言い古された言葉に、最近の若者、というのがある。当然、昔と違って頼りないとか、いい加減すぎるといった言葉が続くわけだが、理解ある人間を演じているように見える人々からは、その中にも光る人材がいることの指摘がある。どちらが正しいかを論じても無駄ばかりで、どちらも目の前にいる人を評しているだけなのだ。
それにしても、気になることは依存性の台頭である。子供たちが誰かに養われているのは当然として、ある年齢を超えてもなおそれが続くことには違和感を覚える。扶養家族に関する税金の控除でも、年齢制限が設けられており、社会的にはその認識がある筈であるが、一部の家族にはその意識がないというのだろうか。それとも、ある組み合わせにおいて、それが際立つものがあり、結果として表面化したのが、依存体質の体だけ大人の子供たちなのだろうか。多くの場合、どちらか一方に責任があるのではなく、互いの遣り取りの中にその原因が垣間見えるわけだが、それにしてもここまで極端になるのかと思える。特に、事件が起きる度にその類の事情が流されると、まさにそこに事件の原因を結びつけたくなるのも無理はない。近頃の若者を嘆く声の中に、こういった感覚のものは少なく、ただ目の前にいる頼りない人間を相手に苦言を呈する。しかし、その後ろにはそういった人間を作り出す畑を耕した人間がいるわけで、ただ、作物だけに責任を負わせるのはどうかと思う。社会的には、彼等のような脱落者に対して、何らかの病を背負った者として標識をつけ、個人の責任ではなく、避けようのない災いによるものとする動きがある。中にはその通りの例もあるのだろうが、全てをそう扱うのは明らかな間違いで、正常の範囲を逸脱しない人数の方が遙かに多い筈だ。社会が責任を負うと信じる人の数が多くなるにつれて、こういう考え方をする人が増えているが、どうにも偏った見方に思える。仕組みを築くことが先決であり、人間が育つ環境は二の次とする考えには、現実には全ての責任から逃れようとする気持ちが出ているのではないだろうか。課題と向き合って問題を探し、解決する姿勢を見せない限り、始めに挙げた傾向は強くなるばかりに思える。
決断を迫られた時に、悩みに悩んだと振り返る人が多い。こういう人の多くは決断に時間をかけたと言うのだが、本当なのだろうか。どちらにするか迷ったと言う人に、どちらを選ぶかはすぐに決まっていたのでは、と問いかけると、少し考え込む場合がある。彼等の殆どは決断に時間をかけなかったからだ。
では、何に時間を費やしたのか。多くは決断の理由や言い訳を考えることに時間をかけ、決定的なものが出てこないので困ったのである。迷った時の思考の殆どは、選ぶべき理由を探しあぐねているところに向かう。結果として、そちらを選んだ時、自分にとって何が起きるか、どんな展開が考えられるか、探し回るわけだ。しかし、始めのところで選ぶものを決めないと、何も始まらないことになる。また、理由や言い訳がうまく成り立たないからといって、別の選択肢に向かうことはまず起こらず、最後には満足できないものでも仕方なく受け容れることになる。兎に角、最初の部分での選択には、直感のようなものが働いており、思考が入ってくるのはその後の作業のためなのだ。この話に同意しない人もいるだろうが、それぞれの場面を思い出してみれば、少しは理解できるのではないかと思う。長い時間をかけて、最良の決断をすることが重要であると考える人々にとって、直感というものは信用できないものということになる。しかし、どんなに長く考える人でも、その道筋を進むためには、一つ一つ決めていく手順が必要になり、そこには論理性も妥当性も入り込む余地はない。常に、直感で決めながら進み、道筋を確かめる作業に手間をかける。こんな考えに基づけば、決断を誤る人々の多くは、直感が外れているわけで、五感を十分に活用していないこととなる。単なる思いつきと批判する人も多いが、直感とはそれまでに蓄積した情報に基づき、決断することを表しており、何の情報もなくただ闇雲に声を上げるのとはわけが違う。ただし、直感も的を外すことがあり、それを修正する感覚を持つことは大切である。理由を考えている最中に、その間違いに気づき、修正すれば、表面的には、何も間違っていなかったことになるわけだから、それで良いわけだ。
心の奥底は別として、表面上は目立っていけないと思いこんでいる人々にとって、目立つ行為を繰り返す人は羨望の的となるのではないか。それを積み重ね、崩すことなく舞台を去った人間は、的であり続けられるが、積み損ね、崩した末に逃げ去った人間は、話題に上らなくなる。羨ましくもないからだろう。
