パンチの独り言

(2008年2月11日〜2月17日)
(選択、欺瞞、免責、敢行、冷熱、欲得、教化)



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2月17日(日)−教化

 教育現場の荒廃が伝えられるようになってから、さて、何年くらい経ったのだろう。始めはいじめなど生徒によるものだったが、最近の話題は専ら教師の側に移っている。教室が荒れても、それは生徒によるものではなく、管理する側の責任という観点が主体となったからだ。矛盾に満ちた見方だと思うのだが。
 その一方で、確かに劣悪な教師が世の中に溢れていることも伝えられる。教えることの難しさは経験のない者には理解できないが、それにしても誤解と偏見に満ちた私見を多数の生徒に押しつける態度は理解不能である。それも含めて、人間性に欠陥があるとしか思えない人々が教育現場に居座り続け、どんなに社会が腐ってもあそこだけは、という聖域としての扱いは通用しない。専門家としての教師ではなく、職業としての教師を目指した人々には、今更こんな批判はお門違いと思えるのだろうが、始めの認識の誤りを正す努力を自らしないのでは、やはり人間失格の札をつけられるのもやむを得まい。一時は再教育の必要性が強調されたが、その効果が疑われるようになると共に、殊更平等主義を説く人々によって、更新制が導入されるようになった。運転免許では、実技試験は行わず、視力検査などが実施されるだけの更新だが、ここまで能力を問題にしたあとでの、更新で何を問うのか興味深い。本来であれば、実技試験を課すのが筋に違いないが、その対象となる人の数は一体どれくらいなのか、更には誰がその適正を判断するのか、箱物しか作ったことのない役人から妙案が出ることは決してない。そんな混乱前夜とも思える教育界に、更なる負担増を思わせる授業枠を増やす話が舞い込んだ。何と四十年ぶりの転換だそうで、それだけ長い期間、減らし軽くすることを目標に進んできたということだ。実は、軽減時代の最後の世代にあたる年代が、今大学に在籍するらしく、どこもその対応に苦慮しているという話がある。能力の低下は例年の如くとしても、意欲の低下とそれに対する認識の無さは前代未聞とのことで、上から下までどの水準でもこの傾向が現れていると聞く。歪みの極致に達した世代に対して、現場での対応が後手に回り、ついには精神的な部分にまで影響を及ぼす結果となったのだろうか。教育の威力は正より負に働きやすい事を如実に表した例とも思える。

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2月16日(土)−欲得

 交通事故が起きるのは車があるからで、車を無くせば交通事故も無くなる筈だ、という論法を受け容れる人はいない。便利なものを一度手に入れてしまったら、それを失いたくないからだ。世の中の便利の殆どはこういう状況にあり、使う人間の欲望や怠惰が壁となって、無くすことができないものばかりである。
 そちらの選択ができないならば、対処法を考えるしかない、という形で何事も進んできた。交通事故も、最近は減少しているが、それでもかなりの数の死亡者を出すから、まだまだ改善の余地があるのだろう。しかし、どんなに改善しても、運転する人間の心にまで及ばせることはできない。使う人の問題は最後まで残り、消えることのない欲望の渦を消し去ることはできないのだ。毎日の電子メールの点検で悩みを抱えている人も多いし、ホームページを覗いて不快なものを見せられることも多くなった。対処が必要ということで、罰則が定められ、取り締まりを厳しくする姿勢が示される。何度も行われてきたことだが、一向に迷惑メールの減る気配はないし、違法サイトは増えるばかりである。対応が甘いと批判され続け、更に重い罰則を定めたらしいが、効果は期待できそうにもない。数の問題も大きいが、現状の仕組みでは犯人の特定に手間がかかり過ぎるからだ。馬鹿げた投稿を繰り返す輩がここを覗きに来ることはないが、彼等の行状からすれば、特定されないような仕組みが大っぴらに設置されており、温床などと呼ぶ必要もないほど目立っている。それを通せば不特定多数の一人になれると思う人々は、欲望の塊と化して、悪党の片棒を担ぐことになる。欲を消し去ることの難しさは全ての人が承知している筈だが、もし法的措置で制限するならば、検挙率を上げる必要がある。晒し者のように一人の犯人逮捕を大袈裟に報じる事が効果を産むと思う人もいるが、現実には自分だけはと思う心理に響くことはない。全体の仕組みを変更することは便利さを失うことに繋がるだけに、誰も望まないだろうし、代替品が同じ運命を辿る可能性も大いにある。そうなれば、何が必要か。全てを管理下に収めることが唯一の方法だろう。一部の国では実行しているらしいのだが、この危険性は迷惑の域を超えているに違いない。

