何か重要なことを決めなければならない時、十分な議論が必要であると思う人は多い。しかし、何をもって十分と見なすか、という点に関して、明確な答えが示されたことはない。議論に参加する人々の全てが納得すること、という基準を持ち出す人もいるが、一般的な議論の流れを見る限り、現実的とは言い難い。
決定事項の多くは、それを決めるまでの過程が重要なのではなく、決まった事柄そのものに重要性がある。だから、どれだけの時間を費やしたかは問題とはならず、どんなことが決まったかということだけが問題となる。ところが、多くの人々はその過程を重視し、議論や話し合いがどのように持たれたかを重視する。その為に、お互いの意見をぶつけ合いながら、何処に妥協点を見出すかが重要と思われ勝ちだが、互いの意見の隔たりが大きすぎる時、このやり方の限界が訪れる。如何にも真剣な意見交換が行われたと納得した上で、片方の意見のみが通るわけだから、真の意味の納得は得られるはずがない。これによって起きることは、通り一遍の議論の応酬に続く、採決の強行といった手順であり、決まったことのみが重要であることがすぐに分かるわけだ。この傾向が更に強まると、議論に入る前から結論ありき、といった調子になるわけで、それを実現するために多数を占めることが最重要となる。ここまで来て、論理として通っているように見えるものも、もう少しじっくり考えてみれば、そこに大きな矛盾があることに気づくのではないか。議論の重要性を論じていたはずが、それが形骸化することに対して、何ら疑問を挟むことなく、多数派の思いのままに事柄が決定されていく。これでは、問題となる部分が露わになることもなく、更に致命的な欠陥にさえ気づく機会が奪われてしまい、歪みが大きくなるばかりとなる。平衡感覚に優れた人々が中枢にいる間は、こんな不具合が起きる可能性も少なかったが、最近の政治の動向を見る限り、良識の欠片もない人々の発言が大きく取り上げられるほど、金属疲労のような歪みは高まっている。次に起きることが、一部のみの破壊なのか、全面的な破滅なのかは分からないが、兎にも角にも、問題箇所を暴き出し、部品交換を強行する必要がありそうに思える。
平等であるべき、という話は、全ての人間が同じように扱われることを指している。これは、賃金格差や財産の多寡を無くすことを意味するのではなく、それぞれに同じ評価基準を適用することであり、質の違いが賃金の違いに結びつくことは当然の結果と言える。ただ、評価の基準について絶対的な指標があるわけではない。
人の優劣をつける上で、評価基準は最も重要な指標となる。にも拘わらず、絶対的な基準はなく、相対的なものや評価する人間の判断に任されるところが大きい。一般の人々にとって、基準の有無だけでなく、その基となる考えは大いに気になるところだが、明確に示されることはおろか、要素の全てが知らされることも殆どない。理由として考えられるのは、数値化が困難であり、たとえば二つの評価基準の重み付けでさえ、納得できるものを作ることが難しいことが挙げられる。仕事の質や量を判断する上でも、販売に携われば、その額などを基準とすれば簡単に見えるが、企業全体としてはそういった評価が馴染まない部署も出てくる。となれば、どうしても基準が曖昧となり、各人にとって不公平感が拭えない状況が出てくる。日常的には困難なものが多い一方、たとえば競技においては明確な基準が示され、微妙な差を歴然としたものに際立たせる工夫がなされている。しかし、そう思いながら競技の進行を眺めてみると、意外なほど不明確な基準が含まれていることに気づく。審判が判断を下す競技の多くは、その基準となる部分が審判員の裁量に任されているので、かなりの程度のぶれが生じる。それを防ぐための工夫は様々になされているとはいえ、その場での判断が全てである競技においては、運不運のようなものが表に出ることが多々ある。それに比べると、判定基準の殆どが数値化された競技では、表面上何も問題が起こらないように見える。ところが、これらの競技についても、作為的とも思える採点の入り込む余地があるのだ。あからさまな作為が問題視され、採点基準の見直しが行われた氷上競技も、不可解な結果が並ぶのを見る限り、厳正とは言い難いものがある。回転数の判定や姿勢の問題など、判定員の眼力に委ねられた部分があり、人の好悪が入り込むところは多い。
SFの巨匠が亡くなったことが報道されていた。彼の小説を読んだことのない人でも、それを基に制作された映画の題名を聞いたことがあるだろう。三十年余り後の世界を描き、そこでの宇宙開発の実態を想像力を駆使して作り上げた作品で、非現実的な未来映画が多い中で珍しく現実味を帯びていたものだった。
