パンチの独り言

(2008年3月10日〜3月16日)
(隠蓑、冷厳、導者、同意、連鎖、解除、違反)



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3月16日(日)−違反

 約束が果たせていない。現状では認めざるを得ないことを、意地でも認めないという姿勢が現れている。面目を保つ必要がある背景は色々あるのだろうが、真意は見えてこない。政に携わる人間として当然のことなのかもしれないが、それにしても歯切れが悪い。批判する時の鋭さは影を潜め、言葉は響きを失った。
 約束を守ることは社会生活の中で最も重要なことの一つとなっている。ちょっとした行き違いから、信用を失ってしまった人もおり、約束の仕方一つで友人を失うこともあるようだ。個人間の約束は守らなければ自分で責任を取る必要が出てくるが、公な立場にある人が繰り返す約束は、もっと複雑な対応が要求される。自分の立場が有利になるように民衆に対して表明する約束は、特別な言葉を使って表現される程重要なものと受け取られ、手に入れた立場を維持するためにはそれを果たす必要が出てくる。しかし、政治の世界では、どうも違った解釈があるようだ。時と場合によって使い分けるとでも言うのだろうか。言葉の解釈や真意の変更などごく当たり前に行われる。それに対して、民衆も様々な形で批判を繰り返してきたから、最近は簡単に忘れてしまうことは難しくなった。約束の根幹が再確認され、逃げ口上が通用し難い状況が事前に作られる。その中で、目標が達成されなければ、潔く振る舞うことが期待されるわけだ。しかし、今回の遣り取りを眺める限り、そこには誠意が感じられず、昔とよく似た行為が繰り返された。冷静な状況分析と将来の見極めが評価されていた人間にしては、あまりに情けない行状だが、その程度の人間だったのかもしれない。こういう言動によって、目標達成に向かって努力する人々が意欲を失うことになっては、何にもならない筈だが。

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3月15日(土)−解除

 高速道路の通行料金について、幾つか話題が出ていた。便利な仕組みが導入されたこともあり、随分注目されているように思われたが、実際に走行してみると、利用者の数は頭打ち状態にあるように見える。便利さを手に入れるために必要な経費や手続きが大きな原因だろうが、この先どんな展開があるのだろう。
 この話とは関係ないが、通行料金を支払うことに同意していないとして、支払いを拒否する人々がいたが、こちらには処分が下されたようだ。自由に対する考え方の違いと思われるが、根本的に間違っていると思われるのは、道路の選択の自由があるのに、有料道路を利用しておいて、支払いを拒絶することで、全く理屈に合わないということだ。こういう自由の履き違えを許す社会を改善する必要は、色々なところに現れているのではないだろうか。一方、便利な仕組みを導入して、渋滞緩和を狙ったようだが、ある程度の効果は得られたものの、週末などの混雑時にはまだまだ不十分に思えるところがある。これについては、次々に編み出される優待制度などによって、更なる拡大を図っているようで、ここしばらくは様子を見る必要があるのだろう。ただ、近距離の利用に関する優待制度にかけられた制限を見ると、様々な矛盾が感じられる。制限を回避するために複数のカードを保有する人の数が増え、カードの枚数ばかりが増えることになる。制度の問題だからと気にしない人が多いと思うが、単一のカードを持つこととの違いは本質的には何処にあるのだろうか。現行の制度では違いが見えないが、ひょっとすると拡大を狙う風潮のせいで、それが隠されているとでもいうのだろうか。不思議な気がする。

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3月14日(金)−連鎖

 坂を転がり落ち始めると、止めるのは容易なことではない。すっかり忘れかけていた言葉を、今回の騒動で思い出した人も多いのではないだろうか。様々な事柄を互いに結びつけ、その間で行き来することで、日銭を稼ぐ仕組み。如何にも、合理的な社会に適合するように見えたものも、現実には幻でしかなかった。
 今回の騒動の原因を景気の停滞と結びつける人は多い。確かに、成長を続けていれば、小さな綻びは目立たないままに次へと進む。しかし、一見安全に思える仕組みが抱える問題点は、そういった仮定を必要とするところにあることに、気づく人は少なく、更にそれを指摘する人は殆どいない。何故なら、この仕組みを否定することは、経済活動全体が立っている基盤自体を否定することに繋がるからだ。経済との関わりから生業を産み出している人々にとって、基盤の否定は自らの立場を大きく揺るがすことになり、元も子もなくなるからに違いない。ところが、現時点で表に出ている問題の多くは、商売の機会を増やすための商品化であり、それだけでも危ういにも拘わらず、互いの商品を連結させることによって、更なる機会を産み出そうとする限りなき欲望から来るのである。実体のあるものを取引することは本来の経済活動の基本となるものだが、それではすぐに限界が訪れ、更なる展開を望む人々にとっては、満足できるものにはならない。不満が募ることは、精神的な不安定を招き、社会不安が増長することに繋がるから、それを回避するためにも、こういった仕組みは必要不可欠となる。しかし、欲望に限界はなく、成長に限界があるとしたら、そこに起きる矛盾はどう解決されるべきなのだろうか。現在の経済学に於いて、その点を説明することは不可能であり、おそらく、人間の活動との関わりにおいては、解決されることは永遠にないのかも知れない。ただ、限りない欲望にもどういうわけか大小があり、人それぞれに満足の程度が異なっていることは明らかである。社会全体として、絶対安全な仕組みを作り出すことは不可能だが、個々人が自らの資産を守る手段を手に入れることは、それ程難しくはないのではないだろうか。分相応という言葉が昔からあることからして、それを逸脱する人間も、その中に留まる人間も、どちらもがいつの時代にも蠢いていたことだけは確かなのだろう。様子を見ているだけで、何かが見えてきそうな兆しもあるようだ。