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2月15日(金)−冷熱

 最近、海の向こうから流れてくる選挙の話題に触れて、どこかで見たようなと思ったことはないだろうか。当初の予想を覆して、若手の候補の人気が鰻登りとなっている。改革を旗印に掲げ、若い力の台頭を訴える。これらの事柄を並べてみると、ついこの間のこの国の熱病が思い起こされてくるのだ。
 その様子を窺いながら、素晴らしいと賞賛する人々がいるが、彼等の思考力を疑いたくなる。また、この勢いを止めてはいけないと後押しする人々にも、不祥事のあとの無責任な態度に似たものを感じてしまう。不満分子たちが集まり、それまで鬱積したものを吐き出そうと奔走する姿に、力を感じる人もいるだろうが、そこに渦巻く暴走の芽に気づくことはないだろう。勢いそのままに突っ走った人の通った跡に残ったものは何か、この国の状況を冷静に分析できる人なら見極めることができるはずだ。その立場から海の向こうの状況を眺めれば、今どんな判断が必要かが見えてくる。平和な時代が続くことは、敵視できる相手を見つけることを不可能にし、社会の歪みに目が向くことになる。そうなれば、不平不満は内向きに出ることになり、改革はとても魅力的に見えてくるのだろう。敵を外に作る為に戦争を続けたかどうかは分からないが、それに反対したことを前面に押し出す人が、世の中を変えることだけに執着した時、何が起きるのかは予測できない。しかし、だから期待するのだという人がいたとしたら、その無責任さに呆れてしまうだろう。同じ状況とは言えないまでも、数年前によく似たことを経験した国からは、熱狂的な歓迎ぶりではなく、冷静な忠告が発せられてもいいように思う。それが余計なお世話だと思う人がいたら、この国が陥っている現在の状況を認識していないのではないか。良き友人は言いすぎだろうが、それにしても、何らかの関係を続ける必要がある限り、そのような行為を無用とは言えないのだと思う。

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2月14日(木)−敢行

 悪名高き報道番組、こう聞いて、どれを思い浮かべるだろう。ニュース読みとは異なる人種が、大衆受けする言葉を吐き、理解を助ける手法で一時は人気を博していたが、調子に乗った言動は不確かな情報を含み、物議を醸し出す結果となった。人気の凋落と共に、失言・誤報は増えるばかりとなり、主役は画面から消えた。
 そんな履歴のある番組に、突然現れた後継者は、意味不明な言葉を連発することで名を売った人物で、その浅薄な物言いから実況中継の現場から消え去りつつあったところだ。どちらが拾われたのか知る由もないが、兎に角その組み合わせは番組の将来を深い霧の向こうへと追い遣り、かつての栄光は語り継がれるだけのものとなった。確かに、報道番組の伝達手法を新たに開発したという功績は残るだろうが、それとても程度問題のことであり、羽目を外した姿には誠実さの欠片も感じられなかった。その雰囲気だけを受け継いだ人物は、肝心な言葉の意味も理解できず、ただ闇雲に出鱈目な文字列を連呼するばかりで、前任者より悲惨な状況に自らを追い込んできた。ただの雇われ人に過ぎないと見る人々もいるが、そこに流れる言葉は彼のものとして認識され、ニュース読みと違う立場にあると自認するからには、発言に対する責任も自ずと生じてくる。そんな中で、報道の立場からほど遠い演出手法が採り入れられたスクープは、明らかな不正行為と見なされ、注意を受けることになる。それだけでも十分に責任が重いにも拘わらず、無知な人物は更なる失態をしでかしたとのことだ。言葉を操ることに酔ってきた人物だけに、酔った気分での発言は悦に入ったものだったのだろう。後日、誤用を指摘されても、なお、主張を繰り返す姿勢には、現実には誰も目を向けていなかったのではないだろうか。始めは裏読み指南の体を為していたものが、今では裏工作の拠点に成り下がってしまったのだから。

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2月13日(水)−免責

 無責任という言葉が人の話題になったのは、四十年以上前のことだ。まだ人を集めることができた映画が、各地で上映され、主人公の奔放さが人気を博した。世の中の人々がごく真面目に働いている時代であり、その中で確固たる目標も持たずに、自由に生きる人間への憧れが表面に現れた結果だったのだろう。
 同じような映画を今の時代に作ったら、どんな反響を呼ぶのだろうか。多分、どこにでもある話と見向きもされないか、わざわざ人生を無駄に送る人間と嘲笑の対象となるだけなのではないか。よく似た調子で作られた話がバブルがはじけた頃に流されていたが、こちらは業後の活躍で企業に貢献するという内容で、昔のものとは明らかに違う筋だった。その頃からこういう傾向はあったのだと思うが、どうにも無責任が罷り通る時代となり、組織の長自らが責任回避に走ったり、責任転嫁に精を出す姿が散見されるようになった。経済界の体たらくばかりでなく、政界にもその傾向は強く表れ、響きがよいと言われる言葉の連発で人気を博した人が行った政策に対する批判は大きくなるばかりだ。それでも、潔く舞台を去った態度が功を奏したようで、攻撃の矛先が彼に向くことはなく、代わりに跡を継いだ人々が矢面に立たされている。確かに、綻びが目立ち始めたのはごく最近のことかも知れないが、その原因となったものは、詳しい分析をするまでもなく、あの時代の市場主義に基づく政策によるものであり、民間移管の弊害がその典型と言えるだろう。そういう中でもなお復活を望む声を上げる人々の頭の中は理解不能であり、指導者の意味の取り違えもここまで行けば、限界に達したといわざるを得ない。何故、このようなことが起きるのか。簡単に言えば、判断力を失い、分析力を捨てた人々に、発言力のみが残った結果だということだ。勢いだけで、私利私欲に走った人々は、彼が舞台を去るとともに、責任ある立場を辞した。その意味は、ごく簡単なものに過ぎない。責任を負わねばならないところに長居することが、如何に危険なものかを感じただけなのだから。

