パンチの独り言

(2008年2月4日〜2月10日)
(抑止、代替、低頭、解析、媒体、手軽、暢気)



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2月10日(日)−暢気

 自分に関係あることを悪く書かれると、誰でも腹が立つものだ。いつも、謙遜してみせる人でも、はらわたは煮えくりかえっているに違いない。他人の話なら看過できるが、自分の話はそうはいかない。この傾向は、最近とみに目立つようになってきた。仲間の噂話にまで、立腹するようでは困ったものだ。
 悪い話の多くは、根も葉もないことなのだが、時には、忠告もある。まずはじっくり耳を傾けてから判断しても遅くはないだろう。その辛抱が無くなった、と言ってしまえばそれまでだが、このところ、他人の話を半分も聞かないで、怒り出す人が多くなった。若い世代に多いのかと思えば、実際には年寄りの方が目立つようで、若気の至りと片付けられないところだ。特に、金の絡んだ話には、怒りが付き物であり、言った言わないから始まって、とことん責任のなすり合いとなる。経済の話は学問としてみれば、少し離れたところにあるようだが、実際にはその真っ只中に浮かんでいて、あれこれと批判の矢が飛んでいる。前にも書いたように、学問としてみれば、大したことのない、という件も、人によっては怒りを覚えたのではないだろうか。この話の解釈は正反対であり、実際には殆ど、というよりも、全ての学問が同じ問題を抱えているのだ。一般の人の誤解が元で、被害を受けているのは直接的に関係のある分野となり、経済はその先頭を走っているだけのことだ。物理学も数学も、お高くとまっているように見えるが、多くの場合は現象の説明に終始する。人々が期待するような予測にまで考えが及ぶことは殆どなく、その多くも見事に外れる運命にある。フェルマーやポアンカレという名前くらいはどこかで聞いたことがあると思うが、それらに纏わる話も、歴史的な大事件という扱いがなされても、それは納得のいく説明が行われたということだけであり、それを破るような何かが見つけられたわけでも、その先の更なる予想が出されたわけでもない。学問とは所詮形式の整った説明のためのもの、という人がいるが、強ち間違いとは言えないのだ。それに精を出す人々がいて、世の中がその悦びを受け容れているのは、何とものんびりとした世界ではないか。そのくらいで留めておくのが良いのかもしれない。

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2月9日(土)−手軽

 世の中が不安定になり、将来に対しても見通しが立たなくなると、人の心が荒んでくるらしい。興味深いのは、これが全ての人に当てはまるのではなく、ほんの一部の人だけが該当し、その一部が大きな問題を引き起こすことだ。夜に外出したくなくなるようにするには、ほんの僅かな犯罪者だけで十分なのだ。
 世の中の荒廃を問題視する声は徐々に大きくなっている。倫理観の欠如、私利私欲の台頭、兎に角、他人との関わりが希薄になり、よく言えば独立独歩、悪く言えば弱肉強食といった感じさえしてくる。そんな中で、度を過ごした人々を取り締まり、悪事を未然に防ぐためのものとして、法律が定められることになる。このところ、そんな流れが定着しつつあるが、未だに荒廃の勢いが衰えないように見えるのは何故だろう。犯罪者が次々に登場するのは、こういう時代だから仕方がないとはいえ、その為に設けられた法律が効果を上げない理由はどこにあるのか。おそらく、倫理が先に立ち、それを文章化したものが法律だと解釈すれば、倫理のないところに、法律は効力を持たないとなるのではないか。心の問題は、別の方面から注目されているが、ここで問題にしていることも、やはり心の問題の一つに違いない。守らせるという観点から言えば、全く別のものだが、同じような状況にあると思われるものに、学校教育現場における問題がある。荒れた学校と話題になったのは、随分昔のことだが、その状況は社会に伝搬しただけで、殆ど変わっていない。それより状況が悪くなったものと言えば、生徒たちの問題ではなく、問題を抱えた教師のことではないか。倫理観の欠如は社会の状況と余り変わらないとは言え、肝心の教育能力の欠如が大きな問題となっていると聞く。再教育を施すための制度が導入されたが、殆ど効果を上げることなく、却って生け贄探しに注目が集まるようになってしまった。次々に手を繰り出すのが常であるから、この場合も次の手が早速打たれることになり、免許更新制度なるものが導入される。始めは、問題教師だけを対象に考えていたものが、いつの間にか全てを対象にするようになるのは、いつもの如くなのだろう。しかし、制度の運用に余程の配慮がない限り、生け贄探しよりも悪い結果が生じることは明らかである。こういう制度整備で素早い対応を不思議に思うことがあるが、おそらく他人を犠牲にする制度ほどこんなものなのだろう。自分が巻き込まれるものには、こんな気軽さはないはずだから。

