなっているのだ。何とも情けない、そして深みのない考え方だが、まるで商品販売のように、目の前で欲求を呼び覚まさせなければ意味がないということなのだろう。これ自体に意味がないとまでは言わないが、役に立つかどうかを見極めることはそれ程重要なのだろうか。道具は確かにその通りだが、知識にそれが当てはまるとは思えない。更に言えば、こういうことを重視する人々に問いかけたいのは、ではあなた方は社会にとって、何の役に立っているというのか、ということだ。子供達も含め、そのことばかりに心が奪われる人には、是非、外から自分を見つめて欲しいと思う。そうすれば、どんなに的外れなことに目を向け、とんでもないことを主張していたことに気づくだろう。格差拡大も、自分達の中から生まれた代物であることが分かるのではないか。

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2月2日(土)−困惑

 KOBAN、こう書かれていたら、どう読むか。普通にローマ字読みすれば、こばんとなるから、小判となるに違いない。しかし、現実には違う言葉として使われているのだ。この国に特有の施設であり、街角に建っているものである。以前は、治安の良さの象徴と捉える向きもあったが、最近はそうでもないようだ。
 このように、読み方が複数あることは、情報を混乱させる要因となる。にも拘わらず、この国の役所は頑なにこの方式を守ろうとしている。パソコンを使った文字入力が普及するにつれ、この矛盾を指摘する声は大きくなっているが、一向に改める動きは起きない。何故なのか、理由は全く分からないし、例の如く、余りに下らない理由なので、発表するのも憚られるほどなのではないか。始めの例に戻れば、小判と入力するために多くの人はローマ字入力でKOBANと打ち込むだろう。一方、交番と表示したければ、KOUBANと入力しなければならない。これは、ひらがなでの表記を見れば一目瞭然であり、こばんとこうばんでは、全く違ったものとなるわけだ。では、何故にアルファベットでの表記が同じである必要があるのか。一説には、英語圏ではどちらの発音もあり得るから、というのが理由だとされる。では、この説明で納得して、混乱は解消されるものだろうか。そう思う人はおそらくいないだろう。たとえ、どちらも同じ綴りになるとしても、受け手の混乱を招くことは避けるべきではないか。この問題の興味深いところは、それぞれ違う言葉を相手にして、発音からどんな綴りが連想されるかを考えた部分にあるのではなく、それを一頻り済ませたあとで、不具合の調整を図ったとは思えないところにある。如何にも役人のやりそうなこと、と思う人も多いだろうが、そこまでの不手際は浅はかな人々によくあることだとしても、それを改める気のない態度はいかがなものだろう。今変えては却って混乱を来す、という意見も聞こえてきそうだが、その論法自体が御都合主義によるものであり、自らの仕事を増やしたくないという魂胆が明らかなのではないか。

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2月1日(金)−商魂

 客商売、接客業は大変だと言われる。企業で営業職は敬遠されることが多いのも、どこか似た所があるのかも知れない。二十年くらい前ならそんな感じだったのだが、最近は様子が変わってきた。客商売が楽になったという意味ではなく、客を相手にする商いの範囲が広がったという変化である。あれが、と思うほどだ。
 身近な所で言えば、学校は様変わりした。教育を施す場に商売は馴染まないはずが、今では児童、生徒、学生が客のように振る舞う。いくら何でも言い過ぎなのだが、そんな雰囲気の所も確かにある。他にも、役場が変わったように思う。住民サービス、という言葉が罷り通るようになったことがまさにその実態を表している。では、これらの場所で行われている商いはどんなものだろうか。何が商品となっているのか、対価は見合っているのか。本来の商いであれば、その辺りの説明が欠かせないはずだが、日が浅いこともあり、納得できる返答は戻ってこない。今後更に浸透すれば、当然のこととなると言う人もいれば、やはり今の流れは間違っており、今後は反動が起きると言う人もいる。どちらが正しいかを問題にするのは本質的なことではなく、肝心なことは今の状況自体が正しいかを問題にすべきだろう。時代の潮流として、世の中の全てのものは金銭価値に置き換えられると考える人が増えているが、その弊害が此処彼処で生じている。そう信じていた人でも、何らかの影響が及ぶと、急に考えを変えるのを見ると、どこかに間違いがあるように思える。人の命はお金では置き換えられないと言われて育った世代からすると、この考え方は身の毛もよだつほど恐ろしいものであり、現実にほんの僅かな金が絡んだ殺人も頻発している。金銭が全てという感覚の持ち主が、どれ程の人格者なのかを知る術はないが、客と主人の関係に始まる商売感覚が、この問題と同じ根っこを持つとしたら、恐ろしいことに違いない。社会全体がそんな偏った方に向かっているとしたら、反動が必要であることは間違いない。そんな屁理屈をこねるまでもなく、一人一人の人間が正常な平衡感覚を持って、修正をかけているのなら、大したことにはならずに済むのだが。