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2月12日(火)−欺瞞

 最近、詐欺事件について報じられる機会が増えている。それだけ世の中が荒んできた証拠なのかも知れないが、それにしても多すぎる。騙す方の問題が主に論じられているが、さて、騙される側の問題はどうなのだろう。同じような事件に巻き込まれる場合を考えると、そちらの問題もかなり大きいように思える。
 バブルがはじけた途端に、職を失った人は沢山いた。それまで、安泰だと思っていたものが、あっという間に足下から崩れ、流れ落ちてしまったらしい。そういう人々の中にも色々な人がいて、すぐに次の職を見つけることができた人もいれば、その後ずっと転職を繰り返した人もいるようだ。転職は、まだ、一度でも職にありつけたからましで、それさえもできなかった人もいる。一度、進路が妨げられてしまうと、中々別の道を見つけ出すことは難しい。どんなに能力を持っている人でも、ちょっとしたきっかけで、評価される機会を失ってしまうからだ。そういう人々を騙した人の紹介が行われ、如何に悪質な人間かが報じられていたが、それはそれで、酷い状況にあると思える。ただ、一方で騙された側についてはどうか、という話には、何も特別なことは述べられていなかったようだ。これはこれで不思議に思えたが、この話を聞いていて、不思議に思えてきたことが一つある。こういう違法行為を繰り返す人々をどうにかしなければならないのは事実だが、では、その一方で、如何にも遵法主義を貫いているように見せている企業の経営者たちが行っていることは、全く違っているのだろうか。景気が良くなっても、将来がという一言で、給与の引き上げを見送ったと思えば、景気が悪くなれば、即座に賃下げをちらつかせる。この調子で行けば、収入が減る可能性はあっても、増える可能性は皆無であり、経営者の思うがままと言えないだろうか。今後の展開に対しても責任を負うことは当然のことだが、この論法では何も起こせない。更には、配当などへの配慮との違いは、何とも不可思議にしか見えてこない。これは騙しでなく、詐欺行為は騙しと言うのは、簡単なことだが、果たしてどんなものなのだろう。

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2月11日(月)−選択

 必死で走っている時には、他のことを考える余裕など無かった。しかし、国が豊かになり、ゆとりができるようになると、周囲を見渡す余裕ができるらしい。違った生き方とか、別の道とか、そんな言葉が好んで使われるようになった。そうなれば、様々な選択肢の中から選ぶことを望む人が出るのは、当たり前かも知れない。
 ところが、始まりはそうであっても、現実は全く異なる方に向かうものである。他の選択肢を要求した人々は、自分の望んだものが手に入るとそれで満足し、他の人々の要求などには耳を貸さない。確かに、それまでにないものが表に現れるようになるが、場合によっては、それまでのものを押し退けてしまうから、結局、選択肢の数は増えないままだったりする。要求を押し通した人々にとっての達成感は、それでも十分にあるわけだから、別の制限がかかろうが知ったことではない。そこまで極端かどうかは分からないが、そんなことがしばしば起きているように見える。少子化に歯止めをかけるという目標の下に掲げられたのは、育児休暇の問題であり、職場復帰の問題である。女性の社会進出には、職に就くことが最低条件と思われた時代から、この流れが続いているが、その一方で、一部の人が指摘するのは、個人所得の低下である。つまり、共働きの必要性が強調されるにつれ、機会均等を目標に行われたのは、企業などが抱える人の数の増加である。人件費に上限がある以上、そこに残された道は、一人に充てる金額を二人で分けるといった手法で、それによって進出の道が開かれたと考える向きもある。意欲を大切に扱うことからしても、そういった手法はやむを得なかったのだろうが、そうでない人の選択はどうなったのか。扶養手当は当然減額され、それを頼るより、働く方がましという選択を強いられた人々もいる。そこに意欲は存在しないが、他の選択がないからだ。この論法が危険なことは承知の上で、次の展開を図るが、これと同じような観点で行われるのが、父親のための育児休暇制度の導入なのではないか。育児への参加の重要性を掲げ、導入を急ぐ動きがあるが、ここに別の選択肢の存在はあるのだろうか。母親が育児に専念できるように、父親に育児期間に限った手当ての支給を選ばせる話はどこにもない。更にいえば、専業主婦なるものの存在を尊重するような制度は、次々に忘れ去られる方向にあるのではないだろうか。これが、多様な選択を促す時代と、一部の人々が評価していることだとしたら、大きな間違いである。

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