公開された当時は、そんな感覚で捉えられたものだが、現実に三十年余りを経て、想定された時代に自分達が生きている状況が生まれた時、何とも言えない感慨を持った人も多かったのではないだろうか。少なくとも、宇宙開発は想定通りに進むことはなく、有人飛行に関しては未だにこの星の周りに限定されたものとなっている。原因は幾つか考えられるだろうが、開発の先頭を切るためにしのぎを削った当事国が、膨大な予算の理由を国民に理解させることが難しくなったのが、一番大きなものではないか。それにより、より遠くへといった思いは、一部の関係者の心の中に仕舞い込まれ、説明責任が果たせる範囲での開発へと移行せざるを得なくなった。確かに、研究という観点からの欲求を全て満たそうとすることは、限られた予算の中では不可能であり、その為の線引きを何処にするのかが重要な要素となる。しかし、その一方で、全体の予算を何処に分配するのかという問題は、別の判断が入り込む余地を持っており、その後の展開もまさにその通りの変遷を辿ってきた。公開当時の世界状況についても、軍備拡大と縮小の議論が盛んだった頃であり、他国での戦争を支える力を失いつつあった。人の考え方がそう簡単に変わるはずのないことを想定していたのであれば、まさにそれが的中したことになり、今でも局地的な戦争への関与が続いていることは、人間の愚かさを如実に表しているのかも知れない。そんな中で、宇宙開発は別の方向とは言え継続されており、競争時代にはなかった形態をとりつつある。この星の住民が進むべき道が、小説の中で示されていたかどうかは分からないが、どんな選択肢があるのか、その時代になってみて、改めて考えるべきところに来ているのではないだろうか。
人間は一人一人、それぞれに特徴を持つ。こんな当たり前のことを、敢えて強調しなければならないのは、民主主義と呼ばれる考え方の表れの一つである平等が、その対極にあるからだろうか。違うのが当たり前と心の中で思っていても、その違いが悪い方向に出るようであれば、触れるのを避けねばならないからだ。
表現の仕方に気遣いや気配りを入れることは重要なのかも知れないが、だからといって本質から逸脱することを強要するのはどうだろう。皆が一緒であることは、唯一人間であること以外には有り得ず、それ以外の部分には大小様々な違いが現れている。自覚する部分もあろうし、他人に言われて初めて気づくこともある。いずれにしても、違いが歴然とそこにあるにも拘わらず、それに触れることなく、均質な世界を論じなければならないのは、大きな間違いに思われる。中でも、違いを際立たせる動きには、まるで拒絶反応のような素振りを見せる人がいて、彼らの良識という名の差別意識に辟易とさせられる。差を広げることは生活水準や集団の中での扱いには弊害があるだろうが、本人の示す才能をここに花開かせる際には、当然必要となることである。こういう手法に反対する人間は、このような扱いが恰も差別主義に基づくように受け取るが、どちらが差別なのか、断定することは不可能なのではないか。折角の才能を埋もれさせることも、ある見方からすれば明らかな差別であり、それによって失われるものも大きい。優秀な人間をそれなりに扱う仕組みは、あらゆる社会において重要なものであり、その才能を開花させることで社会が何らかの利益を受けることもある。元々、そんなことはごく当たり前のことであったのに、いつの間にか逆の考え方が大勢を占めるようになり、世の中の歪みがそれにつれて大きくなっていった。一度大勢を占めたら、大間違いの考えでもまるで唯一の正解のような顔ができる。そこから逆方向に押し返すのには、かなりの力と時間が必要となるわけだ。こんな流れの中には、均衡などというものはなく、常にどちらかに偏ったものとなる。ただ、それが継続する時間にだけは注意を払わないと、元に戻すことが難しくなるわけで、人に流されるだけではいけないことを示している。
街頭で募金を集める人を見かける。災害復旧や障害者救済、その他、様々な目的を掲げながら、呼びかけている。別に金を出すことを惜しむつもりはないが、殆ど無視して通り過ぎる。彼等の多くは善意から行動に出ているのだろうが、中には食い物にしている輩もいると聞く。人の不幸を種にする行為は許されない。
善意に基づくものも含めて、他人から集めた金の扱いには注意を要する。目的に適った使途が当然であり、それを外すことは期待を裏切ることになるからだ。これは税金という形で集められる金についても当てはまる。善意という感覚ではなく、半ば強制的なものであるが、だからといって好き勝手な行為が許されるわけではない。最近、様々なところで使用目的に合わない支出が問題とされている。公の金だからいけないというのではなく、元々誰かの金だったものを集めた場合には、全て同じ感覚が必要となる。一方、使い方の問題を論じる時、その確認作業の必要性を主張する声が出てくる。国のものの場合、それを点検する機関があり、その指摘を受けて改善を求められることがある。当然の仕組みと思われているが、現実にはその運用において、大きな違いが生まれることがある。点検を厳格にすることは、確かに重要であることだが、その為に別の予算を必要とする場合、厳格の程度を考える必要が出てくるだろう。