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1月31日(木)−逃亡

 放火とひき逃げ、最近話題になる事件が多いようだが、共通点はなんだろう。一番のものは、現場を立ち去ることである。その点で、犯した罪そのものも問われるが、その後の対応がその重さを増すことになる。ある人々に深刻な被害を及ぼすだけでなく、その程度を強める行為は弁解の余地無しと言われる所以だ。
 特に、放火はどのような精神状態にあるにせよ、積極的な行為によるものだから、言い訳などあるはずもない。一度味を占めてしまうと何度も繰り返すことは、まるで麻薬の常習性のように見えるが、精神的には同じ機構が絡んでいるのかも知れない。罪の重大さより、自らの悦びを優先させる心理は、倫理という観点からは理解しがたいものだが、精神が崩壊していると見れば、人間として扱うこと自体が憚られると言われるのも無理のないことだ。ある意味積極的な犯罪である放火に対して、ひき逃げはどちらかと言えば消極的なものと見なすことができるかも知れない。この見方は事件のきっかけという部分にかかるだけのことで、その後の展開には別の見方を当てはめなければならない。重大な自動車事故を引き起こしたあと、事後処理を施すかどうかが分かれ目になるが、動転している人間の中には判断を誤る人がいるわけだ。良心の呵責という点から、落ち着いたあとに自首する人もあるが、多くはそのまま忘れ去ろうとする。記事を鵜呑みにすることは避けたいが、先日時効直前にひき逃げ犯が逮捕されたと報じられた事件は、信じがたい要素が含まれていた。ある記事によれば、家族と食事に出かけてきた幼児が死亡したひき逃げ事件であり、逮捕された容疑者も家族と共に出かけていたとある。これだけで判断するのは無理があるとはいえ、これが事実ならば驚くべき要素が含まれていることになる。つまり、ひき逃げを起こした人間を家族が長い期間庇っているわけで、ただ一人の人間の判断によるものではない、ということなのだ。一人の人間の判断は身勝手な結果を産む場合もあると思うが、たとえ家族と雖も、複数の人間によってこのような判断がなされるとしたら、とんでもないことと言わざるを得ない。その後の報道がなされていないだけに、誤解に基づく情報だったのかも知れないが、心に強く残る話だった。

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1月30日(水)−異状

 冬は天候の変化に敏感となる。温度の上下も大きな要因だが、なんと言っても降雪を気にする人が多いだろう。雪が当たり前の地方に住む人たちにとっては、何とも滑稽にしか見えないだろうが、そうでない地域の人々はほんの少しのことで大慌てとなる。要するに、慣れの問題なのだろうが、心の準備も関係する。
 では、雪さえ降らなければ大丈夫か、というとそうでもないらしい。雪になるはずが雨となり、一安心する人もいるが、その後天候回復すると、別の危険が襲ってくる。雪は元々氷の一種だから、それが固まればどうなるかを想像するのは難しくない。しかし、雨は水なのだから大丈夫と思う人が多い。水の温度を下げれば凍るわけで、それが路面で起きれば車も人も氷上のダンスを余儀なくされる。早朝に車を見て、水滴が凍っていたら、同じことが路面で起きていることを想定すべきだろう。たとえ、交通量が多いところでも、橋の上など他所よりも温度が下がりやすいところは要注意だ。そんな朝には、各所で渋滞が起きる。いつもと違うなと思っていると、現場にさしかかりなるほどと納得するわけだ。そこに至って、気を引き締めることとなるが、暫くすると忘れてしまう。普段からそういう環境に生活していないと、どうしてもこんなことになるわけだ。慣れることの大切さはあるが、一方で、普段と違うところに注意する気持ちを無くしてはいけない。環境を整えることで快適な生活を目指してきた人間にとって、自然の驚異とは予期せぬことが起きるところから来ている。しかし、慣れることからだれることに繋がり、緩んだゴムのような感性を持つようになってしまうと、単に自然と対峙することが難しくなるだけでなく、周囲の人間との関わりも正常に保てなくなる。そういう見方をすると、天候の急変などの自然の営みと、時に向き合うことも重要と思えてくる。流石に、それを訓練と見なすのはやり過ぎと思うけれども。