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2月8日(金)−媒体

 目の前の景色を見て、素晴らしいと思った時、横にいる人間が同じ景色を見ているのか、疑問に思うことはない。普通の人間にとって当たり前のことだが、一部の人々には大いなる疑問となるらしい。そこにあるものが同じであっても、見えているという感覚が人それぞれに違う以上、同じとは言えないという。
 何とも理解しがたい理屈だが、そんなところから人の感覚や思考を理解しようとする学者がいるわけだ。これは流石に無理だと思うが、では、同じ文章を読んだ時、同じような感覚を持つかどうかはどうだろう。こちらになると、少し雰囲気が変わるのではないか。成る可く同じようなところに行き着くように、と書き手は工夫をするが、たとえば、小説などで好評を博したものが映画化されると、読んだことのある人にとっては異質な場面が展開されることがある。これはまさに、人それぞれの受け取り方の違いを表したものであり、言葉を通した時には様々に変化するのに、映像となると何か固定されたもののように感じられることを示している。同じように目から入ってくる情報であるにも拘わらず、映像と文章には大きな違いがあるわけだ。画像として入った情報は、そのままに受容されるのに、文字列として入った情報は、更に何かしらの処理過程を経ているということだろうか。現実には、映像にしろ文章にしろ、どちらも脳の中である程度の処理がなされているのだが、その変換にはかなりの違いがあると思う人が多い。だからこそ、画像は他人と同じものを見ているのに、文章はまるで違うものを読んでいるように思うのだろう。そう考えると、文章として残した場合、誤解を招くことが多いが、画像であれば、そうはならないと思えてくる。送り手から見ればその通りかも知れないが、受け手から見ると、実は別の要素が入り込むことになる。つまり、画像で固定化された情報が必ずしも事実を伝えるものとは限らない、ということだ。目の前で起きていることの一部を切り取って見せることで、実際には情報の一部のみを伝える操作が行われているとも言える。どちらを信じるかをこの時点で決めることはできないが、どちらにしても注意を払う必要があるということなのだろう。

