パンチの独り言

(2008年2月25日〜3月2日)
(羅列、棄民、理念、憑依、隠逸、激昂、引水)



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3月2日(日)−引水

 baby boomer、戦いに出ていた人々が帰還し、一時途絶えていた生殖活動が再開され、一気にその数を増した時期に生まれた人々のことを指す。この国では、もっと考えに基づいた命名がなされ、一塊の扱いとなった。民主主義が多数決主義と思いこむ人々にとっては、重要な世代と見なしていたようだ。
 良い方にも悪い方にも、社会に対する影響力は大きく、彼等の世代を中心に物事を考える場合も多い。数を恃む人々にとっては、これらの人々の考えを左右することが重要であり、本人達の自主性に任せるように振る舞いながら、自らの思う道に導くことが最良の手法だったのだろう。そういう意味で、この世代にばかり注目が集まる割に、多くの人々の考え方に影響を与えた人が注目されなかったのは不思議である。これもまた、影の指導者の狡猾さの表れかも知れないが、煽動するための言葉を吐きつつ、自らの責任を回避する手立てを講じていたのではないだろうか。急激に数を増した人々が抱えた問題は、それまでとは大きく異なる社会情勢から生まれてきた。そんな中で、従来の仕組みを変えたいと望んだ人々は、彼等の数を利用する戦略を講じ、表舞台に立つことなく、思い通りの展開を促した。海を挟んだ国同士の同盟に反対する勢いも、始めの頃とは大きく異なる動きをしていたし、それよりも自分達の待遇改善を訴えることで、若い力の終結を招き、それが一時に爆発していた。しかし、その後の展開を見ると、裏から様々な形で道を作った人々は、自分達が実権を握った途端に、それまでの若手主体の運動を終結させ、権力の分散を妨げることで、自らの力を増していった。若い力に散々に痛めつけられた世代には、これらの権力集中に苦言を呈する力は残っておらず、勝手気儘に自らの活躍の場を築き上げる人々を放置することとなった。彼等は既に表舞台から去ったが、彼等の作り上げた歪んだ社会は、どうにも修正不能な段階にまで達してしまった。何処の国でも同じような展開があり、何処でも同じように修復作業が繰り返されている。ここでも、塊の世代の責任を問う声が上がっているようだが、実際にはそのすぐ上に元凶があったことを指摘する声は少ない。今更どうにもならないことと言ってしまえばそれまでだが、少なくともそんな行状を忘れ、道徳を説く人々には冷水を浴びせる必要があるのではないか。

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3月1日(土)−激昂

 何でも、人の責任にするのは楽である。自分が他人にならない限り、自らの責任が問われることはない。しかし、少し考えれば分かるように、自分以外は全て他人であり、他人の彼等にとっては、そこにいる自分は責任を押しつける対象でしかない。この考え方の破綻はいとも簡単にできるのに、まだしがみつく輩がいる。
 一個人を相手にした責任のなすり合いは、何とも情けないものである。できれば当事者になりたくないと思うが、相手あってのことであり、巻き込まれることは十分にあり得る。しかし、国を挙げてのこととなると話は大きく変わる。それぞれの国民が躍起になって誹謗中傷紛いの批判を繰り返し、時には本物の戦いに発展してしまう。元々感情的なものであることが多く、過去の行状や仲間の経験などが背景となる。それぞれに理由は強固に組み立てられているが、土台が脆弱なだけに根拠が崩れれば容易に崩落する。個人間のいがみ合いであれば、そこに他人が入り込んで、仲裁が成立することもあるが、国の間では難しくなる。他国の介入は逆効果を産み出す場合もあり、慎重な対応が必要となるからだ。本来は、当事国の間で十分な話し合いを繰り返し、解決を図ることが望まれるが、国民感情が沸騰してしまうと、捩れた糸は簡単には解けない。何千年もの歴史を誇る国が、数十年前の侵攻を思い起こし、事ある度に興奮が高まる。相手の責任を強く追及する姿勢は、互いの信頼が足らない証拠であり、それを解決するためには、徹底的な分析が必要となるはずだ。冷静に見れば、科学の有用性はこんな時に高まるはずだが、感情に走る人々には、相手の感情が気に障るだけで、徹底する気分にはなりにくい。更には、希薄な根拠に基づく議論による決定は、確かな証拠の入手が好都合とは限らないから、それを避けたい気分もあるのではないだろうか。いずれにしても、性急な政治決着は避けるべきであり、十分な調査を望む声を大きくすべきだろう。互いの威信をかけての戦いが感情に基づくものであったら、単なる繰り返しになるだけのことだ。

