習熟度を測る手立てとして、共通の指標を導入する。こんな掛け声をかけられたら、どんな反応を示すだろう。どちらかといえば、好意的なものが多くなるのではないか。では、昔あった批判的な意見をこれに付け加えるとどうなるだろう。正反対の反応が出るかどうかは分からない、時代の変遷によるからだ。
話題となっているのは共通試験である。それも、大学入試で実施されているものではなく、小学校で行われているものだ。全国的に同一水準で教育を施す仕組みを持つ国は、それほど多くないだろう。色々な単位で様々な規制をかけ、競争に基づいたものを持つところは多い。それに対して、共通を基本理念に教科書検定制度や指導要領を採り入れているところはごく僅かである。どこに違いがあるのか分からないが、兎に角これを基礎として、識字率を高く保ち、一定の教育水準を誇ってきたが、最近はその勢いに翳りが見られる。ゆとりという魅力的な言葉に引き摺られて、あらぬ方に向ってしまった教育制度の軌道修正の必要性から、共通試験の導入が推進された。現実には、以前にはこれといった制度があったわけではなく、数年毎の試みとして実施されていたと記憶しているが、今回の制度はそれとは大きく違っており、振り子が逆方向に振れた結果のように思える。確かに、こういう形で実情を把握するのは有意義であろうが、これしか無いかどうか、明確には示されていない。競争が激化していた時代の批判と違い、格差社会と呼ばれる時代には、競争を勝ち残ることの重要性が際立っているから、これを基に変な方に向うことは大いに考えられる。既に、様々な問題が現場から噴出しているだけに、ここから先どんな展開があるのか、しばらく見ておく必要があるだろう。ただ、子供たちのためにという理由から、子供たちに必要性を問うという話については、何とも的外れの感がある。
春の訪れを待ち焦がれている人が多いだろう。特に、ここ数年にない程、冷え込みの厳しい朝が続くと、早く暖かくなってくれないかと願う。冬は冬らしくなどと、そういう人々に言ったら、怒られてしまうかもしれない。しかし、その一方で、この冷たい冬の後にやって来ることに恐怖を抱いている人がいる。
思い出してみると、この間の夏はこの冬と同じように、夏らしい夏だった。最高気温更新の報せが飛び交い、各地で体調不良を訴える人が出た。それが何故今思い出すべきことか、少し考えると分かるはずだ。何年も続く春先の出来事といえば、梅の花の話とスギ花粉である。例年にない冷え込みもあり、どちらもいつもより遅れ気味にはなっているが、やって来ないことはない。梅の開花は春の訪れとして嬉しい話だが、花粉の話題は一部の人々にとって聞きたくもないことだ。裸子植物である杉は、雌株と雄株が違う。雄花をつけた樹の数の問題かも知れないが、とにかくある時期から花粉への反応を示す人の数が急増した。樹の数だけの問題ではないと思えるのは、山の中より都会での症状が酷くなることがあるからで、排気ガスなどの複合的な要因が指摘されている。杉の雄花の成長は夏の気温と関連があると言われ、猛暑の次の年の花粉飛散量は増えると言われている。もし、これが当てはまるのであれば、今回はまさにその年にあたるわけであり、これから始まることを恐れている人が多いのは、そんな背景があるわけだ。例年ならば、もうとっくに始まっていていいはずが、低温続きでそうなっていない。だからといって、無くなるわけがないのは、梅の開花と同じことである。準備万端、様々な道具を揃えていざ出陣という人もいるだろうが、皆が皆そういうわけでもないだろう。そういう人々には何とも憂鬱な季節がやって来るわけで、気持ちが落ち着かない春に、更なる試練が待ち受けているのだろう。
無難に生きるとは、どんな生き方なのだろうか。難無くと言い換えてもいいわけだが、感覚的には少し違うように思える。それに、将来のことを考えていかねばならない世代と、既に一つの形を築いた世代では、考え方が違っているのではないか。ただ、変えようのない人々にとっては、今更何を、ということだが。
若い人々にとって、無難とは、人と同じように、という程度のものではないだろうか。皆と同じように動いていれば目立たず、難点を指摘されることもない。それに誰かが指示してくれるのであれば、それに任せておけば、自らの欠点が暴露されることもない。一緒といった感覚が、この生き方にとって最も重要であると思っているようである。しかし、その時期を遠い昔に過ごした人々は、随分と違った感覚を持っているようだ。つまり、人と同じで集団に埋もれた存在では、自らの長所が見出されることもなく、組織が安泰であればそれでも良いが、少しでも危機を迎えると弾き出される虞がある。そんなとき、一番の効果を発揮するのは、人との違いであり、その差がものを言うわけだ。