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2月7日(木)−解析

 誤解は誰にでもある。理解が不十分で起こるものがある一方、情報が操作されることによって起きるものがある。ここには、受け手と送り手の違いがあり、小さく思う人がいるかも知れないが、現実にはかなり大きく違っているのだ。自己責任と言われる投資家にとって、前者はまさにそうだが、後者はそうとも言えない。
 操作も意図的なものもあれば、その意識もなく行われるものもある。どちらの罪が重いのか、について論じる人もいるが、社会的な責任とは別に、被害を受ける人から見れば、結果の深刻さによる違いだけのことだ。経済活動では、こんな形で情報の遣り取りを基礎に、様々な変動が起きる。誤解という意味では、この変動に関することにも大きなものがあるように思える。株価の下落と景気の悪化の原因として大きく取り上げられている貸金制度の問題は、発覚した後は制度の上の欠陥を指摘する声が大きくなったが、果たしてそれに対する投資が始まった頃はどうだったのだろう。あれほど多くの金融機関が挙って大金を注ぎ込んだところからすれば、投資対象としての魅力が高く評価されていたのではないか。それが、全く正反対の結果を導き、社会問題として発覚するに至り、一気に欠陥商品のような扱いをされている。どこに間違いがあったのか、その説明は今や全世界でなされているようだ。もし、その解釈が正しいとすれば、次に浮かぶ疑問は、何故それがあの時出されなかったのか、ということである。損失が膨らみ、その対応に追われる人々にとって、今更どうにもならない事柄だけに、いつものように忘れ去られる運命にあるのだろうが、だからこそ、こんなところで取り上げておくことが重要だろう。詳しいことは分からないが、投資対象の分析では、将来の動向の予測が重要となる。多くの場合、幾つかの仮定を置き、その上でどんな変動が起きるのかを見極めようとする。事前と事後の違いは、ある確率で起きることが予想される仮定に基づく分析と、起きた事柄に基づく分析にあり、前者は多数から有力なものを選択するのに対し、後者は選択肢が一つしかないことが大きな違いである。これまでの歴史でも、同じことが何度も起きており、その度に被害を受ける人々が出た。どちらの分析も経済学という確立された学問に基づくものと受け取る向きもあるが、現実には予測と分析という全く違う種類のものを扱うわけで、この学問は前者に対して確実な答えを導き出せるほどの水準には達していないのだ。一見、同じ分析のように見えるものでも、全く違う手順を経ていることに気づかず、その力を誤解している人が多いことが、今回の原因の一つとなっているのではないか。

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2月6日(水)−低頭

 不祥事が起こる度に、画面に頭を下げる人々が映る。そろそろ見飽きてきたと思う人もいるのではないか。確かに、間違いを犯したのだから謝るのが筋であろう。しかし、何処がどう誤っていたのか、見つめる側に釈然としない気持ちが残るのはどういうわけか。傾向と対策の現れに過ぎないとしたら、何ともはやだ。
 そんな儀式が済み、数週間から数ヶ月経過すると、人の記憶の中から消え失せてしまうが、関係者たちは必死で回復の作業を進める。いざ、再出発の時、まだ話題性が残っているものは大きく取り上げられ、何か特別なことが始まるように扱われる。しかし、現実には殆ど何も変わっていないのではないか。不祥事そのものは改善されたとしても、その温床となったものが取り除かれるわけもなく、ただ改善策の提示によって、再開が認可される。どうも、間違った行為そのものに問題があるように受け取る向きもあるが、本質的な問題は違うところにあるのではないか。つまり、行為そのものの違法性が問題なのではなく、それを起こす心持ち、倫理観にこそ大きな問題が潜んでいるのである。違法性は法律の存在が必要不可欠であるのに対し、倫理性は全く違ったところに判断基準が存在する。改めて作るまでもなく、人の心に既に存在しているものだから、敢えて問題するまでもないほどのことなのだ。にも拘わらず、表面に現れた事柄だけを追いかけ、深く追求している気持ちを抱く人々には、ひょっとしたらこういう感覚が消失しているのかも知れない。それ自体が重要な問題であるが、誰も気にかけないというのは、そんなことを取り上げても、殆ど意味がないのだろう。危機管理という観点からの議論も下らなさを通り越して、その価値さえ認められない程度にまで落ち込んでいるが、見えない敵を相手に苦しむ兵士のように見える。要するに、自分の立つところを定めることが先であり、そこでの確固たる地位を築くことに邁進すれば、自ずと答えが導き出されるはずで、それを見失ったり、あらぬ方に走ることが、今の問題の源となっているのではないか。