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2月29日(金)−隠逸

 隠居して悠々自適に暮らす、というのは夢のまた夢と思う人が多いだろう。確かに、老後に対する不安は募るばかりで、それを煽る情報ばかりが流されているようにも感じられる。だからといって、自らの地位にしがみつき、後進に跡を譲らないのは困る。悪い方に向かうとはこんなものなのかも知れないが。
 将来に対する保証がないように見える世の中では、対策を講じる為にも様々なことを試算する必要がある。そんな中に、老後にかかる経費の試算があり、驚くべき支出額と微々たる収入が示された。年金の減額は明らかであるとはいえ、家族による支えを考慮に入れられない状況には、愕然とするばかりだ。ただ、この話題が取り上げられた番組では、独り暮らしの人が対象となっており、家族は端から数に入っていない。にも拘わらず、この話を重くしていたのは、社会状況が悪化したことで、子供に投資しても無駄になるばかりで、老後の支えを子供に期待するのは浅はかという意見が中心となっていたからだ。そんな時代には、子や孫に金を使うより、自分に金を使うべきとの主張があったが、何とも情けない気がした。選択の自由がこれほど重視されているのに、「べき」論が展開されることには抵抗を覚えるし、期待からではなく、単に家族を大切にする心から後の世代に金を渡そうとする人を批判するのはどうかと思う。共倒れは確かに警戒すべきことだが、共に歩まねばならないのが家族であり、その中で最適と思われる解を求めることが大切なのではないか。世知辛い時代には特にこのことが重視されるべきであり、ただ闇雲に放置するだけの放任主義や互いの遠慮が大きくなるばかりの生活こそが、問題視されるべきであろう。兎にも角にも、将来への不安ばかりが大きくなる状況では、悲観的な意見のみが用いられ、楽観的な人間は脇に追いやられる。でも、心配するばかりの人間に、果たして明るい未来はあるのだろうか。定職を得られず、不安定な生活を強いられている中年独身者が、愚痴を漏らし、社会へ不満を並べるのも、聞いてやらねばならないのかも知れないが、さて、本人や家族の責任は皆無なのかと思えてくる。努力を認めるべきとの声もあるが、方向の定まらないものは功を奏することもない。これまでの積み重ねが、現在の地位を導いたのだとしたら、それに対する反省をした上で、新たな展開を考えるべきだろう。恵まれない人間になれば楽になれるというのは、大きな間違いと思う。