積み損ねた木片を拾い上げ、積み直す作業は並大抵ではなく、今その真っ只中にある人は自らの責任だけでなく、他人の責任まで負っていることになる。特に、派手な振る舞い、所謂スタンドプレーを意図的に行った場合には、その代償は大きい。環境問題の専門家のように振る舞い、先の見通しもないままに、歴史に名を残そうとした人は、収拾の見通しも立てないままに、舞台から飛び降りた。国ごとの事情を冷静に分析すれば、自分の立てた目標は、全く違う高さになることに気づくはずだが、知ってか知らずか、兎に角派手な演出を設定したかったのだろう。無理難題が内部から築かれ、負の遺産のように前政権から引き渡されたものを、どう片付けるのかが注目の的だったが、驚きの手法が実施されようとしている。つまり、舞台から飛び降りた人間を、丁重な扱いの上で、再度登場させるわけだ。こうすれば、責任の主体が明確になるばかりか、目標が達成されずとも現政権の責任は小さくできる。何とも巧みな逃げと見なす人もいるだろうが、さてどんなものだろうか。関係した人々の集団は一つであり、全体の責任と見なせば、逃げ果せるはずはない。ただ、目標設定における重大な失敗と結論づければ、当時の関係者のみの責任とすることは可能だろう。穿った見方をすれば、この一歩は其処に至るための出発点に過ぎず、その為に必要な手順がこれから披露されるのではないだろうか。もしそうだとしたら、再び舞台に上がることは、自らの命を縮めることにしかならず、ここで汚名返上を企んでいるとしても、その思いが成就することはないように思える。まあ、目立つ機会が増えたと思えば、それだけのことなのだろうが。
何か大きな事件が起きると、それは担当者の責任となる。企業であれ、国であれ、そう決まっているように扱われる。しかし、そこまでの歪みを作り出したのは、以前から続く体制であり、その場で立っている人間だけが負うべき責任でもないだろう。にも拘わらず、こうなるのは人間心理の常と言うべきだろうか。
確かに、一定の体制が長い期間継続することは、安定を産む一方で、歪みを強めていく傾向がある。その意味では、海の向こうの大国は四年毎の見直しと、継続性の排除により、陳腐化を防ぐ手立ては効果を上げている。ただし、不安定な気分が常に何処かにあり、四年に一度の大きな変更による弊害はけっして小さなものではない。他の殆どの国々が同様の制度を採り入れていないのは、それを意識したためであり、安定志向を如実に表しているわけだ。ただ、このところの長期の安定は、小さな綻びを目立たせることになり、ほんの小さなきっかけで体制が崩れることがある。その場合、多くの人々は現体制からの脱却を望むだけに、大きな変革が歓迎され、結果的に、振り子は反対方向に大きく振れる。不利な立場の人を有利にする力が働けば、同時に逆方向の力も働くわけで、それが大きくなればなるほど、変革としての評価は高まるが、損得の大きさも増すことになる。如何にも魅力的に思える言葉の羅列から、現実的な手立てへの移行は容易なことではなく、そういった形で生まれた体制は長続きしないことが多い。つまり、一時の気の迷いのような現象が起こるわけで、それによって生じる被害は甚大であり、その意味では無駄とか、暗黒の時代と呼ばれることが多い。ただ心理的には、大きな変化を生じることで、それまでに鬱積したものが流れ出し、それが功を奏することがあるのだから、ある意味必要悪として扱うべきかも知れない。にしても、これだけ別の形の歪みが積み重なると、住みにくかった社会は、方向が違うとは言え、更に住みにくくなるわけで、どうしたものかと思う。もう一つ大切なことは、心に対する影響であり、魅力的な言葉の羅列が心に響くほど、その傷跡の修復は困難となる。漸進的な変化を繰り返すことの大切さを、その度に感じる人は多いのだが、ぬるま湯の温度の違いが分からないのだから、仕方ないのだろう。
どんなに頑張ったとしても、精々この程度、諦めが肝心の時代によく聞かれる言葉である。上に立つ者が下の者にこういう言葉を使って、叱咤激励する姿が見られた時代は、まだ何処かに上昇志向の対象が残っていたようだが、下にいる者が自ら使うような時代には、そんな雰囲気は微塵も感じられなくなった。
確かに、安定した時代には、先の見通しもよくなるわけで、それが限界を見せることにも繋がる。しかし、壁がそこにあることを承知の上で、当たって砕けろよろしく、挑む姿勢を見せることの大切さは、殆ど理解されなくなった。どうせこの程度なら、始めから努力をする必要もなく、ただ、皆と同じように振る舞えば良い、という考え方には、何処か矛盾が感じられるが、当事者たちにはごく普通のものらしい。幾つかある道の中で、最も安易なものを選ぶ傾向が強くなり、その選び方を説く人々が持て囃されるのも、何処かに効率を求める気分が漂うからだろうか。確かに、殻を破るためにはかなりの犠牲を払わねばならず、そのために失うものも大きいのだが、破れば新境地が開拓できるだろうし、たとえそうならずとも、そこで注ぎ込んだものは何かしらの形に残って、その後の展開に役立つことが多い。直接的な効率が重視される時代には、そういった副産物のような効果は余り評価されず、その上、無駄な努力ばかりが忌み嫌われることとなる。