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3月13日(木)−同意

 人選にいちゃもんがついたことに、首を傾げた人も多いのではないだろうか。責任者が決定した人に対して、文句を言える筋合いはないと思った人もいるだろうが、果たしてそうなのだろうか。ある組織の長を務める人間を任命する場合、そこでの決定事項は全てその人間の判断に任される。丸投げでは、とも思える。
 他の国の情勢にある程度通じた人は、何処かで聞いたことのあるものと思った筈だ。四年に一度の定例行事である国の長の就任から、主だった組織の長の候補が議会に示され、その可否が問われる。妥当な人選であれば、何も問題が起きないのだが、誰が見ても妥当などという話は殆どないから、常に問題点が指摘され、それについて議論される。その上で、指摘された問題が執務に影響のないものと判断されれば認められるし、そうでなければ別の人選を促される。ここでは、定例的に行われるわけだから、そこでの一時的な停滞は当然のこととして受け取られ、その為の方策はある程度図られている。しかし、任期が全くなく、いつ何時交代が起こるか分からない、この国の長の場合は、事情がかなり異なっており、それぞれの組織の長の任期のみが決められていて、両方が同時に起きることは殆どない。だから、危機回避の仕組みを考える必要がないというのは言い過ぎと思うが、現実にはその準備は全くされていないようだ。その状況で、捻れと評される議会の不均衡はここに来て問題を大きくし始めた。今後の展開の予測に興味を持つ人はいないし、単に時間の無駄と思えるが、現状の分析は今後のために行うべきだろう。政治の不安定が諸悪の根源のように叫ぶ評論家もいるようで、それが経済の後退や株価の低迷に繋がっていると分析する向きもあるようだが、おそらく的外れも甚だしいと言えるだろう。これほどの問題が山積しても、何事もなく航行する石油タンカーの如くの国はそうそうあるものではない。精神的な不安定を心配する向きもあるが、一部の人間の戯言と受け取るのも一つの方法だろう。今回の騒動にしても、これまでの総裁の手腕を評価する声が聞こえてこないままで、不在を心配するのはどういうことだろう。矛盾を平気でさらけ出す人々の声を聞く必要は無いのではないだろうか。

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3月12日(水)−導者

 即戦力という言葉が誤解されたまま流通したのはいつ頃だったか。すぐに役立つ人材、という意味では間違っていないが、それがたとえば資格を持った人間とか、あるソフトを使える人間とか、そんな意味で使われていると信じられた。現実には、こういう類の人間はそのことのみに通用するだけで、他には役に立たないわけだ。
 能力のないものほど、自信の代わりに看板を欲しがる。それが資格となるわけで、獲得のための過程を重視する人間にとっては、結果は自然に付いてくるものだが、資格亡者にとっては、結果のみが重要となる。同じように、現行の仕組みに通じている人間でも、其処に至るまでに全力を尽くしたような者は、そこからの発展が望めないから、仕組みが変更されてしまえば、旧式となり、廃棄されるのが当然となる。どうも、人間には大きく分けて二つあるようで、常にその場の最適の解を求めることに躍起になり、一度上った高みから降りることを拒絶する人間と、頂上を極めるわけではなく、周囲の状況を見極めながら、微調整を図る人間がいる。どちらも程度の問題で、組織にとって役立つものとなるが、前者は徐々に歪みが大きくなり、使い物にならなくなるのに対して、後者はそれなりの水準を保つことができる点が大きく違うだろう。課題解決型の人間が求められた時代と違い、最近は課題を発見することのできる人間が強く求められている。その理由は、ちょっと違うように感じられるかも知れないが、上に書いたこととよく似た事情による。傾向と対策によって地位を築き上げた人々は、ある課題に邁進する場では能力を遺憾なく発揮できるが、課題が提示されない場面では、殆ど動きがとれず役に立たない。それに対して、周囲の状況を見渡す能力のある人間の中には、状況判断から問題を見出し、それを解決する方向を見定める力を持つ人がいる。時代によって要求される人間が異なるような扱いもあるが、現実には、前者は時代に左右されるが、後者はいつの時代にも必要となる人材なのだ。確かに、自らの能力を見極めることが先にあり、前者に向く人もいれば、後者が適する人もいる。それぞれに道を誤らないことが大切だが、どうも最近の社会の風潮はその失敗を誘発する方向にあるように思える。無理矢理上を目指したり、周囲との差異に悩んで断念する人がいるのは、まさにその現れだろう。助言が必要な時にその為の人がいないのが一番の問題なのだろう。自分との比較からの助言でも有用なことは多いはずなのに。