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2月28日(木)−憑依

 世の中には何かに取り憑かれているように振る舞う人々がいる。信念に基づく行動や言動とも言えるが、それが大きな誤りを含む場合、傍迷惑なものとなる。特に、次の世代を担う子供たちに対して、こういう人々が働きかけた場合には、悪影響の及ぶ範囲が大きくなる。そんな心配が募りそうな雰囲気が漂う。
 教育現場が抱える問題は毎日のように伝えられる。それぞれに立派な理由があり、その解決に向けての対策にも立派な根拠がある。こういうものも、実際には、場当たり的な対応と見なして眺めてみると、かなり杜撰なものが多いし、場合によっては正反対のことを並べていることもある。教え育むことを基本と考えた時、その項目を取捨選択しなければならない。ただ、その際にどんな観点から選択するかによって、内容は大きく異なってくることも事実だ。世の中に溢れている情報の中で、何が大切で、何が切り捨てられるべきか、ちょっと考えただけでも、立場次第で結果が変わりそうに思える。時代によっても大きく変わってきたのだろうが、現状では役に立つことが重視されているようだ。教える項目が社会に出てどんな役に立つのかを吟味した時、考えさせる手段として使われたものの多くは役立たずと受け取られる。しかし、基本的な能力の発達の為の訓練に使うことであり、多くの事柄の基礎となるのであれば、見かけ上何に役に立つのかを断定できなくても、重要な項目として扱うべきであり、表面だけを捉えるやり方では不十分なことが分かる。ところが、現状ではこのような扱いが多く見られ、逆に、今の世の中で役に立ちそうなことが優先される。その結果、基礎から積み上げる形式は失われ、一対一の直接的な対応に適した形式が重んじられた。それがどんな人種を産み出したかについては、周囲を見渡してみればすぐに分かるが、傾向と対策しかない人々が急増しただけのことだ。その割合が増えるにつれて、仲間を更に増やそうとする動きが強まり、更に今役に立つ道具を示すことに力が入れられている。お金の使い方を覚えるより先に、投資について紹介するのは何故か。海の向こうでやられているから、というのは理由にならない。経済の基本が何処にあるのか、論じられることのないままに、現状の投資を説いてみても、彼等の将来に役立つとは思えない。

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2月27日(水)−理念

 世の中がずれ始めた原因を経済の破綻と信じ込む人は多い。しかし、現実にはそれ以前から人の心に綻びが目立ち始め、金の亡者が増え、価値基準の狂いが始まっていた。金融証券業界はその只中にあり、中心的な役割を演じていたが、下り坂を転げ落ちると共に、悪者扱いをされてしまったようだ。
 当時の実情を知らない者にとっては、裏で何が為されていたかを知る術はない。しかし、無理難題が山積する中で、どちらの側にも辛酸をなめた人が多いのだろう。金で買えないものはないと断言したとされる人物は、そのどん底からの回復の過程で頭角を現したわけで、あの時代のあの世代への影響の大きさが分かる気がする。しかし、特別な人々だけでなく、一般庶民にまで悪影響が及んだことは、このところ多発する事件を見ても分かる。自分達の生活を守る為に設立された組合は、安全な生活を危うくし始めた製品の検査を自主的に行うことで、構成員の安全を確保していた。その意味で、冷凍食品の事件に衝撃を受けた人も多いのではないか。安全の印として使われ続けた組合の名前が、今や何の保証にもならないことを示したわけで、自主検査さえ蔑ろにされていたことが明るみに出て、一般営利企業と変わらない体質が明らかとなった。設立当時の理念は、時代の変遷によって何処かに押しやられ、周辺の大規模小売店の品揃えと殆ど変わらないものになることで、利益を優先する姿勢が強くなっていた。経営母体の問題と片付けることは簡単だが、現実には構成員の要望に応じた結果であり、品質よりも価格を重視する消費者の心の変化が映し出された結果に過ぎない。安全が当然のこととして受け取られ、注意を払う対象でなくなった時、こんな事件が起こるのは当たり前だったのかも知れない。こんな背景に目を向けず、ただ関係者の手落ちを指摘するだけでは、根本的な解決は図られない。価格重視の心理の台頭が、どんな基盤に現れてきたのかを、真剣に吟味しないことには、同様の事件が続くだけのことである。生産者の責任追及に躍起になる人々の心には、自分達の責任を覆い隠そうとする気持ちがあるのではないだろうか。