差は良い方にも悪い方にも現れるが、同じ事が解釈の違いによってどちらにもなり得るわけだから、まずはそれを示すことが大切となる。皆と同じでは、それを提示することができず、指示待ちに徹すれば、更に目立たぬ存在となる。与えられた課題を無難にこなすことも重要な要素であるに違いないが、安定した時代から少しでも外れれば、それが評価されることは少なくなる。就職したてのものを覚えなければいけない時期は兎も角、それを過ぎたら内向きの力だけでなく、外向きに何らかの力を発揮しなければいけないのだ。自ら動けば、当然の如く結果が示される。結果次第で将来が左右されることもあるから、失敗すれば「難」だけが残ることになる。しかし、それを恐れていては動きがとれないわけで、失敗を重ねながらも修正を繰り返すことで、良い結果を導けば、自ずと評価は高まるものだ。要するに、初期段階での判断が評価の対象ではなく、修正の精度が問われているのである。それに気づかぬ人も多く、目立たぬ事、人と同じであることに拘るのではないだろうか。
どうも話が通じないようだ、と感じることが多くなった。今までならば、若い世代に対してと限定されるところだが、最近はそれだけでもないようだ。話の内容が正確に伝わるというのは、こちらの意図した通りに受け取られるということだが、現実には人それぞれの解釈があり、伝わったとしても、というところがある。
こう考えると、通じたと思っていても、実際には誤解される場合も多く、意図が全く伝わらないことが後から分かると、がっかりしてしまう。それでも、その場限りの会話がそれなりに成立していればまだましな方らしく、最近では全くのすれ違いということが目立つように思う。他人の話を理解するのは、かなり複雑な過程を必要とするものであり、簡単なことではない。普段何気なく話をしているところからは、そんな状況は感じられず、ただ、会話を交わしているだけのことだ。当然、別れてから話が通じていなかったことに気づく場合も多い。しかし、全くのすれ違いはそんな状況になく、ただ、相手がいるのかいないのか分からないような状態で、誰か分からない人間に話しかけているような感覚がある。それでも、一つ二つ会話が成立すれば良いのだが、全くという場合にはそんなことさえ起きないようだ。互いに狭い世界に居続けようとして、歩み寄りの姿勢が見られない場合、どうしてもそんなことが起きてしまう。以前ならば、相手の顔色から判断して、何らかの工夫を始めていたのが、最近は我関せずといった雰囲気さえ漂う。どうしてこんな状況が生まれたのか、すぐに答えを導きだすことは難しいだろうが、どうも、それぞれに狭い世界に住むことを好むようになったのではないかと思われる。安心という言葉がかなり大きな重量を占める社会では、自分の周囲の確実と思われるところだけに注意を払うことが重要であり、その範囲内で何もかも成立するのであれば、それで良いということになる。はて、発展は何処に、と思う人々は、却って苦労を背負い込むこととなるから、どうも、この方式は現代社会においては確かなもののようだ。不安との兼ね合いを考えたとき、外向きに余り行き過ぎることは危険だということだろうか。何かが違っているような気もするのだが。
誰だって自分が一番可愛いのではないだろうか。家族大事と宣う人も、自分が無くなれば元も子もない。まずは自分を大切にすることが全ての始まりと言えるだろう。しかし、大切にする、大事にするということと、独り善がりの考えをする、特別扱いをすることとは同じではない。自分大事は独善とは違うのだ。
多くの人々は正しく評価されないと感じる時、そこに不当な扱いを見出そうとする。差別と括られる話は、どこにでもあり、自分がその対象になると考えるのは、大した苦労を伴わない。自らの境遇を中心に据え、それが自分の本当の姿を見えなくするものと捉えれば、たとえ自分の過失で起こしたことでも、他に責任を押しつけることが可能だ。そんなやり方で窮地を凌いできた人は、巧く立ち回ったと悦に入っているが、現実には自らを貶めている事が多い。原因が当人にあるかどうかは、他人から見れば重要なことであり、そこに何らかの背景があるとしても、それが救いになることは少ない。自らの育った境遇がその人の運命を決めることは度々あるが、それがたとえ負の方向に働いたとしても、本人の責任はかなり残るものだ。こういう事を引き合いに出す人と話すと、多くの場合、言い訳に終始する姿だけが印象に残り、先に進もうとする意欲は殆ど感じられない。そんな人を目の前にした時に、救ってやろうとする心が動くか、あるいは、厳格に対処しようとするかは、人それぞれだろう。しかし、一度は前者の対応をした人でも、それが二度目ともなれば、やはり違う出方を考えるだろう。境遇については、確かに自分で選ぶことのできないものが殆どで、親にしても、環境にしても、他の選択はあり得ない。しかし、それは全ての人に当てはまることであり、ある特定人物にのみ当てはまることは殆どない。それこそが運命であり、それに委ねるべき事も多くある。しかし、その一方で、それを巧みに使う機会があるのではないだろうか。都合のいい時には使い、反対の時は運命を呪うというのは、余りにも虫のいい話ではないか。自分を中心に考えるというのは、独善とは違い、自ら築き上げることを意味するのではないだろうか。