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2月5日(火)−代替

 論理のすり替え、はめられてしまうと頭に来るものだが、自分の思い通りに運んだ時には、ほくそ笑むのではないだろうか。個人間の議論ならば、この程度のことで済むが、国政に関することとなると、利を得る人、損を被る人、それぞれに大きな影響を受ける。ディベートなどと遊びのようには言ってられないのだ。
 年度末の議会では、必ず次年度の予算の審議が行われる。予算には収入と支出があり、それは同じである必要があるから、何か使いたいものがあれば、財源の確保が課題となるわけだ。借金を繰り返しても、経済成長がそれを上回る勢いであれば、何とかなると思われた時代は過ぎ去った。次の世代のことを本当に心配しているかは別にして、その選択肢を成る可く避けようとすることは正しいのだろう。しかし、その一方で、別の選択肢の選び方となると、浅慮ばかりが目立って、情けなくなる。国民から選ばれるためには、いい顔をしなければならないと思うのは勝手だが、それにしても収支の均衡を考えに入れずに、厚顔無恥ぶりをさらけ出すのはいかがなものか。財源確保のために必要なことは税収を如何に増やすかであり、隣の家の金を奪うような行為を指すのではない。特定財源の必要性を議論することで、流用を可能にしようとする動きは、こんな喩えになるのだ。確かに、無駄な道が溢れているのかもしれないが、だからといって、税収は同じ金と、それを目的と違うものに流用するのは如何にもおかしい。福祉という言葉は訴求力があるものと受け取られるが、それを笠に着て、流用の必要性を論じるのは明らかなすり替えである。必要な財源は国民が納得するように、税という形で確保するべきであり、現状でそこが足らないとしたら、税率を上げるべきなのだ。それを現状のままで国民生活を守るという意味のない口先だけの言葉を吐くことで、流用を強行するとしたら、愚行としか言い様がない。消費税についても同じことが言えて、目先のことに囚われる愚民共の人気を失わないためだけの税率上昇だとしたら、明らかな間違いである。それが見えてこない人々は泥船に乗っていると表現されるべきなのではないか。

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2月4日(月)−抑止

 新聞などの報道の役目は何だろう。情報を伝えること、とまとめる人もいるだろうが、茫洋としていてよく分からないという人がいるのではないか。人の口から耳に伝えられる情報しかない時代には、誤解やデマが飛び交い、混乱を招いた。組織的に情報の収集にあたり、流すことで、ある程度の確度を保証したのである。
 沢山の人々が推測に基づく情報に踊らされるのは、かなり危険なことだろう。大きな災害の直後の混乱状態で、それが何度も起きていることから、正確な情報伝達の重要性が認識されている。では、現状はどうかと眺めてみると、明らかな間違いは少ないとはいえ、偏重した情報が多いように思える。雑多なものの中から、有用なものを引き出す作業において、取捨選択が行われれば、これが起きるのはやむを得ない。しかし、その選択の傾向を考えてみると、どうも、危機感を煽る方向にあるものが多いように見える。確かに、安心感は慢心へと繋がり、回避の機会を逃す虞があり、それに比べたら、心配しておく方が安全に思える。ただ、過度な心配は無意味であり、危機ばかりでは心の安定は得られないし、一方で、それに乗じて、別の危険を及ぼす人々がいることも見逃せない。同じように警告を与えるにしても、様々な視点からの情報を伝えておけば、受け手の判断の入り込む余地ができる。それを促すことが、情報発信に課せられた使命なのではないだろうか。危機管理という観点から、最近の動向で気になるのは、分析と対応の能力についてである。状況を把握するためには、情報分析などの能力が必要となるが、後手に回った事件では活かされないことが多い。更に、結果が示されているのに、対応を誤ったり、後手に回ることがある。危機感を煽る動きに対して、それを抑えるための言葉も重要だが、単に口先だけの話になったのでは、安心感にまでは繋がらない。まして、危機はないと断言するだけでは、何の効果もないばかりか、逆に出ることさえある。分析と対応が不十分な人々ほど、怒りや興奮を伴う言動を繰り返し、墓穴を掘ることになる。冷静に対処するというのは、否定するだけではなく、肝心な点を示すことなのだから。

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