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2月26日(火)−棄民

 車を走らせる時の供は、ラジオである。耳に入ってくる情報は、一つに絞られているから分かり易いし、余計な脚色が無くてよい。ながら族が多いのもこの点からであり、仕事の手を休めることもなく聴いている人の投書がある。視覚頼みの情報に比べると、想像力が掻き立てられることも、良いことなのかもしれない。
 しかし、どんなに情報伝達の手法が優れていても、伝えられる情報が悪質なものではどうにもならない。比較的、客観的な流し方が多い中でも、有識者が登場して意見を述べるとなると、驚くほどの偏りが目立ち始める。彼等は、自分なりに意見を纏め、人の関心を惹く事が重要と考えるから、時に極端な意見を吐き、時に人々を導こうとする。学者などと呼ばれる人種の多くは、それを役目と心得ているが、自己中心的な意見を繰り返す場合には、逆効果となることが多い。それでも、番組の中で短く纏めなければならない場合、矛盾点を指摘されることもなく、極論の羅列で終始しても、放送関係者には喜ばれるようだ。ただ、聴いている方から見ると、矛盾の上に矛盾を重ねる論法では、ただ苛立ちが募るばかりで、何も解決しないことが多い。先夕の政府開発援助についての解説では、何とも不可思議な展開があり、御都合主義の匂いに溢れていた。外国からの評価の重要性から、その関心を誘う為の利用法が説かれ、有用性が主張されたと思えば、その一方で、国連での役割や国際貢献での低評価の原因を別の所に求め、いい加減な尺度を提示する。更には、援助金の一部企業による流用疑惑を指摘されると、外国企業の関わりを挙げて、問題の核心を外す。要するに、自分にとって都合の良い解釈を並べ立てているだけで、そこには確固たる論拠は存在しないわけだ。こういう人々が学者として名を成し、政治・経済の分野で活躍するのは何故か、不思議でならない。客観的な意見を羅列するふりをして、自分の解釈を取り込む手法は、古くさいが今でも使えるものであり、こんな人種が限られた時間の枠を利用して、持論を展開する時には、効果的なものであろう。それにしても、一貫性のない話を聞かされる方は、単純に時間の無駄にしかならない。

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2月25日(月)−羅列

 財源の確保に躍起となっている人々と、それを妨げようとする人々、必死の攻防が続くと書いてあるが、内容は何とも情けないものだ。税率の杜撰さについては以前取り上げたが、折角徴収したものを有効に使っていないとして、厳しい批判の矢に曝されることとなった。手に入れてしまえばこちらのもの、なのかも。
 税金の用途は厳しく制限されている。必要な人々が持ち寄るものではなく、お上が徴収するわけだから、目的に適ったものである必要があるわけだ。しかし、ここでもインチキ奇術紛いのことが行われているようだ。桶屋の話ではないが、何処から何処までが範囲なのか、考え方によって大きく違う。直接的な使い道でなければ許されないと解釈すれば、限定された範囲にしか回せず、周辺整備などの直接的でないが、必要となるものへの使用が制限される。一方、関係あるもの全てを賄うべきと解釈すれば、拡大に拡大を続けた解釈で、首を傾げるほどのものにまで範囲が及ぶ。どちらが正しいかと問われれば、どちらも極端な間違いであるとしか答えようがない。柔軟な運用が期待されるとはいえ、立場が少しでも違えば見解も異なり、議論にばかり時間が費やされることとなる。それはそれで大いなる無駄であるから、ある程度の指針が必要となるわけだが、そこのところ、巧みに行われているとは言い難いようだ。この間流れていた丸投げの例など、呆れるばかりの状況で、社会の荒廃がそのまま形になったように見える。技術の発達は、人間の発達を遙かに凌ぐものとは言え、自動翻訳では依然として巧みな表現を使いこなせない。一見正しい用語が並んでいるようで、実は全く意味を成さない文章が出てくるのが特徴で、まるで教育程度の低い人々の水準にあるようだ。それも高等教育を受けてきたと自慢する人にある傾向であり、実力の低さは文章の難解さに繋がる。難しい言葉を並べても、結果的に意味が通じなければ駄目なのだが、その大切さが理解できていない。今回の話で、もう一つ共通と思われたものは、ネット上の用語説明のサイトの使用である。これもまた、程度の低い人々に見られる傾向であり、おそらく関係者の判断基準が其処にあったことを意味する。何とも情けないことに使われた税金は、無意味と片付けられるが、その断定もどこか矛盾に満ちている。実際、結末は既にシナリオに書かれているのかも知れないが。

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