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3月11日(火)−冷厳

 神聖な職業に就く者という意味で、聖職者が使われるのだろうが、本来の意味は宗教上の職業でしかない。調べてみると、天職という意味で使う場合もあるらしく、そこから教師を指す言葉として使われるようになったのかも知れない。いずれにしても、子供を相手にすることから、影響力の大きさが意識されたのだろう。
 そういうことを考えてみても、このところの報道は行き過ぎの感がある。これまで、男女間の縺れなどについて冷静を保っていた放送局が、先頭を切って取り上げていることからして、違和感を禁じ得ない。何故、と思う気持ちを、聖職者という言葉が抑え込む気がする。自分達ができないようなことを可能にする人間、そんな扱いが基になって、こんな感情が出ているのではないだろうか。違和感はこんなあり得ないことに対して出ているのではなく、おそらく、普段の教師に対する感情との差に対して出ているように思える。つまり、不可能を可能にする人間と見なすにしては、余りに不敬の念を露わにした態度をとることが異常に思えるし、もし、そうでないならば、何故、このような事件で特別扱いをするのか、理解不能に思えるからだ。これまでの期待を裏切られたとしたら、それは重大なことであり、それによる衝撃も大きくなるのが当然である。しかし、その期待とは何だったのか、この機会にじっくり検証し直した方が良いのではないだろうか。一時の感情で、右左にぶれる社会は誰にとっても生きにくいものであり、的にならないようにする注意ばかりが重要となる。このことは、個人の自由度を著しく小さくし、個々の活動は小さく抑えられることとなる。その中で、そういうことを感じない人々が台頭し、勝手な行動をとるようになることは、社会として利になることは殆ど無く、大きな負債を残すことになりかねない。最近の社会情勢を見る限り、この傾向は強くなるばかりであり、歯止めをかける人の数は減るばかりである。誰でも、被害者にはなりたくないし、気が狂ったように糾弾を繰り返す人々の攻撃の的にもなりたくない。そんな考えが、この傾向を産み出しているのだとすれば、それを防ぐ手立ては、冷静さにしか求められない。感じない人間の身勝手さとは違う、感じた上での冷静な判断が求められる時代なのだろう。

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3月10日(月)−隠蓑

 このところ、トップページに表示されるアクセス数と管理ファイルのログに表示される数字に大きな違いが出ている。理由は簡単なことで、ある意味の不正アクセスが増えているからだ。それぞれのページに直接入室するようにしている人もいるだろうが、それと似た形で入り込み、出鱈目な情報を貼り付けて行く人々がいる。
 これらの人々の多くは、明らかに不正を働く意図を持っている。記録上に残ったアクセスサイトを調査すると、そこには様々な国のものが表示されるが、その多くがこういう類の人々に利用されることを意図したものである。つまり、そこを経由することで自らを特定されないようにするわけで、それによって、不正な行為を覆い被せる事になると思われている。しかし、現実にはどのような経路を使おうとも、調べようとすればできるという話だから、結果的には、不正の程度、犯罪の重大さによるものと言えるだろう。多くの詐欺事件では、このような調査が行われ、犯人の特定が行われるし、入室が制限されているようなところへの不正アクセスなどの場合も、その影響の大きさによって調査が行われる場合がある。彼らがこのようなことを繰り返す理由は理解できないが、結局のところ、他人が作り上げた仕組みの中で、身勝手な行為を繰り返し、自らの満足を得ていることから、典型的な迷惑行為というべきものだろう。本来は、このような犯罪も厳しく取り締まられるもののはずだが、現実には、そんな輩に構っていられないといった事情があるようだ。人それぞれに自由にできることを意図して作り上げられた社会では、その構成員が持つべき倫理観が最も重要な要素となる。しかし、現代社会では、肝心な道徳観、倫理観が蔑ろにされ、兎に角自分中心の考えが重視される。何とも情けないと思うことも多いが、顔が見えない仕組みである以上、こういう弊害も致し方ないのかもしれない。

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