何故、こんな風潮が際立って来たのか、すぐには理解できないところであるが、実際には社会が動きを失ったように見えることから来ているのかもしれない。外から見て、変化のない状態を平衡というのだが、これは互いに動きのある中で、釣り合いの取れた状態を指す。肝心なのは動きの中の釣り合いという部分であり、全体が動かないことを指すのではないことだ。ここに大きな誤解があり、多くの人々は釣り合いは動かないことと思っている節がある。そんな中では動かぬことが一番であり、それを実践する人々が多いのは、この誤解のためではないだろうか。動きを止めることは死に結びつくと見れば、少し違う考え方も出てきそうなものだが。
最近、食に関する話題が頻繁に取り上げられる。確かに、生きる上で欠かせないもので、毎日関わるものだから、気になることも多いだろう。賞味期限の問題、混入物の問題、残留物の問題、兎に角挙げていけばきりがないほどである。ただ、これらは全て人為的なものであり、人の信用に関わるものである。
問題として取り上げられる度に、その犯人とでも呼ばれるべき人々に批判が集中する。驚かされるのは、それまで何事もなく、というより、どちらかと言えば、好んで食していた人々が、これらの人々に厳しい叱責を浴びせることである。これは、自らの信用が裏切られたという思いによるものだろうが、どうもそれだけではないように思えるところがある。つまり、何の根拠もなく信用していた相手が、違法行為あるいは不正管理を行うことで、商品に問題を植え付けたことが発覚し、それに対して、再び、何の根拠もなく批判を繰り返しているわけだ。ここで一番気になるのは、始めの信用を与える根拠の希薄さで、世間で評判だからとか、皆が褒めるからとか、他人の評価が重視され、自らの評価が殆どそれらに左右されてしまうことにある。その結果、何処がどうして、良い製品であることとなり、何処がどうして、美味しいものであることとなったのかが、自らも含めたほぼ全員にとって謎であるのに、それを気にかける様子もなく、全体の流れに合わせていくことができる。当然、根拠なき信用を与えられた相手は、そんなこととは露知らず、人気の高まりに合わせて、供給を確保し、製品管理に腐心する。それが度を過ぎたとき、管理に破綻を来たし、何処かに裂け目が生じてしまい、事件発覚へと繋がることとなる。この図式を、食の安全性に対して当てはめてみると、今の世の中の喧噪が違った光景に見えてくるのではないだろうか。安全神話という話しがよくされるが、まさにそれに近いことで、安全な筈と信じることから始まる話は、その実情が暴露された途端に、正反対の方向に一気に振れる。そういった風潮の中では、本来安全である筈のものにまで疑いが及び、再び根拠なき疑惑から、その危険性が取沙汰されることになる。何とも、不可思議な話の筋だが、今の若い世代の反応はまさにこんな調子なのだ。
少し複雑な話をすると、首を傾げられる。こちらに非があるような顔をされるが、現実には三段論法のように、幾つかの段階を経て考えることで話が見えてくるだけのことだ。話し手と聞き手は、まるで売り手と買い手のように見なされ、聞き手は商売での客のように振る舞う。悪質な客の扱いが難しいのと同じだ。
実際には、話の売り買いではなく、互いに理解しようとする気持ちを持つことが大切なのだが、このところの流れからすると、売買と思われているような節がある。分かり易い話が喜ばれ、それが役に立つと信じられている。確かに、その場ですぐに理解できて、それがすぐに活用できれば、それはそれで重宝なものだろうが、全てがそう行くことはない。話の繋がりがすんなりと見えることもあれば、少し考えてみないと見えてこない話もある。自分が考える時のことを思い出せばすぐに分かるはずだが、どうもそういう考え方をすることが少なくなったようだ。ああしてこうしてと頭の中であちらへこちらへと揺り動かし、幾つかの考えを積み上げてみることで、その組み合わせが正しいのかを検証し、正しければ次へと進む。書けば簡単なことだが、難しいと思う人には組み合わせが自在にできないようだ。あれとこれを、と指摘されたとしても、何故、あれこれが組み合わさるのかちっとも理解できない。そんな状況では、積み重ねをすることは不可能だし、組み合わせの妙などというものは出てくるはずもない。自分の考えでさえそんな調子の人に、少し複雑な話を聞かせると、すぐにお手上げ状態に陥る。無理難題を吹っ掛けたのは、話し手であるこちらの責任であると叱責され、全ての責任がこちらに飛んでくる。しかし、どんなに考えても、話の流れは滑らかであり、何処にも破綻がないのは明らかな時、ふと、相手の問題ではないかという疑問が出てくるわけだ。それにしても、そんなことまでじっくり考えなければならない状況は、何が間違っているからなのだろうか。何とも不思議に思えてしまう。