機械とそれを操作する人間、どちらの判断が最終的なものになるか、と問われたら、多くの人は人間と答えるのではないか。以前ならば、それで正解となっておしまいだったが、暫く前から、様相は大きく傾いた。今では、機械の決断が優先され、どんなに無理を通そうとしても、操作できない状態にあるという。
これを読んで何の話か想像がつく人は、その手の報道のことをよく覚えていると言えるだろう。事故が起きた時、最も多くの犠牲者を出すもので、その多くが死ぬものと言えば、飛行機によるものである。操縦の誤りが数百人の命を奪う事は、状況からすれば当たり前のことであり、その為に事故を未然に防ぐ仕組みが様々導入されている。中でも、飛行機同士の衝突は単純に被害者を倍にするわけだから、それを避けることは重要な課題とされ、互いの接近を知らせるだけでなく、その回避法の決定にまで機械が行うという。そこまで行くと、人間の判断力は余りにも危うく、その為に要する時間も長すぎる。そんな背景からこういう仕組みが導入されたらしい。飛行機事故の原因はそれだけでなく、様々な所に潜んでいる。離着陸が最も危険な瞬間と言われるが、そこでの判断の誤りが大きな事故を招くことも多い。しかし、回避システムはまだそこまで整備されておらず、離着陸の手順が自動化されている程度ではないか。このところ話題になっている事故寸前の出来事は、機械ではどうにも防げないものであり、人間が深く関与したものである。つまり、指示を出す側と受ける側での情報交換の中での誤解に基づくものであり、機械のもつ認識能力で劣っているものの一つだからである。以前から気になっていたのは、そこで交わされる言語がどちらにとっても外国語であり、関わる人の数からして、全てが高い習熟度を持つとは言い難い状況にあることだ。確かに、世界標準の為にはそれが唯一の手段だろうが、交信記録にある会話の水準はとても高いとは言えない代物である。機内放送で話す内容からも、自在に操れる状況にあるとは思えず、毎度一抹の不安を覚えるが、これまでは運良く何事も起きなかった。他に選択肢がないとはいえ、この状態はどうしたものか、何か妙案はないものだろうか。
辞書には、「決定を見合わせて、その間に、仮に一時的な取り決めをすること」とある。この説明を読んで、何のことか分からないと言い出すのは、ひょっとすると政治家だけなのかも知れない。通常の過程では時間がかかりすぎ、緊急に対処する為には別の手立てを講じなければならない時に、やることだろう。
仮と称し、緊急的な措置と見なすならば、その後で正式の手順を経て、決定をする必要が出てくる。こんな当たり前のことができない人間たちが、国の行く末を決めてきたとしたら、恐ろしいことではないか。これは何も政権を握っている人々にだけ当てはまる話ではない。政治に携わる人々全てがこの責任を負うべきで、ぎりぎりまで何もせずに、再び緊急などと叫び声を上げるのは、愚の骨頂と言えるだろう。反対する側にしても同じ事で、それが使われるべき対象についての議論を、急拵えで始めること自体、立法府に属するものとして恥ずべき事ではないか。この国の政治が遠くを見据えなくなってから随分長い時間が経過した。確かに、悪事の温床となっていた部分があるが、一部の人間のみが実権を握っていた時代には、長期展望が開けていたのだ。猫の目のようにコロコロと代わる政の責任者には、一時の人気取りや奇を衒う政策を実行することはできても、国の行く末を決定づける方針を定めることはできない。だからこそ、悪名高き官僚たちがのさばる舞台が設けられ、彼等が主導する方針が立てられてきた。優秀な人材が集まるのは意味のあったことであり、その力が奪われると時を同じくして、水準の下降が始まったのは当然のことかも知れぬ。こんな様相を呈している中で、毎度の茶番が演じられ、目の前のことに囚われる政治が行われれば、将来に対する希望が失われるのも無理はない。ただ、その原因を作っているのは、舞台に上がっている人々ではなく、彼等を舞台に上らせている市民であることを理解できる人はどれくらいいるのだろう。そういえば、どの国も安定の海を漂う船の如く、目標を定めず動いている。その中で、自分を見失わない気持ちを持ち続けることの大切さは、おそらく十数年経過したところで見えてくるのかも知れない。