大きな予算を運用する場合に、特にこのバランスが重要となり、自己点検で済ませるか、他の機関なりに依頼するかで、予算執行にかかる経費に大きな違いが生まれる。不正が発覚した組織において、この仕組みの導入は必要不可欠なものとなるが、だからといってその為の経費が支給されることは少ない。となれば、どう解決するのか容易に答えを得ることはできない。にも拘わらず、改善を迫る声は高まるばかりの中では、何らかの行動が必要となり、慌ててその為の経費を捻出する場合もある。改善のため、という大義名分があると思う向きもあるが、現実にはここに大きな問題があるような気がしてならない。税金を大切に使うために、本来の目的とは違う使い道を編み出すことは、必ずしも正しいとは言い難い。それでも、迫る圧力に屈して、その選択をすれば、表面上は無難に片付けられるのかも知れない。しかし、これが本来あるべき道かどうかを考えることを忘れてはならないだろう。
有害なものと接することの無いように制限をかける。物わかりのいい大人たちは、このことに反対する人が多いと聞く。驚くべきは、制限もかけず、監視もせず、話し合いも面倒、という人たちが大部分だということだ。こういう人間に限って、その後悪い方に展開すると、社会に責任を転嫁するのだから困る。
大人が子供たちに嫌われるのは当然のことと思われてきた。しかし、友達親子の登場や若者たちに擦り寄る大人が増えたことなど、どうも情勢は大きく変化してきたようだ。理不尽さばかりが強調され、その背景にあるべき配慮は無視される。こういうことの先頭を切る大人たちの多くは、現実には無理難題を吹っ掛ける人が多く、それができなくなるかも知れないという不安感から、相手に同調する振りを繰り出したわけだ。ここまで極端ではないにしろ、こういう無責任な大人だからこそ、その子供たちも瓜二つとなり、周囲の大人子供に迷惑を押し売りする。社会という組織における最低限の同意事項を無視し、自由という言葉のはき違えから、身勝手な振る舞いを繰り返す。大人が先頭を切って行えば、その友人たる子供たちには心強く映るだろう。こんな連鎖が暫く続くと、その勢力は巨大化し、歯止めのかからない集団が台頭する。ある時期、こんなことを本気で心配していたが、よくよく考えてみれば、親子関係に基づく増殖には、ある制限がかかっていて、何処かに決まった割合の上限があることに気づいた。有害なものを追いかけ、欲望に走る人間たちは、どんな時代にもある割合存在し、社会の汚れた部分として扱われてきた。実際には、ものを考えない大人から、同じ行動様式を持つ子供が出てくるだけで、継承を基本とするだけのことである。問題は、し放題の人々を羨む心をもたげる若者が出ないように制限をかけることであり、ここでの話題もそれを指している。ただ、世の中の風潮として気になるのは、有害なものへの接触を制限する前に、根本的なところでの制限がかけられることに気づかぬ人々で、ほんのちょっとした思慮にも欠けていることである。
この国は、責任の取り方に関してうるさいのではないか。責任の果たし方や約束の守り方については、余り注文が付かないのに対して、いざ問題が起きた時の身の振り方については、しつこいくらいの注文が届けられる。そんな事情からか、潔さの評価が高く、追われることなく、身を引くことの美学が語られる。
確かに、いつまでも地位にしがみつくことで、何処か歯切れの悪さが目立ち、決断力の無さを露呈することが多い。たとえ、問題解決のための選択だとしても、地位への固執の方に注目が集まり、誠意の表れと受け取られることは少ない。そんな世情だから、責任を果たすことよりも、さっさと退陣することの方が、高く評価されるわけだ。仕事の出来不出来という観点からすると、全く誤った認識と思えるが、これが国民感情というものなのかも知れない。しかし、潔さは傷を作らないで済ます最良の方法と受け取る向きもあり、無傷の指導者に対する期待は中々無くならないものである。後継者が期待外れで、その穴埋めを模索する時に、再登板を促す声が高まるのも、そういった事情があるのかも知れない。だが、こういう考えを表明する時に、もっとじっくり考えた方が良いのではないだろうか。どうにも傷の有無のみを気にするばかりで、無傷が永遠に続くはずのないことに気づかぬ人が多すぎる。歪みが大きくなり、傷口が開いた時には、既に悪評が立ち始めることを思えば、こんな声に応えぬことが最良ということがすぐに分かるはずだ。潔さを好む人ほど、再登板を願う傾向にあるらしく、その浅はかさに呆れてしまう。以前ならば、こういう考えの人間が目立つこともなかったのだが、最近はそちらの方が主流になりつつあり、大海を漂う船の如くの危うさが感じられる。状況判断の優れた人間ほど、深みにはまらぬように気を配るわけで、その意図を読み取れないほど鈍い人間には、先を見る力はない。冷静に分析した上で、どの道を選ぶのかを決めることが、混迷の時代に必要なことなのだから。