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1月29日(火)−巧言

 言葉は不思議なものだと言われる。辞書を調べても、そこにあるのは一つの意味なのだが、現実の世界では、それを発する人や受け取る人によって、明らかに違った雰囲気が含まれる。たとえ、表面的には同じ意味でも、快く感じられる場合がある一方で、不快にしか思えないことがある。何が違うというのだろう。
 その一方で、極端な意味を持つ言葉を意図的に使うことで、相手を混乱に陥れる人々もいる。人心を操作するなどと言っても、最近は疑いを抱く人の方が多いと思うが、巧みな演説で人気を手に入れる政治家は、その最たるものではないだろうか。こんな具合に、言葉は意図的に使うこともできる代わりに、意図とは違った結果を産んでしまうこともある。何とも皮肉なことだが、それまでの巧みさに自分自身で酔ってしまい、失言を繰り返す人々がいるのは、興味深いことである。目立ってはいけないと根拠のない戒めを吐く若者がいる一方で、過激な発言で耳目を集める若者がいる。彼らは、自分の思い通りに事が運ぶように、手練手管よろしく、心理的な揺さぶりをかけるわけだが、一つ間違えば、人を欺く行為を繰り返すことになる。そこから直接的な被害を及ぼすことも多く、無責任な発言が問題となるわけだ。しかし、これらの言葉は口から発せられたものだけに、直接的な責任を問うことは多くの場合難しくなる。ただ、文字として発信されると、事情が一変する。文字は、書いた本人の責任を明らかに示すものであり、それが悪影響を及ぼしたとすれば、それに対する責任を負う必要が出てくる。ネット上で、個人の特定ができないことを利用して、こんなことを繰り返す輩もいるが、時に、目立つことを目的としたとしか思えない人が登場する。彼らの意図は理解の範囲を超えていると思うが、個人の欲求を満たすためだけの情報が万人の目に触れることは、情報氾濫社会において重要な問題となる。確かに、こういう犯罪を未然に防ぐことも大切なのだろうが、情報発信そのものに責任を負わない組織によるものに対しては、容易なことではないだろう。それより、一般大衆が常識的な判断をすることの方が、余程簡単なことではないか。一部にしか通用しない常識をかざす人々には難しいのかも知れないが。

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1月28日(月)−迷惑

 独り言を書くために、この管理サイトを開く度に、メールをチェックする。毎回、10通ほどのゴミメールが届いているが、開くこともなく捨てる。多くのものは偽情報だし、スケベなものも沢山ある。性別を無視したものも多くあり、一種無作為攻撃に似たところがある。仲間以外は全て敵と言っているようだ。
 無作為であるのは何故か、簡単なことなのだ。人間が入り込む余地が無くなれば、そこには作為も無くなる。機械が行うことは、始めに想定したこと以外には、何らの調整も図られないからだ。このアドレスにメールが届く理由も簡単なことだ。その仕組みを知らなくても、サイト上に掲げられたアドレスを拾い上げ、自動的に発信するソフトが出回っていると聞く。不特定多数を相手にする業者にとって、便利な代物なのかも知れないが、これは不動産売買の勧誘電話を繰り返す悪徳業者と同じで、正当な商売の様式ではないし、無駄の多いものである。本来ならば対価計算がなされるはずが、網目の発達によって経費が無視できるほどになったことで、省かれてしまっている。しかし、大いなる無駄という点は実際には無くなっていない。何故なら、受信側にとって、肝心な情報を選び出すために余計な労力を必要とするからだ。昔はさほど問題にされなかった勧誘郵便も、最近は厳しく追及されるようになった。個人情報の管理が厳しくなり、情報収集が難しくなったからだ。にも拘わらず、電話とネットによる勧誘は増えるばかりという状況は、何故だろうか。おそらく、発信元の特定が行えない仕組みになっていて、違法行為が野放し状態にあるからだろう。掲示板の書き込みもそれに似た状態にあり、ここも先日までは海外の非合法サイトを介しての書き込みが頻繁だった。要するに、顔さえ見えなければ何でもありという考えが蔓延り、それが見過ごされていることに大きな問題がある。縛りを厳しくしたとしても、抜け道を見つける人々が暗躍するだけであり、イタチごっこは永遠に無くならない。何が大切なのか、個人個人が考えるべき時代なのだ。

(since 2002/4/3)